第7話 昭和二十八年十二月二日(3)

 野菊さんが眼を醒まされて僕達の前に姿を見せたのは、夕飯が大広間の大円テーブルに並べられた時でした。頭を抑えながら気分を悪そうに座ると、彼女の隣に座るスーツをしっかりと着た篝家当主、篝末広さんが四十代後半にしては少し若く見える柔和な顔つきに引かれた平均的な眉をハの字にして、「お客様の前で、それも野菊、キミが熱烈に応援している彼女にみっともない姿を見せて」窘める口ぶりで叱ると水を持ってくるように梶木さんに伝えた。



 席順は末広さんから時計回りに野菊さん、専属医の松葉まつばかなえさん、運転手の佐々木ささきすみれさん、今は配膳で席を立っている梶木さん、持田さんと大庭さんに続いて、善太郎さんと僕の順である。



 先程少しだけ挨拶をさせてもらったけど、末広さんを初め松葉さんはおっとりとしていて、佐々木さんは活発で男性的な性格をしている。僕達を笑顔で歓待すると一人ずつ写真を頼まれた。



小説で書かれるような名家特有の堅苦しさなんて微塵も漂わない、家庭的でみんな心に余裕のある落ち着きを有している。



「うぅ……、ごめんなさいね、賀楽さん。あまりに楽しい時間を過ごしながらお酒を飲んだものですから、いつのまにやら夢に落ちていましたの」

「お気になさらないでください、奥様。写真はいつでも撮れますので」



 善太郎さんに笑顔が不気味だと言われたのが尾を引き、微笑くらいに表情を形作って返した。



「写命館と言えば今や中野のみならず、広域に渡ってその名が知られた写真屋だと聞き及んでいますよ。先の大戦で中野は空襲を受け甚大な被害を出しましたね。しかし人々は立ち上がりました。日本国を再建するべく、私はそんな国民が誇らしく思います。腕利きの写真家と前例の無いジャンルで人々に活気を与えるモデル。写命館のお二人も私は誇りに思っていますよ。何より妻が喜ばしいことに、趣味と呼べるものを見出させてくれたことに感謝しています」



 末広さんのジャンルという海外言葉の意味はわからないけど、言葉の前後から考えるに死写体のことで在るのは間違いないはず。称賛の言葉をここまで惜しみなく頂戴すると少し照れくさく、善太郎さんは上辺な微笑みを常に浮かべながら、「篝家と文染家が爆撃を免れたのは、中野の人々にとっては幸いであり、両家は復興の象徴だったことでしょうね」なんて称賛を返しては末広さんを喜ばせている。



 松葉さんは野菊さんの体調を気遣わしく声を掛けたり、佐々木さんとの世間話で微笑んでいる。



 話に盛り上がっていると梶木さんたちが料理を運んできてそれぞれの前に配膳していく。賽子状に切りそろえたパンとビーフシチュー、彩りに見惚れてしまう野菜盛りとバナナにチョコレートソースをかけた甘味。



 梶木さんたちも席に着いたところで末広さんが手を合わせると皆それに倣って同じく手を合わせる。



 食事をするまえには感謝をするのが当たり前。



 いただきます。



 僕や善太郎さんは良家の食事作法なんて身に付けてはいない。流石に見様見真似で作法をすべて演じるのは無理がある。そう思っていたのに善太郎さんは気にすることなく、フォークでパンを一気に二つ突き刺してシチューに一度浸してから食べ始めた。



「え、善太郎さん。そんな食べ方でいいんでしょうか」

「知らないからね、堅苦しい作法なんて。見てみなよ、各々の食べ方で楽しんでいるんだし、気にしていては味気なくなってしまう。違う?」



 確かにその通りではある。それっぽい作法で食事をしているのは末広さんと野菊さん、松葉さんくらいで他の人達は自分たちが食べやすいように自己流で食べ進めている。



 善太郎さんに倣った作法で食事を始めた。



「松葉さん。少しお願いしたいことがあるのですが」



 佐々木さんや梶木さんと話していた松葉さんを善太郎さんが呼び、彼女はキョトンと一瞬だけ可愛らしい表情を見せると、「ええ、なんでしょう」短い髪を揺らした。



「ここに滞在させていただく四日間で、賀楽さんが体調を崩した場合は看ていただきたいのです。先程も少し体調を崩されていましてね、お医者様に看て頂けるのでしたら、私も賀楽さんも安心して滞在させられるので」

