第17話 昭和二十八年十二月十五日(3)

「被害者の一人にワシの知り合いがいたもんでな。その縁で戦地赴任以前からのやんちゃ仲間の伝手を使って今回の事件について調べさせた」



 そう語る浦辺さんは酒を一口。



「殺された篝末広の父親は、どうやら裏でキナ臭い商売に手を付けていたらしいんだよ。んでな、これは噂なんじゃがよぉ、どこぞの人知れぬ村の住民の……、人肉を牛豚の肉と偽って配給していたなんて話も聞いた」

「死んだ人間の肉をですか?」

「生きた人間の肉だと聞いとる」



 戦後日本の配給不足は深刻だった。数年前までは闇市で犬猫の肉が売られていたくらいだ。病院に隔離されていた僕には無縁ではあったが、アメリカの配給には行列ができるくらい、日本の生産量が追いついていなかったとか。



 真っ当な肉なんて軍上層部や政治家等の一部富裕層しか口に出来なかったのではないだろうか。だからこそ闇市で犬猫の肉が売買されて、これは稼ぎになると悪知恵の働いた者達が野犬や畜犬など捕まえては売りさばく、そんな社会問題が取り上げられていたのも記憶に残っている。



「人間の肉だなんて……。食べられるのでしょうか?」



 これには浦辺さんと善太郎さんが同時に首肯した。



「美味くはないらしいけど食べられるみたいだね。実際、飢えた兵士が殺した敵兵の肉を食らって生き延びたなんて話もあるくらいだ」

「牛や豚の肉に混ぜ合わせちまえば、味や食感程度はなんとでもなろうなぁ」



 しかしこれは噂話として軽視するべきでないような気がした。根拠もない直感に従ってしばらく考える。



 篝家が人肉を使っていた後ろ暗い事実があったとする。人肉をすり潰して成形した殺人事件。犯人は篝家の持つパンドラの箱に執着して、次々と篝家縁のある人物を狙って犯行を繰り返している。鼎先生の診療所に届けられた手紙。殺された末広さん。



 頭の中で思い浮かべてみたけど、まだ断片的で繋がりを見出せない。まだ足りない。もっと情報を。信憑性のある事実を知らなければ犯人へと辿り着けない。



「おお、なんだぁ?」



 浦辺さんが席を立ち善太郎さんも続く。僕も一度打ち切って二人を見て、ようやく外の喧噪が耳に届く。なにがあったのかを板前さんに聞いてみた。「ハンバーグの被害者がまた出たみたいだな」店の外では号外が舞い、手を伸ばす群衆。その中の一枚を手にして見ると中野町でハンバーグ人間が出たようだ。



 チラリと善太郎さんが見て、「昨夜に賀楽さんが見たという人物は犯人だった可能性が高いね」そう言って一人奥座敷へと戻ってしまった。



 浦辺さんと僕も戻る。うな重をパクパクと食べ進めている善太郎さんが、「浦辺さん。先程話していたその噂話の出所は何処です?」一人完食すると茶を啜りながら聞いた。



「山梨の甲府に住んどる。話を聞きたいなら、住所を教えるが気難しいババアだ。手土産の一つくらいは持参して行けよ?」



 メモ帳に住所と名前を書き取った。浦辺さんはまだここで飲んでいるようで、善太郎さんと僕はお礼を述べて店を出た。



「来て良かったですね」

「賀楽さんの写真を教えるだけのつもりが、まさかこんな情報を得られるとは……、しかし、これは五十嵐さんに渡してしまいましょう」

「僕達で確認しないんですか?」

「事件に首を突っ込んで危険な目にあうのは僕や賀楽さんだ」

「守ってください」

「首を突っ込みたい理由は篝家だということくらい推察できる。篝家で過ごし、彼等と語らう内に家族の情でも湧いてしまったのでしょう」

「否定はしません。篝家の人が殺されるのを黙って見過ごしたくはないんです」

「そのために僕と賀楽さんが巻き込まれても?」

「はい……」

「今日はこれまでにして引き上げるとしましょう」



 路肩に停めていた善太郎さん愛車のダットサン十七型。一枚の紙が運転席のドアに挟まっていた。善太郎さんと並んで三つ折りにされた紙を広げて覗き込み、「賀楽さん。外出は控えなさい」その文面を読んだ善太郎さんが冷静な口調で言った。僕を威圧する調子だ。勝手な行動は控えるよう、普段の眼差しとは異なる確かに軍人然とした眼で念を押した。



