第12話 昭和二十八年十二月六日

 今日も店の扉には休業の看板を下げ、カーテンと窓だけは開けて空気の入れ替えをしながら四日間も放置された売り場の掃除を善太郎さんと二人で進めていると、「善太郎君。少し早いが来てしまったのだが、出直した方がいいか?」窓枠に腕を乗せて店内へ身を乗り出す五十嵐さんが笑っていた。



「足を運ばれた恩人に二度手間なんてさせませんよ。さあ、どうぞ」



 五十嵐さんを店内へ招き入れ、彼には二階の居間で待っていてもらう。その間に後片付けを僕が担い、善太郎さんはお茶の用意をして先に二階へと上がっていった。



 用具を片付けて二階に上がろうとした時、「賀楽ちゃん」ふいに呼び止められて振り返ると、窓から鼎先生が手を振っていた。



 どうやら診療所が人手不足だったらしく、応援に駆けつけた帰りに寄ってみたとのこと。彼女に少しお出かけの誘いを受け、二階では五十嵐さんと善太郎さんが事件について話しているのも気になったけど、「善太郎さんに聞いて参りますので、店内で待っていていただけますか?」急ぎ足で二階に顔を出した。



 善太郎さんは二つ返事で了承した。五十嵐さんは、「篝家の専属医かぁ。例の手紙が送られ詳細を本人から聞いてみたい。少し話せるか聞いてもらってもいいかい?」これはまた別の視点で情報を得られるかもしれないと踏んだのだ。



 鼎先生も二階に刑事が来ている……、そもそも刑事の依頼で篝家の捜査をしていたことを知らない彼女には大まかな事情は伏せて二階に上がってもらった。



「刑事さんが私に話があると賀楽ちゃんから聞きましたが?」



 背筋を伸ばして、かつ物腰の柔らかな美人医師に五十嵐さんは面を食らって、想像していた人物像との乖離が彼の態度に表れていた。中野区で話題の美人医師の噂くらいは耳に入っていたが、まさかここまで若い先生だとは思っていなかった様子。



「私のような若輩者がお医者様を名乗るなんておこがましかったでしょうか。それともそういう手口の詐欺師かと疑われています?」



 会話の切っ掛けを得たとばかりにニッコリと柔和でからかうような口調で言った。バツが悪そうに五十嵐さん顔をしかめてから謝罪を一つ入れて、「お聞きしたいのは……」表情を引き締めた五十嵐さんは早速問題の診療所に届けられた密室の手紙について聞きにかかる。



 善太郎さんを一瞥した鼎先生は、そういう事ね、と小さく呟いて、「従業員の医師にも確認は取りましたが、誰も心当たりが無いそうですよ。そもそも私の部屋は私が居ない間は施錠されていますので、何人たりともあの部屋に入ることはできませんから」篝家で聞いた通りの返答。



「仮にその手紙が……、いいえ、まず間違いなく犯行予告でしょう。そうなれば篝家の人間、もちろん貴女も例外ではなく犯人からすれば対象内ということは承知されていますね。その手紙を渡して頂けたら、脅迫文として俺が上層部に数人でも警備に回せないか掛け合いましょう」

「それは私の一存で判断していいことではありませんね。手紙は篝家に保管してあります。旦那様か奥様の同意を頂ければ、直ぐにでも私は手紙をお渡しすることをお約束します」



 非常に真面目な表情と口調で返した鼎先生の打って変わった印象に僕は驚いた。善太郎さんは五十嵐さんと彼女を一瞥してから、「五十嵐さん。どうです、これから篝家に直接お話を聞きに行くというのは」末広さんが休日であることを昨日に聞いていた善太郎さんが提案する。



「わかった。善太郎君の方から先方に連絡を入れてくれ。いきなり警察の俺が話しても余計な抵抗をもたれるかもしれない」



 肩を竦ませた善太郎さんは電話を繋いでいる一階の売り場へと降りていった。



「私も付いていったほうが宜しいですね」

「お願いしても?」

「刑事さんに協力できることがあれば私は喜んで手をお貸しします」



 鷹揚に頷いてから、「戦争も終わったのに、これ以上人の血が流れるのは悲しいですから」オーストラリアで生活していた時の事を思い返しているのかも知れない彼女の眼はとても悲し気で、人を生かす職業柄からでしょう、己の都合で他人の命を簒奪する行為に怒りのようなものを感じているようだった。



「私からも聞いていいですか?」

「ええ。どうぞ」

「賀楽ちゃんと落合さんを篝家に派遣したのは刑事さん? だとしたらどういった理由で?」



 写真屋で刑事と事件について話していれば唐突な篝家の訪問に結び付いたのでしょう。僕も五十嵐さんもこれといった反応を見せず、僕は沈黙し、「お察しの通りです。パンドラの箱について心当たりは?」過程を省いて五十嵐さんは聞く。



「賀楽ちゃんにも聞かれましたが、パンドラの箱がどういう物かくらいしか知りません」

「そうですか。ありがとうございます」



 あっさりと引いた五十嵐さんは茶に口を付けると善太郎さんが戻ってきた。



「さあ、行きますよ」



 どうやら了承を得られたようだ。のっそりとした動作で大きな身体を揺らしながら立ち上がる五十嵐さんに続いて鼎先生と僕も立ち上がる。このまま僕一人だけ留守番をするのも寂しいので同行することにした。



