「私は君が好きかもしれない」

僕らはただそこにいて、しかもそれで満足していた。

だから、彼女が湿っぽい表情で僕に告げたことを忘れることができないでいた。

「手術?」

「うん。どうなるか分からないって」

真冬の郊外の鉄橋は冷たくて触れることができない。僕と彼女は誰もいないその錆びて赤い橋の真ん中で突っ立っていた。

彼女の背後でトンネルが唸る。真っ黒くて風を吸い込み、決して吐き出されることのないトンネルが唸る。

「…ここからだと、街がよく見えるね」

「待って。なんで手術なんか…」

橋の向こうの景色から僕に視線が移る。寒さで喉の奥が硬直しているせいで、僕が問う声が風に掻き消されそうになる。

「決めたの。やっぱりまだ、私は死にたくないから」

決意は揺らいでいないようだった。僕が彼女の意思を覆すことができそうにないのはすぐに見て取れたが、何か言わずにはいられなかった。それなのに、実際に口から出てきたのは震えて枯れ葉のようにくしゃくしゃの白い息だけだった。

「君を呼んだのは、それだけじゃないんだ」

彼女は微笑もうとしていた。僕はその顔がどうしても笑顔には見えなかった。

「手術の日は六月なんだ。だから、それまで一緒にいてくれる人が欲しくて…」

「それを、僕に?」

無理やり捻りだした声に、彼女は頷いた。

「そういうこと。頼まれてくれる?」

「もちろん。僕でいいなら」

そこでようやく、彼女は心の底からの笑顔を見せてくれた。そして、僕たちは何も言わなかった。


春の風が吹き荒れる三月、僕たちは枯草色の河川敷で何もせずにただ突っ立っていた。彼女はいつもそう望んだ。店でおいしい食事をすることも、遊園地をのんびり楽しむことも、映画館で映画を見ることもなかった。彼女がそう望むなら、僕はその通りについていくだけだった。

彼女は楽しそうに風に吹かれていた。前髪が風に巻き上げられて、彼女は幼く見えた。

「私ね、隠してたことがあるんだ」

「何?」

打って変わって申し訳なさそうに、僕の顔から目を逸らす。

「今日私が最初に君に言ったこと、覚えてる?」

「え…?」

僕の頭が急速に冷たくなったのは、風のせいだけではなかった。記憶をまさぐっても、彼女の言葉は混濁して掴みどころがない。

「覚えてないんだね?」

「はい、すいません…」

彼女が落胆する様子を目に映さなくてはとのろのろと横を見ると、彼女はしてやったりという風に自慢げに微笑んでいた。

「覚えてないのは当然だよ。私がそう望んだんだから」

戸惑う僕に、彼女は楽しそうに告げる。

「私は人の記憶を好きなように消せるんだよ。君に私の言葉に関する記憶がないのも、私が消したからだよ」

「え?記憶を…何だって?」

衝撃的な言葉に耳を疑った。

「聞こえなかった?記憶を――」

大声を出そうとするのを制して、彼女を凝視した。

「いやそうじゃなくて、信じられなくて」

「へえ、そうですかそうですか」

彼女は膨れて僕からぷいっと体を背けた。

「それじゃああなたは私のことを信じてくれないと、そういうことですね?」

「え!?いや、そういうわけでは…」

「じゃあ信じますね?」

「でも、だからっていきなりそんな話…」

狼狽える僕に彼女はずいっと近づいて、上目遣いで僕を睨む。

「どっちかです。信じますか、信じませんか」

こうなると僕は弱かった。

「信じます…」

「よろしい」

彼女はまた満足げに笑い、わざとらしくふんぞり返る。僕はその様子にあきれたような、ほっとしたような、何とも言えない気持ちでいた。

「ちなみに、君はその時何て言ったの?」

「教えない」

元気なふりをして、少ししおらしくなっている彼女の様子が気がかりだった。


六限の化学の授業が終わっても、僕は教室に残ってノートを睨んでいた。明日の予習がまだ間に合っていない。まだそこまで暑い季節でもないのに、じっとりとシャツが湿っている。

