第23話 VS黒獅子 後編その3
※※※※
いつのことだったろうか、クロネコはアジトで本を読みながら(パスカルの『パンセ』だった)、部下の会話をぼんやりと聞き流していた。そして、手もとにあるビールを飲むと、カシューナッツを噛む。
――楽しいな。
と、そのときは素直にそう思った。ふと、テーブルでピザを食べていたハバ=カイマンがこちらを向く。
「クロネコの旦那、顔が笑ってるぜ」
「そう?」
「安心しろよ。夜牝馬は必ずオレが奪取する。こっちの味方にしちまえば、ヤツは最悪の大量破壊兵器だ――オレたちが目指すものも、もうすぐ近くさ」
「うん、そうだね――」
クロネコは曖昧に頷いたが、同時に、頭のいちばん底のほうで《本当か?》という声が響くのを聞いていた。その声の主は、パンテラ=ポロロロッカの亡霊。
《お前さんが目指すのは、本当にニンゲンへの復讐か?》
「ただの復讐じゃないって言ったろ? 完膚なきまでの破壊だよ。ニンゲンは根絶やしにする、しなくちゃいけないんだ」
《そのためなら、どんな犠牲も払って――あらゆる障害を排除すると?》
「そうだよ」
クロネコが頭のなかで言い返していると、不意に、パンテラの声が低くなった。
《じゃあクロネコ。お前はなんで味方になるかどうかも分からないオオカミを泳がせて、彼女に計画を邪魔されるたびに――そんなに嬉しそうにしてるんだよ?》
そして、現在。
深度i8の空間で振り返ったクロネコは、そこにラッカ=ローゼキがいるのを確認した。真っ白な髪を後ろでひとつに結んでいる、太い眉、蒼灰色の瞳が闇のなかの光に輝き、その表情はまるで精悍な美少年のようだった。
「決着をつけよう! クロネコ!」
と彼女は叫んだ。クロネコはそれを聞いて――思わず口もとが緩んだ。
「なぁんで追いついてくるんだよぉ!?」
とクロネコは怒鳴る。「あのまま東京で寝てりゃあよかったのに――! あとちょっとなのに――!! なんで僕の邪魔をするんだ、ラッカ=ローゼキィ!!」
その声が上ずっているのを自分自身でも感じた。
嬉しいのだ。
彼女が自分に立ち向かってくるのが。彼女と戦わなければならないような状況になるのが。彼女に自分のたくらみを邪魔をされるのが――楽しい。
「でももうダメだ」
とクロネコは言った。「あとちょっとで、僕は原初の獣人の再起動システムに辿り着く。お前は、まだ部屋の入口だ――もう遊んでる暇はないんだよ! オオカミ!」
それに対して、ラッカはゆっくりと腰を落とした。そして左手をピストルの形にして、向けてくる。
「距離とか時間が私に関係あると思ってんのか?」
「満身創痍で無理してんなよ。お前も限界だろ?」
「『超加速』!!」
次の瞬間。深度i8の入口からラッカの姿が消えた。
――どこだ?
クロネコは、わずかな空気の乱れからラッカの位置を特定しようとする。そして、それは成功した。彼は遥か上空を見上げる――そこにラッカ=ローゼキはいた。
――時間停止後に即空中ジャンプで距離を縮めながら不意打ちする作戦か!? 甘いんだよ!!
クロネコのほうは、両手を転法輪印の形に結んだ(正確には右手が肘先から吹き飛んだままなので、左手のみの印である)。
「『超再生』!!」
カシャン・と音を立てて、左目の瞳孔が漢字の《狙撃》という形に変わる。祁答院アキラに切断型を使ったから攻撃タイプの型は残り3回しか使えない。その1回を使うならここだろ? ラッカ。空中でどうやって回避するんだ?