 十数時間ぶりにまた戻ってきた篝家の門前で祐介君と千紗ちゃんが姿勢を伸ばして待っていてくれた。二人は大柄な五十嵐刑事に会釈すると門を開けて御屋敷内に招き入れた。



 大広間に人数分の椅子が用意されていて、食事時の順番でまた着席すると、「警察の方が私達に話があると落合さんから聞いていますが、何をお聞きしたいのでしょう」末広さんが切り出す。



「なぜ犯行予告が届いていたのに警察へ届けを出さないのですか」

「それで警察が動くとは思えないからだよ。実際、鼎君に警察に相談を頼んだが、事件性が無い悪戯だと取り合ってもらえなかったそうだ。一人二人くらいは回してくれれば私共も安心できますが……、篝家は基本的に夜間に祭りでもない限り外出はしないものでね。家族が纏まっていれば犯人も手が出せまい」

「その考えは甘いと言えるでしょうな。いいですか、犯人が必ずしも夜間に活動するとは限らないということを念頭に入れておくべきだとは思いませんか。言葉巧みに……、たとえば、そちらの若いお嬢さんを誑かして誘拐する可能性だってある。親切そうなそこの少年も困っているから助けて欲しい、と言われて無下にはできない人間ではないですか?」



 千紗ちゃんと祐介君が互いに顔を見合わせて頷き合う。



 ここまで言われて返せる言葉もない末広さんは、良く言えば家族を信頼していて、悪く言えば事件が身近なものだと認識できていなかった。何か言葉を並べたところで五十嵐さんの正当な言の前には容易く折れてしまう。ソレがわかったからこそ、ようやく身近なものであると認識したようです。



「刑事さん。わたくし達は……、家族はどうすればよろしいのかしら?」



 野菊さんがもう我慢できないといった青白い顔で声を震わせて聞いた。



「上層部に掛け合って人を回させます」

「出来るのかい? 知っているよ、今はハンバーグ事件で人が出払っていることを」

「ああ……、アナタ。わたくしは怖いわ」



 末広さんも事件が間近なものであると認めてしまった為、野菊さんも気にしないわけにはいかず、事件をより深刻な問題として気が気でない様子だ。末広さんは気が小さい野菊さんの為にもあえて事件をあまり深刻な問題として気にしないでいたのかもしれない。



 篝家全体に不安な暗雲が立ちこめていくような気がする。



「そうだわ! ねえ、落合さん。確か元軍人さんだと仰っていたわよね。どうかお願いよ。しばらく篝家に居て下さいませんか。もちろん、その間の報酬は払わせてもらいます。賀楽さんもそっちのほうが安全よ! また何かあっても松葉さんがいらっしゃいますから。ねえ、どうかしら」



 悩むように目を閉じて腕組みする善太郎さんを余所に、「わかりました。では善太郎君達をまずは篝家に残しましょう。あとは警察こちらからも人を付けさせます」勝手に話を進めてしまう五十嵐さんに、「私の仕事は……、四日間も店を閉めていたのにぃ。これでは閉店したと思われてしまいますよ」強めに反論するが、「夕方から篝家に来ればいいだろう」善太郎さんは閉口した。



 元軍人の滞在が決まり少しは安心したのか、篝家の人達の顔色が少しだけ晴れたように見えた。



 どうやらまたあのカビ臭い布団とはしばらくのお別れになるようで、さっそく明日からまた篝家でお世話になることとなった。



 明日からまた死写体の撮影の仕事が舞い込んでいると言っていたので、場所によっては篝家に戻るのは遅い時間になるかもしれない、とだけ善太郎さんは全員に前もって伝え、了承を得たところで今日の所はお暇させてもらう。鼎先生と出掛ける約束をしていたので一緒に篝家を出て、善太郎さんに車で新宿まで送ってもらった。



 あまり遅くならないようにとだけ言われ、帰りは鼎先生が写命館まで送り届けると約束し、二人で新宿を回ることになった。



 露店で安売りしている衣服やアクセサリーなんかを眺めながら、男性である善太郎さんや、名家で育った野菊さんとは違った庶民の女の子向けの店を選んで巡っている。菫さんや千紗ちゃんともたまにこうして新宿に買い物にくる等のことを話してくれて、常患者さんと会話をしているせいか彼女の話術に引き込まれていた僕は周囲からの視線なんか気にならなかった。



 その間、篝家の事情について話を聞いていた。梶木さんは寡黙に見えて実際は話し好きで、ただシャイなんだという。篝家滞在の最終日に善太郎さんの質問遊戯ではなんだか楽しそうにしていた彼の表情を思い返した。



 祐介君は何処へ行くにしても野菊さんにベッタリで、女性陣のなかでは好意があるのでは、なんて噂されている。



 千紗ちゃんは菫さんと特に仲が良いらしく、二人で遊びに出掛けたりしているようだ。



 菫さんはまさかの結婚をしているようで、神奈川にある大手建築会社の若社長が相手だという。何度か篝家に顔を見せたが、どうして男勝りな菫さんにこんな出来た相手と結婚できたのか、と一部で疑問とされたみたいだ。そもそも結婚していて住み込みで働くとはどういうことか……。



 新宿駅から中央線を使って中野へと戻り、僕を写命館まで送り届けた鼎先生は電話を貸して欲しいと言って、今日は書類作業をしたいからそのまま診療所に泊まり込むことを篝家に告げて電話を切った。



「大丈夫ですか?」

「心配ありがと。でも大丈夫。当直の先生が一人いるから」



 可愛い笑顔をニコリと見せて夜の中野区に人と闇に紛れて姿を消した。

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