第6話 昭和二十八年十二月二日(2)

 なんとも豪勢な彩りのある食卓であり、ここまでの品々を実家で暮らしていた頃にも食べたことがない物ばかりでした。



 見た目の繊細で淡い色合い通りの、言い方は少し品が無いものになりますが薄味より薄く、ついに味覚にまで症状が出るようになったのかと錯覚に囚われた不安な気持ちで、隣に座る善太郎さんを盗み見ると、取り繕う笑顔とここまでくると嘘くさい盛りに盛った賛辞の言葉の数々。実際のところがどうなのかは彼しか知り得ない。



「賀楽さんはまた具合でも悪いのかな。箸が進んでいませんが、食べないのなら私が頂いてしまっても?」



 笑みで細めた瞼のわずかな間隙から覗く黒々とした眼は笑っておらず、いま何を考えているのかさえ僕程度では見抜く術もない。



「いいえ。あまりに美味しいものですから味わって食べたいので、善太郎さんは自分の分を食べたらご馳走様をしてくださいね」

「あら。言ってくださればおかわりもまだ、たんとありますからご遠慮はなさらないでくださいまし」



 気遣ってくれた奥様に後頭部へ手を回しながらヘコヘコと頭を下げては、「大盛りでいただけますか?」空いた手で茶碗を持ち上げて見せた。



 奥様の隣が空席でその二つ隣で食事をしていた洋装の男性がわざわざテーブルを回って善太郎さんから茶碗を受け取ると、一度部屋を出てしばらくして米を山盛りにした茶碗を届けた。これには奥様も、「梶木さん。流石に限度というものがあるでしょうに」呆れて笑い、持田さんと大庭さんも興味津々に完食できるかどうかを賭けている。



 この家での食事は談笑をしながらするのが流儀らしく、身分の差など感じさせないこれまでの日本の食卓とはかけ離れたものでありました。



「午後からは賀楽さんと過ごしたいのですけど、宜しいですか?」



 奥様が少し緊張を含ませた声で僕と善太郎さんを交互に見て聞いた。



「そのために四泊させてもらうのですから。私は部屋で少し調べ物が在りますので、写真を撮られたい場合はいつでも呼んでください。最高の写真を提供させていただくのが、写命館の流儀ですから」



 へりくだった調子で崩さぬ笑顔のまま山盛りの白米を掻き込んでいく。善太郎さんの食欲に呆気にとられる僕達に一切の関心を向けることなく平らげてしまった。僕達が食べ終わるまで席を立たない善太郎さんはいつもそうだった。食事が遅い僕が食べ終わるまで、どんなに忙しい時でも席を立たず話し相手になってくれる。



 本当に普段の言動や挙動を見ている限り元軍人であったなんて到底信じられるものではない。



 片付けは梶木さん達が率先してテキパキとこなしていく。



「実はですね、賀楽さんから奥様に贈り物があるそうなので一度それを部屋まで取りに行ってから向かわせますよ」



 はてなんのことでしょう、と善太郎さんを見上げて視線で訴えるも届かずに、「グラスをご用意しておいてください」恭しく頭を下げた。



「まあまあ! 気を遣わせてしまって、賀楽さんから贈り物を頂けるなんて、部屋で首を長くして待っていますわね」



 また飛び跳ねそうな勢いで喜ぶ奥様はクルリとスカートを翻して大広間を出て行ってしまった。



「さあ、私達も一度部屋に戻って準備をしましょうね」



 背に手を回されるとどういった力が働いたのか僕の身体は簡単にクルンと半回転した。



 そのまま二人で善太郎さんの部屋まで戻ると鞄から一本のウィスキーを取り出して僕に手渡した。どうやらこの銘柄のお酒を奥様は好むようで、酔わせて口が軽くなったらパンドラの箱についてさりげなく探りを入れてくるようにと言われた。



「大庭さんはパンドラの箱については何も知らないようですよ。持田さんからは何かは得られましたか?」

「同じく何も得られなかったよ。まあ、私達の聞き方が悪かっただけかも知れないけど、箱に関して心当たりなさそうなのは確かだろう。後は奥様と旦那様、それとまだ姿を見ていない二人に限られるけど、口を開き易いのは賀楽さんに惚れ込んでいる野菊婦人だから、しっかりとお願いね」



 ウィスキーを胸に抱えて部屋を出ようとすると、「いつも通りの賀楽さんで居ればいいんだよ。それが成功のコツさ」背後の声援に押されていざ奥様の部屋へ。



 一番初めに挨拶をした時は部屋の内装までは見えず、招かれてようやく全体の、近代的な彼女の衣装にシックリとくる落ち着いた洋間とそこを飾り付ける豪奢な品々。しかしお金に物を言わせてあれこれと手を出した無節操なものでなく、部屋に適した物を適した最小限の数で客を魅せてもてなす、日本の奥ゆかしさを残した落ち着きのある部屋でした。



「奥様は此方のお酒を好まれるとお聞きしましたので」



 善太郎さんが用意していた酒瓶をまるで高価な代物を扱うような仰々しく受け取ると、「此方に掛けて頂戴。楽にしていてね。賀楽さんは飲めたりはするのかしら?」テーブルには二つのグラスが用意されていたけど、僕はお酒を飲んだこともなく、かといって彼女の誘いを断るのも気が引けたので、「少量であれば飲めますよ」嘘を塗りつぶせそうな微笑を摸した表情で頷いてみせた。



 対面のソファに座ると一気に身体が沈み、思わず声を上げそうになってしまう。何事もなかったのを装いながら座り直す。氷で冷えたグラスを持ち上げると、奥様は黄金色の液体を少しずつ僕のグラスに注いでいく。これはお返しをしたほうがいいと判断して今度は僕が彼女のグラス半分まで注いだ。



