第20話 昭和二十八年十二月十六日(2)
善太郎さんと羽鳥さんは庭の隅に生えた切り株を引っこ抜こうと必死な形相で腰を振っている。澄香さんと鼎先生と並んで僕は縁側に座ってお茶を啜ってその様子を眺めていたら、「ズルですよぉ。男二人だけで抜ける気配がまったくないんですけどぉ!?」泣き言を漏らす羽鳥さんに澄香さんが叱咤した。
「阿式さん。この家に硬い棒などはありませんか?」
腰を伸ばしながら善太郎さんが聞くと、「硬い棒か……。少し休憩していな」思い当たる物があるのか何処かへと消えた。
「これでいいか?」
しばらく待っていると農具の鍬を見せて、「たぶん大丈夫でしょう。よし、テコを使って引っこ抜きますから、羽鳥さん、合わせてくださいよ」耕す鉄爪の部分を切り株の隙間に突き刺し、せーの、で二人が体重を掛けると鍬がミシリと音を立てたが、切り株は無事に地表へ転がり出た。
汗だくの作業を終えた二人も並んで縁側に腰掛けると、「お疲れさま。助かったよ、上手い饅頭でも食べてくれ」見直したように表情を和らげて二人に冷たいお茶と饅頭を差し出した澄香さんは、ジッと切り株の抜けた穴を凝視した。
労働後の甘い物は格別だと羽鳥さんは叫んだ。
こんな肉体労働は戦地で塹壕堀をしていた時以来だ、と笑った善太郎さんも茶を啜る。
「でもなんで、切り株なんかを掘り起こすんです?」
「ばあちゃんの遺言だよ。死んだら切り株を掘り起こせって。どんな意味があるのかなんて知らないけどさ。言われたらやるしかないだろ」
しばらく考える素振りを見せた善太郎さんはまた鍬を手に、切り株が植えてあった穴を見下ろし、何度も耕すように鍬を振り下ろした。
「なるほどね……。これを貴女に残したかったのでしょう」
土の中に眠っていた小さな箱。澄香さんに手渡すと一枚の手紙と大量の紙幣が入っていた。
紙幣よりも手紙を先に手に取って広げ、「腹を痛めて産んだ子を売った私は、いつも他人の親子を眺めるとあの時の後悔がよみがえる。いつかまた私に子が出来たなら今度こそは大切に育ててあげたい……。あの時の金と一緒に切り株の下、罪滅ぼし……、にもならないのは承知で、愛すべき我が子、阿式澄香にこれを残す」と書かれていた。
箱の中に豪遊をしても一年は持つ大金。
「ばあちゃん……。ありがとう」
この、ありがとうは、残してくれたお金に対してではなく、愛すべき我が子という政美さんの想いについてだと察せられた。これまで共に過ごし育ててくれた思い出が胸を溢れそうになっているのか、涙が彼女の頬を伝っていた。
箱の中へ秘めた想い。
箱に収めるのは物が全てではない。
「篝家のパンドラの箱の在りか、わかったかもしれません」
ぼそりと呟いた僕に善太郎さんは、「是非とも聞きたいね。賀楽さんが辿り着いたパンドラに」饅頭を頬張った。
下駄を鳴らして縁側に並んで座る彼等に傾注を呼びかけた。
全員が僕に視線を向ける。
彼等の前に立ち人差し指を立て、「僕達はずっとパンドラの箱という認識のマヤカシに嵌まっていたんですよ」そもそも事情を知らない澄香さんを除いて、三名は各々で異なる顔をしていた。
「パンドラの箱とは、決して開けてはならない災厄を封じた箱のことだと聞きました。きっと篝家の公表されたくはない秘密が隠されている。僕と善太郎さんは四日間の時間をかけて密かに篝家をくまなく探しました。しかし、それらしき箱は見つかりませんでした。もちろん篝家の方々にも覚えは無い様子」
善太郎さんは微笑んで続きを促す。
「それもそのはず。僕達は存在するはずのない物を探していたのですから」
鼎先生と羽鳥さんは首を傾げていた。
「篝家当主……、だった末広さんが殺されてしまった以上、いいえ、彼も知らなかったかもしれませんが、パンドラの箱は篝家前当主の心の中に在ると僕は想像します」
実物でないのなら、人の心こそがパンドラの箱、という仮定をどう判断するのか。僕は逸る気持ちを抑えて善太郎さんを見る。彼は茶を飲み干してから、「面白い推理だ。確かにあれだけ探して見つからないのであれば、そうなのかもしれないね。確かめる価値はありそうだ。どうしたい、賀楽さんは」問われ、「確かめるべきかと思います」山梨遠征で得るものも得たしやるべきことも終えた、と善太郎さんは立ち上がった。
「ならば一度、篝家に戻りましょうか。野菊さんなら本家が何処にあるのか知っているだろうしね」
「澄香さん。先程話してくれた子供達を連れ込んだ施設の場所などについては?」
「明るみになるのを恐れてか、もう取り壊されたそうだ。村人も疎開してもう廃村だって」
「そうですか。お話を聞かせてくださりありがとうございます」
「いいんだ、あんた達のお陰でばあちゃんの想いを知れたから。私の方こそありがとう」
澄香さんに別れの挨拶を済ませて東京へと。しかし、途中具合が悪くなって大月市にある旅館で宿を取ることになった。僕は点滴に繋がれ、食欲が無くても栄養を取らなければ駄目だと鼎先生に言われ、かぼちゃの煮物と焼き魚を少しだけ口にしたけど、歯肉からの出血で血の味が強く気持ちが悪い。
「なかなか止まらないなぁ」
