第16話 昭和二十八年十二月十五日(2)

 撮影が楽しみで深夜遅い時間になっても眠気は訪れず、枕元に置いていたカメラを時々、撫でてみたりファインダーを覗いてみたりして時間を過ごしていた。



 いつもはもう熟睡している時間。窓を開けて眺める中野の街は僕の知らない様相をして、まるでこの世界には人は存在しないかのような寂しさと充足感に胸は高鳴る。どうせならその街を少し散歩しようかと、普段であればしない衝動に駆られた。



 夜霧が薄く漂う世界。月明かりと外灯の明かりを頼りに冒険気分を味わっていた。いつもの八百屋。いつもの蕎麦屋。いつもの見慣れた同じ場所であるのにいつもと異なる場所に僕はいる。中野駅から高円寺方面に歩いていると、どこからともなくバリバリと音が聞こえてきた。咄嗟にビルとビルの間に身を潜ませて息を殺しながら周囲を伺うと、小径から人影が大きなビニール袋を抱きかかえながら路肩に停めてある車へと押し込んだ。



 何か怪しい臭いを嗅ぎ取った僕は走り去ろうとする車を一枚、そのカメラのフィルムに収めた。僕の技術と霧のせいで上手く撮れていないかもしれないけど、明日、善太郎さんに現像をお願いしてみようと、高揚感を台無しにされてそのまま写命館へと引き返した。



「何をしていたんだ、こんな時間に」



 こっそりとお店に入ると電気が二度三度明滅して階段の手摺りにもたれる善太郎さんが此方を睨んでいた。



「深夜のお散歩です」

「賀楽さん。あなたはつくづく私に心配を掛けたいようですね。嫌がらせのつもりかな?」

「そういうつもりは毛頭もありません。ただ眠れなくて、明日が楽しみで」

「賀楽さんがハンバーグになって翌日発見されるなんて、私も含めて多くの人が望んでいない。最後まで生きたいと言った自分の言葉を反芻はんすうするように、いいですね?」

「すみませんでした。ご迷惑をおかけしました」

「わかればいいんですよ。さあ、もう眠りなさい。まだ眠れないようでしたら、少し私と遊びますか?」



 ポケットから取り出したのはトランプだった。



 二人でやるにはあまり向いていない遊びを提示してきた善太郎さんの意図もわからず、まさか本当に二人でトランプをするつもりでもない。僕の読みは見事に外れ、彼はテーブルに裏向きにカードをバラバラに並べていく。二人でも楽しめる遊びらしく、運と記憶力を頼りに同じ数字のカードを捲り見事当てれば自分の得点となる遊び。最後にどちらが多くの得点となるカードを多く持っていた方が勝利となるようだ。



 善太郎さんは透視しているかのように次々と同じ数字のカードを捲り、結局僕の手元には六枚のカードのみで圧倒的な差で大敗をした。



「イカサマしてますよね。同じ数字のカード同士を何度も奇跡的に捲れるはずないじゃないですか。傷とかシミで判断していましたか?」

「よく確認して見なさい。私の記憶力がいいだけなんですよ」



 渡されたカードの裏表や細かい傷まで目視で確認したけど、見分けられるような傷もなかった。でもイカサマでもしなければこんな事にもならない。仕込みがなかったか記憶を遡ってみても、そんな素振りもなく、弱った僕に善太郎さんはカードの山札をパラパラと捲って、テーブルに並べた。



「これとこれ。あれとそれ。ついでにこの二組、ほらね」

「どうやったんですか?」

「簡単だよ。山札の並びを全て記憶しておいて、上手い具合に並べただけだよ。ほら種もわかればそんなものかと思えてしまう。何事もこの世はこういうつまらないけど、上手いやり方で回っているんですよ」



 聞いてしまえば確かにその程度のことかと思える種明かし。しかしその種は単純でも山札全てを記憶し、なおかつ配置も記憶しておかねばならない。その頭脳には脱帽した。その記憶力を備えて初めてなせるイカサマ行為。



 僕の抗議を笑って流す善太郎さんはもう寝ると言って二階に先に上がってしまい、負けた代価としてトランプを片付けてから僕は自室へと戻る。



「あ、現像を頼むの忘れてた」



 あんな時間に大きなビニール袋を運ぶ不審者は何をしていたのか、と考えても何も浮かばず、しかしもしかすると、という予想を立てることはできた。



「ハンバーグ事件の犯人?」



 そう仮定したならば運ばれていたビニール袋の中身も想像が付くというもの。あの場で鉢合わせをしていたらそれこそ、善太郎さんが言っていたように翌日に僕はハンバーグとなって見つかっていたかもしれない。