クロネコは、ピン、と指を弾く仕草で狙撃型を発動。摩擦音を鳴らした爪先から、かつてゾーロ=ゾーロ=ドララムが発していた光線と同じものが射出される。そのビームは真っ直ぐラッカの獣人核を狙った。
「死ねッ! ラッカ!」
「誰が死ぬか、バカ!」
ラッカのほうは、ピストルの形にしていた左手をそのまま掌底の格好にして、前に突き出していた。
「《超加速型展開、絶対防御の盾》」
彼女がそう宣言すると、時空断絶の壁が発生する。狙撃型の光線はそのまま《盾》と衝突し、金属同士がぶつかり合うような、
――ギイイイイィィィィンンンン――
という音を鳴らした。
ビームは、光は直進して必ず敵を抉り取るはずである。ただし、そこにデカルト座標の断崖絶壁がない限りは――。ラッカの盾はそれを生み出すことで、物質的な干渉そのものをゼロにするのだ。
「マジかよ」
とクロネコは笑った。「まだバリア使えんのタフすぎ、バケモンか」
だが、軽口を叩きながらクロネコは気づいていた。パキリと、なにかが砕ける音がするのを。盾が、崩壊するのを。
――僕がもう型をほとんど使えないのと同じように、ラッカにも限界が来てる。ってことだよね。
ばきり、と、さらに破砕音が鳴った。そしてまばたきする間もなく、クロネコによる狙撃型の光線はラッカの盾を貫通する。ビームは彼女の右肩の肉を抉り取り、そのまま虚空に消えた。
「あッ、が、ああああ!!!!」
「あははは!! 痛いよなあラッカ!! 痛がるところをもっと見せろよお!! 僕も痛いんだ!! もっともっと二人で痛がろう!!」
痛みは快楽とは異なり、どこまでも平等である。男女の区別さえ痛みにはない。痛めつければ相手は痛むという純粋さがそこにはある。
――だから、セックスという儀式さえ殺し合いの直接性に勝てない。そうだろう?
そんな風に微笑むクロネコに、ラッカは、
「だからなんだよ!」
と睨みながら吠えた。「そんなに痛ぇのが楽しいなら、何発でも食らわせてやる!!」
そうして、ラッカは右肩から噴き出す血と肉をそのままにしつつ、もういちど左手をピストルの形にした。
「『超加速』!!」
彼女がそう怒鳴るのを、クロネコは震えながら聞いた。もう二発目の時間停止!? 流石に無理がきてるんじゃないのか、ラッカ――盾は壊れた、ならそれより高エネルギーの矛は作れない、戦闘時の体感で推測するに、今回のタイムストップがラスト1回! なら有利なのはこちら側――まだ僕は二回くらいなら超再生を発動できる。
来いよ! 返り討ちしてやる!!
そして、クロネコは目をこらす。何度もラッカの超加速型を見ていてようやく分かった、彼女の癖――時間停止の前に、移動先の方向と地点を一瞬だけ目で追う悪癖。それを見逃さないためである。
そして彼は両眼を開いた。ラッカの瞳が、超加速型発動の際に11時の方向に揺れた――クロネコから見て右側に着地する予定らしい。なるほど、理に適ってる――さっきの祁答院アキラとの戦いのせいで、僕の右腕は痛んだままだ。そこから攻めようってこと?
くくく、とクロネコは心のなかで笑った。
セオリーどおりの戦略は相手に読まれやすいだけだぞ、オオカミ。
そうして、超加速型発動とともにラッカが姿を消すと、クロネコはすぐに彼女の着地予想地点に振り返りながらバックステップで適切な距離を置いた。
つもりだった。
実際には、クロネコの目論見は外れた――ラッカが着地したのは反対方向、クロネコの左腕側――今まさに彼が背を向けている方角だった。
「――え?」
「とっくに気づかれてると思ったよ、私の癖」
互いの視線がそう語り合う。口に出して言い合わなくても分かり合える、戦闘時の刹那の時。「戦闘の天才でいてくれてありがとな、クロネコ――普通はこんなの誰も引っかからねえよ!」
そうして、ラッカの左拳が後ろのほうから飛んでくる。クロネコは咄嗟にガードする、が、ラッカは左手をキュッと握りしめて腰をひねりながら攻撃を引っ込め(フェイントである)、それと同時に右回し蹴りを彼のうなじにブチ込んだ。
ビキビキ――と、首の骨がきしむ音がする。
ウソだろ、とクロネコは思った。
どう考えてもボディブローが本命だったろ、なんでそこからハイキックに攻撃を修正できる!?
