第3話 昭和二十八年十一月二十五日(2)

 練馬区の死写体撮影を終えたのは夕暮れだった。



 現像作業に取りかかるべく車を走らせて写命館へと戻る最中、善太郎さんは先程から溜息ばかりついては、「恩返しだから報酬も支払われないんだよ。わかってますか、賀楽さん。あなたに脅されなければ断っていたところだよ」そんな泣き言をもう何度も耳にしてタコが出来てしまいそう。



「ええ、存じていますよ。聞けば善太郎さんの少ないご友人でもあるのですから、無下に断ってご友人を減らさなくてもいいではありませんか」



 撮影時には見せない笑顔を向けてからそのまま窓に反射する自分の表情を確認して、なんと言い表しますか、感情の籠もらぬ空虚な、不気味な矛盾を表裏で内包しているような笑顔でした。これを死相と判定する占術師が居たら、僕はその人を本物だと街中に触れ回るでしょう。人間の温かさも優しさも微塵に含まれない顔に見えるも、世に出回る自然と見た者に恐怖心を掻き立てる絵画や楽曲同様の芸術面で評価すれば、商品価値として申し分ない忌むべき美貌。



 死写体以外にも僕を写しただけの写真もよく売り上げに貢献しているのを知っている。全体写真から少し肌を露出したものまでも様々に取り扱っていて、店内の清掃をしていた僕にお客さんの一人から、鎖骨と胸上のあばら骨を見せて欲しいと懇願されたことがあった。世間様には僕の性別は女性で通していて、撮影以外に肌を見せることは禁止されていると善太郎さんが割って入ってくれた。



 橙色や緑や白を波状に継ぎ接ぎしてあしらったハイカラ柄の着物に、うぐいす色の袴と下駄姿。撮影時や日常的に着ているので人目にも当然留まり、散歩をしている際にはヒッキリなしに声を掛けられては喫茶店に誘われ、握手を求められ、あげくには高価な菓子の頂き物などを手渡されたりする分にはこれといった問題もありませんが、一部の欲求に貪欲な方達からは個人的な関係を持とうと無理強いに迫られることもありました。



 そんな時にはいつも知らない人が割って入ってくれて事なきを得ていましたが、毎回毎回と危機的な場面に直面するわけでもないけど用心に越したことはなく、善太郎さんからもあまり暗くなってからは人気の無い場所へと赴くのは控えるよう口を酸っぱくして言い付けられている。



 不貞不貞しい音を立てて車を中野通りの路肩に停車させると、「ただ事では無さそうな様子だ。少し話を聞いてくるから待っていてくれるかな」飛び出した善太郎さんは妙正寺川を覗き込む人々を掻き分けて進んでいくと彼の姿を見失ってしまいました。視覚ならぬ死に敏感な死覚が囁いたのでしょう。助手席から見失った方角をまた一瞥しては呆れて背筋を伸ばした。



 お腹が鳴った僕は朝に小さな蒸し芋しか口にしていない事を思い出した。結構な大きな音だったので車の稼働する音では掻き消えなかったことでしょう。今が一人で良かったと胸を撫で下ろしつつ、羞恥どころでない頭の中ではソースをふんだんに掛けた大好物のハンバーグばかりが一つ二つと生産されていました。



 車を揺らしながら善太郎さんが運転席に乗り込みながら、「大量の猫が川で死んでいただけだったよ。お腹も空いたし早いところ帰るとしましょうかね」人間以外の死にはこれといって興味も示せないらしく、徒労を軽い調子で嘆きながら写命館まで帰宅してきた。



 一階は現像や複製機がある内務場に過眠ベッドと衝立を挟んで売り場となっている。二階には間借りさせてもらっている僕と対面に善太郎さんの居室の他に空き部屋がいくつか。他にもトイレや物置、台所は階段直ぐの場所に在り、他にも幾つか使用していない部屋はあるのだけれどお風呂だけが付いていないのは、居候の身分で図々しいとは思いますけど少々不満です。



 お店の階段を使って二階に上がってきたのは僕だけで善太郎さんは急いで現像作業に取りかかってしまう。お腹も空いていたのでそのまま直ぐにある台所に立って釜に研いだお米と味噌を一緒に炊く。



 火の様子を時折見やりながら、椅子に座って小説を読みながら炊き上がるのをいつものように待ち、グツグツと湯気と香りが台所に浮き立ち始めた頃、善太郎さんが釣られて顔を出し、「味噌粥にしたんだ……、というよりかは食材が無かったか、そういえば。だけど腹の虫が騒ぎ出すいい匂いだよ」お腹を押さえながら僕の隣に立って蓋を少し開けて、出来具合を確かめる。



「炊き上がる直前には溶き卵を入れますので栄養も抜かりはありませんよ」



 窓から差す夕焼けに一度目を向けると、「こんな綺麗な景色を、あの時はもう二度と拝むこともないだろうと思っていたんだよ」いつもの調子もなく言った。



「人体を焼く爆撃の炎による火葬。焼き尽くした人間を天へと誘うむせ返る臭いの黒煙。鼻腔をいつも薬莢や死臭ばかりが戦地の全てだった。昨日あれこれと笑い合っていた友人は一瞬の爆音と閃光の後にはもう誰だか判断も付かない姿へと変わり果てていたなんてのも日常だ。普通に慣れるだけであれば、私も違った人生を歩んでいただろうね」



 何も言えない僕はただ善太郎さんの朱色に染まる横顔を見上げることしかできませんでした。夕焼けに浮き彫りとなる彼の表情が僕を正面に捉えると、口の端を左右で明暗の差が浮かび、まるで異なる正反対の顔をしているように見えました。



