第10話 昭和二十八年十二月五日(2)

 篝家に戻ると善太郎さんが部屋で寝転がりながら写真を眺めていた。鍋屋横町で野菊さんにお土産としてせんべいを買って貰ったので、そのお裾分けを渡すと、それを一つ口に咥え、染みた醤油の味を堪能しながら仰向けでまた写真へ視線を戻す。



「なんの写真ですか?」



 同じように仰向けになって写真を見上げ、「これは善太郎さんの撮った写真ではありませんよね?」あきらかに写真から善太郎さんの息吹が感じられない、素人然とした数枚の写真。それが写しているのは赤黒い肉塊の上に人間の頭部を置いた……、そう、ハンバーグ事件の被害者達だった。



 想像していたよりも随分と猟奇的であり人間の成せる業をはるかに凌駕している。神か妖怪か、これを演出した存在はそういった人外の部類に属する者の仕業に違いない。なにより写真の遺体で僕が感心というべきか、一段と興味を引かれたのは遺体の表情にあった。誰もが満足そうに微笑みを浮かべて目を閉じている。まるで美味しい料理に舌鼓を打っている夢でも見ているかのように……。



「気分悪くなりませんか?」

「気持ちが良い物ではないよね。美しくないもの、これ。ハンバーグに対しての個人的な感想ですから。賀楽さんは大丈夫?」

「僕は……、はい、大丈夫ですけど」

「それは良かった。この写真はね、内々でさっき五十嵐刑事から預かったものなんだ。私は人間ハンバーグを話に聞くだけで実際には目にしていませんから。ですが、これはやはり芸術的な死を演出するには誇張しすぎていて好きになれない」

「ふふ。では仮の話をさせてください。善太郎さんが人を殺すなら、たとえば……、僕を自分好みの死体に仕上げるなら、どのような演出を施して頂けますか?」



 死に囚われた彼への好奇心と思考に興味があり、そんな事を聞いてみたくなっていたから聞いてみた。戦地で日常的に転がっている死というのは銃殺、刺殺、撲殺、焼殺等々の、あまり綺麗とも言えない惨状ばかり。



 常、夢にまで描く彼の理想したい像とは。そんな期待に善太郎さんはウーンと唸り、「わからない」はぐらかしている訳でもなく、本心からそう言っていたのがわかった。



 死に魅了されているからこそ、自分の納得できる死を模索する。模索し続けるうちに常人が踏み入れない暗い道を歩み進んでいく。善太郎さんの眼はもう出口を見失っている。もしかしたら探し求める死の道筋さえも見失って彷徨っているのかもしれない。



「いつか見つかると良いですね。善太郎さんの理想とする他人の死が」

「ひとまずはキミの死を私は希望としているんですよ。綺麗に亡くなってくださいね。しっかりと賀楽さんの死は写真として残すから」

「この身体を蝕む病がいつ僕の命を奪うのかはわかりませんけど、その時はお願いしますね」



 僕と彼の約束。



 僕は僕の死を善太郎さんに捧げる。その時まで僕の面倒を善太郎さんがみる。単純な互いに利となる条件で結ばれた約束。だからこそ昨夜の事態に善太郎さんは心情を荒げたのだ。



「賀楽さんがどうしてそこまで美しい死写体となれるのかわかるかい?」

「容姿ですか?」

「それもあるね。だけどそれ以上に、キミは男でも女でもなければ、男でもあり女でもある。病魔に冒されながら命尽きんとしている非常に曖昧な生命だからこそ、キミは美しく在り続けられる、と私はそう考えている」



 だから勝手に死んではいけない。彼の前で、彼に看取られて死ぬ。孤独ではない終わりを迎えられるのならば死も怖くはないのかも。それまで僕は僕の生きた証を残しながらせいぜい楽しい余生を過ごしたい。そのためにはまず僕の平穏を脅かすハンバーグを廃棄するべきだ。



 襖の向かい側から、「入るよ」菫さんの声が聞こえた。彼女は末広さんを送り届けたら迎えに戻る時間までが自由時間らしく、普段は家事を手伝ったり手の空いている誰かと出かけたりしているようだ。善太郎さんとは車で盛り上がれる共通の話題を持ち、話したくてウズいているのかもしれない。僕は起き上がって襖を開けるとそこには菫さんの他にも、梶木さん、持田さん、大庭さん、松葉さん、野菊さんと篝家総出で顔を揃えていた。



