第9話 昭和二十八年十二月五日

 最終日の朝の目覚めは快調でした。



 ベッドで身を起こす僕の顔を覗き込んで、「おはよう」顔色を医者の眼で視診する鼎先生の笑顔に、「おはようございます。ベッドを占領してしまって申し訳ありませんでした」返して頭を下げようとすると、「まだ視診中だよ」頭部を両手で固定されてしまう。



「ふむふむ、だいぶ顔色は良いみたいですねぇ。でも、まずは着替えを済ませちゃいましょっか」



 指さした僕の胸元には乾いて変色した鼻血の痕。



 借り物の寝間着を弁償することを伝えると、「そんなこと気にしなくてもいいの。奥様も旦那様も気にしないって」笑って僕の責任をフッと軽くし、「でも一応、こういうことがあったというのは伝えさせてもらうよ」付け加えた。



 ベッドから降りて一礼してから自分の部屋へと向かう。



 台所が賑やかな音を立てている。居間や大広間にはまだ誰の姿も見ない。まだ寝ているのかもしれない。さっさと早足に自室に駆け込んでハイカラ柄の着物と袴に袖を着替えてからもう一度、松葉先生の部屋と引き返す。



 部屋には松葉先生の姿は無く、居間のソファに腰掛けて庭をボーッと眺めていると菫さんが大きな欠伸をしながら、「あー、眠い眠い。おはよ。具合はどうだ?」隣に腰掛けて聞いてきた。また見事な欠伸をして開ききっていない目を擦り擦りする彼女に、「今はだいぶ」脱力しながら同じようにボーッと庭を眺める。



「昨夜、善太郎さんのお部屋でどのようなお話をされていたのですか?」



 大方の察しはつくもののこのまま無言というのも気まずく、話の種として此方も繋げやすそうな人物に関わる話題を振る。



「落合さんとは……、あー、賀楽ちゃんが気にしている話題では無いのは確かだけど、気になる?」



 気にしている話題とはパンドラの箱についてでないことは、なんとなく口ぶりから想像でき、もしかしたら何か菫さんは大きな誤解をしている可能性があると考慮して、彼女の話を促す方向で頷いて見せた。



「どうして私が運転手として住み込みで働かせてもらってるか。そこから車の話に流れて大盛り上がり。落合さんの車って門前に停めてあるダットサンだろ。あれ可愛いよねぇ、私好きだ。旦那様が乗りたい車しか普段は運転できないから羨ましいって話をしたら彼、気分をよくしちゃって今度運転しますか? なんて言ってくれて。あっ、でも変に勘ぐるのは徒労だぞ。そういう気持ちとかまったく無いから」

「ええと……、何を勘ぐるのでしょう」

「え、ほら、好きな人を奪われちゃうとかそういう色恋で」

「それは誤解をなされていますね。僕は善太郎さんにそういった気持ちは抱いていませんよ。恩は抱いていますけど、色恋なんて普通の方々が秘める想いは、僕になんて……」

「普通の方々? 落合さんも賀楽ちゃんだって普通の人ではないのか? 確かにまあ……、普通の人とはズレた趣向の写真撮影してるけどさ。別に恋心を抱いちゃいけないなんてそんなのは決められてないわけで、時代がもう自由な恋愛を許しているんだし、素直に誰かを好きになってもいいじゃん」



 笑わせてくれる冗談を言いますね。僕に誰かを好きになれる自由なんてありはしない。短い余命を生きる僕にそんな暇も相手もいてはいけない。僕は僕が自由に生きていた証を残して悔いなく死ぬ。それが僕の人生であるというのに。



 善太郎さんも然り。あの人は生者に見向きもしない。そう、強いて言えば僕等が共に寄り添うべき相手は死という概念であり、終わりなのだ。



 世間には僕の性別はもちろん病気なんかも伏せられているから、菫さんがそういう発言をするのは仕方ない。相手の事情を知っているのと知らないのでは伝えるべき言葉や想いも変わってくる。



