第23話 VS黒獅子 後編その1
※※※※
クロネコは、自分の左目のあたりをゆっくりと手のひらで覆う。カシャン・カシャン・カシャン――という音が立て続けに響いていった。
「うん、大丈夫そうだね」
彼が手を離して顔を上げると、エメラルドグリーンの瞳の瞳孔は、漢字の《突破》という文字になっている。つまりビーコルニ=リノセロの型は、完全にクロネコに取り込まれたのだ。
「ずっとこれが狙いだった」
とクロネコは言った。「志賀レヰナが率いる警視庁獣人捜査局第二班を襲撃して猟獣のクダン=ソノダを始末したとき、占星型の能力が僕に流れ込んできた。そのとき僕には未来が見えた――もちろん天気予報と同じくらい曖昧であやふやなものだったけどね」
「占星型?」
とイズナは訊き返した。
「うん」
とクロネコは頷く。「分かったのは、志賀レヰナを含めた全ての重要人物たちはX級獣人へのアクセスコードを吐いてくれないってことだった。最善策では、誰かから拷問で聞き出すつもりでいたんだけど――アテが外れたって感じだった。
ではどうするか。次善の策は、お前ら警視庁獣人捜査局員と同じだった。アクセスコードを割り出せる別の獣人を連れ出して使役すればいい。お前らは僕のアジトを割り出すためにA級獣人を探す――そのA級獣人、ビーコルニ=リノセロを僕の計画にそっくりそのまま利用すればいいんだ」
クロネコは、にっかり笑った。
イズナは自分の頭を押さえながら立ち上がる。
「クロネコ――お前は、その次善策を満たすために、わざわざ自分のアジトを堅牢にしていたのか?」
「将棋と同じだよ。自玉を穴熊に囲って守りに徹するのは、攻めてきた相手の大駒を使ってカウンターを食らわせるためだろ?」
あとは簡単な未来予想だ。
――僕がラッカ=ローゼキと戦えば、7割以上の確率で僕が負ける。そうすれば、イズナ=セト、お前は自分に懐いているリノセロを連れて僕の死体のそばまで来てくれる。
でも、連れて来るしかないだろ? 僕があらかじめニンゲンどもの獣人収監施設を破壊し尽くしたんだから。
「負けるのも計算のうちか!?」
イズナが怒鳴ると、クロネコはフンと鼻を鳴らす。
「まさか。勝てるなら勝ちたかったし、こっちは本気でやったよ。そうなったら別の面白いシナリオもあったんだからさ。
いや、違うかな。
お前は知らないだろうけど、さ――自分よりも強い相手があまりいないって、思ったより寂しいことなんだぜ。だから楽しかったよ」
そうしてクロネコは、気絶したままのラッカを遠くから見つめた。
「僕はラッカと戦えてよかった。これから僕がつくる世界では、彼女のような、強くて美しい生きものだけが正当な自由を手に入れる。そういう世界にしようか。弱く醜い存在は、まあ、これまで分不相応な生を与えられてきた――その報いを受けながらせいぜい苦しめ」
クロネコがそこまで言い終わるか終わらないかのうちに、メロウとサビィが武器を携えて再び彼に飛びかかっていた。
「させねえっすよ――! クロネコ!」
とメロウ。
「X級獣人のところには行かせねえ! 消えろ!」
とサビィ。
それに対してクロネコは、白い歯を見せた。
「雑魚が鬱陶しいんだよなぁ~もぉ!!」
カシャンと左瞳孔の形が漢字の《切断》になり、右瞳孔の形が漢字の《歪曲》になる。次の瞬間、メロウの首と腰と手足が全て斬られ、サビィは関節という関節を逆方向に捻じ折られて地面に突っ伏した。
「あ、が、は――!!」
口から血を吐きながら、メロウはその場に転がる。クロネコは、
「ん?」
と首を傾げて彼の体を見た。メロウの胸部のあたりに部分獣化によるクモの糸が巻きつけられており、それが斬撃を弱めていたらしい。
「くははっ、なんだよ、獣人核ごと切り刻んでやろうと思ってたのに――けっこうやるじゃん? メロウ=バス?」
それからクロネコはサビィのほうを見た。彼のほうは微動だにしない。ふん、と鼻を鳴らし、クロネコはゆっくりとイズナ=セトに向かって歩いていく。
