第14話 昭和二十八年十二月十四日

 新作写真の現像と複製作業がようやく終わり、徹夜明けの善太郎さんは肩を鳴らしながら二階に上がってきた。至急の仕事がてんてこ舞いに舞い込んできたおかげで、三日前から写命館に帰ってきていた。とても眠そうにフラつく善太郎さんは僕より死にそうな蒼白な顔色で目の下の隈を擦っている。



「なんとか発売予定日に間に合って良かったですね」



 台所で簡単な朝食を作り終えてテーブルに料理を並べていると、一階から電話のけたたましい呼び出し音。まだ六時を回ったばかりの早朝に誰からか。疲れている善太郎さんにはそのまま座っていてもらい僕は一階を駆け下りて受話器を耳に当てる。



「はい。写命館でございます」



 声の主は野菊さんだが緊張と焦燥で早口になっている。いったい何があったのか。まずは彼女を落ち着かせてから事情を聞くこととする。すると、彼女の口から信じがたい言葉を僕は自分音耳を疑った。



「あの……、野菊さん。もう一度仰って頂けますか」



 彼女の緊張と焦燥が僕へと伝播したようにその声は硬直してしまっていた。



「ああ……。どうして、どうしましょう……、末広さんが」



 彼女は口にする。



「末広さんがハンバーグになってしまわれたわ」



 篝家では相当に混乱している様子。受話器の向こう側からはドタバタと忙しない物音が絶えることなく聞こえてくる。警察が到着したらしく、其方の対応に行かねばならぬようで、ひっ迫している彼女が心配で、「これから僕も向かいます。どうかお心をしっかりお持ちください」通話を切って急いで二階へと上がり事情を善太郎さんに伝えた。



「それはつまり賀楽さんを楽しみにしているお客さんより大事な事情である、と捉えてしまっても?」

「はい。そう捉えてくださって構いません」

「はぁ……、わかったよ」



 善太郎さんは熱々の味噌汁だけを飲み干してから席を立ち、「私も行きましょう」急遽の定休日にお客さんや善太郎さんには悪い事をしたのは重々承知しております。それでも僕にとっては家族のような篝家の人達を支えたいという気持ちを優先するべきだと思った。



 鷺ノ宮にある篝家の門前には何台ものパトカーが停車していた。僕等も早速車を降りて門前の警察官に止められるも、野菊さんと五十嵐さんが事情を説明して中へ入れてもらえることとなった。



「末広氏はどちらで?」



 篝家の人達と居間で顔を合わせると善太郎さんが早速口を開いた。



 互いに顔を見合わせる篝家の方々を代表して野菊さんが小さく挙手をした。



「松葉診療所内で。鼎さんは事情聴取を別室で受けておりますわ。袋詰めにされた状態で見つかったらしく」



 つまりは疑われているということになる。滞在をしていた際に鼎先生は早朝に診療所へと出向いて資料整理や掃除等を日課としてこなしていた。



「第一発見者だったそうで……、わたくし、松葉さんが犯人だなんて微塵も信じておりませんのよ。殺す動機なんてありませんし、それに、殺そうと思えばいつだって殺せる立場におりますもの。わざわざ自分が疑われるような場所に遺体を放置するはずがありませんでしょう」



 必至な野菊さんは自分に言い聞かせているようである。



 家族を信じたい。違うと否定したい。旦那さんを亡くして心を痛めているはずなのに、残された家族を守りたい親心に従って涙を流す様は家族愛によるもの。



「昨夜から早朝までの松葉さんを証明できる方はいないようですし、いや、困りましたね。このままでは警察は彼女を犯人である前提として、無茶な取り調べをする可能性も無いとは言えませんよ」

「そんな!」



 いまは五十嵐刑事が鼎先生の取り調べをしている。彼は被疑者に対しては温厚な態度で挑むが、進展がなく手をこまねく場合はより厳しい環境で、憲兵がしていた戦時的な手段だって考えられると言う。元憲兵所属していた善太郎さんが経験から語る国民に対しての威圧的な振る舞いを聞いて、その場の誰もが言葉を失った。



 手紙と遺体を鼎先生の診療所に置いておくことに納得のいく理由を誰も知らない。何かを訴えたい犯人が知ったら無駄な労力を割いたと憤慨するのだろうか。



「キミ、ちょっといいですか?」



 居間を行き来していた一人の警察官を善太郎さんが陽気な声で呼び止めた。忙しい状況でも五十嵐さんの知り合いということで無下に扱うことも出来ず、「はい。何でしょうか」ハキハキとした態度で顔色一つ変化させないで姿勢を伸ばす。



