誰ソ彼ソワレ

河岸景都

誰ソ彼ソワレ

 歌っている。

 少女が遥か彼方で、或はとても近くで歌っている。その歌声は、羽根布団の中身のように柔らかな雪が舞う窓の外から聞こえてきた。また次の瞬間には、僕の体の内側で染み込むように響いた。本当に聞こえているのかも分からない。今にも消え入りそうな声だ。


 自分の部屋に籠り、ベッドの上で昨日お父様が買ってきてくださった本を読み続けていた。何の前触れもなく流れてきた旋律は、邪魔になるどころか酷く心地が良い。

 折角戴いたのだからと文字を目で追っていたが、正直を言うとあまり面白いものでもない。栞を挟み込み、分厚い紙の束を閉じる。部屋に漂う冬の凛とした空気を深く吸い込む。紙とインクの微かな匂いが、鼻腔をくすぐった。

 正体の分からない歌声は、僕が一つ呼吸をする間に止んでいた。透明な硝子の向こうでは、変わらず天が羽を散らし続けている。たった今まで聞こえていた筈の歌声の主など、皆目見当が付かなかった。なのに妹のみやだ、と、唐突に閃いた。

 はっきりと声が聞こえたわけでも、歌っているその姿を認めたわけでもない。けれども、どういうわけか僕は確信していた。一度そう思うと、先程の曖昧な旋律は急に輪郭を持つようだった。

 間違いなくみや子が、この頃お気に入りの「カチューシャの唄」を歌っていた。少し古い歌なのに、お母様が口遊んでいるのを真似て近頃歌うようになっていた。いわゆる流行歌がお好きでないお父様は、その度に渋い顔をしている。

「カチューシャかわいや、わかれのつらさ」

 反芻するように独り言葉を紡ぐ。みや子はこんな悲しい歌の何を気に入っているのだろう。でも僕はみや子が歌うから、この歌が割合好きだった。女の子にしては低めの、穏やかな声で歌われる歌が。

 そういえば彼女は、雅芳兄まさよしにい様と一緒に銀座に行くのだと朝食の席で言っていた。今頃は百貨店で新しいコヲトでも見繕ってもらっているのだろう。その後はカフェーで、慣れない苦いコーヒーなど飲んでいるかもしれない。


 少し歳の離れた雅芳兄様は、僕に対してとはまるで違うようにみや子を可愛がる。片や高女に上がったばかりのみや子は、兄様の前では随分と大人びた振る舞いをする。二人の間には僕の入る余地の無い、独特な協定のようなものがあった。

 嫌われてはいない、と思う。ただ兄妹三人が揃うと妙な違和感がある。僕だけが異質なものになるのだ。だから僕は共に銀座へ行けない。みや子が形ばかりに誘いをくれたけれど、勉学をするからと断った。

 銀座で遊んでいるみや子の歌声が、この屋敷まで聞こえてくることなど有り得ない。やはり幻聴だったのだ。

 興味を持てない厚いだけの本を読むのに、根を詰め過ぎたのだろうか。疲弊して聞こえてしまうのが妹の声とは。無意識にみや子のことが気になっているようだ。

 それも致し方ない。彼女と僕は、互いが互いの半身のようなものだ。

 生まれた日が同じ、育った場所が同じ、容姿が同じ。違うのは男と女という性別だけだった。声ですら似通っている。合わせ鏡のように互いを見ながら生きて、歳を重ねてきた。言葉では説明の出来ない、不可思議な連帯があっても可笑しくない。

 身体が離れていても、兄様に可愛がられている彼女が何処か疎ましくても、切れない繋がり。言い表せない二人の間を繋ぐ糸は、双子だから、の一言で全て片付けられてきた。

 双子だから、ラヂヲも無いのに片割れの気に入っているカチューシャの唄が聞こえることもある。特別気にすることでもなかったのだろう。お父様からの贈り物を読む気も失くしてしまって、余計なことばかり考えていただけだ。胸の内で結論を出すと、霧から抜け出たように現実に引き戻された。

 屋敷の中が妙に騒がしい。

 この頃蝶番が悲鳴を上げるようになった建て付けの悪い扉の向こうから、慌ただしい足音が聞こえる。お父様とお母様が何やら深刻そうに話している声も聞こえる。話の内容までは分からない。ただ、何か良くないことが起こったとだけは分かる。

 重い木の扉の隙間から、張り詰めた薄暗い気配が部屋の中まで忍び込んでくるようだった。その緊張を裂いたのは、硬く遠慮がちな三回のノックだった。

雅次まさつぐ様、ふみです。少し宜しいでしょうか」

「良いよ。入って」

 ベッドから身体を起こしながら応える。声を合図にきいと蝶番から悲鳴が上がった。女性にしては高い背丈を一寸でも低くしようというように僕の部屋に入ってきたのは、使用人のふみだった。

 おずおずとしたその様子は、庭先に時折現れる地栗鼠じりすを思わせた。歳は確か僕より五つか六つ上だった筈だが、時折みや子と変わらぬ少女のような雰囲気を纏うことがある。

 今日も彼女は長い黒髪を一つに結わえ、頭の上で団子にしている。毎日変わることの無いふみのその髪型を見ると、複雑に絡まった不安がほどけるようだった。

「お休みのところ、お手間を取らせて申し訳ありません雅次様。三〇分程ののちに旦那様の書斎へ来るようにとのことです」

 それだけ言い置くと、ふみはすぐさま立ち去ろうとした。入ってきたときとは別人のように背筋が伸び、一瞬知らない大人のように見えた。扉に手を掛ける直前のその背中に、慌てて声を掛ける。

「ねえ待ってふみ、お父様は何の用事だとおっしゃったんだい?」

 振り返った彼女の顔には、どうしよう、とはっきり書かれていた。僕に投げ掛けるべき言葉を探しながら、唇を開いては閉じてしている。庭の池を泳ぐ僕の好きな錦鯉に似ていた。

「……詳しいことは、私からはお伝え出来ません。どうか旦那様に直接お尋ねください。三〇分後に旦那様の書斎へお越しください」

 ふみは掠れた小さな声で言うと、再び扉に向き直りそのまま部屋を出ていってしまった。

 結局、お父様の書斎に向かわなくてはいけないことしか分からず仕舞いだ。空気の粒子が静止してしまったように、部屋の中はまた緊張した静けさに包まれた。


 僕はお父様の書斎があまり得意でない。一歩踏み入れた瞬間に、聞き分けの良い「矢貫やぬき家次男」であることを強要させるような空間。この先慣れる日は来ないとも思う。

 僕の部屋に入る為には、お父様の書斎の前を通らなくてはいけない。いつも廊下の端を伝うように通り過ぎる程度には、お父様の書斎に極力近寄りたくなかった。

 お父様は寡黙で厳しいが、根は慈悲深く優しい人だ。だがあの部屋にはお父様の厳しい部分ばかりが詰め込まれている。自分からその中へ身を投じなければいけないのだ。これが憂鬱以外の何だと言うのだ。

 退屈で仕様が無い。早く昼餉ひるげになれば良い。ふみとお母様が作る美味しいオムレツライスが食べたい。そう思っていたのが嘘のようだ。三〇分後という時間が永遠に来ないでほしいとさえ思い始めていた。

 鬱々とした気分が僕の身体を蝕んでいく。力なく四肢をベッドに投げ出し、学習机の上の時計を眺める。あと二八分。かちかちと音を立てて進んでいく秒針に止まれと念じたところで、時間が止まる筈も無い。

