最終話 VS己自身 その2


  ※※※※


 2025年3月23日(日)

 尾木ケンサクは駅に隣接した大型百貨店で小澤恩音の小説を購入したあと、目当てのイベントがある映画館に向かって歩いていた。

 小澤恩音の新刊は、彼女の書き下ろし長編としてはずいぶん久しぶりのもので、今は絶滅したオオカミをモチーフにした作品であった。

 子供ばかりを狙うピエロ殺人鬼の獣人・辻トモコ(トレコトレマータ=プラチュラ)に小澤恩音の息子・光が襲われたのが去年だか一昨年だかのこと。彼女は自分の息子をオオカミの猟獣、ラッカ=ローゼキが助けてくれたことで、すっかりラッカのファンになっていた。

 今回の小説にも、そういう心情が反映されているらしい。

 ――ところで、ラッカは自分の活躍がきっかけで生まれた本を読んだりするのだろうか? あまり関心はないかもしれないな。

 ケンサクは小さな映画館の近くで百貨店の袋を開け、そのハードカバーを手に取るとパラパラとページをめくってみたのだが、脳ミソが活字を追うモードになっていないからか、内容が頭に入ってこなかった。仕方がないので、 iPhone SE2 を横向きにして YouTube を流す。

 ちょうど小澤恩音がオンラインのトーク番組に出演している回があったので、それを見てみた。テーマはクロネコ事件、そして事件以後の獣人捜査局とラッカ=ローゼキの動きについてであった。


《そもそも》と、元野党議員の弁護士が言った。《クロネコと名乗る獣人はなぜ東京都を襲撃したのか、なぜ警視庁獣人捜査局の捜査員を狙い撃ちにしたのか、真相はことごとく隠されているわけです。原初の獣人、過去のA級事件、それとオオカミの関係。クロネコは公共の電波に乗せて自身の動機を赤裸々に語りましたが、獣人捜査局もその上層部も、回答はいつも同じでした。いわく、「犯行動機は不明。彼が語った事柄はほとんど全て根拠のない妄想であり、重度の精神的トラブルを抱えていた可能性大いにアリ」「原初の獣人についても過去のA級事件についてもコメントは差し控える」、と――バカにしてるんですかって話ですよ!!》

 その発言を受けて、派手なサングラスをかけたジャーナリストが顔の前で手のひらを合わせた。

《逃げ遅れた東京都民の目撃証言によると、原初の獣人なのかどうかはともかくとして、クロネコが逃げ込んだなんらかの「穴」に、オオカミの獣人も飛び込んでいったのはたしかなようです》

《なんですか「穴」って》

《さあ。少なくともオオカミの獣人は、クロネコと至近距離でコミュニケーションを取っていたかもしれないということです。となると気になるのは、クロネコがオオカミを仲間に引き入れようとする言動も繰り返していたことでしょう。――そこで政治的な取り引きが行なわれて、彼が掴んでいた事実が揉み消されたということもありうるんじゃないですか。

 なにしろクロネコは政府が死亡を発表したのみ。一方でオオカミのラッカ=ローゼキは現総理大臣の祁答院アキラとの面会を目撃されているんです》

 二人が話していたのは、政府も警察も信用できない、その警察と繋がっているオオカミの獣人も当然信用できない、という――今どきのリベラル左派としては至極使い古されてはいるが、誰かが振りかざさないとならない論理のひとつだった。

 それに対して小澤恩音は小さく控えめな、しかしはっきりと聞き取れる声で、

《私が知っているオオカミの女の子は、今おふたりが言ったようなイメージとは遠く離れたものです》

 と言った。

《私の知っているオオカミの獣人は、まだ20歳にもなっていないような女の子でした。バイクにまたがって風に吹かれながら走るように、世の中の冷たい理不尽や不条理を浴びながら――それでも自分にとっての正しさを探そうとするまなざしをしていました。

 そうやって私の息子を助けてくれたんです。皆さんが考えるような取引だとか工作だとかをするような女の子には見えませんでした。

 ――あの、あんまりじゃないですか? だって、私たちが今ここでこうしていられるのは彼女がクロネコを倒したからですよね?》

《ああ、はいはい》

 と、ジャーナリストは鬱陶しそうに手を振った。《エンターテインメント作家先生の「印象」というやつですよね、それはあ!》


 尾木ケンサクはため息をついて、動画再生を途中で切り上げた。

 ――オオカミの獣人、ラッカ=ローゼキをめぐる状況はクロネコ事件の前と比べてもずっと複雑なものになっている。

 もちろん小説家の小澤恩音がそうであるように、オオカミの少女を素直に称賛する声もここ一年でかなり増えてきた。しかし一方で、オオカミの少女とそれを擁する獣人捜査局に対して批判的な声も未だに根強く残っている(それについて、ケンサクの友人はこう言っていた。「しかたないだろ。とにかく『権力』とやらの周辺を非難していれば市民の味方を気取れると思ってる活動家サマや代議士サマはたくさんいるんだ」と)。