「松葉さんの取り調べに私も参加させていただけないか、五十嵐さんに取り次いで頂けますか?」

「えっ、それは……、流石に」

「では、こう伝えてください。パンドラを知りたくはありませんか、と」



 なんのことか、と初めて表情をクシャリと変化させた警察官は五十嵐さんに伝えてくれるようだ。そんなことよりも善太郎さんがパンドラについて何か見つけたのは初耳でした。何も見つからなかったと言っていた彼からそんな言葉を聞くとは思いもせず、僕はジッと彼の横顔を見て目で訴えました。



 視線に気付くと軽く右眼だけを一瞬閉じた善太郎さんが、「篝末広さんは戦後直ぐに支援団体を起業されていますね。それ以前は何をされていたのでしょうか。お恥ずかしながら、殺人事件や人の死に関する情報を除いて、世俗に疎いもので」唐突な質問を特定の誰かではなく全員に対して問う。



「実家から継いだ貿易業を営みながら自営で孤児院をされていたそうです。その孤児院は戦争で焼失したと聞いています」



 野菊さんが答えた。



 昔から人を救う活動に従事していた末広さんだからこそ、千紗ちゃん達をなんとか救いたいと住み込みで働かせているのでしょう。こんな慈善家を誰が憎み、殺されなくてはならなかったのか。善太郎さんが末広さんの名前を出したことで表情がみんな暗く落ち込んでいるようだった。



 先程の警察官が戻ってきて、「五十嵐刑事から至急で落合さんを連れてくるよう言われました」一礼してから席を立った善太郎さんを連れて居間を出て行った。



 こんな空気にした張本人が不在の状況を僕は静観しながら一人一人を観察していた。うつむきながら末広さんを悼むそれぞれの顔からは今後どうすれば良いのか困惑している者もいる。菫さんは末広さんの運転手をされていたし、野菊さんとの間にも子供はおらず、篝家にとって言い方は悪くなるけどもはや不要でしかない。



 篝家のこれからの事情を僕が考えるようなことではないけれど、この家族が離散してしまうのは惜しく悲しい。



「大丈夫なんですよね……?」



 祐介君が意を決したような緊張した顔つきで言うと、菫さん達も同じような顔つきで野菊さんを見た。



「きっと、ええ、きっと大丈夫よ。ずっとはこの家で過ごせないかもしれませんけど、直ぐに出て行けとは言われないはずよ。貴方たちはわたくしがどんなことがあっても守ります。ですが、今後の身の振り方については考えておいた方がいいかもしれませんわね」



 野菊さんも篝家に対して発言力もないとはいえ、ここで過ごした家族達を宿無しにするつもりはないという意思を表明した。末広さんの殺害は大々的に報じられるだろうし、このことが篝本家に伝われば直ぐにでも遺体の確認と残された者達の処遇を言い渡すべくこの屋敷に足を運ばれるはずだ。



「俺なんかを拾ってくださった旦那様に報いるためにも、最悪の場合は、奥様は俺が面倒を見ます。俺が働いて……、今までのような生活は望めないですけど、それでも奥様の為に働きます!」

「私も奥様には随分と可愛がっていただきました。この身を売ってでも」

「馬鹿を仰らないで! 大庭さん、自分の身体は自分の物よ。好きな人以外に抱かれる必要なんてありません! そんなに必死にならなくとも実家に貴方たち全員を連れて帰ることもできますので、ご心配は無用よ。実家がなんと言おうともわたくしは貴方たちを路頭に迷わすつもりなんてないわ」



 叱咤の声を荒げて続く彼女の声は力強く彼等を支えるには十分な効力を持っていたようだ。次第に力が抜けていく顔からは少しだけ安堵の色へと塗り替えていく。



「喉が渇きましたわね。梶木さん、お茶を淹れてくださる?」



 梶木さんが深々と頭を下げてから台所へと向かい、野菊さんは苦笑しながら今度は僕へと向き、「ごめんなさいね。心配して来て頂いたのに、こんなお恥ずかしい姿を晒してしまって」謝罪の言葉と共に頭を下げた。



「いえ。此方こそこんな状況なのに来てしまって申し訳ありません」



 互いに頭を下げる格好を見た菫さんが、「たがいに顔を上げたらどう?」なんて茶化すような口ぶりで言って、「まるで見合いだよ」不謹慎な発言と咎められるであろう言葉も今は誰かが先に吹き出したことで、伝播して僕も含めて小さく笑い合った。



「なにやら楽しそうなご様子で、何かございましたか?」



 盆に人数分の茶を用意してきた梶木さんが先程までの雰囲気と打って変わった様子に笑顔を見せた。



 茶を啜る音が合わさって一息ついたところで、五十嵐刑事が善太郎さんと鼎先生を連れて居間にやってきた。和やかなお茶会。想定外な雰囲気に肩を竦めながらも空いている席に座って大きく長い、疲労の蓄積していそうな息を吐いた。千紗ちゃんに少しだけ詰めてもらって僕の隣に鼎先生が着席して、「具合は大丈夫そう?」自分より僕の体調の心配をしてくれた。