 死と生を渾然一体とさせる人の顔。



「お陰で僕は拾われました。僕を一人の人間として見てくれる善太郎さんには感謝してもしきれないくらいに」



 ことある毎に感謝の言葉を口にしている。このご恩を死ぬまで持ち続けるつもりです。僕が死ぬ瞬間に立ち会いたい、その瞬間を写真に留めておきたいという彼の願いをなんとしても叶えてあげたいと日々願っているのです。彼に看取られる最期ならば安心して旅立つこともできましょう。



 しばらく暗闇に差す夕焼け色のなかで見つめ合っていると、階下から電話のけたたましい音が聞こえてきて、善太郎さんは急ぎ足で階段を降りて行ってしまいました。そろそろ炊き上がっているかもしれないと釜を確認すると溶かした味噌の色を吸った米がふっくらと匂いを立たせていて、仕上げに溶き卵を回し掛けてしばらく蒸らせば出来上がりです。



 テーブルに並ぶ味噌米と漬物だけの質素な料理。それは食材不足が原因であって普段はもう少し良い物が並んでいる。しかしどんな物を作って出しても善太郎さんは何一つの文句も言わず、ただ美味しいね、とだけ笑いかけるのです。戦地ではどんな物を食べていたのかを一度興味に駆られて聞いたことがありましたが、それを聞いたからこそ彼が文句を言わない理由に納得することができました。



 食事中にいつも善太郎さんの話を聞きながら相槌を僕が打つ流れが毎日の決まり事のようなやりとり。「先程のお電話は誰からだったのですか?」普段は鳴らないあの時間帯の電話が気になって僕から先に口を開くと、「篝家の奥様から。事前に挨拶をしておこうと思ってね。外出をしておられるようだったので、帰宅したら折り返し頂くように伝えておいたんだよ」練馬に向かう前に善太郎さんは何処かに電話をしている姿を見かけたのは、その件についてだったようだ。篝家の方からも是非いらしてくださいとの明るい返答を頂けたと善太郎さんは言った。今日撮影してきた写真が完成次第お伺いさせて頂くようです。



「四泊の間は食事の心配をする必要はないね。私も含めて豪勢に歓待すると喜んでおられたよ。賀楽さんは奥様の相手に追われるだろうから彼女からパンドラの箱について情報をそれとなく聞き出してくれるかな。私は周辺の人達に探りを入れてみるから」

「畏まりました。あの、善太郎さん?」

「ん。なんだい」

「明日は休暇を頂いてもよろしいですか。今使っているかんざしの飾りが取れそうで、できれば同じ物を身に付けたいので、直ぐ見つかるとも限りません。朝一で探しに行きたいのです」

「中野には小さな店しかないからね。いいよ、明日一緒に探しに行こうか」

「お店の方はよろしいのですか?」

「私も賀楽さんも働き詰めだったからね。臨時休業させてもらうとしよう」



 確かにここ二週間は客足が途絶えることもなく、死写体の撮影に出掛けたりと休む暇もありませんでした。それでも僕は半日の休暇や体調不良で寝込んでいた日もあってそれなりにゆっくりさせてもらっていたのだけれど、善太郎さんはと言えばその間もせっせと一人働いていて、お客様の撮影依頼に出掛けたり現像作業をしたりと夜遅くまで働き通しの毎日。僕に撮影や現像作業ができない分、善太郎さんが一人で全てをこなしています。僕も何かしらの役に立ちたちと肩身の狭さから進言してみたところ、「賀楽さんが居てくれるから私の仕事も波に乗っている状態で、無理されて倒れられるということは店の売り上げに影響がでてしまうから、お気になさらぬよう」疲れているはずにもかかわらずそれを見事に隠していつもの調子で言われてしまいました。



 代わりに僕は身体に負担の掛からない料理や掃除を率先してこなすことしかしてあげられない歯痒さといったら、それはもう辛いこと。



「日本橋辺りなら取り扱っているかもしれないね。次いでにお昼もそこら辺で済ませるとしましょうか。賀楽さんの好物に任せますから」



 僕の頭の中には洋食屋の数々の料理が思い浮かばせては、想像の味が頭に充満してくれたお陰いま食べている味噌飯の味がまさに想像した料理の味になってくれる……、はずもないのだけど、明日がとても楽しみでなりません。



 さて、食事も終えたら一階に降りてまた作業に取りかかる善太郎さんと片付けをする僕に別れ、余った味噌飯は一口大の握り飯にしてお皿に並べておく。眠る前に差し入れに持って行けば喜んでくれるかもしれない。ひとどおりを終えてまた小説の続きに頁を捲り進めているとなんと時間は日付が変わりそうになっていました。これには没頭しすぎてしまった反省をしてから握り飯を、作業台に齧り付くようにしてフィルムと睨めっこして作業を進めている善太郎さんに、「おやすみなさい」一言添えて近くの机に置いておきました。



 今一度台所に立ってお湯を沸かしてから茶器一式をお盆に載せては面白味のない簡素な居室へと引っ込み、湯飲みにトクトクと湯気立つ茶を注ぐ。それには口を付けずに寝間着に着替えてからベッドに潜り込みました。



 中野通りに面しているとはいえこの時間帯はとても静かに過ごす事ができる。窓を開けていても気に留めることなく快眠することも可能。



 明日の買い物に心が踊るせいでなかなか寝付けずにいると、扉の外から床を歩いて正面の扉がゆっくりと軋み上がる音は善太郎さんが仕事を切り上げたようです。こんな夜遅くまで働き詰める善太郎さんに何かいつか僕なりのお礼ができたらいいな、と考えていると意識は微睡みに瞼が自然と降りてきました。

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