 梶木さん達の手にはカステラ等の菓子類。善太郎さんも頭を掻きながら起き上がって肩を鳴らし、「これはこれはどうされましたか」眺めていた写真はそっと鞄にしまって全員が円になって座れるよう配慮した位置に座り直した。



 ぞろぞろと列をなして善太郎さんの意を汲んで円になって座る。この順番に見覚えが在り僕は可笑しく、「お食事時の並びなのですね」どうしてか全員が互いに顔を見合わせると大いに笑い合って、「あら、本当。もう、身体に馴染んでいるのよ、きっと」野菊さんの高い声に賛同する一同。



 最終日ということもあり全員で残りの時間を過ごしたいということらしく、末広さんが帰宅時には集合写真を撮りたいと野菊さんの要望に善太郎さんは首肯して応えた。



「そういえば松葉さん。今朝の手紙について何か判明しましたか?」



 首を横に振ってから、「残念ながら……。ただの悪戯であれば私も笑って済ませられる事案なんですけど、信憑性や事件性がない以上はやはり警察も動いてはくれないそうです。落合さんは私を疑われていますよね」真っ向から眼を合わせる松葉さんに肩を竦めて、「別段、松葉さんだけを疑っているわけではありませんよ。合鍵だって作ろうと思えば作れますし、篝家の人達だって鍵を拝借してしまえば可能です。もちろん、私や賀楽さんでも」一瞬だけこの部屋の空気がピシリと凍えたと感じたのも一瞬、「それより篝家は用心しておくべきでしょう。松葉さんの仰ったように、悪戯でなければこれは明らかな犯行予告ですから」見事に氷塊した空気を攪拌かくはんして砕き、今とは違う不安を煽って波紋を生んだ。



 時折、善太郎さんは鋭く相手の不安を的確に抉る発言をしてくる。柔和な笑顔に不釣り合いな凶暴性か嗜虐性か、あまりに自然すぎる態度は生来生まれ持って飼い慣らされた獣であるに違いない。



「仮にハンバーグ事件の犯人からだと仮定しましょう。さて、その犯人がどうして篝家に対してこのようなアプローチをしたと考えられますか? 野菊さん、心当たりとかは?」

「まるで警察から取り調べを受けているような気分。ええ、不愉快を感じているというわけではないの。そこだけは誤解なさらないで。皆さんとも無関係とは言えませんでしょう。少し付き合ってみませんか、落合さんのお話に」



 これから遊戯が始まるような面持ちで臨む野菊さんに倣ってみんな肩の力を抜いた。



「心当たり、と仰いましたね。わたくしにはありませんのよ。信じるかは落合さんにお任せします。これでは進展がありませんね」

「いえ。無いものは無いで構いませんよ。これは、そう、ちょっとした遊戯なのです。では次に松葉さん」



 グルリと順番を回していって誰もが知らぬ存ぜぬの回答を出していった。進展のないこの遊戯はすぐに終わらせるだろうという予想を反して、「では次に、皆さんにとって大切な譲れぬ信条を聞いていきましょう」これには誰もが身を乗り出して、別の遊戯が唐突に始まったのではないかと目を疑った。「こういった推理は意外な所から得られたりするものでしょう?」その一言に、これは迂闊なことは喋れば事件とは関係の無い話題から抉られるぞ、という遊戯に熱が籠もってきた一同は楽しむ表情を浮かべている。



 みんなの中では篝家と事件の接点に関わる取り調べから、善太郎さんの質問に対して正直になおかつ疑われない証言をする遊戯へとすり替わっているのをこの場の何人が感づいているだろう。



 これを普通の人がやろうとしてもこう上手くはいかない。彼の笑顔と特徴的な声に誘導洗脳されて本質を見失わせてしまう魔性の手管。事件から遠ざかっていく質問をすると見せかけて篝家の内情やパンドラの箱についてさりげなく探りを入れている。



「次は賀楽さんですよ」



 ふいに善太郎さんに声を掛けられた僕は我に返って、いまがどんな質問だったか全く覚えていなかった。



「過去の出来事で一番印象に残っている失敗談だよ」



 そんなことをいきなり言われても思い出すのも難しい。



 過去を振り返れば脳裏に焼き付いた両親の残念そうなやりきれない顔ばかり。何一つ親孝行なんてできずに病気の進行を理由に山奥の病院へと隔離され、坂下家から見事僕を体よく追放した両親は諸手を挙げて喜んでいるに違いない。僕が産まれた理由はなに。どうして僕を産んだの。こんな身体で、こんな病気に冒された欠陥品の肉を与えた不平等を嘆くばかり。いっそのこと殺してくれさえしていれば……。



