最終話 VS己自身 その1


  ※※※※


 2025年3月12日(水)

 田島アヤノは帰郷の電車に揺られていた。次の駅にひとつ進むたびに乗客が減っていき、最後にはアヤノ以外は誰もいなくなっていた。

 暦の上ではもう春だといっても陽が沈むのはまだ早いし、彼女を迎え入れようとする東北の風は冷たく、乾いたままだった。だから、車両のドアが間抜けな機械音とともに開いて外気に触れるたび、アヤノはいつもの青島ジャケットの襟を掴んで引っ張りながら、ふうーっと、白い息を漏らさなければならなかった。

 そうして彼女が駅のホームに降り立つと、だいたいの場合は両親が出迎えてくれるのだが――その年はさらにあと二人、彼女を待ってくれている人影があった。それは、ミズホの両親だった。

 ミズホ――田島アヤノの幼馴染であり一番の親友だった女の子。高校時代、後天性の獣人になって人間を襲い、アヤノが無我夢中でピストルのトリガーを引きながら駆除しなければならなかった少女。

 アヤノが今でも拳銃を握って生きる、その理由になっている女の子。その両親が、アヤノの記憶と比べてだいぶ老け込んだ、バツの悪そうな表情を浮かべながらそこに立っていた。

「おじちゃん、おばちゃん――」

 アヤノのほうも驚きのあまり、それ以上なにも言えなくなってしまった。


 それから五人はアヤノの実家に向かい、鍋料理をつまみの代わりにして日本酒を飲みながら、ついでにテレビもつけて時折訪れる沈黙を誤魔化していた。

「まだ仕事は大変かあ? アヤノ」

 と母が訊いてきた。「去年の今ごろば東京復興の支援活動とか言っで全然帰ってこなかったでねが?」

「んなもん言われてたっで」

 と、アヤノはおちょこを勢いよく呷る。「組織の再編だかで三日に一回は肩書きが変わる状況にブツ込まれで、頭おがしくならず済んだこつば褒めてほしいわ。もう自分が捜査局の何班だか分かりゃしねぇし、現場に呼ばれて到着すっごろには昇進しとるとがもあっでよ」

「はあーあ?」

 と、ミズホの父は大根を箸でつつきながら変な声を出す。「んだそんなあ、メチャクチャでねが。大丈夫か、アヤノちゃん」

 彼の声に、アヤノはビクッと肩を震わせる。普通の会話をしているように聞こえても、この人は私が撃ち殺した親友の父親なんだ、という意識が拭えない。だからアヤノはもういちど日本酒を飲み、

「ま、まあまあ、部下とか持つの初めてだけど頑張るしかね。――警視庁獣人捜査局新第三班の班長として、ぼちぼちやりますよ~」

 と目をそらす。

「覚えとるがよ、自分の所属」

 そこで部屋の空気は緩んだ。というか、緩んだ《ということにして》皆で苦笑いを浮かべつつ、お互いの傷口を恐るおそる確かめ合うようなことをしているな、という自嘲もそこには混じっているみたいな気がした。

 こんな風に生き残った者どうしで許し合っても、ミズホは帰ってこない。二人は娘のミズホを忘れられないままこの村で生きていくし(気まずくないわけがないが、他に迎えてくれるような場所もないのだ)、アヤノは、幼馴染のミズホの死を覚え続けていくためにこれからも戦うだろう。

 そこに意味や報いがないとしても。

「テレビでね」

 と、ミズホの母が口火を切った。

「アヤノちゃんのとこの人たちが働いてるの見たよ。今までは、イメージだけで怖い仕事をしてるのかなって思ってたからさあ、意外と事務的な対応もしたりすんだなあってそれが意外だった」

「ああ、はい」

「――もうちょっと飲む?」

 ミズホの母から勧められるままに、アヤノは辛口の清酒を受け取る。かつて彼女に言われたことを思い出しながら、アヤノはそっと唇をつけた。

《ミズホの命を奪ったことを、引け目に感じたりしないで。あなたはやるべきことをやったんだよ。だから償いなんてことは考えなくていい、自分の幸せのために生きてほしいの》

