第8話 昭和二十八年十二月四日
篝家に滞在している間は野菊さんに付いてお喋りをしたり、撮影したりと仕事をこなしながら空いた時間で御屋敷を見て回った。時には善太郎さんと外を出歩きがてらに篝家についての聞き込み等してみたけど、パンドラの箱なる物に関する情報は得られず、返ってくるのは篝家を讃える大衆の声ばかり。
三日目の夕食時に僕は体調を崩し、一人自室で布団を被っていると、鼎先生がお粥と薬を持ってきてくれた。お粥には鮭の切り身が細かく混ぜてあり、鮭の塩味がほどよく、ゆっくりと冷ましながら頂き、薬も一緒に服用して膳を下げてもらった。
次に顔を出した野菊さんは唐突に謝罪をした。その理由については、この滞在期間で少し振り回しすぎたのかもしれないと自身に原因があることを謝られ、僕はそんなことはないという明確に断言する口調で伝えた。
「明日の夕方にはこの御屋敷を出て行きます。朝までにはなんとしても治しますので、野菊さんも見当違いな自責の念をお捨てになって、最後の日をどう過ごすか、どんな写真を撮りたいかを考えておいてください」
五十嵐さんには申し訳ないけど僕はもうパンドラの箱について、事件性と篝家を結びつける因果関係を探る仕事を半ば諦めていた。それは善太郎さんも同様で、何も見つからない。何も得られない証言。そんな得られない状況下で躍起になったところで暗中模索、見つかるはずも無い徒労に終わるとわかっているから。
それでも僕はこの家にやってきた建前の仕事とはいえ、それを真っ当したいという目標は持ち続けてこの三日間を過ごし、最終日には篝家の人達に悔いを残さない仕事をこなすつもりでいる。
小さく頷いてやっと少しの笑顔を見せてくれた野菊さんは、「おやすみなさい。賀楽さん」子供を寝かしつける甘声で囁くと襖をゆっくりと閉めた。締め切る最後まで僕の身を心配してくれる彼女の眼が印象的に脳裏に残り、しばらくは実家に居た僕といま居る僕を比較してどちらが家族として相応しく、理想的な在り方なのかなんてものに思いを馳せていました。
それにしてもたった三日で篝家とはだいぶ仲良くなれたのが喜ばしかった。
眠れぬ時間。過ぎて行く秒針が耳を伝ってどれくらい経過したでしょうか。まだ少々倦怠感が残り、関節の微痛を訴える身体に叱咤しながら身を起こすと、鼻腔の奥からトロリとした粘液が垂れる感覚も遅く、掛け布団からボタボタという音がした。
急いで鼻腔を摘まみながら布団から這い出て、それはもう芋虫のような無様な動きで、焦っていた僕は関節の痛みも忘れて小さな手持ち鞄を手繰り寄せ、取り出したタオルの端を鼻に押し込みました。
暗くても垂らしていたのが鼻血だということくらい直ぐに察しが付き、布団を汚してしまった罪悪感ともういい加減にして欲しいこの身体の欠陥に悪態をつきたい気分で、鼻出血が止まるのをそのまま壁に背中を預けながら座って待ち続けた。
いま廊下を出て誰かと鉢合わせれば僕は怪談話に出てくる幽霊や妖怪の類いに見えて驚かれてしまうかもしれない。ある程度血の流れが止まったように思えたのでタオルを抜き取って、壁から突き出した柱を掴みながら立ち上がる。そのまま壁に肩を押しつけたまま襖まで移動した。襖越しからは一切の物音は聞こえない。もう就寝してしまったのでしょう。
耳から拾える物音に意識しながら洗面台までやってくることができた。鏡面に立って洗面所の明かりを付けると、自分で自分の姿を見て飛び跳ね上がる寸前のところで留まり、寝間着の白襦袢の胸元は赤い点や伝った跡が幾つもある。顔なんて鼻下口周りはタオルで拭ったせいで真っ赤に染まっていた。
誰とも遭遇しなくて良かったとつくづく思いつつ、早く顔の血痕だけでも洗い落としてしまおうと水ですすぎ落としましたところ、背後で引き戸が開く音にハッと顔を上げて鏡面に反射して映る人物を凝視し、「え、えぇ!? ちょいと、大丈夫かよ」菫さんが素っ頓狂な奇声を上げながら僕に駆け寄って来ました。胸元の血といまだ洗面器を漂う血の渦を見て、「すぐに鼎のところに連れて行くから、ええと……、血は止まってるな。顔色が悪いけど歩けるか? ああ、その様子だと無理そうだな。うん、私にしがみついて。本当は抱っこやおぶれれば良かったけど、私も非力な女だからな。よし」言われた通りに彼女の細い胴に両腕を回して、菫さんもまた僕の肩に手を回してくれた。
こんな夜分に叩き起こされた鼎先生は嫌な顔一つせずに、自室のベッドに僕を横たえさせて、いくつかの問診や触診をしていく。まだ体調不良ではあるけれど多少は良くなった事を告げると今日はこのまま此処で眠るようにと言われた。
「私が起きているから、さあさあ、お姉さんが今まで寝ていたぬくいベッドでお休みなさいな」
笑って冗談を言う鼎さんに、「すみません。ご迷惑をお掛けしてしまって」それには、「んー、これも仕事のうちだし病人はまず謝らない。賀楽ちゃんの責任ってわけでもないんだし、ほらほら、寝た寝た」机の上に積み重ねてある医学書の中から一冊の文庫本を手に読み始めた。
「卓上ランプだけは付けさせてもらうけど、寝付けなかったら遠慮無く言うように」
頷いて天井を眺めながら目を閉じる。しばらくすると嗅ぎ慣れない、独特な香りが漂ってきて、「この匂い、いい匂いですね」深呼吸をするたびに気持ちが落ち着いてきた。
「今日は特別に少し値の張るお香を焚きたい気分なの。気に入ってもらえて嬉しいなぁ。これでよく眠れるはずだから」
目を閉じていればまるで自分は今、渡航したことはないけど異国の地にいるような錯覚。肩に力ばかりが入る医薬品の臭いに包まれた病室でも、遺体があった死臭や血生臭い事件現場でもない、清涼な花々と一面に広がる草原だけの世界を思い起こせる匂い。
僕はこの匂いに魅了されてしまっていた。
紙を捲る音とこの匂い。僕の現実はどこであったか忘却していく。世界に埋没しながら意識もまた従って心地の良い浮遊感というよりかは包み込まれて沈んでいく感覚を惜しいと思いつつも抗えない眠気に落ちた。
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