 帰りの車内は始終無言で。いつもの穏やかな雰囲気に慣れていた僕は、彼から放たれる緊張感に圧倒されて何も喋れずにいた。



 僕の膝上には三つ折りの手紙。



 事件にこれ以上関わるようであれば坂下賀楽を本物の死体に変えるという脅迫文。



 写命館に帰ってきた善太郎さんはノブに鍵を挿すと、慎重にドアを開けて室内を見渡した。僕の手を引っ張ってなるべく音を立てないようにと指示をするが、僕が履いている下駄はどうしても音を立ててしまう。その場で脱いで空いた手で鼻緒を持ち、素足で店内をペタペタ歩く。耳目をそばたてながら階段を上り、部屋の扉を一つ一つ開けて誰かが潜んでいないか確認し終えてようやく、「あんな脅迫文を送られた以上は細心の注意と警戒を敷くべきだ。なんたって相手は施錠された診療所にも忍び込めるんだ。こんな簡易施錠くらい造作もないだろうからね」ソファに腰掛けて表情をようやく和らげた。



「善太郎さん。これは」

「ハンバーグの犯人だろう」

「犯人は善太郎さんの車を知っているということになります」

「写命館に足繁く通う者。もしくは中野区民なら車種とナンバーを覚えていても可笑しくはない。店の隣に停めてあるんだから」

「僕達が浅草に出掛けているのは知られていません」

「そうでもないさ。浅草でキミはファンに囲まれてそうとう賑わせていた。情報屋の手に掛かれば何処でも私達の居場所なんて把握できる」

「あ、そうですね」



 テーブル上の手紙を二人で眺めて、「五十嵐さんに届けますか?」僕の提案に首を振って否定した。



「それは止めたほうがいいかもしれない。犯人はもう首を突っ込むなと釘を刺してきている。五十嵐さんや警察、篝家に関わることは犯人からしたらアウトかもしれない」

「アウト?」

「ああ、余計な事って意味だよ。逆に考えれば、事件に関わらなければ狙われないという保証書とも受け取っていいだろう」



 また威圧するような眼で僕を見る。



「せめてこの住所くらいは」

「許可できるはずがないだろ。誰が犯人かわからない。ここまで捜査に進展が無い以上は警察内部の誰か……、なんて可能性だってある。ただの人間の犯行にしてはやり方が上手すぎるのが不気味だ。そもそも人間の骨肉を砕いて成形する手段が未だにわかっていない。家庭にある器具でどうにかなるものでもないのは明らかだ」



 何も掴めていない。だから僕等はおとなしくしているべきだ。五十嵐刑事には悪いけど捜査から手を引かせてもらう、と善太郎さんは一階に引いている電話でそのことを告げた。



 僕は疑問に思っていた。この手紙で僕を脅迫してまで事件から退けようとする意図がわからないからだ。たかが素人が首を突っ込んで犯人にどんな不都合があるというのか。



 この後の善太郎さんの行動を予測してメモ紙に山梨の住所と氏名を書き写すと、袖口に忍ばせた。予想は的中。電話を終えた善太郎さんはさっそくメモ紙を渡すよう要求してきた。演技として一瞬の躊躇う仕草を見せてから、渋々とした挙動で紙を渡した。



 マッチの火で紙を燃やして灰皿に放り投げた。丸まりながら燃え尽きていく紙が焼失するまでジッとその様子を二人して眺めていた。



「写真を撮るのは面白かった?」



 いつもの剽軽者ひょうきんものな口調で話題を変えた。



「さっそく現像と評価をお願いします」



 カメラを手渡して、「とても楽しいですね。カメラ」わずかに口角を持ち上げて微笑んだ。



「やっぱり笑顔が似合わないね」



 肩を竦めて笑う善太郎さんに頬を膨らませながら睨みつけた。左右の人差し指で頬を押されて空気が抜ける。プクフゥ。変な音。善太郎さんがまた笑った。彼はひとしきり満足するまで笑い声をあげてから席を立ち、「私は現像作業をするから、賀楽さんは夕餉の支度までゆっくりしていて」階段を下りていった。