 アヤノはそれに対して自分がどう答えればよかったのか、今でもよく分かっていない。ただこう答えたのだった。

《違うよ、おばちゃん。私は償いをしたいわけでも罰を受けたいわけでもなくて、ただ、あの日あのときピストルのトリガーを引いたことの意味を考えてるだけなんだ。捨て鉢になってるんじゃないよ、自分の人生のために、必要なんだ》

 そうしてアヤノは、こたつから腕を伸ばしてリモコンを回した。テレビの画面には、未だ傷跡の癒えない東京が映し出されていた。

 ――クロネコが死亡してから、1年が経っていた。


  ※※※※


   Epilogue


  ※※※※


 警視庁獣人捜査局は、大きな被害を被った。その意味でもクロネコの事件は、世の中を騒がせるには充分すぎるものだった。

 もちろん狩人たちを逆恨みする獣人はそれ以前にも存在したのだが、ここまで強い首領が率いる武闘派組織によって起こされた襲撃は初めてと言ってよかった。犠牲者は十数人を超えた。そのなかには、警視庁獣人捜査局の旧局長、渡久地ワカナも含まれていた。


 ――新局長の志賀レヰナは洗面室の鏡を覗き込むと、右目の下瞼を引き下げて(あっかんべーの形になった)白目の部分をじっくりと観察していた。隣に立った赤毛にメカクレの若い女が、レヰナに笑いかける。

「なになに、どうしたのレヰナちゅわん?」

「むかし、お偉いさんに会合で飲まされるたびに目ン玉が黄ばんでないか気にしてる知り合いがいてな」

「んで?」

「そいつの気持ちがよく分かるって感じだ」

 レヰナが言っているのは、ワカナのことだった。彼女とはどうも奇妙な縁で結ばれていた気がする――地元で不良をやっていたレヰナが、いつものようにチンピラなケンカを起こして警察署に閉じ込められていたところに、偶然に通りがかったワカナが声をかけた。

 それが始まりだった。

 やがてワカナの右腕のように暴れているうちに勝手に肩書きがついていった。渡船コウタロウ、藤田ダイスケといった仲間たちとの縁も自然とそこで生まれたようなものだ。

「それが今となっては、生き残りはアタシひとりか」

 志賀レヰナは――警視庁獣人捜査局新局長となった彼女は、左顔面に残る、肉の抉れた傷跡を丁寧にチェックしてから、今の捜査員たちが待つ会議室にゆっくりと入っていく。

 その横を歩いていく赤毛の若い女は、新しい局長専属猟獣シィ=キンギィ。エリマキトカゲの獣人、脅威度B級、工数型の獣人。任意の仕事を人月計算で別の結果に置き換えることができる。

 レヰナが会議室に入ると、各班長とその後ろに並ぶ猟獣たちが気を引き締めた。

 新第1班班長、日岡トーリ。

 新第2班班長、橋本ショーゴ。専属猟獣、イズナ=セト。

 新第3班班長、田島アヤノ。専属猟獣、キュロキュータ=キュロキュータ。

 継続して第4班班長、中村タカユキ。専属猟獣、サビィ=ギタ。

 継続して第5班班長、笹山カズヒコ。専属猟獣、メロウ=バス。

 新第6班班長、川北シンクウ。専属猟獣、ジェシカ=エンジン。

 新第7班班長、杉ノボル。専属猟獣、ウガツ=Y=ミリーナ。

 レヰナは椅子に座り、ひとりひとりの顔つきを確認したあと首のペンダントを開く。なかに入っている夫と息子の写真を小指の腹でなぞってから、

「各班の担当案件は、その状況進捗如何について順に報告しろ」

 と、そう言った。


 いまレヰナの夫と子供は東京から遠く離れ、沖縄離島の賃貸で静かに暮らしている。いちど観光客を装って視察に行ったが、ふたりはすっかり南国の生活に慣れて、肌を焼きながら海と戯れているらしかった。