「はい。今のところ体調はいい方です」

「いい方、というのは少し不調ということだね」



 聞き流されそうな言葉からも相手の状態を楽観視しない鼎先生にこれ以上は返す言葉も無く、「渡した処方薬を服用して身体に変化や違和感はない?」僕は頷いて、「鼎先生のお陰です。ありがとうございます」僕が笑っていると自覚したのは頭を下げた後に頬が持ち上がっていたのを感覚したから。



 僕の左隣りに座った善太郎さんは、「和やかな雰囲気を壊してしまうような発言をしても?」五十嵐さんと野菊さんを交互に見て、構わないと頷く五十嵐さんとは対象的で、戸惑いながらも視線だけで篝家の面々を見回してから弱々しく頷いた。



「私の予想では末広さんの死は篝家にとって悲劇の始まりである可能性があると考えています」

「それはどういう意味でしょう。まだ、私達の中から誰かが殺されると?」

「そういう意味です」

「ああ……、そんな。ですがどうして?」



 どうして。野菊さんの言葉に誰もが賛同したに違いない。表情も変えずニコニコとした顔立ちで、「五十嵐さんと松葉さんの話を聞いてそうなのかな、と考えただけですよ」つまりなにかしらの情報を得られたということらしい。五十嵐さんと鼎先生は心当たりがないという様子で目を合わせた。



「善太郎君。まだ俺は聞かされていないよ、パンドラの箱についての話だ」

「この場では言えませんよ。パンドラは篝家が大きく関わっています。不用意にこの話を聞けば彼等の身に危険が迫る可能性も無いとは言えません」

「何が言いたい。パンドラはそこまで重大な何かなのかい」

「ええ。そうです。犯人はパンドラの箱に拘っている様子です。そして、敢えて松葉さんの診療所に残した手紙にも、篝家のパンドラの箱と記載している点から、犯人も実はパンドラが何かわかっていないのではないか、ただパンドラの箱という何かを知ってはいるが、それがどういった物かまでは把握していない。今回の事件を引き起こす重要な原動力の役割に過ぎません」



 これに追及する五十嵐刑事に掌を突き出して、話しません、と口を閉ざしてしまった。実際にまだ仮定の話。証明する裏付けが善太郎さんの中で見つけていないから話せないのだ。口は災いの元と言うように、下手な事を喋れば篝家に余計な災いが降りかかるから。



「それにしても大変ですね、五十嵐さんは。事件の捜査から暴動鎮圧と、体よく使われているじゃないですか」

「鎮圧ではないから、そこは間違えないでほしいね。人手不足は深刻な問題だが、一番の問題はこういった事件が無くならないことだよ」



 五十嵐刑事は先程の警察官を呼びつけ、しばらくの間は数名連れて篝家周辺を警戒するように命じた。



「新人ですか?」

「ああ、去年配属されたらしくてな。まだ自分がどう動けば良いわかっていないんだ。だから慣れるまでは指示を出しているんだが、昨日の抗議運動にも駆り出されて、説得していたら頭を怪我したそうだ」

「戦地であれば真っ先に死ぬ人間ですね」

「真面目で優しいんだよ」



 五十嵐さんと善太郎さんは異なる目で仲間たちに指示を出す、というよりかはお願いしている形で声を掛けている青年を見つめている。



「年齢的には徴兵されていたのではないですか?」



 僕の疑問に五十嵐さんは肩を竦めて、「アイツは理工系学校に通っていたらしくてな」召集令を免除するには幾つかの手段や裏抜けがあったそうだ。彼はその真っ当な理由で戦争を体験しなかった。山奥の病院に隔離されていた僕はもちろんそんなものとは無縁であった。



「優秀な方なんですね」

「頭は良いんだけど、自分で対処できない事態になるとパニックを起こす」



 彼が警察に配属されたばかりの時に強盗犯を追い詰めた際、相手に包丁を突き付けられてパニックを起こし連携を乱して取り逃がす事案があったと付け加えて話してくれた。五十嵐さんは冗談を言うようにおどけて話すものだから聞いている僕達はまるで御伽噺を聞かされているように少しだけこの空気が和らいだ。



「捜査本部に戻らねばならんのでね。そろそろ帰らせてもらうよ。善太郎君、また電話する」



 よっこいしょと腰を上げた五十嵐刑事はしっかりと仕事をするように伝えて、数名の刑事や警察官を連れて引き上げていった。



「私達も帰ろう。警察官が警戒してくれるならもう安心ですよね?」



 また何かあれば連絡してほしいと野菊さんに伝えると、カステラのお土産を持たされた。

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