 軽く触れ合わせる乾杯をしてからグラスの縁に口を付けようとして動きを止めた。薄く引いた紅がグラスを汚してしまうかもしれない懸念を汲んで、「気にしないでいいのよ。わたくしはいつも紅をグラスに色づけしておりますもの」見本を見せるように軽く傾けて、おおっぴらに露わにする白い喉は上品に蠕動した。



 全てが見様見真似で彼女の仕草を真似て口を付けると、鼻腔の奥を刺激するこれまでに嗅いだことのない臭いにむせ返りそうになるのもグッと抑え、なるべく呼吸を止めて恐る恐る舌を潤す微量を含んだ。



「結構お強いといいますか……、刺激的でずっしりとした味わいなんですね」

「ウイスキーは初めてのようね。日本の酒なんかより酔える代物なのよ。酔えば心地良く、何もかもを忘れさせてくれる奇跡の飲み物」

「何か忘れたい過去がおありのようですね」

「聞いてくださる?」

「はい。僕でよければ奥様のお話をお聞かせください」



 篝野菊。旧姓、篠田野菊は東京下町で富裕層の出自のようで、子供の頃から厳しい躾と薄ら寒い家族愛、団欒と家族で食卓を囲む一般家庭の様子を外から眺めてはいつかは自分もこの生活から抜け出してみせると健気な想いを胸に、六年前に篝家の当主にして野菊さんの旦那さん、かがり末広すえひろ氏と運命的な出会いを果たした。出会いから結婚までを僅か三ヶ月。温かな家庭を手に入れても二人は子宝に恵まれず、理想とする家庭像を実現できないでいたようだ。孤児だった持田さんと大庭さんを迎え、二人を我が子同然に可愛がり、奥様の心の隙間はようやく埋まるも、しかし、実の子がいないという寂しさや劣等感は完全には拭えないようだ。



 二ヶ月前に僕が死写体として活動しているのを耳にした奥様は、わずかな隙間を慰めるべく趣味の良いとは言えない写真、つまり僕を見て一目惚れをしたという。



「賀楽さんの美しさはわたくしの孤独や卑しい劣等感を埋めてくださったのよ」



 何杯目か。ウイスキー瓶も半分まで減らして顔を紅潮させる奥様はとても幸せそうに、トロンとした眼をして身を乗り出して顔を近づけると、「どうして賀楽さんはこんなにも人世の者とは思えない美貌をしていて、このまま老いに任せて劣化させるのは惜しいわね」酔っていて思考が変な方向へと回転しているようで、「飲み過ぎましたね。奥様」僕もようやく注がれた一杯を飲み終えると、顔が少し熱くなってきていて、頭もポウとしていた事に気が付いたのはパンドラの箱について探りを入れるように言われたことを思い出した時。



「篝家には何か大事な物をしまっておける箱はございますか?」



 身を引いてからしばらく考える素振りを見せてから、「金庫であれば確かに篝家にはありますわね。何かしまって起きたい貴重品がございますの?」頬を紅潮させてテーブルに両肘を付いて身を支える姿勢で問う。



「ここまでの御屋敷ですから。貴重品や隠しておきたい代物とかがありそうでしたので」

「常に使用人数名が在宅していてくれるのよ。物盗りの心配なんて不要よ。そう、そんなことより賀楽さんと記念の一枚を撮りたいわ」



 ここまで酔っていてポロリとも漏らさぬのであれば奥様も知らないのかもしれない。僕は少しだけ立ち眩みを耐えてから善太郎さんを呼びに行くと伝えて部屋を出た途端、倦怠感と動悸に見舞われ、これがいつもの症状によるものかお酒によるものか判断が付かなかった。胸を圧迫する息苦しさからその場に座り込むとゼェゼェと酸素を取り入れるべく意識してゆっくり呼吸を繰り返す。



 ギュッと目を瞑り、早く回復するように祈っていると身体を激しく揺さぶられ、遠く聞こえる声に意識を傾ければ、「賀楽さん! しっかりしてくださいよ!」目を開けて顔をゆっくりと持ち上げると善太郎さんが心配した顔を作っていました。



「大丈夫です。いつもの……、ですから。それより」



 奥様が写真を撮影してほしいという要望を伝えて背中を預けていた彼女の部屋に声を掛けたけど、返事は無く、襖を少しだけ開けて、「失礼します」顔だけを覗かせて室内を見渡せば、ソファーに深く腰掛けて居眠りをしている姿があった。



 お酒で気持ちよくなってそのまま眠ってしまったのでしょう。このまま寝かせておいてあげようと僕は顔を引っ込めてそっと襖を閉じた。善太郎さんに事情を説明して一度部屋に戻ることになった。



 フラつく足取りで善太郎さんに支えられながら廊下を歩き、途中の厨房では梶木さんと持田さんが夕餉の支度に取りかかっていて、その場に大庭さんの姿はなかった。



「この御屋敷に使用人は五人だけのようだ。料理長の梶木さん、掃除や補助の持田さんと大庭さん、女性運転手の佐々木さん、女性医師の松葉さんの五名。佐々木さんはいま末広さんの送迎、松葉さんは医薬品の調達ついでに知人宅へ診察に出ているようだ。夕飯時には篝家の全員と顔合わせできるみたいだから、そっちにも聞き込んでおくよ」



 パンドラの箱については御屋敷を歩き回ってみたけどそれらしき物は見つからなかったそうで、善太郎さんもこんなに簡単に見つけられると思って探していないので、これから細部まで探す様は物盗りのようだと冗談ぽっく笑った。

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