クロネコは痛みに耐えながら、少しずつ察していた。ラッカは戦いながら成長できる。クロネコと、彼自身と拳を交えながら、そのなかで彼女の体術はさらなる伸びしろを見せていたということだ。
――面白い。
クロネコはニヤリと顔を歪めた。もっと強くなるのかラッカ、ならそれをぶつけてみろ、僕にもっとその強さを試してみろ――。
そう思いながら姿勢を正した彼に、今度は渾身のストレートパンチ。「がっ」。脳髄の揺れを最小限に留めながら防御を崩さないクロネコの、今度は脚に牽制のローキック。
「はは――はははは!!」
クロネコは鼻血を流しながら、あと数メートル、あと数メートル移動すれば再起動装置を押せるという場所でラッカの猛攻を受け続けた。
※※※※
ラッカに殴り飛ばされたクロネコは、再起動装置からさらに離れた場所へ転がり込む。頭蓋骨の上で足を止めることはできず、そのまま原初の獣人からさらに数メートル下のほうへ倒れた。
「ッくそォッ――!!」
起き上がりざまに、クロネコは瞳孔の形を《狙撃》に変える。残り二発のうち、最初の射出。だが、感情に任せた攻撃は標的であるラッカからわずかに外れて、致命傷を与えてくれない。今まさにラッカが構えようとしていた拳銃が後方に吹き飛び――ぷつん、と熱に当てられて、彼女の髪を縛る古いゴム紐が溶けただけであった。
白い髪が広がる。
そのラッカが、全力疾走で自分のほうに向かってくる。クロネコはなんとかもういちど立ち上がろうとするが、それよりも彼女の拳のほうが早かった。
――パン!
と音を立てて、彼の鼻っ柱に改めてストレートパンチが入る。脳が揺れて、意識がさらに朦朧としてくる。痛みが伝わってくるのはそのあとだ。
クロネコは気力を振り絞って直立姿勢を崩さず、すぐに反撃に転じた。今度はラッカの左頬にフックが命中する。
もう、互いに防御と回避を交えた駆け引きはできそうになかった。ただあるのは、殴る、殴り返す、殴り返されたら殴る、殴られたら殴り返す――その応酬である。
「いいかげん、くたばれ――!」
クロネコはそこまで言ってから、ふっと足腰に力を入れられなくなり、その場に膝を突いて四つん這いになった。
手のひらを地面につける。ひんやりとした、頭蓋骨のひとつを掴んだ。
が、次の瞬間。
頭蓋骨のざらざらした肌触りが、唐突に消えた。代わりにあるのは研磨済みの大理石を敷き詰めた、ツルツルとした触感である。
「――え?」
戸惑いの声を出したのはクロネコではなく、ラッカのほうだった。この異変に、彼女のほうも巻き込まれている。
幻覚ではない。深度i8の空間が、これまでと同じように、原初の獣人の力によって別の姿を見せようとしているということだ。
そしてそこにいるのは、まだ五歳にも満たない幼いクロネコ自身だった。強化ガラスのなかに入れられ、不安げな表情で外側を眺めている。
いや、外側というよりも――正確には、強化ガラスと通路を挟んだ向かい側、そこにある同じような強化ガラスの箱をじっとりと見つめていた。
対岸に閉じ込められているのは、クロネコの生みの両親だった。シルバーリングをつけられ、薄水色の入院着を着せられた若い男女を、研究員たちが囲んでいた。
『もっと電圧を上げろ』
と、どこの国のものかも分からない言葉で研究員が言うと、両親たちは苦悶の表情を浮かべながらガラスのなかで痙攣する。
『もっとだ、まだ耐えられるだろう』
と誰かが言うと、さらに両親たちの痙攣は酷くなった。
残り何人かの研究員たちは、その通電実験を見ながら、同時に幼いクロネコのほうを冷淡な視線で観察していた。
――実験の目的はひとつである。獣人核の性能と、殺戮衝動、つまり人間に対する憎悪はどのような関係にあるのか。たとえば順当に比例しているのか、である。
『ダメですね』
と研究員が答えた。『電圧を上げても子供のほうには反応がありませんよ』
『両親の苦痛と、我々の行為をリンクして認識していないのでは?』