 変な意地を張らずに、雅芳兄様とみや子と一緒に銀座に行っていれば良かった。

 一人で物言わぬ書斎の圧力に耐えるくらいならば、絵に描いたように仲睦まじい兄妹二人を傍から眺める方がましだったろう。運が良ければ、僕も服の一つくらい兄様に見立ててもらえたかもしれない。雅芳兄様とみや子が帰る頃には、お父様の用事は終わっているだろうか。

 前に書斎のことについて、兄様とみや子に打ち明けたことがある。二人は普段よりかは明るい声で僕に同調してくれた。あの時は二人の兄妹と僕ではなく、三人の兄妹であれた気がする。

 今日のお父様の話が終わったら、また二人に書斎の息苦しさを相談してみようか。またこの前のように、兄妹らしく三人で話が出来る気がする。話の種が出来ることを考えると、お父様の書斎への憂鬱が少し軽くなった。


 ふみが僕の部屋を訪れてからきっかり三十分後。今度は僕が遠慮がちに扉を叩く番だった。僕達の部屋と全く変わらない書斎の扉は、僕達の部屋のそれよりも大きく重たいように見える。その重厚さに見合うような十二分の間の後に、入れ、と有無を言わさぬ低い一言が耳に入った。

「失礼します。雅次です」

 どれ程力が要るのかと思っていた扉は、案外簡単に開いて僕を招き入れた。重さは僕の部屋と大差無いようだった。お父様は書斎の左手、テラスに通じる大窓の前に立ち外を眺めている。その向こう側に羽はもう飛んでいなかった。

 お父様は何も言わずに立ち続け、テラスの向こうを眺めている。仕立屋に特注で作らせた背広の、背中だけが見えていた。こちらから表情をうかがい知ることは出来ない。怒っているようでも、悲しんでいるようでもある。少なくとも喜んでいたり楽しんでいたりする訳でないことは分かった。

 書斎に足を踏み入れたは良いものの、ここからどう動けば正解なのかは皆目見当も付かない。お父様と同じように、僕はグレイの背広を見ながら立ち尽くしていた。

「雅次、こちらへ来なさい」

 ようやくお父様から発せられた言葉に、機械人形のようにぎこちなく従う。手と足が上手く動かせていない気すらした。ごく偶に書斎に呼ばれるのは、土産物をくださるときであったり、高等学校の生活を聞かれるときであったりする。今日はそのどちらでも無いようだった。

 自然と身体が強張る。僕は何かお父様の気に障ることでもしたろうか。身に覚えが無いが、もしそうならば誠心誠意謝らなくてはならない。

 如何いかにも重要事項が書いてありそうな書類が積まれた机を間に、僕とお父様は向かい合った。お父様の眼は疲労故か赤く充血している。常のような強い瞳の光は、息を潜めていた。

「雅次、よく聞け。落ち着いて、聞け」

「はい」

 普段のお父様からは考えられないほど、歯切れの悪い言い方だった。なるだけ遠回りして終着点に辿り着こうというような、伝えることを渋るような、そんな言い方だ。息子達の前では隙など全く無いように振る舞うお父様が、急に近い存在になったようだった。

 この人も、人並みに困惑したり迷ったりすることがあるのか。

 それは当たり前のことだったが、大変な発見のように思われた。いつの間にか書斎の得体の知れない圧力は消えている。僕は矢貫家次男ではなく、矢貫芳雄よしおの息子、矢貫雅次としてここに立っていた。心からお父様を助けてあげたいと思った。込み上げるものを堪え、お父様はやっとのことで言葉を継いだ。

「雅次……雅芳とみや子が、銀座からの帰りに事故に遭った。雅芳は、大怪我で意識不明のまま病院に運ばれた。それからみや子が、みや子、は……」

 可愛い末娘の名前を幾度も呼びながら、お父様は両の目を右手で覆った。押し殺した呻き声が、戦慄わななく口元から漏れている。

 僕の目の前に居る人は、本当にお父様だろうか。人の前で、ましてや僕の前で殺しきれない声を上げて泣くような人だったろうか。今このときに鏡を見たならば、まさしく鳩が豆鉄砲を食った様な僕の顔が映るだろう。信じられない光景が広がっている。

 では、お父様の眼が充血していたのは疲労の所為などではなく、つい今し方まで泣いていた為なのだ。三〇分の間、人と会えない程に泣いていたのだ。

 雅芳兄様が大怪我で、事故に遭った、病院に運ばれて――使ったことの無い言葉のように、耳に上手く馴染まない。

 雅芳兄様は運転手に車を出させて、朝から銀座に遊びに出かけた筈だ。誰と? みや子と。お父様はみや子の名を呼んだ。その後に続く言葉を僕は聞いてはいけない。半ば熱に浮かされ、頭の中では繰り返し「言わないで」とお父様に懇願していた。口に出していないのだから伝わる筈も無い。

 理性を少しばかり取り戻したお父様は、顔を上げて無情にも後を続けてしまった。

「みや子は、みや子は助からなかった。病院に運ばれた後、亡くなった」

 言い終えた刹那、再び顔が俯いてしまったお父様の目から雫が落ちた。連続写真のように、水の粒が止まっては落ちていくように見えていた。

 お父様が、また泣いている。何故。みや子が亡くなったから。何故。事故に遭った。みや子が。

 雅芳兄様は病院で手当てを受けている。みや子は雅芳兄様と共に銀座へ行ったのではなかったか。どうしてみや子が亡くなったなどとお父様は言うのだ。僕の半身が、この世から消えて無くなったなどと、そんな残酷なことを。

「お父様それは、みや子は、そんな」

 意味を持たない語の群れを、お父様に乱雑に投げつけた。綺麗に文章を作りそれを口にすることは、こんなにも難しいことだったか。思考を整理する為には、浮かんだ言葉を次々と音にするしかなかった。

 身体中から温度が失われていくようだ。頭は冷え切っているのに、お父様の言葉が理解出来ない。妙な感覚だ。確かにお父様の口から聞いたことが、意味を持とうとしない。僕の頭が受け入れない。

 もう一度口を開こうとしたとき、急に視界がぼやけた。モザイクのように書斎の調度品が輪郭を失い、色の塊となった。右手で目元にそろりと触れる。僕の目は濡れていた。

 泣いている。そう気付いてしまうと、一気に感情の波が押し寄せて僕を浚っていった。僕は、みや子が死んだことを理解してしまった。

 みや子とはもう二度と会えないのだ。

 お父様の言葉が意味を持ち、これが現実であることを悟った。

 目元を濡らす水は後から後から湧いてくる。止めようにもその方法が分からず、また止めたいとも思わなかった。僕は今自分が居る場所がお父様の書斎であることもはばからずに、声を上げて泣いた。崩れそうになる体を辛うじて支えていた。

 繰り返しみや子の名前を呼ぶ。どれだけ大きな声で呼び続けても、軽やかな少女の声は返事をしてくれなかった。

 泣いている自分とは別に、冷静に物事の行く末を観察する自分も居た。足元に敷き詰められた真紅まあかいビロオドの絨緞は、水玉模様に色を変えている。涙が落ちた場所は、血の跡のように深い紅に染まっていた。