 僕はこの場をやり過ごすべく、「他にはどのようなお話をされたの?」話題を次へと進める。



「え、それだけ。夜も遅かったしそのままお開きになったよ」



 どうやらパンドラの箱や事件については聞いていないようで、もう最終日だというのにまだ菫さんと末広さんから情報を得られていない。このまま聞かないで立ち去るつもりなのか。どうしてか僕は焦りを覚えていた。



 居間の時計が六時を報せると、廊下を歩く足音がちらほらと聞こえはじめる。「ああ、賀楽さんは相変わらず早起きだね。佐々木さんもご一緒でしたか、おはようございます」善太郎さんがまだ眠たい声で挨拶をしてきた。



 次いで着替えを済ませた野菊さんと末広さんが居間にやってきて、三人のお手伝いさんと松葉さんを除く全員が揃ったことになる。



「鼎先生の姿が見えないのですけど、どちらへ行かれたかわかりますか?」

「鼎君になにか用かな。もしかして体調が優れないとか? まあ、朝食前には戻ってくるよ。たぶん診療所にでも行っているのだろう」



 末広さんはタバコを咥えながら言って、火を付けようとしたところを野菊さんが彼の口からタバコを抜き取った。



「タバコはお控えになるお約束でしょう。松葉さんからもキツく言われているのをお忘れかしら?」

「控えてはいるよ。でもね野菊、流石にまったく吸わないというのも心労が募るものなんだよ。私を労うと思って堪忍してくれないか」



 懇願する姿勢に葛藤の末、タバコを彼の口に咥えさせた様子はちょっと微笑ましい夫婦像。こんなものを見せられては朝食前からお腹が膨れてしまう。



「朝食はもうすぐご用意できますよ!」



 千紗さんが一礼して元気に告げるとまた厨房へと駆足で引き返して行った。



 一服を終えた末広さんが、「そろそろ大広間に向かうとしましょう」彼の一声でその場の全員が彼に続き、決まった席順で大円卓を囲む。



 配膳途中で息せき切った鼎先生が姿を見せ、全員に深く頭を下げてから着席し、なんとか呼吸を整えようとしている。



これで全員が大円卓を囲んで礼儀正しく感謝の意を述べてから食事を始める。



 横目で鼎先生を覗き見るとどことなく心此処に在らずといった様子で、手に持ったスプーンでスープをゆっくりとかき回し、時折、思い出したようにスープを口に付けてパンを囓っている。



 いったい何があったのだろうかという好奇心を持ちつつ、あらかた全員が食べ終えるまで様子を伺っていると、彼女はおずおずと挙手をして、「この場でお話するのも気が引けますが、お伝えしなければならない事項が二点あります。よろしいでしょうか?」意を決した目付きで末広さんにお伺いの目を向けると彼は頷いた。



「早朝の散歩のついでに診療所へと寄っていました。賀楽さんに渡す薬を探していると、私の机の上にこんな置き手紙が」



 白衣のポケットから折りたたまれた紙を全員が見えるように開くと、『事件は篝家が起源であり、篝家にて完遂する』血が変色したような茶文字で書かれていた。



 この場の誰もが、正確には僕と善太郎さん以外が何の事だと怪訝に眉を潜ませた顔をする。誰一人として心当たりの無いその文章に一抹の不安を覚える篝家の面々。



「鼎君。その手紙がどうして診療所のキミの机の上にあったのだと考える?」



 末広さんがようやく閉ざしていた口を開いて問う。



「診療所はしっかりと戸締まりもされていました。それは私が今朝確認しています。それに付け加えるならば、私の部屋の鍵は合鍵も無く私しかもっていませんし、此方も施錠されていました」



 二重の密室をくぐり抜けてその人物は手紙を届けたということになる。それに事件の部分がハンバーグ事件を指していることは警視庁宛ての手紙と照らしても間違いない。つまり、篝家の人間が最後に殺されるという脅迫状とも受け取れる。



