第21話 昭和二十八年十二月十七日

 中野に帰ってくると夕方手前といった時間帯だった。篝家に話を聞くのは明日にして、鼎先生を診療所で降ろしてから写命館へと帰宅した。



 さっそく阿式家で撮影した二枚の写真の現像を頼む。羽鳥さんは一度、警視庁へ五十嵐さんへの報告に出向いてしまった。やることもなくベッドの上でウトウトとしていると部屋の扉をノックされ、「賀楽さん。急いで起きてくれる?」声を潜めた善太郎さんが顔を半分だけ覗かせて言った。



「どうかされましたか?」



 まだ重い眼を擦りながら身を起こす。時間はわからないけどもう日は沈んでしまっていた。目下にはまだ人の往来が多いことからそんなに遅い時間でもないことがわかる。



 髪を簡単に手櫛で整えてから部屋を出た。居間のソファに二人分の後ろ姿。どこかで見たことがある二人。中途半端に覚醒した頭の中からでもその人物たちが何処の誰かを直ぐに見つけ出すことができた。



「お父様、お母様……」



 二人は同時に此方へ振り返り、おどおどと相も変わらず小心な母。気難しい顔で真一文字に唇を引き結んだ父の二人の目が僅かに揺れた。



「久しぶりね、賀楽。驚いたでしょう? 私達、話がしたくて早朝に東京に来たのよ。でも、留守だったから」

「とりあえず座りなさい。忙しいのは重々承知ですが、落合さんにも同席して頂きたい」



 善太郎さんがお父さんの向かい側に座り、僕はお茶を人数分用意してから着席するとお母様と真っ向から視線が向かい合う。



「それで、お話ってなんですか。わざわざ鎌倉から出てきたくらいですから、さぞ大切な話なんでしょうね」



 口調がキツくなってしまった。彼等を恨んではいない。しかし怒ってはいる。久しぶりに再会した両親。彼等も僕の気持ちを知ってか、特に反論することもなく、甘んじて非難を受け入れた。



 僕からの反応なんて予想していたはずだ。それなのにどうしてこの人は、お母様はこんなにも辛く悲しい顔をするのか。辛くて泣きたかったのは僕の方だというのに……。



「病院から賀楽、お前が脱走したと連絡を受けて方々を探し回ったよ」



 そしてテーブルに並べた僕の死写体の写真。



「直ぐに足は付いた。お前が有名なモデルとして名を売っている噂は鎌倉にも届いて、こうして会いに来た」

「会いに来た? なら、もう用は済んだはずですよね。お帰りを」

「待って賀楽! 私は……、いいえ、私達は後悔しているの。貴女に黙って、貴女の意思も尊重しないで、勝手に病院に入院させてしまったことを」

「だから?」

「貴女は私達の子供。病気や性別なんて関係ない……、家族だから、一緒に鎌倉で暮らしましょう? お父さんも貴女に向けていた心や眼差しを悔やんで、反省して、こうして迎えにきたの」



 面白い話だね。都合が良い。身勝手で傲慢でやっぱり僕を尊重していない。この二人は僕を捨てた事で苛まれる罪悪感から解放されたいだけなんだ。こんな風に思いたくないのに……。心が、僕の奥底にわだかまっていた、押さえ込んできた、怒りの感情がこれでもかと荒ぶっている。



「お店の前までならお見送りしますので」

「賀楽……、お願い……、私達と」



 顔を押さえて嗚咽して涙が指の隙間から垂れ落ちる。お父様はそんなお母様を抱き寄せ、「私達が愚かだった。どんななりでも、どんな病気を抱えていようとも、お前は私達の子供だということから逃れていた。そのせいでお前には辛い日々を過ごさせていた。世間の目に怯えていた私達の弱さがもたらした……。本当にすまない」威厳こそもう無くしてしまったように弱々しく呟くお父様は、「お前を待つ間、中野で色々な話を聞けたよ」そこでようやく小さく口角を持ち上げた。



「人気者のようだな。死体を演じる写真を撮っていると聞いた時は驚いたし、止めさせたいとも思った。しかし、それ以上にお前の存在が人々に影響を与えていることに誇りを持った」



 咽び泣くお母様の背中をさするお父様は、なんとも言い表して良いのかわからない微笑を浮かべていた。



「親を語る資格も無いが、我が子が活躍していると知れて喜ばしい。これは本心だ」



 隣に座るお母様はまだしゃっくりの合間に僕の名前を呟き続けている。



「本当……、ですよ。どの口が親だと語るのか。僕は貴方たち二人を許せる自信はありませんが、貴方たちの気持ちもわかります……。僕が産まれてさぞ驚かれたことでしょうね。いくら謝罪の言葉を積まれても僕は帰るつもりはありません。ようやく僕は生きたい理由を見つけたのですから。しかし僕も本音を言えば、また会えて良かったと思っています」

