第22話 昭和二十八年十二月十八日

 十二時からお父様とお母様を連れて中野の外れにある小さな洋食屋でメニューを広げていた。



 好きな物を頼みなさい、と言ったお父様はライスカレーにするようで、お母様はオムライス、僕はナポリタンスパゲティを注文した。ここ最近の事件のせいでこの店からもハンバーグがメニューから消えていた。



 小さい子が通れば賀楽お姉ちゃんと手を振られ、若い人達からは握手を求められる。その全員に対応するのは大変で、店内も混み始めてくるとそういったお客様達も自重してようやく落ち着けた。



「愛されているな、賀楽は」

「鎌倉もいい町だったけど、中野も僕は大好きです」



 こんなにも温かい町はそうはないのではないだろうか。事件の影が他より濃い町だけど、それさえなければ不自由なく住みやすく、人同士の繋がりや距離感も近い。



「最近の東京で異常な事件が起きているそうだな。賀楽は大丈夫なのか?」

「話してなかったですけど、善太郎さんは元軍人なんです。羽鳥さんはその繋がりのある人から派遣された警察官。他の人よりは安全な場所にいますから」



 顔を見合わせて目を丸くした二人。



「あんな頼りなくてそそっかしい人が警察官? それは大丈夫と言っていいのか?」

「落合さんなんて軍人のような威厳や威圧も無かったけれど……」



 料理を待つ間、善太郎さんとの出会いからこれまでを一部隠して簡潔に話した。ヒョロッとした体躯に猫背の優男の武勇を聞いた二人は仰天したように眼を回した。



「まあ羽鳥君という警察官はどうか知らないが、そこまでの腕っ節なら賀楽を任せても安心できるな。良い人を見つけたな」

「お父さん。そんな言い方だと勘違いされてしまうわよ」

「そういう意味では無い。変な勘ぐりだけは機敏に巡るな、お前は」



 夫婦の仲睦まじいやりとりを見せつけられる。



「なんだ賀楽、その目は」

「いいえ別に。ただだいぶ変わったのかなって」



 僕が居た頃はこんなものを見たことが無い。ギスギスとした自分の居場所を見つけるのも難しいくらい冷え切っていた家庭模様。しかしどうしてか今の二人はおしどり夫婦そのままだ。もしかしたら僕が産まれる前はこうであったのかもしれない。僕の願っていた家族の形がいま目の前にある。切望し、渇望した、優しく温かな家庭の輪に確かにいま僕も居る。



 これが夢で無いことくらい運ばれた料理を口へ運べばわかる。



 ケチャップの酸味と甘み、ウィンナーの肉感とタマネギのシャキシャキした歯ごたえ。これらを寝ていては味わえない確かな現実の証拠。



「食べたら何処へ連れて行ってくれるの、賀楽?」

「新宿に行けば無いモノは無いから。僕も新しい下駄が欲しかったし、二人も何かお土産を買われたらどうですか」

「そうねぇ。お父さんが買ってくれるかしら」



 横目にお母様がお父様を見る。



「買ってやる。賀楽、お前の欲しい下駄も私が代金を持つ」



 気前が良いのは見栄だろうか。昔は菓子一つ買ってくれなかった人だというのに、どうしてここまで変わってしまったのだろうかと不思議なものだ。フォークに麺を絡めて一緒に巻き込んだウィンナーを見て、ああ、贖罪かな。なんてダジャレを思いつき吹き出しそうになったのを、二人が慌てて席を回り込んで僕の背中をさすってくれた。



 どうしてこんな過保護になってしまったのか。



 ダジャレは置いといて本当に贖罪によるものであれば、人は切っ掛けがあれば変われる証明がなされたのではないか。



 食事を済ませてから新宿へバスで向かった。



 初めこそ人混みに圧倒されていたお母様だけど、慣れればあっちこっちと出店に顔を出して行き、オロオロとしていた彼女からは想像もつかない積極ぶり。お父様が振り回されるように人垣を縫っている。



 僕は二人が覗く出店の隣の店で手早く会計を済ませた。



「ここまで人が多いと疲れるな。賀楽もそうだが、千夏の何処にそんな体力があるというんだ」

「お疲れ様です。でも、お母様のお顔を見てください。あんなにも楽しそう。たまには一緒に来るのもいいんじゃないですか?」

「たまにならな」



 馴染みの呉服屋で店主に両親を紹介し、磨り減らした下駄の歯を見せて、「だいぶ歩かれたようですね。これと同じもので良ければ直ぐにご用意できますので」戸棚から新品の下駄を取り出して並べてくれた。鼻緒を指の間に挟み込んで立ち上がると最適の具合を直ぐに感じられ、「これにします。また同じ物があれば取り寄せておいてください」店主は深々と頭を下げた。



「しかし、女物では駄目なのか?」



 会計を済ませたお父様が言った。



「三寸の歯は女性物の下駄にはないですから。袴に女性物の下駄は合いませんよ。それにこっちの方が履きやすくて、慣れでしょうけど歩きやすいので」



 カツカツと新しい歯を鳴らして歩くのは気持ちが良い。



 日も傾き初めて写命館へ戻るとお父様とお母様は荷物を纏め始めた。僕も二人を手伝い部屋を軽く掃除しながら、「もう一泊していかれればいいのに」なんて口が滑ってしまい、僕は息を呑んだ。