 まだ日は高く賑やかな中野駅付近の様子を窓から身を乗り出して眺めていると、お客様達が僕の名前を呼んで手を振ってくれる。手を振り返して彼等を見送っていると人々の雑踏の中に五十嵐さんが肩で歩きながら人垣を割って、車道を横断して写命館に向かってきている。その様子からご立腹といった様子。これは何か面白いことが起きそうな予感に身を引っ込めて、一階に下りる。



 同じタイミングで扉が激しく叩かれる。嵌め込まれたガラスが振動するくらいに何度も叩き、「開けてあげて」善太郎さんが此方を見ずに言った。



 写命館へ招くと、「さっきの電話は何なんだ!?」ズカズカと音を立てながら作業場へ回り、僕も後を続くと、五十嵐刑事が善太郎さんの胸ぐらを掴み上げていた。



 一触即発の修羅場。僕は二人に割って入り、ひとまず落ち着くように促す。お茶を淹れに二階へと上がった。一階では五十嵐刑事の一方的な怒声が聞こえてくる。どんな断り方をしたらあそこまで相手を怒らせられるのだろう、などと考えながら沸騰したお湯を急須に注いでしばらく待つ。



 良い塩梅に色味が着いた茶を湯飲みに分け入れた。香り立つ茶に合わせる菓子はないか、戸棚を物色しているとお客様から頂いたどら焼きが皿に一つだけ乗っていた。他に見当たらないのは仕方ないと、これを二等分して一緒に運んだ。



「賀楽さん。こういう怒りん坊は持てなさなくていい」



 珍しく感情的になっている善太郎さん。



「賀楽さんが心配なのはわかる。そんな脅迫文を送りつけられれば、誰だって尻込みする。しかしだなぁ、俺がここまで怒っているのは、犯人が警察内部にいる可能性があって、その容疑者の中に俺も含まれているなんて抜かした事だ」

「実際、ただの一般人に犯行は不可能だと五十嵐さんもわかっているでしょう。殺害云々は置いといて、ハンバーグに成形する手段なんて」

「上層部もその手段を色々探ったり実験しているみたいだがね、まださっぱりな様子だよ。浦辺上官にも尋ねたが……、これといった収穫もなかったしな」

「あれ……。五十嵐刑事には話さなかったのですか、浦辺さんから聞いた山梨の」



 二人の顔色が変わった。額に手を当てて溜息を付いた善太郎さん。何の事だと詰める五十嵐刑事。この流れでは流石に誤魔化しもきかないですよね、と善太郎さんに視線で伺うと、ヒラヒラ手を振って好きにすれば良いよ、と呆れた様子で返した。



 浦辺さんから聞いたことを全て話した。



「それでその篝家の裏を知っているという奴の住所と名前は?」

「もう燃やしましたよ。もともとこの事件から手を引くつもりだったんでね。山梨の大月だったかなぁ」

「山梨県甲府市常盤町です。名前は阿式あじき政美まさみさん。詳しい住所は此方に」



 袖の中からメモ紙を取り出して渡した。



 善太郎さんの何か言いたそうな眼をなるべく見ないように。



僕はやはり捜査を続けるべきだという素直な欲求に従いたい。篝家の人達を守るためにも、自分が何か出来ることは全てしておきたい。



「チッ、わかりました。わかりましたよ。ああもう、どうして言うことを聞いてくれないのかなぁ。賀楽さんのご両親ではないですけど、貴女を病院に隔離してでも安全を確保したいというのに」

「もう病院送りは遠慮させていただきます」

「五十嵐さん。私は賀楽さんを預かっている身なんです。そのことは考慮してくださいよ」

「俺の部下を一名付ける」

「信頼できる保証が無いですね」

「単純な馬鹿だが、正義感の熱い若手だ。好きに使ってくれて構わないよ。捜査の邪魔ばかりして他の奴等から煙たがられていたんだ」

「それは……、厄介払いですね」



 ひとまず善太郎さんと和解も果たしたところで、今晩からその警察官を写命館に向かわせる手筈を整えるらしく、山梨県には手の空いている僕達が出向くことになった。しかし善太郎さんはこれには一つの条件を付けた。それは依頼料だった。前回の篝家への調査はまだ写命館から近く、日中に善太郎さんが戻って店を開けたから良かったが、今回は山梨県への遠方となれば二、三日は最低でも店を閉めなくてはならなくなる。