 そしてその声を取り囲むように、クロネコ事件を中心とした様々な陰謀論や、とにかく衆目に晒された「小娘」に有名税を払わせようとするSNSの世論に彼女は晒されていた。

《だから言ってるでしょ、最初から獣人なんか存在しないんだよ! あれはアンダーグラウンド帝国(略称:UE)の人体実験を隠蔽するためのカモフラージュ!》

《いわゆる「クロネコ事件」は国際的重要人物のための予行練習だったんだよ。欧米列強を陰で操る影の組織との来たるべき核戦争に備えてね! ま、こういう世界の真実は、お勉強ばっかりで世間のことを知らない高学歴の連中にはぜんぜん見抜けなかったりするから仕方ないけどお》

《オオカミの獣人ラッカ=ローゼキ? 知ってる知ってる。政府が「やってる感」出すためのハリボテヒーローでしょ? あの女のウソ活躍映像つくるのにも俺らの税金が使われてるのってムカつくな!》

《祁答院内閣は今すぐ増税をやめろ。軍事費の前に福祉を充実すべきだろうがよ》

《オオカミこそアンダーグラウンド帝国(略称:UE)の尖兵なんだよ》

《いや、ボ、ボクは獣人の実在もオオカミさんの実在も疑っていませんよ? でも、なんだかなあ、活動がちょっとドヤっているというか、しょ、承認欲求っていうんですかあ? 自己顕示欲っていうんですかねえ? そういうバズ狙いのインプレッション稼ぎで正義の味方をやってんじゃないのって思わせるようなところがあ、あ、あるようにどうしても見えちゃうんですよお。じ、自分が強くて悪者をやっつけられるからって、いっ、イイ気になってんじゃあないのっ!? みたいなね!! ボクたち一般市民を腹の底では笑ってそうっていうかぁ、そう! 性格悪そうだよねッ! うん、あの女ぜったい性格悪いと思うよ! だいたいあの喋り――》

《けいさつのオオカミてゃ? え~すきすき~、クラスのみんなでスマホの待ち受けにしてるし~! てぃあらのすきピもオオカミ推しって言ってたよお~!》

《絶対百合であってほしいんですよねえ! 下手な男よりイケメンなの最高っすよお!!》

《オオカミの獣人ラッカ=ローゼキこそ、獣人と人間の共存可能性を示す最大の存在なんですよ。猟獣訓練を受けていないにもかかわらず人間のために戦える彼女は、獣人の次世代へのステップアップを示しているのです。

 獣人のことを和解不可能と決めつけて、差別と偏見に満ちた迫害をするのはもうやめましょう。私たちはシルバーバレットと猟獣訓練制度の廃止を改めて政府に要求します! 興味のあるおかたはぜひ公式のアカウントへ! ボランティア活動、寄付、カンパ随時受け付けておりま~す!》

《ていうかオオカミちゃんさ、ツラはいいけど若干イモっぽくね? あーし芋女子って無理なんだよね~、オンナの文化になじむ気がなさそうっていうかあ~、こっち側の同調圧力に屈しなさそうっていうかあ~、そういうの人格的にどうかと思うしい~、ハブでしょハブ。ハブるっきゃないっしょ~》

 などなど。

 要するに、オオカミというひとつのトピックをめぐって人々は各自勝手に信じたいことを信じ、言いたいことを言っているわけだ。今後もそれは変わらないだろうとケンサクは思いつつ、スマホをしまって辺りを見回した。

 ちょうど、道路の真向かいに一人の男が立っていた。ラークをゆっくりと吸いながら、彼は彼でスマートフォンをいじっている(数世代前の Galaxy だった)。灰色に染めた短髪に丸眼鏡の痩せ型で、どこか単に美形とは言いがたい不穏な雰囲気をまとっていた。

 尾木ケンサクは知らなかったことだが、彼は逃亡犯の間宮イッショウだった――もういちどオオカミ女で「遊ぶ」ために、彼女の知人である尾木ケンサクを次のターゲットにしていたのだ。


