第5話 昭和二十八年十二月二日

 中野区鷺ノ宮にある篝家は江戸明治大正を経て受け継がれてきたお屋敷をグルリと囲うお堀の壁の広大なこと。上高田に居を構える文染家と中野の双璧として君臨して持て囃されている。



 焼き増しした写真やカメラを鞄に収めただけの身軽な善太郎さんに並んで、空いた両手をユラユラと小さく揺らして歩きながら左手側を続く壁面を眺めていたりしていると、僕と同い年くらいの男女が正門から姿を見せた。「写命館の落合善太郎様と坂下賀楽様でいらっしゃいますね」少女が言うと、恭しく二人は頭部を垂れて僕達を迎えた。



 二人は篝家で住み込みのお手伝いをしているそうだ。男性が持田もちだ祐介ゆうすけ、女性が大庭おおば千紗ちさと名乗り、初めの挨拶とは打って変わって気さくな態度で迎えてくれた。



 御屋敷の玄関口から左右正面と伸びる廊下には幾つもの障子で隔てた部屋があって、初めに挨拶に向かう篝家の奥方、かがり野菊のぎくさんの居室は正面突き当たりを右に折れて二番目の部屋。



 大庭さんが襖越しに写命館の到着を告げると、部屋の中からトントンと軽い足取りが此方に近付いてゆっくりと襖が開かれた。



「篝家にようこそいらっしゃいました」



 とても若々しく巷で噂通りの綺麗な人でした。背の高い善太郎さんより少し低いけど女性の平均よりは高く、丈の長いスカート姿の洋装を着こなす彼女の胸元には豪奢な赤いブローチが留まっている。



「わたくし、賀楽さんの大ファンですのよ。この間の新作も妖美ようびなどと仰っては失礼かしら。それくらいに感動したことを伝えたくて、気を悪くなさらないでね」

「奥様に満足していただいて気など悪くしませんよ。一緒に撮影された時は、とても美しい女性だったので表情が緊張で強張ってなかったか心配で」



 話の矛先を善太郎さんへ投げると、鞄から現像した僕と奥様の写真を取り出して彼女に渡した。



 嘆息をもらしながら恍惚と細めた眼で隈無く写真を眺めながら、子供の様に細い足でトントンと床を鳴らした様子が可笑しくて……、別に悪い意味ではなくて、ここまで喜んでくれると一緒に撮った甲斐があったと僕の方も嬉しくなる。



「お世話になりますこの四日間で、賀楽さんを奥様にお預けしますのでどうか撮りたい写真やお考えがあればご相談ください」



 愛嬌のある笑みを作った善太郎さんが言うと、これまた奥様は大いにはしゃぎ、「いつもの死写体もいいのですけど、生憎と篝家には人が亡くなった場所もないもので、実は賀楽さんとの家族写真……、いえいえ、つまり親子のような、普段の彼女が撮らない写真をお願いしたいのですけど宜しいかしら?」

「ええ、ええ、問題なく。ただ賀楽さんは普通の子供のように笑うのが苦手なもので、この間、きっと彼女の中では自信の在った笑顔だと思うのですがね、向けられた私は余りに不自然で不気味な笑顔だったんで、思わず薄ら寒く頬が引き攣ったほどです。それでも良ければ私はカメラを構え、最適の親子を撮影させていただきますよ」

「まあ、嬉しいこと! 賀楽さんも下手に演じなくて、普段通りにしていただいて構いませんからね。ええと、落合さんで宜しかったですよね。私と賀楽さんが一緒に居て自然な瞬間をカメラに収めてくださいましね」



 挨拶もその辺で済ませると、大庭さんと持田さんに僕と善太郎さんが借りる一室を案内するように言い置いて襖を閉じてしまった。



 この後の予定は二人が知っているようで、廊下を歩きながら簡単にそのことについて聞いておく。案内された部屋は二部屋、どうやら僕と善太郎さんは向かい合う別部屋らしい。ここまで広大な御屋敷でわざわざ男女・・を同じ部屋に泊めるのも可笑しな話でもあるから配慮に甘んじておく。



