第2話 昭和二十八年十一月二十五日

 この日朝早くから大勢の列が写命館しゃめいかんの前に連なっていた。



 写命館とは、中野駅南口の中野通りに構える僕がお世話になっている写真屋の店名だ。



 駅まで伸びる長蛇の列の理由というのも店先には大々的に『街娼死写体、賀楽』と銘打った立て看板を堂々と店前に押し出しているからだろうけど、それだけであったならばここまでの列は成さない。



 彼等の手には一枚の紙が握られている。



 先週辺り館長の善太郎さんが写真販売に興じて、先着百名、代金百円で坂下我楽との写真撮影を宣伝したものだから、早朝、もしかすると昨夜から並んでいる人も居たかもしれない。この状況を作り上げた張本人である善太郎さんは、店外で詰める客の対応に追われている。



 そろそろ開店時間。掃除を一度中断して店の扉を少し開けて顔を覗かせると、列が崩れん勢いで押し合う客達が歓声を上げた。老若男女が嬉々として鬼気迫る様相で手を振っている。中には手土産のようなものを持参してくれている彼等に小さく死にそうな笑みを浮かべて会釈をした。



 どうも今日は気分が優れない。気分が優れる日の方が少ないのだけれど。春の陽気に意識がフワリと浮遊しかけ、一度扉を閉めて呼吸を整えてから手鏡を取り出す。青ざめた血の気の無い顔が覗き返した。むしろお客様はこの今の僕を望んでいるのだろう。



 気怠く重い身体になんとか活を入れて扉を全開にした。



「写命館へようこそいらっしゃいました」



 風に攫われそうな声量で頭を垂れてから、本来館長が立つ勘定机の裏側に周り、善太郎さんが一人一人と店内へ様子を伺いながら入店させて、僕との撮影役を兼ねる彼はカメラを手に先頭の客を僕の元へと案内した。



 新作写真で五十円。並んでの撮影料を合わせて百五十円を勘定台に置いていく客一人一人に写真を渡してから撮影していく。出来上がりの日付を伝えて次の客の対応。六十、七十と客を捌いていく間にも僕の容態は段々と悪化していき、あげくにはお客さんの一人に、「本当に死にそうな顔がいいね」なんて嬉しくも無い事を言われる始末。



 なんとか百人目を迎える頃には目眩に吐き気に耳鳴りと立っているだけでもかろうじてでありながら、写真撮影時には微笑みを見せなければならない。隣に並んだ最後の撮影客が蹌踉よろけた僕の肩に手を回して支えると、心配そうな表情をして見下ろした。



「この後に話をしたい」



 スーツ姿をした三十代半ば程の男性はしっかりと僕を支えて撮影を済ませると、「善太郎君、キミにも話がある。悪いが店を閉めてもらおう」穏やかに命令する口調でカメラを持って佇む善太郎さんに言い付けた。



 この後にもまだ何十人と列が成されているのに、いきなり店を閉めろなんて言われて了承をするはずもなく、「それは困りましたね。賀楽さんの新作の一枚を買う為に、みんなしっかりと銭を握りしめて足を運んでくださっているんですから」それを拒む善太郎さんの表情には怒りもなく、いつもの飄々とした、悪く言えばゴマすりする顔でやんわりと返す。



「ほらほら、次が控えているんですから買い物が済んだなら退店してくださいよ、五十嵐さん」



 見知った仲なのでしょうか。五十嵐さんと敬称で呼ばれた男性は善太郎さんを真っ向から睨み付けるようにして対峙してしばらく、「わかった。此処は一度出直すとしよう。何時だ。何時なら時間を作れる?」僕の写真を財布に仕舞いながら善太郎さんに詰め寄っていく。



「わかりました。わかりましたよ。五十嵐さんは俺の命の恩人ですから、そう待たせる様な真似はしませんって。では、十三時にまたいらしてください。それとも、店の奥で待ちますか? 賀楽さんは体調が優れないみたいなので、奥で休ませるつもりですが。俺としても看病してくれる人が居てくれると安心すると言いますか、どうです?」



 僕は役目を終えたようで、後は販売か撮影依頼を受けるくらいのいつも通りの業務は善太郎さん一人で回せる。僕は一礼して売り場との間に設けられた衝立の向かい側のベッドに横になる。