「もちろん。賀楽さんは何か持病などを患っていたり、アレルギー……、飲んではいけない薬剤などがあれば教えてください」

「助かります。食事が終わったら賀楽さんがその辺については話しますので」

「では、ゆっくりと私の部屋で伺いましょう」



 これは彼女にパンドラの箱について聞けというお達しのようだ。二人になれば少しは話しやすいからで、残る佐々木さんと一番有力候補の末広さんからはどう聞き出すつもりか興味があった。



 どの料理も洋食屋とは比べられないくらいに美味しく、この家に住む人達は全員が毎日食べていると思うと羨ましくもあり、やはり大衆から称賛される訳に納得できる。



 食事が済んで梶木さんたち三人が片付けを昼食時と同じように行い、それ以外の人達は部屋を出て行くなり、隣の居間のような場所でソファーに座ってくつろいでいる。善太郎さんは部屋へ戻り、僕はと言えば、「賀楽ちゃんでいいかな。私の部屋でお話を伺いましょう」子供に話しかけるような口調と態度で、手を引かれて松葉さんの部屋にお邪魔します。



 野菊さんと同じように洋室で窓際には白い机とその上には分厚い本がいくつも積み重なり、ここだけでなく壁際の書棚にもズラッと洋書だとわかるが、なんて書いてあるかわからない本がきっちりと整列してある。扉を入って左手にはベッドがあり、よく見慣れた病院で僕がずっと使っていたそれとそっくりのものが置かれていた。松葉さんは僕にそこへ腰掛けるように言うと、机からペンと紙を持って戻ってきた。



「人によっては使ってはいけない薬とかあるから、まずは問診をさせてもらいます。えーと、食べたら喉が痒くなったり身体に変調をきたす食べ物はある?」

「いいえ、ありません」



 こんな調子で親しい間柄だと錯覚してしまう絶妙な距離感で雑談を挟みながら問診は続き、ひとどおりのことを聞いてから頷いて、「賀楽ちゃんの原因不明の病気は私個人で断定はできないけど……、一般的な薬を服用しても問題はなさそうだね。気分が悪くなったらいつでもいらっしゃい」一瞬で子供っぽい笑顔に魅せられてしまった僕は、もう少し彼女と話がしたいという欲求が芽生えていた。



「松葉さんはどうしてお医者様を志したのですか。多くの人の命を預かる重責は僕が想像できるものでもないでしょう。しかし、日夜患者の様態に気を遣っていては心が疲れませんか。もう、辞めてしまいたいと投げ出したくはなりませんか?」

「そうだね。投げ出してしまいたい、私には荷が重すぎる。うん、確かに若い頃そんな事も思ったものよ。でもね、投げ出したところで私にはこの人生しか生きられないというのがわかっているから、私は生きるために、人を生かすの」



 言ってから、「若いっていっても今も若いつもりよ。まだ三十一なんですからね」苦笑して付け加えた。



「お医者様から見て、僕達のしている死者を演じて写真を撮る行為はどう思われますか?」

「医師会の中には批判的な声が大きいのは確かね。私個人的な意見では誰かを殺めているわけでもないし、亡くなった遺体を弄んでいるわけでもないのだから、私個人がどうこう思うところは無いわね。むしろ私も野菊奥様ほどでないにしろ、賀楽ちゃんを応援しているの」