タオルで圧迫止血をしていたがなかなか止まってくれない。このまま全身の血液がゆっくりと垂れ流されていくのではないか、なんて怖いことも頭を過ぎる。しばらくしているとタオルに血が付着しなくなったので安堵した。
「この病気はこの身体と関係があると思いますか?」
この身体について知識を持っている鼎先生は端正な顔の両眉を寄せて否定した。
「私が知っている限りだと、賀楽ちゃんと同じ身体の人がそういった病気を患っていた事実は無いね。でも……」
「でも、なんですか?」
表情を陰らせた鼎先生に詰め寄る。
「知っていることを話してくれませんか?」
「オランダに居た頃に私の先生が、賀楽ちゃんとまったく症状の似た病気がある、って話していたのを思い出したんだけど……」言い淀んで言い辛そうに小さく唸り、「治療薬はまだ発見されていないらしくてね。医療の進んだ国でもまだ謎多い病気だって」気遣う調子で言った。
「でも、大丈夫さ。これまで多くの病気を解明して治療薬も研究されてきたわけだし、賀楽ちゃんの病気も完治する日だって近いよ」
「その患者さんたちはまだ苦しんでいますか?」
「頑張ってるよ……。大丈夫、賀楽ちゃんも諦めないで。私も先生に手紙で聞いてみたりするから、一緒に頑張ろう」
「そうですね。ありがとうございます」
身体の怠重さも点滴の効果かだいぶ楽になってきていた。
「あ、そうだ。鼎先生は何か知りませんか、篝家本家について」
「うーん。私は末広さんに雇われている身だから本家に関しては……、あ、でも、もしかしたら菫さんなら何か知っているかもしれないなぁ。彼女、運転手でしょう? 旦那様が実家に帰省される時はいつも運転していたわけだし、帰ったら聞いてみたらどうかな」
「そうします。話は変わってしまいますけど、鼎先生は綺麗なのにどうして結婚されないの?」
僕としても色恋の話には興味がある。手を出せないだけで興味があるのに、善太郎さんは死に恋をしているから話も弾まない。篝家滞在時にも少しだけ好み等は話し合ったけど深掘りはしなかったからこそ、今その続きをしたい。
「自分より稼ぐ奥さんなんて屈辱でしょう、男の人は見栄っ張りさんだから。仮に結婚しても私はこの職業に誇りを持っているわけだから、家族より患者を優先してしまう。きっと、円満な家庭とは無縁になる。少なくとも私が医者を続けている間は。だから私は結婚なんてしないのです」
誰かを救うために。一人でも多くから苦しみや痛みを取り除いてあげたいという医者の矜持。彼女はまっすぐと自分の道を見据えて歩いている。
「でも、菫さんはどうして結婚されていて、篝家で住み込みの運転手をしているの?」
「ほら。彼女、車の運転が三度の飯より好きな人だからねぇ。旦那さんも忙しいらしくて月に一度会えるかどうからしいのよ。それだったら、って篝家で縁もあって運転手をしているみたい。月収も良いからね、篝家は」
流石に金銭の話に触れるのは品性を疑われてしまう。
「梶木さんはどうなんですか?」
「狙ってる?」
「違います。ちょっと気になって」
「昔付き合っている人はいたみたいだけど、事故か事件かで亡くしたみたい。それ以降……、うーん、彼って一途なのよね。亡くした恋人を想うあまり毎週決まって墓参りに行っているみたいだから」
「梶木さんも同じなんですね僕達と……」
「ん? 何か言った?」
「いいえ、独り言です」
それからも他愛ない雑談で笑っていると、「賀楽さんの具合は……、良さそうですね。私達はもう寝ます。明日は八時くらいに出発しますから」ノックして顔を覗かせた善太郎さんが僕を見て安心した顔をしていた。
「お隣の部屋で羽鳥さんと何を話していらしたの?」
「ああ、まあ……、色々とですね。男同士の密談というものですよ」
「猥談かしらね。興味あるから是非とも混ぜて欲しいな」
「松葉さんが聞いたら卒倒してしまいます。それより、賀楽さんを宜しくお願いします」
「任せて。それが私の仕事だから」
急に真面目な顔でしっかりと頷いた鼎先生。公私を別ける一面に僕は改めて彼女が頼もしく思えた。
頼りにしています、善太郎さんはそう残してもう寝ると部屋へと戻った。
「賀楽ちゃんが寝たら私も寝るから」
しばらく僕の様態を観察するそうで、眠っている間にまじまじと眺められるのも仕方ないとは言えあまり良い気分ではない。
「大丈夫よ。別に取って食おうなんてしないんだから。ささ、早く就寝しなさい」
僕は目を閉じて眠るように努める。呼吸を整えて、身体全体を脱力させて、何も考えずにいると頭がボーッとしてくる。浴衣と布団が擦れる音さえ眠気を誘う雑音として取り入れる。照明が落とされ、瞼の向かいも暗くなる。
ズルズルと引きずる音。
畳を滑る音だ。何をしているのだろう。僕の意識は微睡んでいく。目を開けて確かめる気力も湧かず、ズルズルと此方へ何かを持ってくる音を聞いていた。
ズルズル。
似ている。
深夜の中野町を歩いていたときに聞いたあの音に。
「鼎先生……?」
一度気になると眠気も晴れて彼女を向く。
「ごめんごめん、煩かったよね。布団くっつけちゃおうと思ってね」
そう言って暗闇の中に浮く彼女の黒い影は布団を被った。
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