 直ぐに五十嵐さんが僕の傍に椅子を引いてきて腰を落ち着かせた。



「善太郎さんと仲が宜しそうですね。差し支えがなければお話し願えませんか?」

「戦時中に大陸で知り合った仲だ。壊滅した部隊で善太郎君は一人で大勢の敵を相手にしていたんだ。その時に俺が所属していた部隊と合流して共に戦地を生き抜いた。キミのような若者が期待するような浪漫もない話だよ」

「それで命の恩人なのですね。僕との撮影は善太郎さんに会う次いで?」

「そうでもない。俺の妻がキミにゾッコンでね。新作を一枚頼まれたんだ。キミと並んで写真を撮ったのも、妻に自慢してみたかっただけだな」



 そう言って目尻に皺を作って笑った。



「具合も良くないだろう。眠っておきなさい」

「横になったせいか少し楽になりました。どうかお願い、もう少しだけお話に付き合ってくださいませんか」



 僕の体調が悪化しない程度を条件に渋々と頷いてくれた。



 衝立の向かい側では客の対応をこなしていく善太郎さんの声が微かに聞こえてくる。彼がいる方をなんとも表現のしようがない、喜んでいるのか、哀れんでいるのか、そんな曖昧な眼をして見ていた五十嵐さんは咳払いをして僕を見下ろす。



「キミとの出会いは善太郎君から多少なりとも聞いているよ。戦争は多くの人の心を壊してしまう。彼もその一人だ。このままずっと孤独に死に憑かれて過ごし、孤独に死ぬのかと思っていたが安心したよ。坂下賀楽さんという人との出会いにね」

「僕は善太郎さんより先に死にます。それまでなら一緒に居てあげられます。でも、善太郎さんは一人ではありませんよ。共に戦地を生きた五十嵐さんというご友人がいらっしゃいますから」

「嬉しいことを言ってくれるね。だけどね、俺は奴の深い場所にまで足を踏み込めない。いや、踏み込ませようとはしてくれない。そういった意味では彼に一番近いのはキミだよ」



 僕は何も答えられなかった。



「僕と善太郎さんに御用とのことでしたけど、どのようなお話でしょうか」

「そのことは善太郎君も交えて話したい」



 一瞬だけ見せた五十嵐さんの顔は沈痛な一言で表せるものでした。これ以上此方が不用意に踏み込んでいい類いの話題で無い事が伺えた。



「戦争が終わって八年経ちました。五十嵐さんのご職業を教えていただけませんか?」

「神国日本が敗戦するとどれほどの大衆が予見していただろうな。戦後復興の兆しには確かな闇をも伴って蔓延はびこっている。善太郎君はその闇に身を潜める死を追い求めているが、俺は闇を産み付ける者を追い求めている」

「警察官ですか?」

「刑事だよ。金も職も無い時代だ。他人から搾取してまで生き長らえようと考えてしまう事には一方的な非難もできない。なんとしても家族を食わせなきゃいけないのだからね。その点は同情もする。しかし、だからといって他人の掌の僅かな希望を簒奪する行為を見逃すことも出来ない。許してしまえばそれこそこの国は潰えてしまう。俺が警察官に志願したのも道に迷う奴等に寄り添いたいからだ。戦時中に亡くした友人や部隊の仲間達へ俺が示した俺の道だ」



 見上げる僕から少し視線を外して、「つまらない話を聞かせたね。どうにも、若い子に受ける話題を持ち合せていないものでね。子供ができたら甘やかしてくれる母親にベッタリだろう」自虐的に口角を持ち上げて溜息をついた。



「きっと戦争で命を落としたご友人の方も五十嵐さんを誇らしく思っていますよ」

「だと、いいんだが」



 それからしばらく雑談をしていると衝立から顔を覗かせた善太郎さんが、「具合はどうかな、賀楽さん。それにしてもずいぶんと賑やかでしたね、五十嵐さん。いま店を閉めてきましたから伺いますよ」愛用のカメラを戸棚に置いてから椅子を引きずって五十嵐さんの隣に座った。



 具合もすっかり良くなった、というよりは落ち着いたと言った方が正しいでしょう。ゆっくりと身を起こしながら少し開けた着物と袴を整えて、その場で正座をして二人を順に見た。