「勉強のほうはどうなんだ?」

 とレヰナが訊くと、夫のミサオは通信教育の参考書と問題集を取り出して、

「見てよこれ、メチャクチャ成績いいだろ? あとで褒めてあげてよ。このままなら難関私大の付属校も充分に射程範囲内だってさ」

 と微笑んだ。

「へ~え――やるもんだなあ、あいつも」

 レヰナはパラパラと参考書をめくったあと、

「まあ、でも、悪いな」

 と呟いた。

「悪いって、なにが?」

「物騒な仕事のせいで、坊ともお前とも、少なくとも今は離れて生きなくちゃいけないのがなあ」

「レヰナちゃん」

 と、夫は言った。「気に病むことはないよ。僕たちはレヰナちゃんが人類のために、この国のために、どれだけ頑張ってるのかくらいは知ってるつもりだから。――今は、メチャクチャになった街を建て直すことを考えるんだろ?」

「――そうだな」

 レヰナはそれだけ応えてからベランダに出て、タバコを咥えるとマッチで火をつけた。波打つ海岸がすぐ下に広がっていて、そこで、自分の息子がバシャバシャ手足を動かしながら気ままに泳いでいるのが見えた。

 その平和の一部は、レヰナとその仲間が築いたものだ。

 彼女は煙を吐き出した。

「もう少しやれるだけ、やってみるさ」



 そして、現在。

 第三班の班長に任命された田島アヤノがいくつかの獣人事件について説明するのを聞きながら、レヰナは、ここが打ち切りどころだろうというタイミングで簡単に手を挙げた。

「分かった、もういい。捜査の絞り込みは順調という解釈でいいんだな? 次から案件Bは追撃で成果が上がった場合のみ報告。案件Aは目撃証言の裏取に緊急性が高いから、こっちについては引き続き日次の簡易レポートを現場に出させておけ。以上だ」

「――は、はい」


  ※※※※


 会議室で全班の報告がひととおり終わったあと、田島アヤノはオフィスカジュアルの胸ポケットからアメリカンスピリットを出し、急ぎ足で喫煙室に向かった。早く煙草の毒を体に入れて落ち着きたい気持ちだった。

 喫煙室の先客――仲原ミサキとイズナ=セトが、互いのライターの火を交換しながらアヤノのほうを見た。

「お疲れ、我らが新班長」

 とミサキは言った。「ぼーっとしたいのは分かるけど、入り口からどきな? あと五分くらいで局長も一服に来るよ」

「うおお、そうだったわ!」

 アヤノは横に体をずらし、コカ・コーラの広告が入った簡易ベンチに腰を下ろすとすぐに使い捨てライターを点けた。

 それから新第3班が受け持っているふたつの案件について、志賀レヰナ局長からの方針をアヤノはそのまま伝えた。

「あとで添削つきのデータも端末に送っときますんで」

「いま欲しい」

 ミサキはそう言いながら煙を吐き、タブレットを起動。そして「過去の事件との関連性も洗おう。容疑者が今以上に絞れたら新第3班専属猟獣、キュロキュータ=キュロキュータに行動を起こさせる」と捜査方針に追加の注文をつけた。