 いったんは部屋にそれぞれ引っ込んだ。七畳部屋の中央には大きな丸い卓が在って座椅子が向かい合わせに置かれている。障子を嵌め込んだ窓から裏庭の池や手入れのされた花々が眺められるのは、まるで旅館のような造りでした。



 壁や天井から突き出した大木の梁や柱の艶なんかも見ていて飽きが来ず、それに背を預けて座り込みながらしばらくは窓の外を眺めていると時間の経過も忘れて、僕の寿命が自然と気付かぬウチに尽きて一つの作品となっている想像に少しだけ身がゾクリと震えました。



 この先長くはない命はいつまで保つのだろう。どういった瞬間に死ぬのだろう。痛みや苦しみに苛まれながら惨めな姿だけは晒したくない。だからといってこういった死に方なんていう希望もあるわけではないけど、ただ一つ、願うことならば、安らかな眠りのなかで天寿を全うしたい。



 はたしてその安らかな眠りが善太郎さんにとって追い求めている死を演出できるかはわかりません。この命を誰かに喜ばれるものでありたいと願うのは、産まれたときからこの身体を嘆き疎み、あげくには助からない原因不明の病気と知るや、世間の眼から隔離するように病院へ閉じ込めたのが最たる原因だとこれだけは言い切れます。



 だからといって両親を恨んでいるかと聞かれればそうでもなく、僕の秘密を隠しながら育ててくれた事には感謝をしています。だけどやはり、少しだけ、本当に少しだけ、もう叶わぬと知っていても、一握り分でもいいので愛情を注いでもらいたかったと渇望してしまうのは子としての欲求に他なりません。



 いつもどう接して良いのか判らない母の顔。我が子として見れないと嘆いていた父の顔。目を閉じて両親との記憶を彷徨ってみてもそればかりが鮮明に浮かび上がり、それ以外の顔を僕は知らない。



 ふぅ、と溜息を漏らすと、「どうかなさいましたか?」茶器を乗せたお盆を保った大庭さんが、「失礼しますね」と襖を開けた。



「御免なさい。何でもないの」

「そう……、ですか? ご気分が優れないときはいつでも仰ってくださいよ。滞在される四日間は私が専属としてお世話をさせていただきますので、遠慮されずに何でも申しつけてください」



 同い年くらい。年相応の咲いた笑顔。屈託も理屈も何もない純真無垢で素直な心から見せられる温かな笑顔。これ以上はもう考えるのは辞めておきましょう。彼女のこの笑顔を曇らせたくはないから。



「大庭さんは幾つですか?」

「私は十五になりました。この間、奥様からお祝いの品としてレースのハンカチを頂いちゃったんですよ」

「それは、おめでとうございます。野菊さんはお綺麗で優しそうな印象を持ちましたが、本当にお優しい方なのですね」

「はい、そうなんですよ。お優しくてお綺麗で、私達のような下働きの者に対しても気さくに家族同然として扱ってくださいます。本当にこの御屋敷にご奉公できたことが私の人生の岐点だったと思えます」

「ここに来る前はどうしていたのですか? 本当のご家族は」

「戦争で亡くしました。孤児なんです。持田君も同じ境遇で直ぐに意気投合して、年齢も私の二つ上ということもあって兄妹のように接しているんです」



 持田さんは僕と同い年ということになるのね。



「賀楽さんって本当に綺麗……。ああ、ごめんなさい。つい見惚れちゃって。同じ女性として羨ましいくらい」

「顔は良くても中身は腐っていますよ僕は」

「あはは! 賀楽さんがご冗談を言えるのは知りませんでした。それで、中身の何処が腐っているのです?」



 身を乗り出して興味津々と示してくるので、「世間をはばかたぶらかす魔性……、ですかね」なんとなく自己分析してみて答えると、大きな音を立てて手を叩きながらコロコロと笑う大庭さんの喉がグルゥと鳴ったのには僕も吹き出しそうになるのを抑え、「一つお聞きしても?」少し距離が縮まったので、本来の目的を探る。