 僕の取り乱す様に、お父様は古傷の痛みに耐えるような顔をしている。先程までの自分の姿を、僕に見ているのかもしれなかった。

 体内の水を全て失うまで泣き続けるような僕を見かねてか、傍らにはいつの間にかふみが控えていた。彼女から書斎に来るよう言伝されたのが、随分と遠い昔のことのように思える。

「さ、雅次様、一度お部屋に戻りましょう」

 ふみの手が背中を押すのに促されるまま、書斎を後にした。扉が閉まる前に、お父様の方を振り返る。お父様は僕が来たときと同じように、微動だにせずテラスの向こうを見詰めていた。グレイの背広の背中が酷く小さく見えた。

 入るときに軽く感じた扉はその質量を増し、重く気だるげな音を立てながら、お父様と僕を隔てた。


 自室に戻ってからどう行動していたのかは、よく思い出せない。気付いたときには窓の向こうに濃紺の天蓋が下りていて、いつもと変わらぬ星屑が煌めいていた。暗闇の中、夜が来たことに気付かず電燈も点けずにベッドに横たわっていた。三回響いたノックに返事もせず、虚空を見るでもなく見詰めながら身を横たえていた。

「失礼いたします、雅次様」

「……入って良いと言っていないよ、ふみ」

「それは、失礼致しました」

 彼女は、一つも失礼だと思っていないという声色で謝った。夜に沈んでいた世界がいきなり明るくなり、目が眩む。思わず顔に手でひさしを作った。ふみが電燈を点けたのだった。

 電燈から垂れ下がる硝子細工にふみの手が掠め、寂しそうに小さく揺れる。細工に反射した光が砕けて部屋に散った。

「雅次様、ご夕食の支度が整いました。お昼も召し上がっていませんもの、お腹が空いたでしょう」

 開け放たれていた松の葉色のカアテンを閉めながら、ふみは子供をあやすように優しく言った。ふと机の上の時計に目を遣ると、針が六時半を指していた。僕は昼の時間すら忘れ、四半日以上も茫然自失としていたのだ。

「お昼にお声を掛けましたけれど、気付かれていないようだったので……。ご夕食は召し上がって戴かないと」

 気遣わしげな表情のふみと目が合った。それに対して僕はだくともいなとも応えず、弛緩していた両腕に力を入れ体を起こした。言われてみれば朝から何も胃に入れていない。急に身体を動かした為か、腹の中で盛大に虫が鳴いた。僕とふみは互いに目を真ん丸に見開いた後、一緒に声を上げて笑った。近しい家族が死んでしまっても、空腹になるし笑うことも出来るのだと初めて知った。


 階段を下りて一階の食堂へ向かう。書斎の前は廊下の中央を歩いて通り過ぎた。ふみは僕の後ろから一定の距離を保ったまま、付かず離れず着いてくる。食堂では既にお父様とお母様が席に着いていた。お母様は心なしか今朝よりやつれているようだった。瞼が腫れぼったくなっている。

 今朝までは、ここに雅芳兄様とみや子も居た。いつも本を読み耽っていて食堂に来るのが遅くなる僕に、二人から茶化すような非難が飛ぶ。その声も今晩は無い。食堂が二倍にも三倍にも広くなった気がした。

 静かに椅子を引いて自分の席に着く。少しの物音がやたら大きく反響して聞こえる。人が減ったにも関わらず、お父様達も僕も今朝までと同じ場所に座るものだから、妙に互いの距離が遠い。

 家族が集まっているというのに余所余所しい空気の中、僕達はふみが配膳する料理を黙々と口へ運ぶ。義務的に咀嚼した食べ物は、味がよく分からなかった。

 ナイフやスプーンと皿が立てる音ばかりが響く中、沈黙を破ったのはお父様だった。僕とお母様は目線を手元からお父様に移し、ふみも仕事の手を止めた。

「知っての通り、……知っての通り、雅芳とみや子が事故に遭った。銀座からの帰りだ。警察官の合図を見誤った車が、雅芳達の乗る車に衝突したそうだ。運転手の樹田きだと雅芳は病院に運ばれて、治療を受けている」

 お父様はそこまで話すと深く息を吸い込み、言葉にならない声を上げた。ああ、と、自分に向けて返事をするように息と共に吐き出した。

「みや子は、運ばれた先の病院で、亡くなった」

 お母様が、我慢しきれずに嗚咽を漏らし始めた。ふみが差し出した白いハンケチに顔をうずめ、はなを啜り上げている。僕もその悲しみに引き摺られ、顔を伏せて食べかけの皿を見た。ただ不思議と、もう涙は出なかった。あの書斎で一生分の涙を流してしまったのだろうか。

 泣いても泣いても足りないお母様とは対照的に、お父様の態度は、それは毅然としたものだった。悲しんでいないというのではない。矢貫に先代から付いている運転手と大切な長男が命を危うくし、唯一の娘にはもう二度と会えないのだ。

 それでも、この場では矢貫家の家長として振る舞うことを選んだ。他人にも自分にも厳しい、尊敬するお父様の姿そのものだった。

「これから先のことは、追々話す。樹田と雅芳の容態もまだはっきりとしないからな。……みや子の遺体は、病院に安置してもらっている。数日のうちに葬儀を執り行うことになるだろう。で、だ。……雅次」

 突然呼ばれた名前に返事をしようと口を開きかけたときだった。隣の居間で電話のベルが鳴り響いた。給仕を再開しようとしていたふみは、慌てて食堂を出ていった。ふみの足音とベルは同時に鳴り止んだ。ふみが相槌を打つ声が微かに聞こえる。

 ふみは食堂に小走りで戻ってくると、旦那様、と声を掛けた。お父様が腰を上げて居間へ向かう。

「何かしらね」

 やや落ち着いたお母様は、覇気の無い声で誰に聞くでもなく呟いた。僕もふみも同じく、居間からお父様が戻るのを待つしかない。食べかけのオムレツライスはすっかり冷えて、鮮やかだった黄色い玉子は乾いてしまっていた。勿体無いが、もう食べたいとは思えなかった。

 ぼそぼそと聞こえていた低い声が無くなり、お父様は間もなく食堂に戻ってきた。元の席に腰を下ろすことも無く、入口に立ったまま話を始める。

「病院からだ。雅芳の意識が、戻ったらしい」

 まあ、とお母様が声を上げた。ふみの表情も、少し明るくなったようだ。僕も驚きと嬉しさと共に顔を上げた。ところが、お父様の様子は僕達と全く異なるものだった。話しながら落ち着きを取り戻そうと、動揺を鎮めようとしている。声には張りが無く、不安の為に揺れている。

 喜んでばかりいられないことを悟った僕達は、お父様の次の言葉を待った。その時間は数時間にも、数日にも感じられた。

「雅芳は、両眼が見えなくなっているそうだ」

 全員の息を呑む音が聞こえたようだった。

 雅芳兄様は助かった。けれどその代償はあまりに大きい。また思考が散り散りになり、上手く拾えなくなった。お母様は折角取り戻した落ち着きを再び失い、白いハンケチをきつく握りしめている。

 こういうときは何を思えば正しいのか。纏まらない考えに振り回されている僕の肩を、ふみがそっと撫ぜた。温かな人の体温が心地好かった。冷たくなってゆく身体に、温度が分け与えられたようだった。

 お父様は呆気に取られている僕達をそのままに、先に失礼する、と食堂を出ていってしまった。ふみは慌ててその後を追う。結局、お父様が僕の名前を呼んだ理由も分からないままだ。残されたお母様と僕はお互いに口を噤んだままだった。上の階の物音が虚しく響く。電燈が一瞬暗く翳った。

