第4話 昭和二十八年十一月二十六日

 かんざし一本の為にいくつもの露店を梯子してようやく求める一品を見つけた頃には、正午を回っていました。なかなか見つからないかんざしに別の物にすると諦めたことを告げると善太郎さんはそれを良しとせず、まだ時間があるのだからもう少し探そうと言って聞かない頑固者でした。



 日本橋ともなれば中野とは比較のしようがないくらい多くの人でごった返し、人酔いしそうな圧迫感に晒されていましたが、しっかりと僕の手を握って人垣を割って進んでくれる善太郎さんのお陰ではぐれることもなければ体調を崩すこともなく、こうしてお気に入りのかんざしを予備分も含めて二本を購入する、というのは正しくなく、これは善太郎さんから贈り物として買って頂き、無事に手に入れることができたのです。



 何度もお礼を申し上げる僕に手を突き出して遮るや、二人して鳴らすお腹を満たすために当初の希望を叶えるべく洋食屋に駆け込みました。お腹の気分に従って僕はハンバーグと決め、善太郎さんはと言えばギリギリまで悩んだ末にライスカレーとコーヒーを頼んだものの、まだメニュー表を凝視しながら、「私もハンバーグにすれば良かった」後悔先に立たずといった風に落胆したかと思えば、店内をグルリと見渡して、「チラホラと熱烈な視線に気付いているかな?」声をひそめて言った。



 いつものことなので気に留めてもいませんでしたが、確かに周囲のお客さんは僕へ視線を送っているようで、目が合うと気まずそうに一度逸らしてからまた此方の様子を伺っているようです。一度気になり出すとなかなか意識から外すというのも難しいもので、何度か同じ相手と視線が合うとどうしてか此方が申し訳ない気分になってしまうのも妙な話で。



 注文をしてからしばらく、店内も中々に込み入って談笑のさざめきに耳を傾け、ようやく料理が運ばれてきたのは四十分後のことでした。空腹に抑えが利かない食欲に従ってさっそくハンバーグを細かく切り分けてその一つを口に含めば、そのお肉の旨味とソースの酸味に頬が内側から餅のように膨れていくかのようで堪りません。もうこの瞬間に視線のことなど何処かへと置き去り、空腹が満たされていく味の興奮と食欲に浮かれていました。一切れを善太郎さんのライスカレーの上に乗せて差し上げると、子供の様な満足気に笑いながらカレーと一緒にスプーンで器用に食べた。



「ハンバーグライスカレーというのも美味しいな。いや、これは驚いた。こんなに美味い食べ方があったとは」



 ライスカレーとの絶妙な相性に舌鼓をここまで打たれてしまうと僕としても気にならないわけもなく、隙在りとばかりに善太郎さんの皿から少量のカレールーを拝借、ハンバーグに掛けてから頂くと、思いもしなかった味の変革に驚きも隠せない。青白い肌にも活力の血色が滲み出しそうなほどで、これは新しい商品として売れるのではないだろうかと考えたりもした。そうなるとライスカレーとハンバーグの単体価値が無くなってしまうという結論へと至った。



 善太郎さんが隣の席にいたお客さんが残していった新聞へと手を伸ばした。写命館では新聞は取っておらず、ラジオも無いので世間事情は他人から聞くか、このように捨てられた新聞から得ているようで、いつも殺人事件に関する記事だけを読めばもう用済みとなるのです。



「また例の殺人事件が大々的に報じられている。犯人の欲求は底知れないな」

「例の殺人事件……、ですか?」



 新聞も外聞にも疎い世間離れと体よく表現してみたが、ただの無知の僕には何の事だが全くわからず、ただただ首を傾げながらハンバーグを咀嚼して飲み込む反応しか示せない。善太郎さんの視線が僕から僕のハンバーグへ落とされたのは、ハンバーグが欲しいからでないことはその目付きをみれば直ぐに察せられる。



「賀楽さんには相応しくない死だよ」



 ニィと両端の口元を上げてから意地悪する調子で、「私達が探りを入れる事件なんですよね、これは」五十嵐さんから受けた依頼に関することなのでしょうけど、それについての詳細を話してくれないのはどうしてか。最後の一口を名残惜しそうに食べ終えると新聞を折りたたんでテーブルの端に投げると、「人間ハンバーグ事件だからね」軽い調子で言った。



 配慮してくれていた心遣いは嬉しいのですが、僕はそういった内容で気分を害するようには出来ていません。しかし周りはそういう訳にもいかなかったらしく、一番近くに座っていた男女の二人組が此方を先程とは違う視線で表情を引き攣らせていました。