「うぃうぃ」

 アヤノは頷いたあと、「あ」と声を出した。「そうだ、このあとそのキュロキュータくんと顔合わせの面会があるんですよ。いっしょに来ます?」

「いっしょに行くけど、それは口頭じゃなくてオンラインで『空いてるヤツ全員来い』でいいんだよ。新第3はもうアヤノが班長なんだから」

「あっ、そっか。はい」

「あとで誰が同行したのか電子上で追えるようにね」

 ミサキの言葉にアヤノはもういちど頷いてから、煙草の灰を皿の上に落とした。

「ねえ、ミサキ先輩?」

「なに?」

「なんで新第3の班長に私を推薦したんですか。キャリアの面から言っても、技術的な点で見ても、班長としてふさわしいのはミサキ先輩だと思いますけど」

「――私だけが推したわけじゃないよ。トーリくんも、アヤノとタツヒロくんとカオルくんのなかだったらアヤノが適任だろうって言ってたんだから」

 適材適所だよ。タツヒロくんが持ってるデータベースの厚みは、指揮官よりもその下につく者が持っているほうがいい。カオルくんのガタイの良さは、もっと典型的だけどね。

 まあトーリくんがアヤノを推薦したのは、それだけが理由じゃないと思うけど。

 そう言うと、ミサキはタバコの火を消して捨てた。

「トーリくんを除いたら、オオカミのラッカ=ローゼキのことを最初に認めてたのはアヤノだったでしょ? そういうことだと思う」

「――――そっかあ」

 彼女がそこまで言ったタイミングで喫煙室のドアが開き、志賀レヰナ局長が入ってきた。

「お前らか。お疲れさんだな」

 と言ってから、ぐるりと周囲を見渡し、

「ショーゴのヤツはいないのか?」

 と呟いた。

「ショーゴさんは、退院してからずっと禁煙です。金属板を差し込んだ骨に良くないようでして」

 と答えたのはイズナ=セトだった。ワイシャツのポケットに入っている重い銘柄の箱をカラカラと鳴らし、「なので、もらってしまいました」と言った。

「そうか。トーリの坊主は?」

「トーリさんは喫煙室で吸わないじゃないですか。いつも屋上に出てますから」

「――それも忘れてた。誰か頃合いで注意しとけ」

 レヰナはそれだけ言ってから、簡易ベンチに座ってキャメルを咥えた(生前の渡久地ワカナが愛煙していた銘柄に宗旨替えをしたのは、だいぶ昔のことだった)。

 アヤノは二本目に手を伸ばしながら、ちらっと仲原ミサキの表情を眺めた。

 かつてミサキが班長に立候補をせず、トーリを推薦して彼の下についた理由をこの場所で知っているのは、ミサキ本人と、人員計画についてワカナから引き継ぎを受けた志賀レヰナだけだった。

 ――たとえ死に急ぐ危うさを持つ者がリーダーになったとしても、その下に仲原ミサキがついていれば、人命が不用意に犠牲になることは防げるだろう。だが、その逆は成り立たない。それが理由であった。

 それでも仲原ミサキは、もう日岡トーリの「お守り」役をすることから降りて、アッサリとアヤノ率いる別班への所属を受け入れた。それは彼女なりにトーリを見ていて決めたことなのか、それとも彼女自身に変化が起きたからなのか――それもまた、やはり、白い煙が壁紙を汚していくこの喫煙室のなかで共有されない事情として各人の肺のなかに溜まっていくだけだ。


  ※※※※


 イズナ=セトは煙草を二本ほど吸い終えると、

「では私は、これで失礼します」

 と立ち上がる。エレベーターホールで下行きのボタンを押し、しばらく待った。

 ちょうど目の前の扉のライトが光り、ごうん、と音を立てて開く。なかには既に先客がいた――新第3班捜査員の山崎タツヒロである。

「ども、イズナちゃん」

 とタツヒロは言いながら、両手に抱えている段ボール箱と紙ファイルの山を落とさないように、カニ歩きでスペースを空けてくれた。

「お疲れ様です」

 とイズナは軽く会釈し、地上1階のボタンを押した。タツヒロのほうは地下3階に向かうらしい、そのボタンも仄白く点灯している。

「地下3――獣人研究所の資料閲覧室分館ですか?」

「まあね」

 とタツヒロは答えた。「1年くらい前にさ、『フランケンシュタインの怪物』事件があったでしょ? 学会を追放された頭のおかしい科学者がやらかしたって話だけど、今になってその科学者――浅田ユキヒトの研究に対して再評価の機運が高まっててね。