「そろそろ、電球を換えないといけないわね。明日にでも、ふみに頼みましょうか」

 お母様はしわがれた聞き取りにくい声で言った。わざわざ口に出すことでは無いと、お母様も僕も分かっている。言えることがそれしか無かったのだ。寿命の近い電球は、冷めてしまった料理を曖昧な光で照らしていた。


 *


 それからの日々は色彩の無い、ただ慌ただしいだけのものだった。

 翌日からお父様は仕事と並行して雑多な事務処理を行い、お母様はみや子の葬儀の為に親族や矢貫の取引先に挨拶をして回った。僕も何か手伝いたいと申し出たが、葬儀当日までは学校に行くようにと屋敷を追い出された。勝手の分からない子供が居るのは、逆に大人の仕事の妨げになるのだろう。

 普段は割合僕の味方であるふみも、このときばかりはお父様達の考えに賛成のようだった。僕は学校に行っている間も、家の様子が気になって教科書の内容なんて頭に入りやしない。口にせずともそれを分かっているのか、学校から帰るとお母様やふみが、誰それが訪ねてきたなどと教えてくれた。忙しい合間を縫って、お母様達は雅芳兄様や樹田を見舞っているらしかった。二人が身体を壊さないかだけが心配だった。

 雅芳兄様の経過は順調なようで、失明したこと以外は快方に向かっているそうだ。声や気配で誰が近くに居るかが分かるのだと、奇術を見てきたように興奮気味にお母様が話していた。それが強がりであることは分かっていたけれど、僕は素直に話を聞いていた。

 事故から二日後、みや子の通夜が執り行われた。身内の死に際することが初めてで、僕は必死に周りの知らない大人達の真似事をした。

 自分の身を何処に置くべきかも分からない。お父様達は暇もなく親類に挨拶をし、ふみは客人のもてなしで手一杯だ。こんなときに兄様が居てくれれば。そう幾度も思った。そしてその度に、今参列しているのは兄様と共に事故に遭ったみや子の通夜であることに思い至る。地面に足の着かない、現実味の無い時間を過ごした。

 みや子が死んだことを信じられない訳ではない。祭壇にはみや子の遺影がある。まだ一四の癖にモガを気取っていたみや子は、一番の気に入りのワンピイスを着て、写真の中で笑っていた。二日前の朝までと少しも変わることなく笑っていた。

 でも、間違いなくみや子は死んでしまったのだ。飾られている写真は白黒だから。

 けれど一昨日のように、カチューシャの唄が今にも何処からか聞こえてくるような気がするのだ。みや子がこの世界にまだ居る気がするのだ。

 過ぎ去る時間を、僕は他人事のように過ごした。通夜が終わってからの記憶も殆ど残っていない。気が付けば日が変わって翌日の葬儀も終わり、火葬場で登りゆくねず色の煙を目で追っていた。通学服の詰襟が、いやに息苦しく感じた。

 荼毘だびに付されたみや子は、あの煙の中に紛れているのだろうか。彼女の最期がどのようなものか、僕には知る由もない。痛かったろうか。辛かったろうか。せめて銀座で雅芳兄様と遊んでいた楽しい時間だけを抱えて、の岸に行ってほしい。

 近頃のぎこちないみや子との関係を思い出し、後悔ばかりが頭を過る。意固地にならずに、小さい頃のようにみや子と話せば良かった。数年前までは、二人で他愛無いことによく笑っていたのに。兄様に特別可愛がられるみや子が羨ましかったが、みや子に懐かれる兄様も、僕は羨ましかったのだ。二人に嫉妬していのだと、今更気付いた。

 僕はみや子が大切だった。多分、雅芳兄様がみや子に対して思う以上に。

 同じ日に生まれ、同じ場所に育ち、同じ容姿で生きてきた。掛け替えの無い、僕の半身。みや子が居なくては僕は僕で居られない。鏡が無くては自分の姿が分からない。何故あの朝にみや子の誘いを断ってしまったのだろう。僕も同じ車に乗っていれば良かった。

 一生分を流したと思っていた涙が、静かに一筋頬を伝った。何の感情も読み取れない堅い顔をしたお父様が、強く肩を抱いてくれた。お母様が、白いハンケチで頬を拭ってくれた。ハンケチは三日前の夕食の席でふみが渡していたものだった。

「汚いよ」

 自分の顔のことか、ハンケチのことか、言った僕にも分からない。お母様が眉尻を下げながら痛々しい笑みを浮かべた。お父様が肩を抱いてくれている手に、一際力が入る。冬の澄んだ寒空に、人の吐く白い息と煙突から立ち上る煙とが吸い込まれていった。


 *


 雅芳兄様が屋敷にお帰りになった。年が明けてからのことだった。

 夜に眠れば、今までと変わらずに朝が来る。家族を失っても一日、また一日と日は過ぎ、新しい年が訪れた。正月も矢貫家は喪に服し、とてもではないが新年を祝うような雰囲気ではなかった。雅芳兄様が戻られたのは、矢貫の人間が貝のように内に籠り松の内を終えようかというときだった。


 病院には一度も見舞いに行っていない。お母様やふみから様子を聞いていただけだ。だから兄様が快方に向かっているというのは、想像上のことでしかなかった。病院からの車が前庭に停まるのを、僕は空想絵画でも見るように眺めていた。

 樹田の代わりに新しく雇った運転手が車を降り、右後ろのドアーを開ける。真新しい洋服を身に付けた兄様が、礼を言いながら降りるのが見えた。その姿は以前より一回りほど小さくなったようだった。病院での質素な生活で痩せられたのかもしれない。真南に向かってじりじりと動き始めた太陽が、細い影法師を作っている。

 兄様は玄関の方に向き直ると、数歩歩いてから立ち止まった。幸せを噛み締めるような、穏やかな笑みを浮かべている。

 ふと兄様が顔を上げた。その目は僕の部屋の窓に向けられようとしている。見つかってはいけない気がして、咄嗟に僕はしゃがみこんだ。革靴が玉砂利を踏む音が聞こえてから、見つかる筈も無いことを思い出した。立ち上がってもう一度外を見る。荷物を受け取ったふみと共に、兄様は屋敷の中へ消えていった。

 両の眼が見えなくなったという兄様。この前まで見えていた景色が綺麗に消えてしまうというのは、どういう具合なんだろうか。全く想像もつかない。今まで通りに兄様と接することが出来るだろうか。そもそも今まで通りとは、どんな態度であったろうか。僕は兄様に会うのが少しばかり怖かった。

 本来ならば直ぐにでもご挨拶に向かわなくてはならない。しかし僕は玄関で出迎えることはおろか、後から部屋を訪ねることもしなかった。

 昼食の席にも兄様は現れなかった。ふみによると、医者から暫くは動き回らず安静にするようにと言い付けられたらしい。僕達兄弟が顔を合わせないまま、半日が過ぎようとしていた。

「雅次、このあと雅芳のところへ行ってあげて」

 昼食を終えてそそくさと自室へ戻ろうとする僕を、お母様が引き止めた。兄を避けて逃げ回る僕を見かねたのだろう。自分から出向くことに乗り気でないことを察して、声を掛けてくれたのだ。お母様の細やかな気遣いが嬉しかった。