 僕の過去は……、失敗は……、そう。



「産まれてきてしまったこと」



 言葉にするつもりは無かった。



 口をついて出た言葉をなんとか打ち消そうと、「なんてのは冗談です。失敗談はそうですね、有名人になりすぎてしまったことですか。お陰で何処に行っても坂下賀楽だと指を指されて、中には付きまとう人もいて迷惑しています」声量を少し上げてやれやれと話すと数人はホッと息を吐いて笑ってくれた。



 しかし残る数人は先程の言葉が真実であると疑わない様子。



「善太郎さん、次はどのような質問をされますか?」

「次で最後にするとしましょうか。将来の夢なんてどうでしょう。もちろん、今を不満に思っているからこその理想像ではなく、純粋に子供の頃になりたかった自分像というものがあったかと思います。私は皆さんのそれが知りたい」



 子供の頃に描いた夢はどういった自分だったか。



 なんとなく考えながら一人一人の回答に意識を向け、初めに野菊さんは芸者をやってみたかったと言った。鼎先生の夢は小さい頃から医者だったようで、いまいる自分こそが幼少期に思い描いた自分だと自信に満ちた笑顔で答える。次いで菫さんは、「科学者かカラクリ技師」なんて車と関係も無い仕事で意外性があるも、野菊さんは、「佐々木さんはこう見えてとても頭が良いのよ」なんて言う。梶木さんは自分の洋食屋を持ちたかったようで、しかし今この家の台所を預かっている彼の夢もまた叶っているといえなくもない。戦時中孤児だった大庭さんは絵本作家、持田さんは警察官とそれぞれの夢を抱いていたようで、「今からでもその夢は叶えられます。貴方たちが強く願うのでしたら私と末広さんはいつでも援助を惜しみません」野菊さんの言葉に二人は感無量と言った顔で頭を下げました。



 順番が巡って善太郎さんの番となり、彼からどのような夢が語られるのか、戦時中では決してそのような夢を持つこともできなかった軍時代を過ごした経歴から興味があった。



「写真家は先の大戦時に戦地で戦っていた時、ふと思いつきで始めて今に至ります。戦前は世界を渡り歩いて見識を深めつつ、てきとうな場所で落ち着いて家庭を持ちたいと夢想に耽っていましたよ」

「えぇ!? 落合さんあんた軍人だったんですか」



 寡黙な梶木さんが素っ頓狂な声を上げてまじまじと柔和な顔立ちの善太郎さんを見る。



 戦時中は兵力不足だった日本は国民を懲役していたのだから特別驚くことでもないと思うけど、軍人の面影や威厳も無い剽軽ひょうきんな善太郎さんをしげしげと見つめて驚いていた。



「所属は何処でしたの。海軍ですか?」

「憲兵を一年ほど、色々やらかして戦地へ飛ばされましたよ」



 飄々と笑う彼からどうして人を殺していた姿が想像できましょうか。ヒョロッと伸びた背丈には軍服よりも華族が着るような豪奢な洋装の方が頭に描きやすい。僕も初めて軍人をしていたと聞いた時は驚き、冗談かとも思いましたが、あの暴漢たちを易々と制圧した武力はまさしく暴力が必要とされる日常を生きていた者の強さだった。



「すみません、私は一度写命館へと戻らなければなりませんので、ここで一度失礼させてもらいます」

「僕も戻ったほうがいいですよね?」

「いいえ。私一人で十分ですので、賀楽さんは残っていてください」



 腰を大きく伸ばしてから立ち上がった善太郎さんは鞄を手にして篝家を出て行く。どんな用事があってのことだろう。そんなことを考えつつこれといって気にも留める必要も無いか、と残った篝家の人達も夕食の準備や末広さんを迎えに行かねばならないと言ってそれぞれの持ち場に赴いた。



 野菊さんも少しはしゃぎすぎてしまったようで疲労の色が顔に滲ませているが、どうしても僕と過ごしたいらしく、野菊さんの部屋でお話の続きをすることとなった。

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