「落合さんに迷惑が掛かるだろう。それに私達は家族らしい時間が過ごせて良かった。まあ、お前からしたら迷惑だったかもしれんが」

「そんなことないです。ううん、そんなことない。僕も楽しかったから、また会いに来て」



 悔しかった。たった一日。それだけの時間を過ごしただけで冷え切っていた家族像が融解してしまうなんて……。ああ、本当に悔しいし。どうしてあの頃からこうでなかったのか。



「お休みが取れたら貴女が鎌倉に帰ってきて。落合さんにもお礼をしなくてはいけないし、半蔵もきっと喜ぶから」



 それはいつになることか。この命が尽きる前には一度くらいは帰ってもいいかもしれない。



「東京駅まで送らせてください」



 店を閉めた善太郎さんがノックして顔だけを覗かせて言った。



「泊めていただいたうえに送ってもらうなんて、そこまで甘える訳にはいきません。中野駅から私達は帰ります」

「もう少し賀楽さんと一緒にいてもいいじゃありませんか。今日は運転したい気分なもので、次いでだと思って私の我儘に付き合って下さいませんか」



 重ね重ねのお礼を述べたお父様とお母様は善太郎さんと一階に下りていった。閉店後の掃除をしていた羽鳥さんに留守番を頼み、僕が帰ってくるまで台所には立たないように伝えた。昨日は鍋が吹いただけだからまだ良くて、これでボヤ騒ぎにでもなったら洒落にもならないし笑えない。役に立ちたいと色々買って出てくれるのは僕も善太郎さんも素直に感謝している。しかしどうしてか料理をしたいと主張して食い下がるものだから、僕が隣で様子を見ながらを条件に台所に立つことを許した善太郎さん。



 後部座席にお父様とお母様が座りその後に助手席に僕が座る。



 日が暮れても東京駅は混雑していた。



「賀楽をどうか守ってやってください」

「落ち着いたら是非鎌倉に遊びに来て下さいね」



 二人が頭を下げ、善太郎さんも珍しく背筋を伸ばし、「お預かりする以上は責任を持ちますので、ご安心を」ここだけは真面目な表情をして返し、なんとなく軍人であった名残なのか、それっぽくて納得ができた。



 見送った帰りの車内で、「賀楽さん、貴女には貴女の死に方があります。決して他人に侵させませんし、約束は守ってもらうから」言っていることと表情が合っていない善太郎さんに、「はい。僕の死は、僕の最期は善太郎さんに捧げるつもりですからご安心を」病巣に蝕まれた身体を撫でながら返す。



「色々とやりたいことが増えてしまって、まだ死にたく在りません」

「未練を残さないよう俺も手助けするつもりです。まずやるべきは」

「事件の解決です。僕のもう一つの家族を守る為にも」

「その次に写真家として賀楽さんの作品を店に並べましょう」

「最後に一緒に鎌倉に来て下さい」



 この三点は絶対に成したい僕の夢。



 皮肉なもので、この事件が起きなければ僕はただ死写体を演じながらただ死を待っていたことだろう。篝家の人達と触れ合い、趣味を持ち、本当の家族に心を開いた。そのどれもが生きたいという欲求に直結している気がしてならない。



 すべてやりきろう。



 全力で。



「忘れてました。篝家へは行かれたのですか?」

「いや、明日にしようと思ってね。午後からお客さんの撮影依頼やらを受けて、暇な時間が無かったんだ」



 それなら明日は僕も同行できそうだ。



「昨日の鍋の残りの豆腐とお肉があります。肉豆腐でいいですよね?」

「任せるよ。賀楽さんに任せておけば料理に失敗はないからね。でも」

「わかっています。ちゃんと羽鳥さんを見ていますから」



 写命館の二階では羽鳥さんがソファーに座って何か書き物をしていた。背後から僕と善太郎さんが覗き込むと、どうやら手紙を書いているらしく、「妹さん宛てですか?」集中していて僕等に気付いていなかったようで、耳を塞ぎたくなる素っ頓狂な悲鳴と共に飛び上がった。



「驚かさないでくださいよぉ。いやいや、心臓に悪かったぁ」

「驚いたのは私達ですよ。それだけ集中されていたようだけど、そこまで悩むような事?」

「何をどう書こうかと。兄としての威厳と頑張りを伝えたいんすよねぇ。でも、でっちあげは良くないし……、本当の事を書けば威厳も無いしで」

「なら、こう書くといいよ。上司から信頼を受けて重要人物の警護に当たっていると」

「さっすが、落合さん!」



 文末に兄は頑張っているよ、とそこを一番主張していのか、多少大きな文字で締めた。



 羽鳥さんの口からよく妹さんの話を聞く機会が多い。大切に想われている妹さんもどんな罵詈雑言をぶつけようが、胸に秘めた想いは羽鳥さんのそれと違わぬものであるはずだ。家族愛を僕も先程までしっかりと受けた。大人が子供に非を認めて謝罪をする勇気は僕には想像できない。両親は確かに変わった。だから僕も変わっていこう。



 自分を見つめる時間もそう長くはないけど完璧な人間なんていない。探せばボロボロと見つけられるはずだから。もう一度、お父様とお母様に会った時は昨日今日よりもっと寄り添ってみたい。これで僕のなすべき夢がまた一つ増えてしまった。



「羽鳥さん。今日は肉豆腐を作りますよ」

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