「ふみと一緒に雅芳の部屋に行って。雅芳も貴方に会いたがっていたから」

 一人では行き辛いことも分かっていて、ふみの名前を出してくれる。心労を抱えているお母様の手を、余計なことで煩わせているのが申し訳なかった。これ以上の負担を掛けてはいけないと、分かりました、と承諾した。

 捻くれた僕は、兄様が会いたがっているというのもお母様の優しい嘘ではないかと勘繰る。尋常小学校に通い始めた頃には、みや子と共に兄様の後を仔鴨のように着いて回っていた。屋敷の中では、何処へ行くにも何をするでも三人一緒だった。それが歳が十を超えたあたりから、兄様はみや子を特に可愛がるようになったように思う。

 けれど、僕が嫌われた訳ではないことも分かっていた。歳を重ねても、みや子は小さくて可愛い、守るべき存在のままだった。

 一方弟は背が伸び、体つきも変わっていく。弟であることには変わりがなくても、やがて兄様と僕は対等な男になる。兄様にとっての僕は、ただ慈しみ守る存在でなくなってしまったのだ。

 双子の妹と異なる扱いをされることに、僕は少しの違和感と寂しさを覚えた。勿論、兄様が意図的にそれを区別しているはずもない。自然にそうなっていくしかないことが、僕は寂しかった。だからといって、妹のように只管ひたすら甘やかしてほしいというのでもない。僕は何処までも自分本位で、我儘で、面倒な一四歳だった。

 一つ所に止まらず仕事をしているふみを探す。一階の部屋全てを覗いても姿が見えなかった彼女は、玄関ホウルに居た。出窓に置かれた吹き硝子の花瓶に、竜胆りんどうを活けているところだった。季節外れの深く濃い紫色は、寒さに耐えて凛と上を向いている。

「綺麗だね」

「あら、雅次様。ええ、贔屓ひいきのお花屋さんから戴いたんです。数が無いから矢貫のお屋敷に飾って、と」

「ただ枯れていくよりは、飾ってもらえた方が竜胆も嬉しいだろうね」

「そうですね、私もそう思います。……ああ、雅次様、何かご用では?」

 慌てて姿勢を正すふみが可笑しい。思わずくすりと笑うと、ふみもやや相好を崩した。使用人といえども、僕にとってふみは友人にも等しい存在だ。

 矢貫に仕え始めて間も無く、畏まらなくていいという旨を伝えたことがある。しかし僕の申し出はにべも無く却下された。あくまでも雅次様はお仕えするお家の方だから、ということだった。仕草は歳より幼く見えるときもあるが、彼女は芯の通った大人の振る舞いをする。

 お母様から申し付けられたことを、そっくりそのまま伝えた。ふみは快く了解してくれて、花鋏はなばさみやら水の入ったバケツやらを片付けにいった。


 倉庫から戻ってくるふみを待ち、ホウルの階段から二階へ上がる。吹き抜けにある明り取りの窓から、真昼の高い陽が差していた。陽の中を飛び去る椋鳥むくどりの影が、幻燈げんとうのように壁に映し出される。その影を追うように僕達は上へ向かった。

 雅芳兄様の部屋は階段を上がり直ぐ左手にある。昼に階下へ降りるとき前を通ったが、部屋の中からは物音一つしなかった。ひと月前の朝と同じようにその中に兄様が居るということが、僕にはまだ信じられなかった。ふみが常のように遠慮がちに三回扉を叩き、間違えようのない兄様の声が返事をしても、僕はまだ信じていなかった。

 ふみが扉に手を掛けて、静かに内側へ開く。ペルシア絨緞の複雑な幾何学模様が目に飛び込んでくる。一ヶ月ぶりに見る光景だった。兄様が居ない間、この部屋には入ろうとも思わなかった。部屋の存在自体を忘れていたのかもしれない。長年踏み入れていなかった場所のように、懐かしさが込み上げてきた。

 部屋の奥、ベッドの上に兄様は居た。上半身を起こし、足元には膝掛けを掛けている。糊のきいた白いシャツがよく似合っていた。手元には何故か洋書が伏せられている。顔を上げてこちらを見た。ああ、間違いなく雅芳兄様だ。

「失礼いたします、雅芳様」

「ああ、ふみだね。丁度良かった。退屈していたんだ」

 朗らかに笑いながら話す兄様は、あの朝とちっとも変わっていなかった。事故に遭ったことなど幻のように、記憶にある通りに振る舞っている。僕の心配は杞憂でしかなかった。以前と変わらずに兄弟として暮らしていけるのだ。

 みや子が居なくなってしまった今、僕達は二人だけの兄弟だ。もっと兄様と話をしよう。みや子を失ったときのような後悔をしない為にも。

 会うことをあんなにも避けていたのは何故だろう。本当は兄様に会いたくて仕方が無かったのだ。心の奥底にある本当の気持ちに気付くのは、いつも時が過ぎてからだ。

 あの朝のことを兄様に話したい。カチューシャの唄が聞こえたことを。兄様なら分かってくれるような気がしていた。誰よりもみや子を、そして僕ら双子の間にある糸のことを分かってくれている人だから。次から次へと頭の中に言葉が渦巻く。あれを話して、これを話して――口を開きかけた、そのときだった。

「後ろに居るのは、みや子かい?」

 開きかけた口を閉じる。僕は動き続ける兄様の口元を見ていた。

「目が見えなくなると、人の気配に敏感になるというのは本当だったよ。前に本で読んだときには、まさかと思っていたが。その本も、もう……読めないけれどね。……何となく手が寂しくて、開いては手でなぞっているだけだ」

 傍らに置かれている洋書の表紙を、愛おしそうに撫でる。拾い上げて、なぞっていただけのページを閉じた。

「雅芳様、みや子様は」

「ふみ」

 斜め後ろから聞こえてきた声を遮る。戸惑いを隠せないままの視線が、背中に突き刺さるようだった。兄様はこちらを訝しげに見詰めている。そうしていると、やはり事故など幻のように思えた。寸分も違わず、僕に目線を据えているのだ。まるで僕の姿が見えているように。

「どうしたんだい、みや子」

 兄様はもう一度妹の名前を呼んだ。見えない筈の両眼で、僕を見ながら。

「雅次様!」

 ふみが叫んでいる。気付けば僕は、自分の部屋へ駈け込んでいた。ベッドと壁の隙間に崩れ落ちるように座り込む。三回のノックが聞こえる。返事を待たずに、誰かが部屋へ入ってきた。傍らに同じように座り込み、温かな手で旋毛を撫でる。

 混乱、悲しみ、それから得体の知れない感情全てが波立つ。今し方起こったことを理解する方法を、誰か教えてほしい。僕は醒めながら悪夢を見ている心地だった。目を覚ましてなお纏わりつくのなら、僕はこの夢からどう逃れれば良い。

 消えて無くなりそうな感覚を、柔らかな手の温度だけが繋ぎ止めてくれていた。椋鳥の鳴き声が空々しく聞こえていた。


 仕事の為にふみは一度部屋を出ていった。夕食の準備が整ったことを彼女が知らせに来たとき、僕はいつかと同じように、カアテンも閉めず灯りも点けないまま暗闇の中でじっとしていた。食欲も無く立ち上がるのさえ億劫だったが、お父様がお呼びだというので仕方無く階下へ向かう。