「あれ?どうしたの」

彼女が鞄を抱えて僕のいる教室に来た。窓際、西日に照らされた彼女は神聖で荘厳で、それでいてどこか儚くて、目を離せば消え去ってしまいそうだった。

「これが解けなくて」

「見せてよ」

さっぱりした動きで鞄を僕の目の前の机において、ひったくるように僕のノートを取り上げる。彼女は僕よりも優れている部分が多かった。いや、優れている部分しかなかった。今もそれを思い知らされている。僕のノートに書かれている内容に一通り目を通して、あー、とため息のような声を漏らす。

「この解き方じゃ無理。教科書のこの章に書いてある考え方を使って…」

僕は眠気で意識が飛びそうだった。それを見逃す彼女ではなく、すぐにノートでつつかれた。

「誰のために説明してると思って…!」

「え、あ、ごめんなさい…」

「だから、君の解き方ではその問題を解くのは――」


暑くなり始めていた。破裂しそうなほどの生命力を帯びた万緑とは対照的に、公園のベンチで僕の隣に座る彼女は大人しかった。

「もうそろそろなの、言ったよね」

目を伏せて彼女は告げる。

「何回も聞いたよ。大丈夫」

僕はスポーツドリンクを彼女に渡した。彼女はありがとうと言ってそれを受け取った。

不安が汗とともに彼女の額に滲むようで、僕は思わず目を逸らしそうになる。

「うまくいくといいね…って、これしか言えなくてごめんね」

「いいよ。嬉しいよ」

静かで穏やかな声だった。彼女と目が合った。視線をそのまま外せなかった。

「私のこと、忘れないよね?」

「忘れないよ」

僕が答えて、彼女が微笑んだ。木漏れ日の逆光で目元が見えなくなった。


僕には習慣があった。しかし、なぜその習慣が染みついたのかを忘れている。その家にはもともと知っていた人が住んでいた気がするのだが、思い出せないでいる。思い出さなくてはならないはずだ。他の道を通ったほうがすぐに学校に着くのに、遠回りしてまでここに来たのだ。この習慣には僕にとって特別な意味があるはずだった。今はもうその家は空き家で、新しい住人を待っていたが、誰が住んでもふさわしくなかった。ここに住んでいいのは…住んでいいのは…。

「誰だっけ…」

腕時計を見て、そろそろ立ち去らなくてはならない時刻になっていることを確認した。後ろ髪を引かれる思いで、僕はそこを離れた。

学校でみんなに聞いても、その家に誰か住んでいたという話は聞くことができなかった。一限目の授業が始まって席についても、窓際の席でぼんやり外を見ていた。山間の赤い錆びた鉄橋が見える。そこに誰かの姿を認めたかったが、肝心の人物を思い出せなかった。


私には彼の時間を奪ってしまった罪悪感が少なからずあった。彼は私さえいなければもっと自由に時間を過ごすことができていたはずだった。私には責任がある。

もう夏が終わり、二か月前の気温が猛暑の日々から戻ってこようとしていた。私にとっては見慣れた道だったが、私がこの道を知っていることを、そして私自身を、知っている人はこのあたりにはいない。

公園のベンチに座る。彼は家に帰るとき、決まってここを通るから。スポーツドリンクを買ってきた。彼がくれたもの。

やがて、彼がひとりで歩いてきた。彼はなにか物事を深く考えたいときにひとりになる。彼が公園に入って、私に声をかける。

「隣、失礼します」

「どうぞ」

彼は疲れ切って座った。体制を前に傾けて、肘を膝に乗せている。しばらく私たちは黙ったままだった。蝉の声はそのまま私たちの肌が熱に炙られる音のように聞こえた。息も絶え絶えの緑が揺れる。

「あの、すみません」

私が声をかけると、彼は体を起こした。はい、と言ったようだったが、声がかすれていてうまく聞き取れなかった。

「これ、間違えて余分に買ってしまったんです。もらってくれませんか?」

「え?いや、水分は多いほうがいいですよ。持っておいて損はないです」

断られたが、なぜか彼にはこれを渡さなくてはいけないと感じて食い下がる。

「でも、駅まで歩くだけなのにあと三本もあって…重くて」

彼は少し驚いたように目を見開いた。そして、じゃあもらいますと言ってスポーツドリンクを受け取った。

私は一つお辞儀をして立ち上がり、その公園を出た。振り向くわけにはいかなかった。止まらない涙を見られるわけにはいかなかった。

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短編集−コバルトの燃え残り 虚言挫折 @kyogenzasetuover

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