と別の研究員が答えた。『もっと直接的な方法で見せないとガキには分からないですよ』
『――やめて』
と幼いクロネコは呟いた。そんな訴えを無視し、研究員たちは各々の道具を取り寄せる。
『では父親の腕を押さえてください』
そう言いながら、年長の研究員が業務用電動ノコギリのスイッチを押した。『まずは右から、次に左を斬り落とします。子供の獣人によく見えるように道を開けてください! ちゃんと見せないと意味がないから』
ヴヴヴヴヴヴヴヴ――と、刃が稼働を始める。
『やめて!』
と幼いクロネコは悲鳴を上げた。
同時に現在のクロネコも、
「やめろおおおおアアアア!!!!」
と、半狂乱の叫び声を上げた。今まで思い出すことさえなかった記憶が強引にこじ開けられ、彼は、ほんの一瞬だけ自分がどこにいるのかさえ分からなくなる。
気がつくとクロネコは、超再生型によって切断型を発動し、それを研究員の亡霊に向けて四方八方に放っていた。
白衣の男たちがバラバラになっていく。それだけではない、力の加減ができないクロネコは、研究員の群れの向こうにいる両親たちも同じように切り刻んでいた。
「ああああ、あはあははあ!」
目と、鼻と耳の穴と、口から血が漏れていく。反動。ここに来てクロネコは、完全に超再生型を使用できなくなった。
――そして、それを見逃すラッカではなかった。彼女は暴走するクロネコの背後に回ると、ぐいっ、と肩を掴んで自分に向き直らせた。
「どこ向いてんだよ?」
「ら、ラッ――カァ?」
「いま殺り合ってんのは私のほうだろ!!」
ラッカの肘が、クロネコの顎へと命中した。
彼は崩れ落ちる。ラッカのほうも、もはや自分の攻撃による衝撃には耐えることができず、片膝を突いてうずくまってしまう。
それをぼんやりと見ながら、「くくく」と、クロネコは笑った。「なんだよ~ラッカ、僕にトドメを刺せないのかあ? んん?」
そうしてラッカの髪を乱暴に掴むと強引に立ちあがらせ、その腹部を容赦なく蹴り上げた。
「僕にトドメを刺せよぉッ!!」
「がはっ!」
「ニンゲンが憎い! 憎い! 脳ミソがかゆい! かゆいんだよ! 早く止めてくれよぉっ――でなきゃそこで寝てろ!!」
ブン、と、ラッカは強引に投げ飛ばされて床に転がる。慌てて手を突いて体を起こそうとするが、その手のひらに、思いがけず乾いた雪の感触があった。
「――雪!?」
そんな驚きの声を上げたのはラッカではなく、クロネコのほうだった。またしても深度i8の空間が、原初の獣人の力によって別の姿に変わろうとしていた。
そしてそこにいたのは、七歳になったばかりの幼いラッカ=ローゼキ自身だった。片方の足をトラバサミに食われて泣き叫んでいる。その近くの大木には、ふたつの死体が吊るされていた。
体中にシルバーバレットで穴を空けられたサイロ=トーロ。そして、体中に偽りのスキャンダルを落書きされた蒼野ハコの凍死体。
ラッカは、一瞬だけ身動きが取れなくなる。
その体を、クロネコは殴り飛ばした。
「お前の本当の家族だって、ヒトザルどもに殺されたんだろうが!!」
とクロネコは怒鳴った。
ラッカは、血を吐きながら(真っ赤な液体が雪に染まった)ゆっくり体を起こす。クロネコはさらに苛立ちを募らせるように、その場で聞き分けのない子供のように地団駄を踏んで声を荒げた。
「ニンゲンを嫌いになれよ! 憎めよ! 恨めよ! さっさと見限って諦めてろよ、ラッカ=ローゼキ!! なに良い子ぶってんだよぉ!!」
そんなクロネコの悲鳴に対して、ラッカは首をただ横に振った。
「なんでだ!!」
とクロネコは金切り声を上げた。「お前のほうにこそ、ニンゲンを憎んでいい理由があるんだ! お前がニンゲンの敵になって、僕の味方になってくれたらこんな遠回りだってしなくて済んだんだ!! 両親を死なせた劣等種族を守るだって!? アタマおかしいんじゃないのかお前は!?