「警察に伝えますか?」

「警察は悪戯だと取り合ってもらえないだろう。鼎君、いちおう診療所に勤める者達に心当たりが無いか確認しておいてくれるかな。まあ、無駄だとは思うが聞いて損失になることもないからね」

「わかりました。そろそろ出勤してくる頃なので、全員に確認を取ってきます」



 手紙を白衣のポケットにしまい、僕に処方薬を渡してくれた。解熱剤と栄養剤だということらしく食後に飲むことを指導すると、「坂下賀楽さんは昨夜、大量の鼻出血と体調不良で私の部屋で休ませていました。現在、容態は安定していますが、どうかご無理をさせないよう医師としてお願いします」その場の全員に一礼して玄関へ。



 診療所へとこれから赴くのでしょう。



 しかし篝家に恨みがあるのであれば直接この家に投函でもすれば良かっただろうに、どうしてわざわざ専属医として働く鼎先生の診療所に、それも二重の施錠がなされている場所を選んだのか。犯人がそうする必要を感じたからだ。ではどうしてそう感じてしまったのか。僕が考えるべきことでもないのは確かだけど、その手紙の届け人の行動が引っかかって気になってしまっていた。



 ふと誰かの視線を感じて顔を上げると、その場の全員が僕を見ていた。



 何事だろうと大きく何度か瞬きすると、「どうして黙っていたの?」少し怒気を含ませた善太郎さんが珍しくも怒った表情で僕を非難した。



 篝家の人達も心配する視線で僕を見ていた。



「昨夜、急に鼻血が出てきて、それで鼎先生を起こしてもらって、看て貰っていたんです」

「その前から具合悪かったんでしょ。私が言いたいのはそっちなんだけどね」

「はい。ごめんなさい」



 体調を崩してもちょっと我慢しておこうと隠していたことを反省する。常日頃から善太郎さんは僕の体調を気遣ってくれていた。彼にとって僕は大切な商品で在るという自覚を持たなければならないのに、それを軽んじて勝手な判断の末が昨夜のような結果に繋がってしまったのだ。



 その後すぐに末広さんは菫さんを連れて仕事へと向かった。梶木さん達住み込みの給仕は掃除や洗濯等の家事があるとそれぞれ分担した役割を全うしに。残った僕と善太郎さん、そして野菊さんは顔を合わせてトランプに興じている。



 掛け金も刺激もない単調な作業は直ぐに飽きた野菊さんが、「お昼に美味しいものでも食べて最終日を過ごしたいわ。もちろん。体長優先ですけど」僕は、「はい。大丈夫ですよ」答えた。善太郎さんが車を出すと進言すると野菊さんは首を振って、「中野で楽しみましょう」ニッコリと微笑んでから支度をすると自室に戻ってしまった。



 僕達も一度部屋に戻ってから撤収の準備だけを整えてから玄関に向かうと、お洒落なスカーフを首元に巻いた野菊さんは洋装で待っていた。



「御夕飯は梶木さんたちが腕によりを掛けるそうなので、是非とも食べてくださいましね」



 三人並んで新井薬師でお参りをしてから哲学堂に着くと、なにやら物々しい雰囲気が周囲を警戒する警察官たち。これは何かがあった。善太郎さんは呼び止めるよりも先に彼は野次馬の群れに紛れていってしまった。



「落合さんの印象が定まりませんわね。もっと落ち着いた方かと思っておりましたのに、あれではまるで我慢の出来ない子供のよう」

「そうなんですよ。善太郎さんは事件が、特に人死にの事件となればああやって我を失ってしまうのです」



 ようやく見つけた頭一つ分高い善太郎さんの姿。何があったのか周囲の観衆達に聞いて周りながらより詳細を知ろうと警察官を捕まえるや、最初こそ警戒されて口を閉ざしている様子だが、直ぐにどうしてか何かを楽しそうに会話をしている。