 反省の色も見せずに彼等へと頭を下げた善太郎さんは、「ここでは事件の内容を口にするのは憚られる。一度帰ってから聞かせようか」いつの間にかライスカレーとコーヒーも空になっていた。



 会計を済ませて近くに停めた車に戻り写命館へと帰宅した。



 店内を二人して素通りするのも久しぶりな様な気がして、二階の居間でソファーに腰を落ち着かせてから、「人間ハンバーグ事件とはどのような事件なのですか?」湯飲みに茶を注ぎながら聞くと、「戦後にも珍しい、これは痛快愉快、胸くその悪い猟奇的な怪事件のことさ」眼をグルリと回しながら妙な節を付けて言った。



 人間ハンバーグ事件。



 ハンバーグに足りない肉に人肉を用いたのだろうという僕の予想は見事に外れ、頭部を除いた身体をグチャグチャに潰して成形した肉塊の上に頭部をパセリのようにそっと添える事件が二ヶ月前、ちょうど僕がこの店で死写体として働き始めた頃から起きていたようだ。その姿形を想像するにハンバーグより鏡餅の方が近い気もしなくもなく、人間の肉でハンバーグを作るからそのままそう呼ばれているのでしょう。



 二ヶ月の間に三件……、先程の朝刊新聞に載っていた一件を含めて四件目とのこと。初めは新宿区高田馬場の神田川沿いに立つ雑居ビルとの狭い間。二件目は練馬区豊玉の民家の庭。三件目は中野区鷺ノ宮にある小さな雑木林。そして四件目は杉並区にある学校の教室で。



 僕の知らないだけでこれだけの事件が身近に起きていた。少しは世間様にも耳を傾けてみようと心掛けたつもりでいておく。



 一つ気がかりな点を上げればこれらの事件が篝家に関することなのだろうということ。もちろんこれから善太郎さんの口から語って聞かせてもらえるのだろうけれど、そのパンドラ箱という災厄が関係しているのは間違いなさそうでした。



「ハンバーグに整えられたそれぞれ肉塊ひがいしゃの中から一つの箱が出てきたそうだ。なんとその箱の中には心臓が入っていて、まるで……、その、なんといえば言いんでしょうね。パンドラの箱に残った最後の希望を表しているかのよう……。あっ、ちなみのこの情報は世間では知られていない、五十嵐さんが極秘をポロッと酒に溺れて漏らしたのを聞いただけだから、くれぐれも口外はしないよう。後で私がどやされてしまうので」



 頷いた僕は疑問を提言させてもらいます。



「この事件、どうして人間をハンバーグ状にして殺すのでしょう。それにわざわざ箱に被害者の心臓を収めてまでの手の込みようといったら……。それだけではありませんよ。警察への匿名の手紙、あれも僕には不可解です。パンドラの箱と言いましたか? 篝家を臭わせる内容、犯人は自分が捕まる覚悟で猟奇事件を引き起こしてまで篝家の何かを暴かせようとしているように思えませんか?」

「だから私達が派遣されるわけなんだよ、その篝家にね。犯人の思惑についてはどうでもいいのですが、私的にも篝家はなにやらキナ臭いとは思っているんだ」

「元憲兵の勘というものですか?」

「憲兵に在籍していたのは一年ほどで、その後は終戦まで戦地を元気に邁進の日々だったなぁ」



 終戦八年の時間は国や人々もだいぶ復興して次代を手探りながらも生きている。しかし目の前にいる落合善太郎という男は死に固執し、理想の死を追い求める亡者であることを良しとし、戦後を逞しく生き抜こうという気概は感じられない。



「篝家の評判は誰に聞いても口を揃えて賞賛一色。不自然なくらいに潔白過ぎる気がしてならない。ただの杞憂であれば何ら問題もないのですが、無いとも言いきれない。蓋を開けてみれば真っ黒に蠢く何かが身を潜めているかもしれないわけですよ。なにより臭うのは本家の方かな」

「世間は騒然として盛り上がりそうな話になりそうですね」

「世間が騒ごうがどうなろうが私達には関係は無いね。写真家と死写体には特に。話題性に篝家から死人でも出てくれば、大衆は賀楽さんの新作の予感に熱狂すること間違いなしで、私はそっちに期待していますから」



 こんな具合に一般的な倫理観をなくしてしまった善太郎さんに反論せず、ええ、そのとおりと賛同してしまう僕もまた間近に迫る死に諦観して無意味な荷物を何処かに置いてきてしまったことでしょう。



 僕はこの時、心の何処かでもっと多くの死が生み出されてしまうのではないかという予感がしていた。

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