  ※※※※


 逃亡犯が逃亡犯であり続けるために最も必要な才能とはなにか? 間宮イッショウはこのことについてよくよく考えてみたが、とりあえずの結論としては、誰の印象に残らず街中に溶け込めることだろうと思っていた。

 そしてすこぶる幸運なことに、どうやら顔が割れたあとも堂々と東京都内を歩いている自分には、その素質があるようだった。

 イッショウは半分以上は崩壊した東京を歩き、安く寝泊まりできそうな場所――たとえばネットカフェを見つけては偽の免許証で会員カードをつくり、怪しまれない程度に長期間の宿泊を繰り返した。金はスろうと思えばどこでも盗むことができた。

 なによりクロネコ事件以後の治安悪化は、イッショウのような犯罪者にとっては完全な追い風になっていた。誰がなにをしたって今の街では「クソ獣人の仕業」ということになってくれるのだ。

 あとは自警団ごっこをしたがるアウトロー気取りのインフルエンサーや、そいつに動員されるアタマの足りない若者どもに目をつけられないように振る舞えばいいだけである。

 ――あいつら、誰彼構わず「お前も獣人か?」と声をかけては、《小指が平均よりも長い人間は獣人》とか《犬歯が鋭かったり三白眼だったりする奴は獣人》とかいう根も葉もない噂を根拠にしてリンチ事件を起こしまくってるからなあ。

 怖い怖い、結局いちばん怖いのはニンゲンだよ――お前もそう思うだろ?

 イッショウは、彼らにリンチされている哀れな犠牲者どものなかには、ただの一人も獣人などいないことに気づいていた。人間を何人も殺し、その死体を犯し、屍肉を食ったことがある殺人鬼の彼ならではの特殊技能のようなものだが――彼には、獣人と人間の区別をつけることができるのだ。

 そのことは、オオカミのラッカ=ローゼキと面会したときも話したようなことで、別に誰かに隠した覚えはない。だが、獣人と人間との間に境界線をハッキリと引くことができるというイッショウの能力は、むしろ、彼自身にとってはひとつの小さな疑問というか混乱のタネになっていた。

 ――僕はなぜ《境界線》のこちら側にいるのだろう?

 こんなにもニンゲンという生きものを軽蔑し、ゴミのようにその命を扱っているというのに、なぜ僕自身は獣人になることがないのだろう。あらゆる獣人は人間に対する殺戮衝動を持つというが、彼らと僕の違いはどこにあるのか。

 ――あるいは、そうだ、オオカミのラッカ=ローゼキはなぜ《境界線》のあちら側にいるのだろう?

 普通のニンゲンよりも、よほどニンゲンという生きものを守っている彼女は、自分が獣であるという事実とどう折り合いをつけているのか。

 それが、今現在の間宮イッショウの興味だった。脱獄してからゆるゆると過ごし、パンプキンヘッド再興の基礎づくりをのんびりと始めながら、彼は、まず、この問いを突き詰めるためにもういちどラッカと遊んでもいいと考えるようになっていた。

 そしてそう考えてからの行動は早かった。まだ三人程度しかいない新生パンプキンヘッドの獣人たちは、ラッカが自由外出する際によくいっしょに遊んでいるW大の男子学生を簡単に割り出していた。それがバンドマンの尾木ケンサクくんである。

 イッショウは、今日も彼を尾けていた。彼の目的地がとある映画館の選考試写会であることを知ると、さっそく声をかけてみようという気になったのである(なにしろ映画の上映中は真っ暗闇になるのだ!)

 イッショウとは車道を挟んだ向かい側、そこに立っているケンサクが彼の視線に気づいたらしい。どうやら、小さな映画館の同じ試写会に招かれた者だと思ったのだろう、ぺこりとお辞儀をしてくる。髪のインナーだけを濃いピンク色に染め、両耳にバチバチとピアスを開けている若い男だ。背は現代日本人男性の平均よりも少し高い程度で、骨ばった痩せた体にはまだ三月の風も冷たく肌寒いのだろう、周囲の通行人よりも厚手のコートに身を包んでいた。

 イッショウのほうも眼鏡の位置を直して少し微笑む。

「あ――どうも」

 とイッショウは声を出す。ケンサクの両肩から、緊張感が抜けていくのが見えた。

「あなたも試写会に?」

「ええ――まあ」

「よかったあ!」

 とイッショウは作り笑いを浮かべた。「場所を間違っていたらどうしようと不安だったんですよね。せっかく『彼女』の本格的な新機軸の作品なんですから、1秒たりとも見逃したくなくて」