 食堂にはお父様しか居なかった。お母様は雅芳兄様の部屋に居るとふみから聞いた。いただきます、と親子二人で声を揃えたものの、スプーン一本持つ気すら起きない。銀色のカトラリイは電燈の光を受けて、美術品のようにきらきらと光っている。指一本動かさない僕を咎めることもせず、お父様は食事を口に運んでいた。

 おしのように黙ったまま、食事もせず椅子に座っていた。このまま日が変わってしまうのではないかというくらい、そうしていた。

「雅次」

 失礼を承知で、部屋に帰ってしまおうかと考えていたときだった。低い声に名前を呼ばれた。びくりと肩を震わせ、声のした方を見る。そこには、何とも捉え難い表情が浮かんでいた。

 眉根に深く刻まれた皺に、苦悩しているのが僕だけではないことを悟った。僕が独り部屋の隅で膝を抱えていた間のことを、お父様は話し始めた。


 ふみから事情を聞いたお父様達は、半信半疑で雅芳兄様の部屋を訪れた。初めは特別奇妙に思うことも無く、会話を続けていたという。ところがみや子の話を始めたところで様子が可笑しくなった。みや子が生きているように、またカフェーやミルクホウルに連れていくなどと言う。兄様が取り乱すことを承知でみや子は死んだと言っても、端から冗談だとして取り合わないのだ。


 これは只事ではないと、慌てて街から医者を呼んだ。幾つか兄様本人に質問をしたところで医者は、事故の影響で記憶の疾患がある、と答えた。

 自分のことも家族のことも、事故に遭ったことも覚えている。けれど、みや子が死んだということだけが抜け落ちているのだという。まだ兄様の中では、みや子が生きているのだった。

 ふみやお母様からみや子の死は伝えられていた。兄様は声を押し殺して泣き、それでも現実を受け入れていたという。屋敷に帰ってくるまで、不可思議な言動は無かった。それが今になってこのようなことになっている。医者にも原因は分からないそうだ。これから確実に治るという展望も無い。ある日突然に記憶が正常になるか、生涯このままであるのか。何も判然としない。

 言葉の意味一つ一つを確かめるように僕に言って聞かせたお父様は、深く長い息を吐いた。渾然としていた表情には、はっきりとした疲れの色が見えていた。

「……雅次。もしかすると、この先も雅芳は、お前をみや子と思い違うかもしれない」

 真っ直ぐ僕を見詰めていた、兄様の水晶の双眸を思い出す。

「……そっと、しておいてやってくれないか。……勿論、無理にみや子として接しろと言うのではない。ただ、……これ以上雅芳に負担を掛けたくないのだ。明るく振る舞ってはいるが、失明するというのは、並大抵でない辛さだろう」

 お父様は、溺れないよう水面でもがいているような話し方をした。お母様と違って細やかな気配りが出来ない性質だ。今も僕を傷付けないようにと、必死に言葉を探しては繋いでいる。それが逆に僕を苦しめると想像出来ない。僕は早く結論が欲しかった。

「雅芳が治らなければ……雅次、お前が矢貫の家を、矢貫百貨店を継ぐことになる。その為の勉強も、これからしてもらうことになる」

 ふみが身体の前に重ねていた手を動かすのが、眼の端に見えた。徐にお父様が席から立ち上がる。食事を終えない内に席を立つなど、けしてしない人だ。呆気に取られたまま、釣られて僕も立ち上った。傍へ歩み寄ってきたお父様は、幼子にするように僕を抱きしめた。

「すまない、雅次。お前にばかり……」

 僕にばかり、何があるの。

 無邪気に尋ねてみたかった。でもそう出来る程、僕は子供ではなかった。みや子の代わりで、兄様の代わり。自分の行く末を僕は知ってしまった。

 ふみが俯いたまま口元を両手で覆っていた。眼の縁が赤くなり、水の粒が煌めいている。みや子が死んだと知ったときも、雅芳兄様が光を失ったと知ったときも、泣くことは無かったのに。これからの日々の険しさと、背負うものの大きさを、思い知らされた気がした。

 お父様の腕の力は益々強くなる。僕はそのまま潰されてしまいそうだった。食堂の入口に掛けられた姿見の中のもう一人の僕と、目が合った。


 *


 翌日から、僕はことあるごとに兄様の部屋を訪ねるようになった。人から言伝を頼まれた訳でも、自分の用事が有る訳でもない。朝の挨拶代わりにノックを三回、昼食の前にノックを三回。陽が沈む頃に、眠りに就く前に。ただ只管、兄様と会おうとした。


 ノックをした後は兄様のよく通る声を待ち、何も言わずに部屋に入る。声を出せば、兄様は僕だと気付いてくれたのかもしれない。けれど、何故か出来なかった。

 僕が部屋に入る瞬間、砂糖菓子もくやという甘やかな笑みを浮かべるのだ。それは、みや子と顔を合わせるときに見せていた笑顔だった。一度気付いてしまうと、僕の口は言葉を紡ぐことを諦めた。

 笑顔の後には決まって、みや子だね、と僕を真っ直ぐに見据えて言う。愈々いよいよ僕は、何も言えなくなってしまうのだった。

 兄様の部屋に居る間は椅子をベッドの横に置き、勝手に洋書など拝借して読んでいる。何も話さなくとも、みや子が近くに居るということが兄様は嬉しいようだった。時々膝掛けの位置を直して差し上げたりすると、またあの笑顔を浮かべるのだ。

 手の動き一つでばれやしないかと、僕はびくびくしていた。兄様の部屋に出入りしなければ済む話だ。でも僕はそう出来ない。兄様の世界ではみや子が生きていて、僕がそのみや子だから。

 お母様やふみには、事故の後遺症で声が出せなくなったことにしてくれと口裏を合わせている。僕がそう頼んだときに二人は反対した。お父様の言ったように必要の無いことだからだ。それでもなお言い募る僕に折れて、二人は了承してくれた。滅多なことで我儘を言わない僕が無理を通そうとすることに、お母様は面食らったようだった。


 もう日課のようになった、夕食後の三回のノックをする。応える声を聞いて扉を開ける。兄様は蓄音機にレコオドを掛けようとしている所だった。部屋の中であれば自由に動いて良いと、最近は医者に言われている。屋敷の中を歩き回るまでには、もう暫く日がかかるようだった。

 傍目には分からずとも、自由に動けない生活に飽き飽きしていたのだろう。ここ二、三日は扉を開ける度に違う場所に居る。それでも僕が扉を開ければ此方に向き直り、みや子、と呼ぶ。

「みや子も聴いていくといい。どうにも暇で。偶には良いものだよ。流行歌以外は、好きでないかもしれないが」

 手探りで紙箱から盤を取り出し蓄音機に乗せる。慣れたものだった。目で得ていた情報を他の感覚で補う術を、いつの間にか兄様は身に付けていた。昔から器用な人だったから、これくらい造作も無いことかもしれない。

 針を下ろそうと右手が空を掴む。何とはなしにその光景を眺めていた。すると、兄様の手が針を直接掴もうと動いた。咄嗟に僕はその腕を引いていた。

 あのままでは兄様が怪我をしていた。僕が取った行動は間違っていない。でも間違えてしまったのだ。みや子はこんなことをしない。僕のこの手は、みや子の手ではない。

「ああ、有難うみや子。針が危なかったんだな」

 兄様は今度こそレコオドの溝に正しく蓄音機の針を下ろした。僕は兄様の手を引いた自分の手を、まじまじと観察していた。指を曲げたり、甲と掌を交互に見たり、爪をなぞったりした。みや子の手を思い出そうとするが上手くいかない。