「篝家に箱はありますか?」

「箱……、ですか。そうですねぇ、色々な箱はございますけど、たとえばどのような箱を?」

「特別な物をしまっておける箱?」

「となれば金庫があります。あまりの重量で私では運べないので、保管しておきたい物があるのならばご案内しますが」

「ううん、大丈夫。ちょっと聞いてみたかっただけですから」



 含みを持たせて聞いてみたけど大庭さんはパンドラの箱については知らないようだ。彼女の素直な性格であれば心当たりがあれば僅かに表情から見て取れると思ったからで、もしかすると僕の聞き方が下手だったのかもしれないけれど……。



「もう一つだけお聞きしてもいいですか。篝夫妻に子供はおられないのですか?」



 この質問には閉口して顔色をみるみると変えて言い難そうな様子で、これはなにかあるのだろうとは思いつつも、彼女に踏み入って聞くのも少し可哀想なので別の話題を思案する。



「世間で賑わっていますよね」

「賑わい?」

「そうです。人間ハンバーグ事件と言われる真っ当に異常でこれまでに類を見ない殺人事件なんですけど、ご存じなかったでしょうか。存じ上げなくても問題はありません。僕もここ最近まで存じませんでしたから。中野に住んで二ヶ月経つというのに無知で恥ずかしい限りです」

「人間の身体をもの凄い力でグチャグチャにして固めた上に切断した頭部を乗っけるっていうアレですか? 確か……、御屋敷の近くの雑木林でそんな遺体が見つかったなんて、お聞きしました。とても怖いです」

「はい。そのアレですよ。流石に僕はあの死写体は演じられませんし、善太郎さんも興味が惹かれない様子でしたので、不謹慎を承知で申し上げてしまえば、もっと人の激烈なまでの嗜虐的趣向を刺激する事件であれば宜しいのに。話題性があるだけで人を魅せるだけの価値も無い作品だと、そう思いません?」

「過激な発言をするんですね、賀楽さんは。でもそれは本心ではない気がしますが」

「信じるも信じないもお任せします。ただ、少し楽しい話をしたいと考えての話題だったというのは本心なんですよ」



 普通の人はこんな話題で楽しめるかは定かではないですけど、彼女の先程までの頑なに固まった表情が緩んだだけでも話した甲斐があったというものでしょう。



「賀楽さん!」

「あ、はい。何でしょう」

「一つお願いがあります。不愉快と感じたならば不躾で身の程も弁えない小娘の戯れ言と聞き流して構いません。私は同性の近い歳の友達という存在がいません。この四日間だけでも私を友達として接してはもらえませんか?」



 なんとも可愛らしいお願いだろうか。誰が不愉快に感じるというのか。僕は大庭さんの肩にそっと手を置くと、ビクリと一瞬だけ肩に力が入ったのを感覚しながらも、彼女にジィッと視線を合わせれば、もう逸らすことの出来ない、諺を用いれば蛇に睨まれた蛙。そこがまたちょっと意地悪したくなる弱者の魅力というもの。



「お友達でも姉妹でも、大庭さんの望んだ関係を築きたいです。僕もね」



 肩から首筋を伝って頬へと手を滑らせていき、プニプニと若々しい弾力のある本物の女性の頬をプニィと摘まんでみてはどこまで伸びるのかしらと試したくもなる。



「あの……、賀楽さん。ちょっと痛いです」

「僕はまだ生きていますし、遺体になるのはまだ先ですよ。それとも死写体としての遺体を演じて欲しいのですか?」

「言葉遊びが過ぎますよぉ」

「ごめんなさい。ついからかいたくなる……、うーん、そういう気質なのかもしれませんね、大庭さんは」

「酷いですよぉ、賀楽さん」



 死んだらこうして他者と触れ合えなくなるのなら今は少しでも他者に触れて、その温もりを、命の熱を感じていたいと思うのはなんら不自然なことでもなく、生きることを諦観して冷め切った僕の心を温めてほしいから。



 向かい側の部屋の襖が開く音がして、「賀楽さん。そろそろ昼食の用意が出来るみたいですから食べに行きましょう。名家の食卓事情を堪能する好機だ」善太郎さんにどういった思惑があってか、いつもより少し大きな声で呼びかけてきた。

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