 想像するだけで余計に眠気が遠ざかっていく。ベッドの上で寝返りを打ちながら、どうしてこんな時に、むしろ怖いからこそ両親を思い出してしまっていた。あの人達が僕を疎んでいても僕にとって彼等は紛れもない血のつながりのある家族。温かくなくても、優しくなくても、恋しいと思ってしまう感情は血の呪いの賜か。



 脳と心がここまで乖離かいりして反発しあう感情を掻き立てる。狭間の僕はただ耳を塞ぎ、目を瞑り、これ以上に揺さぶられないよう防衛に努める。



 幼い頃から病院に隔離されるまでのつまらない日常を夢に見た。酷くうなされている自覚をして眼を醒ました。寝汗で襦袢が濡れて重く感じる。なんとも寝覚め悪いことだろうと溜息をつく。



 この建物にも風呂の一つもなく、銭湯も営業していないならば、庭の隅にいつからそこにあるのか井戸から組み上げた水を被るしかない。



 冷たさと寝汗の不快感を比べて僕は直ぐに庭へと下りた。四隅に衝立を立てた囲いの中にポンプ式の井戸がある。せかせかとハンドルを上下させて汲み上げた水を桶に満たす。冷水が僕の身体を引き締め、何度も頭から被って汗を流していく。



 ブルブルと震えながらタオルで身体の水気を拭き取り、代わりの襦袢に着替えてから二階住居に上がると、善太郎さんがソファーでお茶を啜りながら新聞を読んでいた。



「おはよう。朝から水浴びはいいけど、体調は大丈夫?」

「おはようございます。寝汗が酷かったもので。体調は……、大丈夫そうです」

「今日は記念すべき賀楽さんが撮影日だ。哲学堂でもいいし、浅草まで行ってもいいですが、希望はありますか?」

「あの……、それより聞いていただきたいことがあります」



 僕は昨夜の散歩で見た人影とビニール袋の件を話し、部屋からカメラを手に取って現像してもらうように頼んだ。



「大きなビニール袋、ね。確かに怪しいといえば怪しい。わかりました、現像をして五十嵐さんにお任せしてしまいましょう。賀楽さん、朝食の準備をお願いしますね」



 僕が厨房に立っている間に善太郎さんは一階の作業場に立つ。



 白米に梅干し、あとは大根のお味噌汁くらいしか作れる材料もなく、必要な材料の買い出しを頭の中に纏めておく。テーブルに並ぶ朝食を見て篝家の食卓とつい比較してしまう。相手は名家なのだからそもそも比較することに意味も意義も無いというのに、僕の作る料理が酷く不味そうな物に見えてしまう。



 一口、味噌汁を味見で啜ってみたら変な味がした。



 善太郎さんと向かい合わせに手を合わせてから、僕はジッと自分の料理に手を付けずに彼の様子を伺った。いつも通りに箸を進めていく、いつものように美味しいと言ってくれる。今までの僕はそれで十分満足していた。しかし、本当にそうなのだろうか、という疑念が今の僕に巣くっているようで、「本当にそう思っていますか?」と口にしていた。



「うん。美味しいけど……、まさか傷んでる食材とかあった?」

「いいえ、違います。どうしてか僕にはとても不味く感じてしまって、その……、血の味がするんです」

「血の味? ちょっと口を見せてくれますか」



 言われたとおり僕は口を開けて見せた。口内を覗き込まれるというのも恥ずかしい。善太郎さんが、「もっと大きく開けて」指を僕の歯や歯肉に沿って這わせていき、外側内側までくまなく調べられ、「歯肉から血が滲んでいるね。ほら」そういって指に付着した血液を見せてくれた。



「強く磨きすぎでは?」

「強く磨いていたつもりはなかったんですけど、もう少し力加減を調整してみます」



 血の味がするご飯をなんとか食べ終えた。洗い物を済ませて善太郎さんと浅草へとむけて車を走らせる。死写体の仕事で一度だけ来たことがあるが、雷門をこうして見上げるのは初めてだ。とても大きく立派で、その圧巻する佇まいを前に語彙力が抜け落ちた頭で評価するのも難しい。



 まだ朝早い時間帯だというのに賑わっている。



 特徴的な柄の着物と袴姿。カランカランと下駄を鳴らして歩く人目を引く容姿は何処でも目立ち、数人の少女たちが駆け寄って僕を囲い、「坂下賀楽様でいらっしゃいますか!?」など、「ああ、まさかこんな場所でお会いできるなんて」などなどの感極まった表情で握手を求められ、周囲からも続々と僕を一目見ようと集まりだしてきた。