 これには話の分かる上司に掛け合ってくれると口約束を交して写命館を出て行った。また捜査に戻るのだろうか。今回の被害者について話を聞くのを忘れていたが、派遣される警察官にでも聞けば良いだけのこと。



 二十一時を過ぎたくらいに写命館の扉は叩かれ、「すいませーん。五十嵐刑事の指示で写命館のお二人を警護させてもらうことになりました、巡査の羽鳥はとり茂道しげみちですけどー」大きな声で呼びかける。



「なんとも元気のある若者のようだ」



 そんな年老いた人が言うような台詞を笑って言いながら、売り場の電気を付けて彼、羽鳥さんを招き入れた。



「見た目も若そうだ。幾つ?」



 背の高い善太郎さんを見上げ、「今日、二十三になりました!」敬礼して言った。



「それはおめでとう。明日の事は聞いているね。ひとまず今晩は空き部屋を用意してあるからそこを使って」

「では、羽鳥さん。お部屋にご案内させて頂きますね」

「うわぁ、本物の坂下賀楽さんですよね!」

「はい。本物の坂下賀楽ですよ。その反応、僕を見たのは初めてですか?」

「同期に写真は見せてもらったことがあるんですが、実際に会うのは初めてで。いや、美しい。こんな美人さんの警護を任せられるなんて、羽鳥の人生で二度と無い一生の経験だぁ!」



 そんな初々しく可愛い表情を見せる羽鳥さんを二階の空き部屋に連れて行く。最低限の布団だけは用意しておいただけの寂しい部屋を見渡して、「明日は何時に出発するかまだそこらへんを聞いて無いんですよねぇ」警帽を被り直しながら恥ずかしそうに目をそらして言った。



 母性本能を疼かせるのが上手い彼の天然に、「一緒に晩を明かしますか?」なんて冗談を含めて笑うと、「ええっ!? それは本官の職務がぁ」なんて取り乱す姿は威圧的な警察官の印象を崩してくれる。



「もちろん冗談ですよ。おやすみなさい、羽鳥さん。明日は朝五時に出るので寝坊はしないでください」

「いやいや。男を誑かす魔性ですよぉ」



 どっと肩を落としてようやく平常心を取り戻すや、「お願いがあるんですけどぉ」声も落として言い淀みながら、「写真を一緒に撮っていただければ、なんてぇ」もちろんこれには快く承諾をした。



 僕は自室でぼんやりとベッドに座って窓から空を眺めていた。今日は星が見える。月は遠くて小さい。僕は一日の中で夕方の空が大好きだ。特に秋のあかね色といったら心にぽっかりと寂しい影を差してくれる。哀愁の黄昏時だと善太郎さんは格好付けて言っていたが全くその通りだと思った。



 僕は来年の秋まで生きているだろうか。



 あかね色。



 赤色。


 血。



 また血の臭いがした。舌を伝って血の味がする。指を口の中に入れて歯茎を撫でてみた。指先から血の色が混じった唾液が伝い落ちていく。



 途端に今まで健康だった身体に異常をきたし始めて来る。



 めまい、動悸、息切れ、吐き気に加えての鼻出血。




 これは最悪の組み合わせだ。悪症状総出で僕を蝕んでいく。ベッドの上で寝転がり丸めた体勢は骨の軋みあがる痛みを緩和させる為。治まらない。吐きたいけど、体中が痛み、身体を動かすのも億劫になってしまえる気怠さ。めまいで上手く歩ける自信もない。ああ、考えたくない。ただ症状の回復ばかりを願っているとベッドから転がり落ち、芋虫のように悶えていると、部屋の扉が開き、羽鳥さんか、善太郎さんか、駆け寄ってきたのを涙で視界が曖昧な状態でその人物に手を伸ばして助けを求めた。

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