 彼の自宅あった資料はいったんぜんぶ、デジタル・アナログを問わず分館保管になったわけだ。あとは司書免許を持ってるスタッフを何人か探して他のフォルダと整合性をつけるようにナンバリング、保管、重複データの削除まで進めればおしまいかなあ」

 そうタツヒロは言った。それは本来、捜査員ではなく研究所の所員がやることではないだろうか。まさか、もともと研究所所属だったタツヒロを再び引き抜こうとする動きでもあるのか。

 イズナがそこまで考えているのを見透かすかのように、タツヒロは、

「別に研究所には戻らないよ?」

 と言った。「これは単に先輩の住吉キキさんに頼まれたからやってるだけ」

「そうですか」

「――昔は『研究所には戻らない』って言うときは、我ながらもっと感情的というか、誰が研究の世界なんかに戻ってやるもんか、みたいな恨みがましい気持ちでそう言ってた気がするけど」

 タツヒロは「よっと」と声を出して段ボール箱を持ち直した。「今はなんか、捜査も楽しいし、色々あって前向きな気持ちでやってるよ」

「――そうでしたか」

「イズナちゃんは?」

 彼の呼びかけに、イズナは「――まあ」と、曖昧な返事をした。エレベーターが1階に到着してドアを開けたことに気づき、再び軽く頭を下げてホールに出る。

 ――住吉キキの名前を聞いて、イズナは思わず、あの日のことを思い出していた。両手両足を骨折して病室で横たわった橋本ショーゴ、彼の見舞いに行った日のことである。


  ※※※※


 敵の獣人から受けた攻撃がどのくらい脳にダメージを残しているのか、彼女はクロネコとの最終決戦が終わってから入念な検査を受けた。人類が獣人を味方につける際に行なわれる猟獣訓練プログラムのうち、果たして何割程度がイズナの神経系に残っているのか。

 検査の結果分かったのは、それが、元々のパブロフ・プログラムの20~35パーセントだという事実だった。

 住吉キキは、ゆっくりと首を振った。

「イズナくん、ニンゲンを憎いと思うかい?」

「――いえ」

「今のキミは、敵獣人の攻撃によってほとんど野良の獣と変わらない。獣人核の殺戮衝動をコントロールする方法は現在のキミにはないんだ。なのに、どうして今までどおりに戦うことができると信じられる?」

 その問いかけに、イズナは上手く答えることができなかった。ただ、

「あの人の名前が思い出せないんです」

 とだけ言った。

「あの人? ――キミのパブロフ・プログラムと紐づいている捜査員のことかな」

「その人のために戦っていることは覚えているのに、名前だけが、どうしてもボンヤリしてしまって――」

 住吉キキは、だぼだぼの白衣を少しだけまくって腕組みし、「フーム」と声を漏らした。そして、

「その捜査員と実際に会ってみるしかなさそうだね」

 と言った。「キミは彼の顔を見ても、なにも思い出せないままかもしれない。でも、思い出せるかもしれない。どう転ぶかは分からないよ。キミがそれを怖がってることもなんとなくわかるさ」

「――はい」

「でも、やってみるしかないだろうね」

 キキは仏頂面のまま片目だけつぶった。イズナは、額にうっすらと汗をかいている自分自身に気がついた。

 そんな彼女がキキに連れられて、研究所と連絡橋で繋がっている大学病院、その病棟エリアを訪れて個室の引き戸を開けたのが、たしか最終決戦から一ヶ月かそこらの晴れた日のことだったのである。


 イズナは病室の入り口にある、本来ならば名札がかけられている場所を見た。そこには空白のプラスチックプレートが入っているだけで、扉の向こうに誰がいるか分からないようになっている。

 イズナはゆっくり深呼吸して、自分の後ろに立っているキキをちらりと一瞥し、取っ手に指をかけた。

 戸を開ける。

 ベッドの上に30代前半の男が横たわり、両手両足の全てが、天井から吊るされたロープに固定されていた。簡素な入院着に短い黒髪。

 普段はオールバックだろうと判断できたのはわずかに残った髪の癖から。今は眼鏡を外しているが、日常的に使用しているのだろうと感じたのは、こちらも鼻の根本に残っている跡からそう思ったというだけのことだ。