イズナのほうはマトモに戦える状態ではない。さらに酷くなっていく頭痛が、耳もと、口のなかにまで響いて、ろくに立ち上がれる体調ですらなかった。
「やあ、イズナ」
クロネコは彼女のYシャツ襟首を掴むと、強引に自分へ近づけた。
イズナが苦痛に震えているのに気づき、クロネコは「どうしたの~?」と呼びかける。カシャン・と音を立てて瞳孔の形を《明察》に変え、じっと彼女の目のなかを覗き込んだ。
「はあん――そういうことか」
とクロネコは微笑んだ。「トキサメに獣人研究所時代の洗脳を解かれたな? もうお前は自分が誰のために獣人と戦っているのか思い出せない」
イズナは、歯を食いしばる。
「――殺るんなら、さっさとひと思いに殺ったらどうですか」
「あはは! 戦う覚悟を挫かれて死ぬのが怖くなったかぁ?」
クロネコは、イズナの首を掴む腕に力を込め始めた。
「お前の型も便利だ、体力補給ついでにもらっておく」
イズナは目をつぶる。
クロネコはさらに手に殺意を込めた。
が。
咄嗟に第三方向からの気配に気づき、彼は腕を離すとバックステップですぐにその場を退く。先ほどまで自分がいた場所を、銀の弾丸が通過していった。
銀の弾丸――シルバーバレット!?
クロネコは着地と同時に、銃弾の発射方角を向いた。
そこに立っていたのは、警視庁獣人捜査局第七班班長、日岡トーリである。手に構えた自動拳銃グロック17からは、まだ熱い煙が立ち上っていた。
「日岡クソ夫妻の息子か――!!」
とクロネコが怒鳴ると、
「俺の仲間たちから――ラッカから離れろ」
とトーリは静かに告げた。
『アホ、なにしてんねん!』
と、トーリのインカムに、第五班班長笹山カズヒコの怒鳴り声が流れ込んでくる。『こっちの切り札ラッカちゃんは意識不明! 他の猟獣は手も足も出ん!! 仕切り直しや、はよ撤退せえ!!』
「できかねます」
とトーリは言った。「俺のラッカはまだ生きてる。だったら、俺がここで退くことはできない!」
それからトーリは、再びクロネコに照準を合わせた。
クロネコのほうは、ただただ、癇に障る、と感じた。
そのときのこと。
視界の隅で、ありえないことが起きた。もう意識を落として動かないはずのラッカ=ローゼキの手が、指が、ぴくりと反応した。
「なに!?」
クロネコはそちらを見る。ラッカが、僕を斃すことに全力を使い果たしてもう動けないはずのオオカミが、なぜまた動こうとしている――!?
日岡トーリの声が聞こえたから?
この男に応えようとしていると?
クロネコのこめかみに、青筋が立った。そうして彼はトーリのほうに向き直る。ラッカとトーリの間にある忌々しい絆を、本能的に察知したからである。
「よく分かった、諸悪の根源――日岡夫妻の息子!!」
「なに?」
「お前がラッカを惑わしているから、騙しているから、ラッカはいつまで経ってもニンゲンを憎めないんだ!! 腐ったヒトザルどもを恨んで当然のオオカミがそうできないのは、お前のせいか!! ――日岡トーリ!!」
「なんの話をしてる?」
「誤魔化すな! オオカミになにを吹き込んだ!! 消えろ!!」
クロネコは両手を転法輪印の形にすると、カシャン・と音を立てて瞳孔の形を《狙撃》に変えると、「『超再生』!」と怒鳴った。
トーリのほうも、思わず身構える。
だが、クロネコの攻撃は発動しなかった。
代わりに――口、鼻の穴、目、耳、その全てから血が流れて止まらない。
「うあ――ああ?」
彼は、自分の身になにが起きているのか分からなかった。「なんっだよ、なんなんだよっこれぇ――!!」
トーリのほうは、拳銃を向けたまま警戒態勢を保った。
「クロネコ」
と彼は呼びかける。「いちど獣人核の備給で蘇った程度じゃ、ラッカの攻撃の余波を全ていなすのは無理みたいだな。反動だろ? それは」
しっかり効いたままじゃねえか。オオカミの爪と牙が。
「――勝手言うなよ」