 これでは写真撮影どころではなくなってしまう。隣に並ぶ善太郎さんは商売人として、「賀楽さんと写真を一緒に撮りたい人は一枚二百円だよ」商いをこの場で始めてしまう。



 老若男女の列は参拝行列より長く続き、持参していたフィルムが尽きてしまい、まだ並んでいた人達は握手を求め、警察官が注意に入るまで続いた。



 こっぴどく善太郎さんは警察官にお叱りを受け、ようやく僕の撮影技術講習が始まる。



 善太郎さんがてきとうに選んだ可愛いどころを呼び止め、彼女たちも僕に撮影してもらえるとキャッキャと御髪を整え、フレームに自分が一番綺麗に見える格好で映り込む。



 シャッターは被写体の様子を見ながら切ること。被写体をより美しくみせる場所選びや角度などを隣で指導してくれて、僕のカメラもフィルムが尽きて今日の指導を終えた。



 煎餅や砂糖菓子などを買って貰い、二人で食べ歩きしながら観光をしていると、「善太郎か、お前ェ?」細い身体をした着物姿の浅黒い肌の男性が笑顔を見せ、「ああ、やっぱり善太郎じゃ。久しいなぁ。五十嵐から聞いたぞ、ハンバーグについて調べてるんだってなぁ」善太郎さんの肩を叩いた。



「浦辺さんですか。お久しぶりですね。ええ、ただの写真家が殺人事件の捜査を無償で手伝わせているんですよ」

「警察も人手不足のようじゃからな。んで、こっちの別嬪さんが噂の死写体、坂下賀楽かい?」

「坂下賀楽です。善太郎さんとはどういったご関係ですか?」

「礼儀のいい娘さんじゃ。なぁに、ちょいっと戦地でジタバタしてるコイツを五十嵐と一緒に拾った縁じゃ」

「五十嵐さんの部隊を指揮されていた方だよ」

「まあ! いま、善太郎さんが生きているのは浦辺様と五十嵐様のお陰なんですね」

「そういうこった。五十嵐の奴も元上官の俺にまで捜査協力をしろだなんて言ってきやがったもんだから、上官を顎で使う気か貴様ァッ! と一喝してやったら、ビビってべそをかきよった。国民様の生活を守る警官があんなんじゃあ、心配だねぇ」

「断られたのですか?」

「いんや。可愛い部下の願いじゃ、快く引き受けたよ。毎月上等な酒を差し入れる条件付きでな」



 ちゃっかりしている浦辺さんは頭髪の薄い頭をポンポンと叩いて豪快に笑った。



「浦辺さんの方は何か手掛かりは見つけられましたか?」

「善太郎、お前も既に承知のことだろうが、犯人は篝家に縁を持つ者を狙ってハンバーグにしておるな?」

「そのようですね」



 浦辺さんはここからは場所を変えようと言って、雷門から少し離れた場所に在る料亭に顔を出すと、「奥を借りるよ」一言伝えてキビキビとした軍人らしい歩き方で先行し、突き当たりの座敷に僕達を招いた。



「ここなら情報漏洩の心配もねぇ。せっかくだ、何か食っていけ。お嬢ちゃんも遠慮する必要はねぇからの。にしても噂通りの美しさじゃ。善太郎、嫁にもらったらどうじゃ?」

「賀楽さんとでは私みたいなのでは不釣り合いですよ」

「惜しいのぉ。じゃあ俺の所に来るか? 妻子はいるが、まあ問題もないだろ。一人二人の女が増えたって大した変わりもねぇ」



 大ありかと思います。もちろん冗談で言っているのだから僕も冗談でやんわりと返したが、余計に気に入られてしまったようだ。なんとも豪快で愉快な性格の持ち主らしく、戦地では情に厚く、無茶な必死の作戦を言い渡す上官を殴りつけた、なんて豪傑な武勇を語って聞かせてくれた。



「浦辺さん。そろそろ話して貰えませんか」

「相変わらず良いところで水を差す若造だなぁ。まあ待て。酒が来てからじゃないと興が乗らんで」



 雅な升になみなみと注がれた酒が運ばれ、僕と善太郎さんには香り立つ鰻の蒲焼きが。その食欲を刺激する匂いと見た目なはずが、また血の味がするのではないかという不安もある。そのフワリと膨らむ身を箸で分けてご飯と一緒に口へ運ぶ。



「とても美味しいです」



 どうやら出血は止まっているようだ。予想していた味に素直な感想が口を伝う。善太郎さんも満足の味のようで、「美味しいですね」僕の料理を食べた時と全く同じ口調で言った。



「お前さん等、もっとこの味を表す言葉はないのか」



 呆れながらも、「ああ、美味い」と酒を飲む浦辺さんも似たようなものだ。

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