「何だか雅次に似てしっかりしてきたね。……そういえば、雅次は最近どうしているのかな」

 雅次はここに居ます、と答えられれば、どれだけ良かったことだろう。自分が誰でいれば良いのか、段々と分からなくなりつつあった。

 僕は僕だ。矢貫雅次だ。

 でも兄様は僕がみや子だと思っている。兄様の傍に居る僕は、みや子でなければいけない。芝居に出る役者のようにとはいかなくても、それなりを演じなくては。

 先日お父様に言われたことも忘れ、いつしかそう思い込んでいた。雅次がしっかりしていると兄様が言ってくれたことに対して他人のように、良かった、と胸裏で呟いていた。

 蓄音機からは仏蘭西フランス語の歌が聞こえてきた。朗々と歌い上げる女性の声は、美しい中にも深い悲しみが湛えられていた。言葉は分からずとも、人の生き死にに関わるとても大切なことを歌っているのは分かる。

 くるくると同じ速度で回り続ける黒い円盤から現れる、人の一生。詳しい仕組みを知らないものだから、僕にとってレコオドは奇術と同じだった。

「オペラ、と言うんだよ。ほら、浅草オペラ観たことあるだろう。あのオペラ」

 知っていますよ、と以前の僕なら生意気に言い返していただろう。どうしても観たいというみや子に付き添い、三人で行ったことがある。観たがった本人よりも兄様が興奮していたのが印象的だった。

「みや子もそのうち、ああして皆の前で歌えると良いね。……久しぶりに、みや子の歌が聴きたいな」

 兄様は、此処ではない何処か遠くを見るように顔を上げた。声を失ったみや子は、兄様に得意の歌を聞かせてあげることが出来ない。それは酷く寂しいことだった。本当は声が出せるのに。此処に居る僕は、声を失ってなどいないのに。

 流れ続けるオペラを背に、僕は兄様の部屋を後にした。自室に戻り鏡を覗く。向こうから見詰め返している人は、よく知っている一四歳の少女にそっくりだった。


 *


「ねえふみ、歌を教えてよ」

 玄関ホウルの花を活け替えている彼女を捕まえ、僕は単刀直入に申し出た。赤茶色の花鋏は、白い薔薇の蕾を一つ切り落としてしまった。ああ、と呻いてふみはそれを拾い上げる。可哀想な蕾は、床に置かれたバケツの中へ落とされた。

「雅次様、申し訳ありませんが私は」

「みや子に時々、教えていただろう」

 ふみの顔が真実を物語っていた。みや子の部屋から、みや子以外の声が聞こえる日が極稀にあったのだ。穏やかな声で、拍の整った綺麗な旋律だった。お母様が流行歌を口遊むのを聞くことがあるが、お世辞にも上手とは言えない。自ずと歌声の正体は絞られる。

「兄様に歌を聞かせて差し上げたいんだ」

 僕の願いを聞いたふみは、深く傷付いたという顔をした。花鋏を持つ手が僅かに震えている。逡巡の後に出窓に鋏を置き、僕に向き直る。

「……かしこまりました。これから、練習いたしましょう。お部屋でお待ちになっていてください」

「ああ! ありがとう、ふみ!」

 嬉しさのあまり、自分の両手でふみの手を包み上下に振る。ふみは驚きながらも微かに笑ってくれた。

 歌など進んで歌おうと思ったことは無かった。けれど兄様がそれを望んでいて、ふみが教えてくれるとなれば話は別だった。二階への階段を駆け上がる。途中擦れ違ったお母様に久しぶりにお咎めを頂いた。

 僕が自室に入って間も無く、ノックの音が三回鳴った。良いよ、と応えるとふみが顔を覗かせる。

「雅次様、ここですと隣にいらっしゃる雅芳様に聞こえてしまいます。大変失礼で、こんなことをお願いするのは気が引けるのですが……私の部屋でも宜しいでしょうか」

「構わないよ。行こうか」

 歌が習えるのなら、場所など問題にならない。僕はふみを追って再び階下へ降りた。住み込みの使用人である彼女の部屋は、一階の一番隅にある。普段踏み入ることのない場所に行くのは、一寸した探検気分だった。

 ふみの部屋の扉は僕達の部屋の扉よりも簡素なものだ。中に入ると机と本棚、ベッドといった最低限の家具が置かれている。きちんと整理整頓されていて、部屋の主の性格が表れていた。机の上には使いかけの華宵かしょう便箋が佇んでいた。

 後から部屋に入ったふみは後ろ手に扉を閉め、僕に椅子を勧める。腰を下ろすと、直ぐにふみ先生の講座が始まった。

「では雅芳様、私が歌う後に続いて真似てください」

 すうっと伸びていく声。穏やかながらも華のある調べ。カチューシャかわいやわかれのつらさ、せめて淡雪とけぬ間と――ふみが歌い始めたのは、みや子が大好きだった歌だ。繰り返し聞かされていたから、およその音の運びは覚えている。

 それにしても、ふみは歌が上手だった。

 本物の歌い手に負けず劣らず、ぶれることの無い旋律を奏でている。単に音が外れないというだけではない。音の一つ一つに細やかな表情が付けられ、歌詞の意味が自然と心に届く。人の内側へ染み入るような歌声だった。

 一区切り付いたところでふみが僕の顔を見る。手を差し出し促されるまま、同じ旋律をなぞり始める。するとふみが、ひゅっ、と喉を鳴らして息を大きく吸い込んだ。両手で口元を覆い、目は驚きに見開かれている。

 近頃はふみのこの仕草をよく見る。また何か重たいものを身の内に抱えたのだと知った。僕は中途半端なところで歌を打ち切った。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 ふみがしきりに謝る。今にも地面に膝をつき額を擦り付けそうな勢いだった。

「どうしたの、ふみ」

「雅次様、ごめんなさい! 私はこれ以上、ああ、何ということを……。あまりにも、あまりにも貴方の歌声が」

 僕はこの歳にしては声が高い方だ。声変りがいつ来るのかと待ち遠しくしていた。話すときは目立たないが、学校の唱歌の授業などでは友人にからかわれたこともある。

 自分の歌声がどう聞こえているのか、自分では到底分からない。ふみに歌を聴かせたのはこれが初めてだ。僕には比べようも無いが、彼女は先生として妹の歌声を聴いていたのだ。間違える筈も無い。

 みや子の女の子にしては低めの声。僕の男にしては高い声。こんなことまで重なるものだろうか。何故だろう。その答えを、僕は分かっていた。

 みや子と僕は双子だから。

 僕が感じたのは憤りでも悲しみでもなく、安堵だった。変に声を作らずとも、「みや子の歌」を兄様に聴かせてあげられるのだ。それはむしろ喜ばしいことだった。ずっと声を失っていたみや子に、声を取り戻してあげられる。

「顔を上げてよ、ふみ」

「ま、雅次様……」

「僕の声が、みや子に似ているんだね」

 絶望の表情を浮かべているふみの手を取る。やはりその手は柔らかく温かかった。必死にかぶりを振るふみに、僕はなお言い募った。

「もっと、歌を教えてよ。ふみの歌が上手だから、僕は、きっと上達すると思うんだ。みや子のように。だから、だから」

 それ以上言葉を繋げなかった。ふみが僕を引き寄せ強く抱きしめたからだ。優しい温かさが、幾度も幾度も旋毛を撫でる。雅次様。ふみが僕の名前を呼んでいる。

 そうだ。此処に居るのは雅次だ。でも兄様の部屋に行く僕はみや子で、歌声も彼女のものだ。僕は一体、誰で居ればいいのだろう?