なんの打算だ? ニンゲンがお前にどんな見返りをくれるっていうんだよ、ええっ!? それともニンゲンのなかに両想いの男でもいて、そいつに尽くす気か!? ニンゲンの愛をどうやって信用できるんだよ、そんなもの全部まやかしに決まってるだろ!! あいつら腐ったヒトザルがゴミの群れをまとめるためにデッチあげた、国家だの宗教だのカネだのと同じくらいにな!!」
クロネコは早口でまくしたてる。
それをラッカは、無表情で聞き流していた。まるでそこには、「お前にはもうなにを言っても分からないだろ?」と、対話そのものを打ち切るような雰囲気さえ漂っていた。
そしてその態度が、余計にクロネコの神経を逆撫でした。
「なんでだよ! ――なんでだ!! オオカミ!!」
そう叫び終えると、彼はラッカに近寄って腕を振り下ろした。ラッカはそれを、攻撃の軌道さえ見ないままガードする。
クロネコがさらに彼女の胴を狙って下から拳を放つと、ラッカのほうは、最小限のステップでダメージを相殺した。
「くそおッ――」
「もう見切った」
ラッカはクロネコの腕を手刀で払いながら、腰を回転させて蹴りの準備をした。「クロネコ――仮にお前が正しくたって、私はニンゲンの味方をする。
そう決めたんだ」
そうして。
ガラ空きになっていたクロネコの胸部に、ラッカの回し蹴りが深く、重く届いていた。
※※※※
クロネコは仰向けに倒れたとき、自分の背中に触れるものが細やかな雪のそれではなく、ざらついた砂であることに気づいた。
――また、原初の獣人の発現か。
目を開けると、青い空が一面に広がっている。針葉樹に囲まれた平らな集落、その砂場に彼は寝転んでいた。春の風が吹いた、と思った。
そんなとき耳に、
「遊ぼうぜ」
という声が聞こえてきた。首をそちらに回してみると、幼いクロネコに、同じく幼いラッカ=ローゼキが手を差し伸べているのが見えた。
ほんの一瞬だけ、ふたりが友達になれた時間。
子供たちを遠くから眺めているのは、まだ元気だったころのパンテラ=ポロロロッカと、ラッカの母親。
――はあ。と、現在のクロネコは息を吐いた。
「そうだ、遊びに誘われて嬉しかったんだ」
と彼は呟いた。「もういちどだけオオカミのねーちゃんと遊べたなら、楽しいだろうなって思ったんだ。だからラッカが東京にいるって知って、ワクワクした」
なんだか全身の気が抜けていくような感じがした。
再び首を動かして、現在のラッカを見た。彼女のほうは動かなくなったクロネコを見て、右手の甲から三本の刃を伸ばしていた。部分獣化。それで僕の獣人核を抉り取るつもりか。
「ラッカ」
「ん?」
「獣人はこれからも生まれるんだ。人間は消耗しながら戦いを続けていくしかない。そんななかで、オオカミ、お前はいつまでニンゲンどもの味方でいることができるかな?」
本当の戦いはここからだ、ラッカ=ローゼキ。せいぜいあの世で見守っててやる。
それがクロネコの最後の言葉だった。
そして、ラッカはクロネコの胸を切り刻んで殺害した。
返り血に洋服と顔と頭髪を汚しながら、ラッカは、頭蓋骨の山の上にあぐらをかいて、その場の壁らしきなにかに背中を預けた。それは壁――というか、原初の獣人の体の一部だったのだが。
「――疲れた」
と彼女は呟いた。「もう、もときた道を引き返すとか無理かなあ」
そうして、自分の体についている傷をひとつひとつ点検する。どれも真新しく、流れる血は頭蓋骨の上にしたたった。それを見ていると、眠い、と感じる。
頭の上のほうから、
《誰だ?》
という声が聞こえてきた。低い、落ち着いた男の声色だった。ただボーッとしていたラッカは、声の主について特に考えることもなく、ただ言われたとおりに返事をする。
「ラッカ=ローゼキ。オオカミの獣人」
《そのオオカミが、ここになんの用だ》
と声は言った。《わたしを解放にでも来たのか?》
あ、とラッカは思った。これって喋ってるやつ、原初の獣人ってヤツなんじゃないのか?
「えーと」
とラッカは言いよどむ。「あんたを解放しようとしたヤツは、別にいたんだよ。で、そいつのことは私がブッ飛ばしちゃったから――だから、私は解放に来たわけじゃないよ。あとは帰るだけ」
《――――》
ずるずる、と、原初の獣人の頭部が動いた。拘束を外す力はないが、限界まで首をずらして足もとのラッカ=ローゼキを見ようとしているらしい。
原初の獣人の顔を、そのときラッカは初めて見た。禿げ上がった真っ赤な皮膚にブツブツと毛が生えている。度重なる再生がそうさせているのか、目玉の数は100を超え、顔面の至るところにビッシリと配置されていた。
全てまばたきのタイミングが違う。そのたび瞼の深いシワが収縮と膨張とを繰り返し、顔全体のバランスが変わっていくように見えた。
原初の獣人が口を開く。目玉ほどの数ではないが、それでも多く、まるで顔中に切り傷が入ったあと、紫色の内臓を見せるかのようにペリペリと唇を開けていった。
《では――》
と原初の獣人が言った。その声は彼の口からではなく、ラッカの後頭部のほうから直接響く、と思った。《これからお前はどうする? オオカミの娘――》
「これから?」
《これからどうしたい――?》
そう言われて、ラッカは改めて周囲を見渡した。そこにはクロネコの死体が仰向けに、安心したかのような表情で倒れていた。――今回の一連の事件の首謀者、最凶のA級獣人、そして、ラッカと遊びたかっただけのクソガキ。
「あいつを連れて、外に帰るよ」
とラッカは答えた。「みんなが――トーリが待ってくれてるから」
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