第18話 昭和二十八年十二月十五日(4)

 嗅ぎ慣れた鼻を刺激する医薬品の臭いのせいか、病院で過ごした悪夢の時間を夢として見ていた気がした。



「お目覚めだね。具合はどうかな、自分の名前は言える?」



 僕を見下ろす優しく微笑む女性。



「鼎先生? どうして」

「んー。二時間前にね、賀楽ちゃんを抱っこした落合さんと警察の人が篝家に駆け込んできたのよ。屋敷に在る薬品では対処できないから、診療所に運んで点滴を打っているところ」



 眼だけを動かして壁に掛かる時計は二十三時半を過ぎていた。



「ごめんなさい。ご迷惑をお掛けしてしまって」

「こら。患者さんが謝らない。苦しんでいる患者さんに手を差し伸べるのがお医者さんのお仕事だから、気にしなくて良いの。良いのよ」

「はい。ありがとうございます」



 僕はゆっくりと起き上がってある変化に気が付いた。



 着物姿でないこと。白い患者服だ。



 恐る恐る鼎先生を見て、「あの……、僕の、その……、秘密」先程の動悸とは違うものが激しく胸を内側から打つ。



「ええ。ビックリした。女の子のお胸に、男の子のあれも付いてたから、初めは何か見間違いかなって思った。でも、世界中にそういう人が希にいるのを知っていたから、別段不思議も無いわねぇ」

「気持ち悪いですよね……。僕は自分の性別がわからないんです。いっそのことこんなもの切り落としてしまおうとも考えたこともあります。でも、怖くて……、どっちかに成るのもまた怖くて」

「不安だったんだね。大丈夫、大丈夫。キミはキミだよ。坂下我楽ちゃんなんだぞぅ」



 何度も大丈夫と言って聞かせてくれた。僕はそう求める顔をしていたのか、ずっと頭を撫でてくれていた。



「両性有具者。男性器と女性器を一つの身体に持つのは確かにとても珍しいけど、賀楽ちゃんが考えているような後ろめたいことでもないんだよ。一つ、私が海外で学んだお話をしてしんぜよう」



 冗談を含ませて笑う鼎先生に僕も釣られていた。



「海外の……ええと、ギリシア神話だったかな。男と女の神様が一つになったヘルマプロディートスの話があるの。絵画では男性器を生やした美女、乳房を持つ男性で描かれたりするんだよ。んで、これが本当に美しい神様でね。美術館に足を運んで見た時は心を奪われたものよ。海外にはキリスト教と言う宗教が流行って……、こんな言い方をしたら怒られるね。まあ、そういう宗教が在るのさ。神様の使いとされる天使というのが、これまた美形の顔に男女の身体的特徴を備えていたりと、海外では神聖的な存在として扱われているんだ。だから、キミもそんな悲観することはないよ」



 僕の他にも同じような身体をした人や神様がいると聞いて驚いた。僕だけが異常ではなかったとのだと少しだけ安心した。しかしだからといってこの事を公にするつもりもない。一生を秘めて僕は生きる。鼎先生の理解を得られたのはとても大きな支えになり、彼女も不安や苦しいときは話してほしい、と言ってくれた。



「控え室で落合さんと警察の人が待ってるから伝えてくるね」



 嫌な記憶を呼び起こすこの薬品類の臭い。しかし僕を肯定してくれる鼎先生のお陰で悪印象が薄れていき、僕を助けてくれる世界の匂いだ、と認識が改められそうだ。



 善太郎さんと羽鳥さんが病室に入ってくるや、心配してくれる数々の言葉。僕は大丈夫と何度も繰り返して笑うと、「あれ……、賀楽さん。その笑顔、なんだか少し人間味があるような」信じられないものを見たような反応の善太郎さん。ガラスに反射する僕の笑顔は、確かに少し温かなものを感じた。



「明日のことですけど」



 僕は善太郎さんをうかがい見る。



「キミは留守番してもらうよ。そもそも、最初からそうするべきだった。篝家には野菊さん達や松葉さん、それに警察官が数名滞在しているんだから、そっちのほうが安全だよね。調査には私と羽鳥君で行ってくるから、ゆっくり養生していなさい」

「嫌です。僕も行きます」

「どうして? 賀楽さんは事件が解決できればいいはず。違う?」

「僕はもう閉じこもりたくないんです。残りの余生を、僕は生きたい」



 事情を知らない羽鳥さんは、「余生?」首を傾げた。



「お願いします! 善太郎さん。僕を生かしてください」

「本当に聞き分けの無い子だよ、貴女は。どうするの、また発症でもしたら。キミを看れるお医者様がいるとも限らないよ」

「でしたら、私も付き添いましょうか。賀楽ちゃんの為といえば奥様もきっと同行しなさいと背中を突き飛ばしてくれるでしょう」

「松葉さんが来てくれれば私も安心して我楽さんを連れて行けますが……、いいんですか、診療所の方は」

「ご心配なく。うちには優秀な子たちが揃っていますから」



 善太郎さん、羽鳥さん、鼎先生、と僕で山梨県へ向かうことで纏まった。今日はこのまま僕は診療所で鼎先生と羽鳥さんと夜を明かすことに。善太郎さんは準備が在るからと写命館へ一人帰宅した。



「女性同士の部屋に忍び込んじゃダメよ?」

「しないですよぅ! 自分は警察官なんですから、そんな犯罪行為に至るはずがないじゃないですかぁ」

「どうだかね……、って冗談。そんな泣きそうな顔しないで。んんー、頼りになりそうにないなぁ……、あっ、これも冗談よ」

「ホントですかねぇ……。ああ、なんだか警察官としてやっていく自信が」



 云々。



 閉め出される扉から一歩も動く気配の無い羽鳥さんは、どうやら夜が明けるまでそこで待機するつもりらしい。写命館でももしかしたらそっと扉の前に立っていてくれたのかも知れない。そうだとしたら駆けつけてくれたのは羽鳥さんということになる。ちょっと頼りなさそうな印象はあったものの、市民を守るという警察官としての職務に誇りを持っているようだ。



「ささ、寝ちゃいましょう。夜更かしはお肌に悪いですからねー」



 電気を消して鼎先生は隣のベッドに潜り込んだ。



 しばらく天井を眺めていると、「眠れない?」此方を向いて鼎先生が微笑んでいる。



「今まで眠っていたから」

「でも、寝ないと身体が保たないよ。寂しいならそっちに移ってもいいけど?」



 一人用ベッドにほっそりした二人でも並んで寝転がれば下手に寝返りも打てないだろう。「おやすみなさい」僕はもう一度眠るために瞼を落とした。



 僕がカメラを持って人々の笑顔を撮る未来に想像を馳せてみた。僕が大人になる頃には戦争も犯罪も起きない平和な世の中になっている。そこに暮らす人々を撮影する毎日。写命館には死写体の写真では無く、僕も含めて多くの人の笑顔を収めた写真が並んでいるのだ。



 僕は生きる。



 よくわからない病気も完治してはしゃぐその時を夢見て。

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