「私達もだ」



 お父様が立ち上がり、「落合さん。これからも賀楽を宜しくお願いします」深々と頭を下げてお母様を立ち上がらせる。



 真っ赤に充血した眼からまだ止まることの無い涙を流すお母様は、「お元気で、賀楽。健やかに生きて」お父様に支えられながら階段を下りようとしたところを善太郎さんが呼び止めた。



「店内の見学でしたら明日にしてもらえますか。もう店も閉めてしまっていますので、どうでしょうか。空き部屋もまだあるので今日のところは泊まっていかれるというのは」

「善太郎さん何を言って!?」

「わざわざ鎌倉から遠路はるばるお越し頂いた親御さんをこのまま帰すのも申し訳ないからね。実際に賀楽さんに会った。なら、もう少しお二人を安心させるために明日は一日家族水入らずで過ごしてもいいのでは?」



 なんて余計な提案だろうか。しかし僕は雇われの身でこの家も善太郎さんの所有。彼の取り決めに異を唱えることはあっても、それを押し通すことは出来ない。チラリと二人を横目で見ると、此方に向き直ったお母様が相変わらずどうしていいのかわからないオロオロとした様子で僕を上目遣いに見た。



「善太郎さんがそう仰るなら」



 二人に背を向けて、「部屋に案内します」空き部屋へと二人を連れて行った。羽鳥さんの隣の部屋で狭いけどベッドが二つある。普段から掃除も欠かさずにしているのでだいぶ綺麗な部屋だ。僕の部屋は大通りに面しているので明かりが差し込み、眺めもそれなりだが、この部屋の窓からは隣家の壁しか見えない。



「お風呂はこの家にはありませんので、庭にある井戸を使ってください。仕切りもあるので人目に触れることはありませんから」



 淡々と説明して僕は扉を閉めた。



 居間にはもう善太郎さんは居ない。一階の作業場にでも下りたのでしょう。階段を下りていくと作業場の照明が灯っていた。



 背を丸めて作業する彼に不満を漏らす。



「どうしてあんなことを。あのまま帰らせれば良かったじゃないですか?」

「終電も使えば間に合うかもしれないけどね。でも、俺は賀楽さんの心を汲んだつもりなんですよ」

「汲んだなら余計に」

「嬉しかったでしょう? ご両親に会えて。口や心の表面的な部分では納得できないでいるそうですが、貴女の根幹の部分ではやはり彼等は血の繋がった大切な家族だと認めている様子でしたからね」

「そんなの……、わかるわけないですよね」

「自分で言ったことをもう忘れたの? また会えて良かったって」

「あっ……、でも、それは」

「言葉をこれ以上交しても平行線だ。就寝中に起こしてすみませんでしたね。でも、だいぶ疲れていたようですが、体調は大丈夫ですか?」



 長旅で疲れはしたし、途中で体調を崩したりもしたが今はなんともない。



「大丈夫ですけど。明日の家族水入らずはどう過ごせばいいんですか?」

「それは坂下家で話し合って決めれば良いよ。私が口出しすることでも助言をする程でもない」

「午前中はお店に立ちます。午後からは二人を連れて外に行こうと思いますが」

「いいんじゃないですか、普段の作業を見せるというのも。東京の名所巡りを合わせれば申し分ない」



 別にそこまでをするつもりはないけど……。ある程度の予定くらいは立てておいたほうが都合も良い。



 僕は自分の部屋に戻ろうとした時に羽鳥さんが店の扉を叩いた。



「おかえりなさい、遅かったですね」

「そうなんですよぉ。なんでもまたハンバーグが見つかったみたいで」



 僕の脳裏に思い浮かぶ黒い袋を抱えた人物。



「へぇ、どこで?」



 手を止めた善太郎さんが聞く。



「鍋屋横町近くの住宅街の裏路地ですよ。不法投棄されるゴミに隠されてたらしくて、それで身元なんですが、写命館の近くに住んでた人みたいなんすよねぇ、今回もやっぱり篝家と関わりのある人みたいでぇ」