 ――そもそもベッドの横のテーブルに銀縁眼鏡が置かれていたのだが。

 イズナは息を吐き、一歩、また一歩と男のほうに近づいていく。男のほうも目を覚ましていたのか、天井を眺めていた冷たい視線を彼女のほうに寄越した。

「イズナか」

 低い声だ、と思った。そして、今までに何度も聞いたことのある声だ、とも思った。

「はい、ショーゴさん」

 そう返事をした瞬間に、自分がすんなりと橋本ショーゴの名前を言えたことに驚いて、それ以上に嬉しくて、

 イズナは気がつくと涙を流していた。

「あっ――、ショーゴ、さん。です。あなたの名前は橋本ショーゴさんです」

「そうだ。ちゃんと思い出せたな」

「――はい。はい。思い出せます」

 イズナはまぶたを手の甲で拭うと、橋本ショーゴのベッドのすぐそばまで歩き、柵になっているところへ両手をかけたらもう全身に力が入らなくなって、その場に膝を突いてしまっていた。

 彼女にとってのクロネコ派との戦いはこの日、ようやく区切りを迎えた。

「ショーゴさん――私、私っ――ずっと怖くて、でも、きちんと思い出せました。ショーゴさんとのことを覚えています」

 この気持ちはもう、ただの洗脳なんかじゃない。敵の獣人に猟獣訓練の経験をキャンセルされても、彼に対する想いは残っている。そしてその感情が、イズナを《ニンゲンの味方》にしていた。

 ショーゴはボンヤリとした顔でイズナを見ていた。彼女がしゃくり上げるように泣くのを眺めて、

「どうして、そんなに泣く?」

 と問いかける。「おれのことを忘れてもいいだろうが。新しい狩人のもとについても構わないんじゃないのか、お前は」

「――いいえ」

 イズナは首を振った。

「私は、ショーゴさんのおそばにずっといますから。ショーゴさんのためにこれからも戦いますから。これからも強くなります」

 そう言うと、彼女は鼻を乱暴にすすった。「そう想うことを許してください。勝手に想って、勝手に戦って、ご迷惑かもしれません、けど――」

 ショーゴは、やはり理解に苦しむという表情を浮かべたあと、「なんで、お前は――」と言いかけて、それから首を振った。


「好きにしろ」


「――はい」

「もともとお前に不満はないんだ。優秀な道具だと思わなかった日はいちどもない。獣人を狩り尽くすまでおれのそばにいろ、イズナ」

「――はい、承知しました」

 イズナは彼の言葉を聞いて、ようやく微笑むことができた。



 そして、現在。

 イズナが1階のエレベーターホールを抜けて正面玄関のところまで行くと、先に待っていた橋本ショーゴが杖に少し体重をかけてソファに座っていた。

「ずいぶん長いタバコ休憩だったな、イズナ」

「他班の情報交換に耳を傾けていたらこんな時間に――すみません」

「いや、いいよ」

 ショーゴが手を伸ばすので、イズナは彼の体を支えて起立を補助する。クロネコの武闘派はずいぶん乱暴に彼の骨を粉々にしてしまったようで、しばらくイズナは捜査の右腕役を務めるだけではなく、いくつかの場面では介助の作業につかなければならない。

しかし、それは構わなかった。もともと、自分をショーゴの手足以上のなにかだと思ったことはないのだ。

 車に乗り込むなり、

「教会残党が新しいカルトを再組織してるとの噂は、おれたち新第2班で調べることになったからな」

 とショーゴは言った。「まだ向こうがガタついてる今が狙い目だ。おれの怪我は気にするなよ、派手にやろう」

「はい、ショーゴさん」

 そう答えると、イズナはトヨタクラウン16代目S30型、スポーツZのハンドルを握った。

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