クロネコは、頬に流れる血の涙をゴシゴシと手の甲でぬぐうと、
ゆっくりと後ずさった。
「別にこっちはいつでもいいんだ――お前らを始末するのなんて、原初の獣人にアクセスすればいつでもできるんだから!」
それから、地面に右手のひらを当てる。「日岡クソ夫妻の息子、お前を始末するのは後回しにしてやる――この国もろともブチ壊すまでな!」
「させるか!」
トーリは怒鳴り、トリガーを引いた。いや、引こうとしたのだが、その一瞬前に、クロネコがアクセスコードを呟くほうが早かった。
最初の文節を語り始めた時点で、クロネコの周りにプロテクトガードが走った。いったん物理攻撃は無効となる。
『ピュシス、生命の世界。人はそこから頽落せり』
クロネコはアクセスコードを言い始めた。
『カオス、錯乱する自然。人はそこに象徴を打ち立てたり。恣意的に、差異的に、共時的に我らはコスモスとノモスを捏造せん。構造と交換。個と対。双数的なイマジネールからサンボリークへ、贈与の一撃。コード化、超コード化、原国家。
しかるに揚棄されざるエクセス、秩序と混沌の間で二元論の弁証法的相互作用、これ獣人の源と為す』
クロネコは言葉を続けていった。
『切断、接続、切断、接続、切断、接続、我らこれを反復せり。
獣は既にそこにあり、自然を人は越えられず、秘密の穴は二つもなし、毒薬機械は役立たず、中国人は舞台袖、賽と勘こそ危機のもと、キャメラは自身を撮られずに、手品のタネはテーブルの上、ワトソン黙せず、世界の双子と一人二役そこに並べよ』
そして、こう言った。
『第一原則、ヒトはヒトに危害を加える。第二原則、ヒトはヒトの命令に逆らう。そして第三原則、ヒトは己の身を守ることさえ知らない。これがヒトの全てであり、獣人の基礎である――』
にやり、とクロネコは歯を見せた。
『X級、ヒト、原初の獣人――創世型。虚数空間、開門』
次の瞬間。
バリバリバリバリ――――と音を立てて、クロネコの位置を中心に、地面が、いや時空そのものが、無数の正六角形の破片に割れて裏返っていった。クロネコは、まるで天井ガラスが割れたビルから逆さまに落ちていくように――世界の裏側へ消えていってしまう。
「じゃあな、狩人!! 原初の獣人のところには僕が先に辿り着く――そうすれば僕の勝ちだ!!」
※※※※
同時刻。
ラッカが目を開けると、そこは、冬の山だった。風は弱いが、乾いた雪がぽつぽつと降っている。彼女はそこに見覚えがあった。かつて、自分が遭難し、そしてオオカミの群れと出会った山である。
「ここは――なんで?」
ラッカがそう声を漏らすと、
《どうした? こちらだ小娘》
と低い唸り声が響いた。
それはずいぶん聞き馴染んだ声――自分を17歳になるまで山で育ててくれた、群れの長の声だった。
「かあちゃん!?」
ラッカは、音がするほうに向かって走った。
「待ってよかあちゃん!! 私さ、言いたいこといっぱいあるんだよ!! あの、えーと、えっとさ、人里に降りてからも上手くやれてるよ、私!! ちゃんとニンゲンの味方になれてるよ!!」
《そうか――》
「それとさ、会いたい人にも会えたんだ!! 私――!」
《ラッカ=ローゼキ》
オオカミの長は静かに言った。《この先は、おまえ一匹で行け》
「え――」
ラッカが戸惑っていると、ごう、と雪が強くなった。思わず彼女は目をつぶって、風のするほうに手をかざした。そうして雪と風の勢いが弱くなるとともに、うっすらと瞼を開けて顔を上げる。
そこにはオオカミはいなかった。もともとオオカミの群れの長などいなかったのである。
代わりに遠くに立っていたのは、蒼野ハコだった。
「え――」
ラッカは立ち尽くす。そこにいるのが誰なのか、意識の上では分からなかった。ただ、無意識のなかではなんとなく分かる。目の前にいる、栗色の髪をした女が自分の生みの母であるということが。
「あはは」
とハコは笑った。「すごい、ラッカ。お父さんによく似たね?」