 僕の写真も何枚か持っているようで、こうして二人っきりで話せるのが光栄とまで言われてしまうと僕も嬉しくなり、つい今回のお仕事を忘れそうになってしまう。



「パンドラの箱というのをご存じですか?」



 直球すぎた質問に松葉さんは天井を眺めながら考える素振りを見せた。



「パンドラ……、パンドラねぇ、何処かで聞いたことがある気もするんだけど……、でも日本では無かったかな。開けてはいけない箱のことよね?」

「詳しくはわかりませんけど、ちょっと興味があったもので。それより松葉さんは海外で医学を身に付けたとか?」

「オランダで医術を学んでいたのよ。大変だったなぁ、ナチスに占領されちゃったものだから、自分の命さえ危うかったわー。日本に戻ってきたのは終戦して直ぐ、甚大な被害を受けた中野にすっ飛んで救命活動に尽力していたら、ちょっと有名人になってね。だいぶ落ち着いてきた辺りで末広さんが後援者として小さな診療所を建ててくれたというわけなのよ」



 そこから篝家との縁が出来て、彼女の下で多くの医者を志す者達が技術を学び、いまは彼女に代わってその診療所を切り盛りしているそうだ。末広さんの願いで専属医として篝家に住み込んでいるという経緯を語ってくれた。



「松葉さんは末広さんのお気に入りなのですか?」



 そうでもなければ診療所を建ててもらったり、専属医として住み込みで働かせようとはしないのではないか。末広さんは松葉さんと多くの時間を共にしたいから彼女を招いたと邪推してしまう。しかしそれには首を振った松葉さんは、「末広さんがね、実は心臓が弱い方で」沈んだ声音で話した。



「なにぶん多忙な方だから余計に負荷を掛けてしまうのよ。ちなみにこれは世間も知らない事情だから、ね?」

「はい。わかっています」



 もう今は話すことも無いし長居をしては迷惑になるので、お礼を述べて松葉さんと別れた。廊下を歩いていると末広さんが向かいから此方に歩いてきて、「短い時間だけど野菊の我儘にどうか付き合ってやってください」一度足を止めて頭を垂れた。



「はい。そのつもりです」



 僕も彼に頭部を垂れると咲に顔を上げた末広さんの視線を感じて、僕もゆっくりと姿勢を戻して視線を合わせた。



「旦那様はどう思われますか、東京で起きているハンバーグの事件を」

「ああ、その事件ですか……。私としても参っていますからね。ハンバーグの売り上げが下がったなんて話も聞くくらい、人々の生活に影響を与えている。早く警察には解決してもらいたいものです」



 早期解決とこれ以上の被害者が出ないことを願う沈痛な面持ちで溜息を漏らした。被害者が篝家と縁のある人物達だと知っているはずだ。警察が世間に隠しているのは肉塊から出てきた心臓を収めた箱だけだ。氏名なんかは新聞に掲載されているはずだから、次の被害者だってある程度の推測はできるのではないか。



「被害者はどうして殺されなくてはならなかったのでしょうか」



 何も知らない一般的な、此方が探っている様子を悟らせない質問を口にして末広さんの眼をジッと見つめる。何一つ動揺も見せず、顎に手を当てて探偵を彷彿とさせる姿勢で唸ってから、「年齢も性別さえ統一の無い……、無差別殺人なのか、犯人と関わりがあったのかわからないが、私達は用心するしか術は無いよ。坂下さんも外出時は気をつけたほうがいい。こんな美しいお嬢さんだ、一連の事件以外でも変質者はいますから」そう言って一度軽く頭を下げると廊下の突き当たりを曲がって行った。



 被害者と篝家の繋がりを聞くことできず、かといって末広さんが隠しているような雰囲気は微塵も感じられなかった。となると野菊さんの関係者か。比較的まだ冴えている頭で思考の負荷を掛けながら善太郎さんの部屋に向かった。



 襖の向かい側では二人分の声が聞こえる。



 善太郎さんと佐々木さんのようで、もしかしたらパンドラの箱について早速調査しているのかもしれない。ここは邪魔をしてはいけないと一度自室へと戻ることにした。

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