 妹の歌声を持っていることを心の底から嬉しいと思えた。けれどふみが旋毛を撫でる度に、胸の奥から熱い奔流が流れ出てくる。雅芳兄様の前でカチューシャの唄を歌うのは誰だろう。もう、戻れなくなってしまうことを悟った。

 ふみの仕事着が汚れるのも気にせず、後から後から溢れてくる涙を拭った。頭の上でずっと僕の名が呼ばれている。

「ふみ、ごめん、ごめんなさい。僕本当は……、本当は」

 僕は雅次でありたかった。雅芳兄様の弟で、みや子の兄で居たかった。ふみの白いエプロンからは、昼下がりの日向の匂いがしていた。


 *


 この日の夜から、兄様の部屋へ行くときにはみや子の服を着るようになった。袖や前の袷をふみに少し仕立て直してもらえば、驚くほどすんなりと身体に馴染んだ。姿は見えないと分かっていても、何故だかそうしないといけないような気がしていた。

 死んだ妹の衣装箪笥から洋服を借りる兄の姿は、とても哀れで滑稽なものだ。僕はすっかり女の子の服に詳しくなってしまった。今では立派なモガだ。

 お父様とお母様は何も言わない。僕を止めようとも、兄様に真実を打ち明けようともしないのだから、僕と同罪だった。


 近頃、家族三人の間には雅芳兄様の話題が上らなくなった。食事の席では話もする。何の変りも無く、お父様もお母様も兄様の部屋に出入りしている。ただ暗黙の了解として、兄様の話を自然と避けるようになっていた。薄氷のように触れれば壊れてしまうものと皆が思っていたのだ。

 兄様の部屋へ遊びに行き、午後にはふみと歌の練習をしながらも、その合間にはお父様から矢貫の家のことについて手解きを受けた。

 帝国大学へ通い順当に家督を継ぐ筈だった兄様は、事故により多くのものを失った。目は勿論のこと、これから先精神の治る見込みも無い。長男といえども、もう兄様に家を任せることは出来なかった。

 学校が冬の休みに入っていて良かった。ここに学校の勉学も加われば、忙しさに正気で居られなかっただろう。毎日が慌ただしかったが、不思議と心は凪いでいた。みや子の服を着ていても僕は至って平生通りだった。


 *


 紺青色の柔らかな薄絹に、紫の風信子ヒヤシンスが散らされているワンピイス。腰には茶色い本皮の細身のベルトを締める。みや子の一番気に入っていた洋服だ。白黒の写真の中で明るく笑っていた彼女も、このワンピイスを着ていた。元々少し大きめに誂えられたそれは、仕立て直さずとも僕の身体にぴたりと寄り添う。妙に穏やかな心持だった。

 けれどいくらみや子の服を身に付けたところで、見た目も彼女に成れる訳ではなかった。手は節が目立つし、腕も骨ばって柔らかさが無い。

 僕の身体は大人に近付いていた。自室の姿見に自分を映す。何処からどう見ても、鏡に映っているのは矢貫雅次であった。

 試しに、みや子が洋服とよく合わせていたクロッシェを被ってみる。真白いレエスでつばの部分が縁取られた芥子からし色の可愛らしい帽子は、似合わないことこの上なかった。

 クロッシェは置いたままに部屋を出る。雅芳兄様の部屋の前に立ち、日課の夕食後のノックを三回。一秒と置かず声が返ってくる。

「ああ、みや子。よく来たね」

 近頃兄様は、判で押したように同じ言葉で迎えてくれる。その声に呆れが滲むことは無い。毎回心から来訪を歓迎しているのだった。下手をすると事故に遭う前よりも兄に懐く妹に、怪訝な顔もせずに部屋の中へ招き入れる。

 僕が扉の内側へ進んだことを気配で感じ取ると、兄様は蓄音機の方へ向かいレコオドを手に取る。毎日恒例となった音楽鑑賞は、さながら二人だけの秘密の夜会のようだった。

 洋楽から流行歌まで、ありとあらゆる音楽を兄様は好んで聴く。以前から家族の誰よりも音楽に詳しかったが、事故に遭ってからはその知識をさらに深めていた。退屈な療養生活の中で、時間が許す限り聴いているのだろう。もう迷いなく溝に針を落とせるようになっていた。

「たまには、みや子の好きなものを聴こうか」

 珍しく兄様が僕に訊いてきた。棚に立てて並べられた紙の箱を一つずつ見ていく。ふと、ある箱が目に留まった。自分でそれを取り出し、黒い円盤を兄様に渡す。

「何にしたんだい?」

 答えが返らないことを承知で、兄様は口の端に笑みを浮かべる。実に手際よく蓄音機にレコオドが掛けられた。やがて、無伴奏の中で歌う女性の声が流れ始める。少し昔の流行歌だ。

「……シャかわいや、わかれのつらさ」

 女の人の声に合わせて、自然と口が動いていた。兄様がこちらを見ている。僕はただ前を向いて、カチューシャの唄を歌っていた。

「みや子、ああ、……声が」

 兄様はそう言ったきり、黙り込んでしまった。みや子の歌に聴き入っているらしかった。女優の声とみや子の声が重なる。頭の片隅で、あの朝のことを思い出していた。

 部屋の奥の壁に掛けられた鏡に目を遣る。その中には、お気に入りの洋服を身に付け楽しそうに歌っているみや子の姿があった。

 良かった。みや子は声を取り戻したのだ。

 死んだはずのみや子が居ることに、僕は何の疑問も抱かなかった。みや子の掌には白薔薇の蕾が乗せられている。いつかふみが切り落として捨てたものとよく似ていた。

 レコオドから聞こえてくる音が、ノイズだけになった。兄様は我に返り蓄音機の針を上げる。

「……雅次にも聴かせてやりたいな」

 小さな声で兄様は言った。現実の世界の僕が死んだみや子の代わりになったように、兄様の世界ではみや子の代わりに僕が死んだのだろうか。雅芳兄様の記憶の混濁は、更に進んでいるようだった。みや子が死ぬ日は、永遠に来ないのかもしれない。

 ここに居る僕は、本当は誰なのだろう。みや子が生きていて、それが僕であるならば――あの朝まで双子の片割れであった雅次は、何処へ消えてしまったのだろうか。

 けれどそれは、些末な問題にも思えた。みや子に会いたい兄様に僕は必要とされている。僕は半身であるみや子を必要としている。もう一度彼女に命を与えられる。ただ、それだけのことだ。

「そろそろ寝る支度をしなさい、みや子」

 兄様が名前を呼ぶ。

「はあい」

 僕は素直に返事をしていた。カアテンの隙間からテラスを覗く。羽のような雪が、暗闇の中で白く浮かび上がっている。明日の夜会ではどんな歌を歌おう。また新しい歌をふみに教えてもらうのも面白そうだ。僕は流行歌には詳しくないから。双子の妹が消えるまで続く夜会を、僕は楽しみ始めていた。

 何処からともなく先程まで歌っていた旋律が聞こえてくる。僕が歌っているのか、他の誰かが歌っているのか、もう分からなかった。


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誰ソ彼ソワレ 河岸景都 @kate_kawagishi

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