「えっと――」
「そのドッグタグ、今でも大事につけてくれてるんだ?」
彼女にそう言われて、ラッカは改めて自分の首にぶら下がっている銀のドッグタグを握った。
「――うん」
「それ、裏側に書いてある英語が変でしょ? お父さんがね、ロクに言葉も分からない小さいころに適当に彫ったやつだから」
ハコはそう言うと、ふっと目を細めた。ドッグタグには、本来あるはずの名前も番号も削り取って、そこに刻まされているのは《 Obey Your Mind 》という文法のメチャクチャな英語だった。
無理やりに訳すならば、汝の心に従え、という意味である(正しくは、Follow Your Heartなどと書くべきだろう)。
「ねえ、ラッカ」
とハコは言った。「ラッカは今、自分の気持ちで生きてる?」
「――うん、生きてるよ」
ラッカはそう答えた。
「偉いね」
ハコは、ばっと両手を広げた。ラッカは、思わずそこへ向かって駆け足で寄っていく。勢いよく抱き着くと、獣人としての勢いにハコの身体のほうはついていけなくて、
「わ、わ、わ、わあ!!」
と笑いながら後ろに倒れて積雪が舞った。ラッカもその身体に、上から覆いかぶさる。
「あはははは!!」
ラッカは大声で笑いながら、ハコの胸に頬ずりして、
やがて、
涙が止まらなくなって、その場でズビズビと鼻を鳴らすはめになってしまった。
「ずっと、ずっと元気だったよお! お母さんがいなくなってからも、私、けっこう大丈夫だったよ!」
「――うん」
「だけど、ずっと寂しかったよお――お母さん!!」
「――ごめんね?」
「なんでいなくなっちゃうんだよ! なんで、あのとき私を独りにしたんだよ――!!」
えぐっえぐっ、と、しゃっくりを上げながら泣くラッカの頭を、父親ゆずりの白髪を、ハコはゆっくり撫でた。そうして大事な一人娘が泣き疲れるのを見計らったかのように、そういえばと話を続けた。
「ラッカは、好きな人とかできた?」
「? うん」
「その人のためなら、なんでもやれる?」
「――うん。私にできることなら、だけど」
「そう」
ハコは、白い歯を見せて微笑んだ。
「じゃあ、よかったよ。ちゃんと自分の気持ちで生きて、誰かのためにその気持ちを使えるなら、もう立派な大人だね。――たぶんだけどね?」
それからハコは、ラッカの首に下がる銀のドッグタグを指の腹で優しくなぞった。
「サイロ」
とハコはドッグタグに呟いた。「あたしの代わりに、もうちょっとだけ、この子を見守っててね?」
――以上が、ラッカが気絶している間に見た夢の全てだった。
ラッカが現実で目を覚ますと、周囲のビルがほとんど全て無人の廃墟と化した東京都内の交差点、その中央で、酸素マスクをつけられたまま腕に何本も針を刺されているところだった。
『もっと即席で獣人核を活性化させるものを入れろ!』
という怒鳴り声が、どこか遠くから聞こえてくるかのようだった。『もうクロネコは虚数空間の深度i5まで到達してる! これ以上ラッカが目覚めないなら二度と追いつけなくなるぞ!!』
※※※※
ラッカは、声がするほうをほとんど目の動きだけで追った。獣人研究所から出てきた生き残りたちが、白衣を身に纏って、自分の腕に針を刺したり、胸につけた心電図をモニタリングしたりしているのが分かった(おそらくその心電図は、単に循環器の鼓動を見ているというよりも、獣人核の動きを追跡しているということだろう)
――みんなが私に起き上がってほしいと思ってる。私にはまだやることがあるんだ。
そう感じてからは早かった。彼女はすぐに上半身を起こすと、自分の口にテープで固定されていた酸素マスクをべりべりと剥がした。白衣たちが息を呑む。
「オオカミが! ラッカ=ローゼキが意識を取り戻しました!!」
誰かがそう叫んだ。ラッカ=ローゼキはいちばん近くにいた男の肩を叩き、自分の腕を指差す。《針を抜いてくれ》という意味だ。
「私、どのくらい寝てたの?」