「死写体にもならない遺体ばかりだ。篝家とはどういう関係があったのか聞いている?」

「詳細はまだ調べているそうですけど、自宅からかがり義龍よしたつって人からの手紙が見つかったみたいでしてぇ、なんでも、意味ありげなキナ臭い内容のようですよ」

「その内容は?」

「五十嵐警部が明日直接伝えに来るそうです。はは、自分は信用ないんすかねぇ。ああ、悲しい」

「まあ、五十嵐さんから直接話を聞いた後に篝家へ行って、本家住所とその義龍氏について聞きますか」



 本当は僕もそっちに同行したかったけどそういうわけにもいかなくなってしまった。



「ああ、そうそう。いま賀楽さんの親御さんがいらしているので失礼のないようにお願いしますね」



 別にこれといった意味は無いが報せておく善太郎さん。羽鳥さんも目を丸くして、「坂下さんのご両親ですかぁ」なんてちょっと興味ありそうに笑った。



「それと一応、まだ空いているお店があったんで、食材を買っておきましたよ」



 食材を二階の台所の戸棚にしまってくれた。「これから何か作りましょうか」お腹も空いているので手軽に作れる物は無いか、と材料を一つ一つ羽鳥さんと確認していたらちょうどつくね鍋が作れそうだった。



 さっそく醤油等の調味料で汁を作りコンロで沸かせながら材料を投入していく。その間も僕の意識は両親のいる部屋に向いていて、いま何をしているのか気になった。



「鍋なら自分でも見ていられますので、せっかく来た親御さんと過ごしてきてくださいよぉ」

「いえ、別に……」

「ほらほらぁ、遠慮しないで、家族と過ごす時間はとぉっても大切なんすからねぇ。自分も妹が居るんですけどね、これがまた可愛げのない奴で、でもなんだかんだ悪態をつかれても大切な家族ですから、ほら、行った行った」



 背中を押されて僕は渋々、そう、仕方なく二人の居る部屋をノックして入った。



 二人は何をするでも無くベッドに腰掛けながら話していた。僕を見るとお母様が脱兎のように駆け寄って来て、それから抱きしめようと両手を広げたが、僕の背中に手を回すこと無く、ゆっくりと力を抜いて腕を降ろした。罪悪感に苛まれていて、我が子を抱きしめる資格がはたしてあるのか、そんな念に駆られている顔をしていた。



「ごめんなさいね。賀楽、顔を見に来てくれたの?」

「羽鳥さんに背中を押されただけ……」

「そう、ありがとう。でも……、何を話せば良いのか」

「わからないよね。僕もわからないから」



 本当に何を話せば良いのか判らない僕は顔を逸らして、部屋中を見渡してみたがそんな行為に意味なんてなく、話題も思いつくはずも無い。



「こっちに来て座って話そう」



 お父様に言われて僕とお母様はベッドに並んで腰掛けた。



「今は楽しいか?」

「うん……。今がようやく生きている実感がする。死体を演じているけどね。でも、これから僕も写真家になるんだよ。カメラの使い方を教えてもらってる」

「いつか……。賀楽、お前に写真を撮ってもらいたいな。半蔵はんぞうも喜ぶ」

「半蔵は元気にしてる?」

「ああ。本当は半蔵も連れてきたかったが列車だからな」



 小さい頃から一緒に居る大きな外国犬。お母様と一緒に半蔵を浜辺や八幡宮付近を散歩させた思い出も真新しい。半蔵だけは僕を変な目で見ないし、対等の家族として扱ってくれた。またあのふわふわした毛並みに顔を埋めてみたいし、今ならそう……、写真を撮ってみたい。



 写真……。



 たまに家族写真を撮って欲しいと仕事を受けることもある。写真屋なのだから当然のこと。仲睦まじく並んで笑う家族を見て僕は羨望していた。あんな家族の一員に産まれたかった。僕を捨てた両親の影のある顔ばかりを投影していた。僕を人としてみない父、僕の味方になってくれない母、今頃は何をしているかと思い出したように憤慨の念を抱くこともあったけど、実際に今こうして会えて、僕の怒りが消えはしないけれど安心はした。



 挟んで座る両親の体温が僕を温めてくれる。



「明日、午前中はお店の仕事をしないといけないけど、お昼から善太郎さんに休暇をもらったから二人と出かけられるよ」

「それはいいな。私もお母さんも東京には疎いから賀楽に任せたい」

「そうね。賀楽が見た物、食べた物、感じた事をお父さんと巡りたいわね」



 互いに遠慮のある会話ではあるけど、お父様とお母様の言葉の端々からは今だけでも家族であろうという、密かな願いが垣間見れたし、努力も感じた。



 僕はもうこの二人とは家族では無いつもりだった。しかし、そう思い込んでいた時点で僕は逃げていたのかもしれない。短い余生で楽しい思い出を作るくらいならいいじゃないか。何も残らずに終わるなんて寂しい。僕の奥底でこの二人に甘える免罪符の言い訳をつき始めた。



 しかしこのままこうしている訳にもいかないようだ。



 部屋の外、台所の方から羽鳥さんが何やら、「うわっ、熱ちぃ! 吹いてる吹いてるぅ!」なんて叫び声を上げているんだから。



「ご飯が出来るから一緒に行こ」



 立ち上がりながら二人の手を取った。

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