 そう言って、あらかじめ用意したパンフレットをひらひらとケンサクに見せた。注目すべきは映画の監督でも主演でもない――オリジナルサウンドトラックを担当したのは、歌姫のスウィーテこと岡部クリスなのである。


 獣人事件に呪われた歌姫の音楽が流れる映画、その上映中にイッショウは尾木ケンサクを狙うつもりなのだ。


  ※※※※


「しかし、スウィーテの本格的な復帰が想定よりも早かったのは嬉しい誤算でしたよ」

 とイッショウは言った。「彼女になんの非もないとはいえ、獣人事件がらみのスキャンダルに巻き込まれて、いっときは酷い言われようでしたからねえ」

「えっ、んああ、そうですね――」

 ケンサクのほうは生返事だった。

 イッショウは、ケンサクが片手でいじっている前売り券をそっと確認する。そこには指定の座席がしっかりとプリントされていた。11のH席。悪くないな――通路側に面しているから、やろうと思えば、上映途中にトイレに立つフリをしながら簡単に刺し殺すこともできそうだと彼は感じた。

 もちろん、そこまでもったいない真似はしない。

 イッショウはケンサクに対して頭を下げる。「長々とすみませんでした。それでは」

「はあ――はい」

「映画、楽しみですね?」

 そうやってケンサクから離れたあと、イッショウは旧世代の XPERIA (当然、盗品である―― SIM カードだけ別のジャンク品と入れ替えているものだ)でパンプキンヘッドのメンバーに連絡をとった。

《ターゲットは11のH席だ。先に椅子に座って、館内が暗転して音が流れ始めたら仕掛けろ。磁力型を発動したら、前もって用意していたホテルまでギターくんを案内するんだ、いいな?》

《――了解》《――了解》《――了解》

《それでいい》

 イッショウは口もとを歪めた。売店でポップコーンとコーラを購入してから自分自身もシアターに入る。チケットで指定されているのは17のG席。

 巨大なスクリーンが、火気厳禁などの注意広告を表示しているその空間に足を踏み入れると、すん、と獣人のニオイが鼻をついた。イッショウは自分自身を納得させるように数度頷いて、既に埋まっている座席を見渡した。

 そこには当然イッショウにとって見知った顔がある――1年前、壊滅しかけていた東京都が復興を目指し始めたときに途方に暮れていた獣人ども。イッショウに声をかけられ、共存共栄・相互利用とは名ばかりの搾取構造に取り込まれた獣たち。新生パンプキンヘッドの男たちであった。

 よしよし、ちゃんとスタンバイできているな。

 イッショウは自分のシートに腰を下ろし、あとは部下が問題なくバンドマンの尾木ケンサクを拉致するまで黙っていようと思った。やがて音声アナウンスが流れ、上映後の舞台挨拶の案内がされたあとで、本格的に館内が暗転していく。

 映画の本質は、暗転と、走馬灯としての映像と、そして明かりがつく一連の流れにこそある――それは典型的な死と再生の儀式だ。

 そんなことを思いついた。

 言い替えれば、イッショウは完全に油断していた。だから――映画が盛り上がり始めた瞬間、自分の両脇にいる二人が急に襲いかかってきて口と鼻を押さえてくるとともに、耳もとで、