 僕は善太郎さんがポケットから何かを取り出してさりげなく握らせた瞬間を見逃さなかった。大きさからして写真だと察せられる。それが僕の写真である可能性もおおいにあり、善太郎さんが警察官の肩を叩きながら此方を指さしている。



 隣の警察官は小さく此方に手を振るので、これは応援してくれる彼に応えるべく、上辺の笑顔を見せて手を振り替えした。



 飛び跳ねるような足取りで戻ってきては、「野菊さん。お昼は賀楽さんとお二人で済ませてください。どうやら殺人事件のようで、私は遺体が搬送されるまえに写真をどうしても撮っておきたいので、また篝家でお会いしましょう」早口で言い置いてまた跳ね飛びながら待たせていた警察官と共に哲学堂公園へと入っていった。



「というわけですので奥様、僕とお散歩の続きをしましょう」

「自由な方なのね」

「僕は慣れていますから。戦地で命のやりとりをしていたからこそ、今を楽しく生きたいのだと思いますよ」



 鍋屋横町まではバスで移動してから呉服店や洋品店、書店や文具店を見て回りながら楽しい時間を過ごし、少し早いが野菊さんの勧める蕎麦屋に入店する。平民には敷居が高い内装とお品書きの値段に僕の表情が無意識に引き攣った。



「さすがにこれは……、お高いですね」

「どうか遠慮なさらないで好きな物を注文してくださいまし」



 立ち食い蕎麦が十杯は食べられるのが安価で、僕の視線を追った野菊さんは、「せっかくですもの。遠慮されると返って失礼に値しますのよ」と言った。



 そこまで言われると変に遠慮するのも謀られる。だったら本当に食べたいものを厳選したのは天麩羅蕎麦。大衆蕎麦が十五杯は食べられる価格だ。これには満足されたようで野菊さんも同じ物を注文した。



 なかなか敷居が高い価格帯であるにも関わらず、それなりに客の入りがあるらしく、身なりからそれなりの稼ぎを得ている、こういう言い方はあまり好きでは無いけれど上級国民なのだろうと推察できた。



 蕎麦をすする音に交じって聞こえる憚る声量の話し声。その内容は人間ハンバーグ事件のようで、そっと耳を澄ませれば、「どうやら哲学堂近くでまたハンバーグが見つかったって話だ。さっき警察官がそう言ってるのを俺は確かに聞いたんだ」潜めてはいるが熱狂するような興奮が滲み出ている。「好奇心猫を殺すっていうだろ。面白がるなよ、明日は我が身なんて冗談でも笑えない」と返していた。



 あれ。善太郎さんはハンバーグ遺体には興味が無かったはずなのに……。気でも狂ったのだろうか。



 そういえばこの間、哲学堂付近の妙正寺川で猫の遺体が大量に浮いていたのを善太郎さんがわざわざ車を路肩に停めて聞いてきたのを思い出した。猫の死骸にそうとう気落ちしていた善太郎さんの印象の方が強かったのが印象的でした。



「野菊さんは猫お好きですか?」

「ええ、とても。飼ってみたいと末広に相談したところ、彼、猫が近寄ると……、ふふ、くしゃみが止まらなくなるのよ」

「そういう人もいるみたいですね」



 僕はあまり猫がというより動物全般が苦手で、どうして苦手なのか問われても、苦手なものは苦手としか自分の中でも明確な答えしか持ち合せていないから、誰もが納得もできない。猫の話題一つで笑顔になれる野菊さんの猫話を聞きながら相づちを打っていると、天麩羅を別盛りにした蕎麦が運ばれてきた。



 僕は温かいのに対して野菊さんは冷たい蕎麦。



 猫舌だと言って舌をチョロリと覗かせてお茶目な一面を見せてくれた。ズズ……、ズッ、という心地の良い音を立てて二人ですすっていく。海老、レンコン、白身魚の天麩羅を塩で頂いている間は頭からハンバーグの肉々しい話題の姿は霧散していた。

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