「ここ二年で東京の殺人件数が戦前よりも多いのは知っているな」

「お陰で儲からせて頂いていますからね」



 目が合った善太郎さんは笑みを作った。



「不謹慎な発言は控えて聞いて欲しい。三日前、警視庁充てに匿名の手紙が届けられた。その内容は」



かがり家の秘匿とするパンドラの箱。災厄が東京に多くの死をもたらす。私の希望は何処に』この手紙を誰もが気に留めないなか、五十嵐さんだけが上司に掛け合うも相手にされず、こうして組織に属さない自由の利く友人を頼ってきたと話した。



「篝家を貶める為の悪戯とは考えるでしょうね。普通は」



 篝家は中野区鷺ノ宮に屋敷を構える資産家として名の知れた名家だったはず。まだ中野に住んで日は浅いけど篝家の話はよく耳にしていたし、そのどれもが貶める内容とは無縁の戦後復興に尽力しただけに留まらず、無償の炊き出しや簡易家屋の併設に提供した人徳のある御家だともて囃している。



「それを確かめて欲しい。なんでも篝家当主の奥方様は坂下賀楽さんの熱狂的なファンらしくて。先程も住み込みの若い子を連れてお忍びで俺の六人前辺りに並んでいた。俺が言いたいことは判るね?」



 真面目な顔をして僕と善太郎さんを交互に見て頭を下げた。



「なるほど。名家ともなれば敷地内に警察を招き入れたくない、というわけですね。しかし俺達、いいや坂下賀楽さんであれば相手も歓迎してくれる、と。そう仰りたいわけですね、五十嵐さん」



 ウンウンと唸りながら決めあぐねている善太郎さんに、「僕は引き受けます」頭をまだ下げている五十嵐さんに顔を上げるよう肩に手を添え伝えた。



「勝手に決められては困るよ、賀楽さん。俺達にだって仕事があるんですから」

「友人にここまで頭を下げられて、どうして二つ返事で答えて差し上げないのですか。お二人の出会いについてお聞きしました。今こそそのご恩に報いる時かと僕は思います。僕を拾ってくださった際にお約束したあの件、反故にさせていただいてもよろしいでしょうか?」



 僕の心臓は今にでも活動を停止してしまいそうな程、強く、早く、胸骨を突き破らんと激烈に拍動しています。しっかりと拳を握っていないと恐怖か緊張からか震える身体を押さえるのも困難で、呆気にとられて見開かれた眼を瞬く善太郎さんを正面から見据える格好で固まる僕の口からはヒュウヒュウと音が漏れ出ていた。



 直ぐに善太郎さんは豊かな髪をワシワシと掻いてから両手を頭上より高い位置に持ち上げた。



「わかりました。わかりましたって。俺の降参ですから、賀楽さんは興奮を抑えて。今にも卒倒しそうなくらい顔色がより悪くなっているからね、自覚している?」



 身体から徐々に力が抜けていく様子を見てから五十嵐さんへと向き直って、「今こそ恩に報いますけど、万が一ですよ、万が一にも俺や賀楽さんに身の危険を感じたその時は中断させていただきます」ちょっと泣きそうな顔で差し出した手を、「もちろんだよ。万が一の場合は俺が責任を取るつもりだ」なんてちょっと不吉な言葉で返して二人は笑って手を握り合った。



「次いでで申し訳ないですけど、ここら辺で最近起きた殺人現場と被害者の様子を教えてもらえます?」



 唐突な話題の転換に僕と五十嵐さんが今度は見開いた眼で瞬いた。



「少しでも篝家への交渉材料と言いますかね、互いに歩み寄る札が欲しいわけですよ」



 僕も五十嵐さんも理解した。



 手帳をペラペラと捲る五十嵐さんは、「善太郎君に流していない事件だとね……、ああ、あった。練馬区の殺人事件と……、集団自殺が起きた大田区の二件なんてどうだい」殺人事件が多すぎて新聞にも載らなかった事件と、新聞を読まなくても人伝に聞いた十数名だか二十名だかの人間が一軒の家で自殺した奇妙な事件。概要と被害者の発見時の状態を事細かく話し始めた。

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