「『暗幕』型、発動」

 と囁いてきたときも、いったいなにが起きているのか、少しも把握することができなかった。


 暗幕型、脅威度B級。任意の対象を《誰にも気づかれない存在》にする。

 気絶した間宮イッショウは襲撃者に背負われたまま映画館をあとにした。が、その奇異な格好を誰にも見咎められることはなかった。

 それは第三者の目には、ちょっと大きなリュックサックのようにしか見えなくなっているのだ。

 襲撃者は通りに停車していたワゴン車の後部に間宮イッショウを放り投げ、自分は助手席のドアを開けた。

「作戦は成功だ。出してくれ」

 そう言うと、運転手はエンジンをかけてゆっくりと走り出した。備え付けのハンズフリーフォンを使い、彼らのボスに連絡する。

「チトセ様、間宮イッショウを無事確保しました」

『お疲れ~。やっぱりギターくんを狙ってたの?』

「はい、チトセ様の予想したとおりでした。間宮がオオカミにちょっかいを売るならば、たしかにルートはそのくらいです。こちらはそこを逆に待ち構えているだけでいい」

『そういうこと』

 電話先のボス――吸血鬼の熊谷チトセは(その体は布瀬カナンのものだったが)、血のワインをゆっくりと飲みながら言葉を繋いでいく。

『間宮イッショウがいると、ひ弱な獣人が浅知恵で団結してまた厄介になるからね。あたしたちのグループのためにも、いずれは東京から消えてもらう必要があったけど――』

「けど?」

『もうひとつは、あたしとカナンに優しく接してくれたギターくんへの恩返しかな?』


 チトセはタバコに火をつけた。『間宮イッショウ、そのままあたしのマンションまで。血を抜いて肉をバラしたら丸ごと食べてあげなくちゃ』


  ※※※※


 さて。

 間宮イッショウの死体は永遠に見つからないだろう。その血と肉はチトセ率いる獣人たちに全て分け与えられ、骨という骨は砕かれたあと粉になるまで潰され、適当な山奥に撒かれてしまったからだ。

 本来は、イッショウのような怪物がもはや外の世界をうろついていないという事実を教えてやったほうがニンゲンどもは安心するのだろう。だが、そこまでわざわざ伝えてやる義理はチトセのほうにはなかった。警察どもは、自分たちが取り逃がした凶悪犯がすでに死亡していることに気づかないまま、せいぜい地べたを這いずり回っていればいいのだ。

 脳の奥のほうから、布瀬カナンが不安げな声色で訊いてくる。

《これからどうするつもりですか、チトセ。もうあなたの狙っていた統和教会は壊滅しました。クロネコ派も終了。そして今、パンプキンヘッドはそのリーダーを失いました。ならば今後は、どの組織と協力するんですか。どの組織を裏切って、どの組織を追い詰めるんですか。そういう展望が――現在のあなたにはあるんですか?》

《さあねえ》

 チトセはフッと微笑んだ。この一年で、カナンとの付き合いも相当なものになる。どちらが表に出てどちらが裏に籠もるか、その分担は、ほぼ半々になってきている。

 そんな生活のなかでチトセは、ふと、以前と比べて肩の力がずいぶん抜けていることに気づいていた。

《どうしよっか。これからどうするか考え続けよっか》

《ふざけないでください》

《ふざけたっていいでしょ。あたしたちはコウモリ――イソップ童話が言うところの、鳥にも獣にも良い顔をする卑怯な日和見主義者なんだから》

 チトセはそう答えてから、テーブルにある間宮イッショウの肝臓のソテーをフォークで刺し、ゆっくりと口に運んだ。《皮肉だね。今までは心身ともに健康な殿方の肉しか食べる気がなかったんけど――ゲス野郎の血のほうが美味しいかもしれないなんて》

 ターゲットを変えてみて、もうちょっとこのクソ溜めみたいな世界を楽しんでみようか。狼人間のあの子とは、そうだね、そのうちまた戦うことになるかもしれない。でも、今は気にしなくていいよ。

 どうせまた狩り合うなら道中エンジョイしなくっちゃ。

 そう、間宮イッショウが足元を掬われた原因があるとすればそれだとチトセは思った。彼は狩りを楽しんでいるようで、どこかでストイックになりすぎたのだろう。だから自分とオオカミの違い、アイデンティティ、境界線の問題に囚われてしまった結果、普段ならもっと警戒しながら狙ったはずのギターくんに不用意に近づいてしまったのである。

 狩りの基本すら忘れちゃうなんてね。相手が獲物を狙っている瞬間がいちばん隙だらけになるんだから、そこを逆に狙うのが定跡だっていうのに。――まあ、むかしオオカミを狙って罠にかかったあたしが言えたことでもないけど。

「境界線の問いに答えがある保証なんてどこにもないのにね?」

 チトセは肉料理を食べ終わると唇を紙ナプキンで拭き、夜景の見える窓に映った自分の容姿を見つめた。正確には、それは布瀬カナンの容姿なのだが。

 黒のミディアムボブに、冷たい目。身長が自分とほとんど同じなので動作に不便を感じなかったのは助かるが、しかし、鏡を見るたびにカナンの表情が映る違和感、それが消えていくには半年以上の期間が必要だった。

 だが、もう慣れた。そして、これからもっと慣れていくだろう。


《狼人間VS吸血鬼の次回作にご期待ください、って感じで――ね?》


《はあ――》

 カナンはため息をついた。

《チトセに任せますよ――私は、クロネコみたいな存在が生まれるこの世の中はもう怖くてイヤで、自分ではなにも考えられませんし》

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