ラッカがそう呟く、と、遠くから「だいたい2.5時間ほどだよ」と答える声があった。
住吉キキである。物憂げな垂れ目に、ボブカットの茶髪、そして、だぼだぼの白衣の袖にすっぽり両手が隠れている風変わりな女科学者。
「キキ?」
とラッカは言った。「あれから大丈夫だった? 研究所はクビになってないの?」
「起きて早々に他人の心配か。まあキミらしいけどね」
とキキは答えながら、ラッカのそばにしゃがみこんだ。「こんな大混乱だ、人事関係なんか全部ウヤムヤだよ。
それよりも、今はキミの回復状況だ。残されたスタッフでやるだけのことをやったが、全快にはほど遠い。クロネコを止められるのはおそらくキミだけだが、科学者として正直に言うと――ここから動いてほしくない」
「だからって白旗あげるわけにもいかないんだろ?」
ラッカは口もとをキュッと引きしめた。「私、どのくらい戦える?」
その表情を見て、キキはやれやれと肩をすくめた。
「時間停止は二発。盾と矛はそれぞれ一回きり。部分獣化をやったらそのスタミナも切れると思え。それから、オオカミにはなれない」
大ハンデだった。だが、勝算もあった――クロネコのほうも、蘇ったとはいえ無傷というわけではないという報告がある。なら、戦いようはまだあるのだ。
「ハッ、絶好調じゃん」
とラッカは笑った。「アイツなんかそれで充分だぜ」
「――止めても無駄のようだね?」
キキはため息をついてから立ち上がった。「クロネコが開いたX級獣人へのゲートはまだ開いてる。入るなら今だよ」
「うん」
そのとき、隣にいた白衣の男が「針のほう、ぜんぶ抜いておきましたよ」と声をかけてきた。ラッカは「ありがと」と微笑んでから膝を突き、ふらつかないように立った。めくれあがっていたバンドTシャツが下がって腹まで隠す。
視線の先には、真っ暗な穴があった。
不思議だ、と思った。空間の途中から先がパックリと切り取られ、光も音もなにも返さないみたいな雰囲気のトンネルが、ゲームのバグのように脈絡もなくその場にあった。
「あれがX級、ヒト、原初の獣人が住んでいる虚数空間への入り口だ」
とキキは言った。
「もっとも虚数空間というのは、そうとしか表現できないという意味で当時の政治家たちが決めた言いかたで、数学的に厳密なものでもないらしいけどね――トンネルの向こう側に広がっている空間は、こちらでは実数化されない、幅も高さも奥行きも『ない』としか言いようがないものだよ。が、そこにはたしかにある。場のエネルギーは観測不能」
「――なるほどなあ?」
「クロネコの位置は量子エコーで追っているが、現時点で、彼は深度i5まで到達しているらしい。『実在しない』深さに到達しているというのも変な話ではあるが――おそらく、これ自体がX級獣人の型だろうという話だ」
「要するに、まあ、行ってみなきゃ分かんないってことか」
ラッカはそれから、トンネルのそばに二つの人影が立っているのを見た。
一人目は、トーリだった。コートのポケットからなにかを取り出してラッカのほうに差し出している。それはシルバーバレット入りの自動拳銃グロック17、そして電流つきの特殊警棒だった。
「トーリ――」
「――俺はここまでだ。ラッカが帰ってくるのを待つ」
「ありがとう。行ってくる」
とラッカは答えて、両方の武器をベルトに固定した。
「ぜんぶ終わったら、おいしいごはんつくってよ。色んなお店に案内されて、ニンゲンの料理が美味しいってことは分かったけど――トーリのつくるごはんが、きっと私はいちばん美味しい」
そんな風に喋るラッカに、トーリは、少しだけ表情を険しくした。
「最初に会ったときのこと、覚えてるか?」
「え?」
「カラスの事件で、ラッカは俺を助けてくれた。俺もラッカを助けようとして、今では、こんな風になっている。ラッカの命をなんとか救おうとして、結果的に、人間の警察の――獣人捜査局の面倒ごとに巻き込んじまったのかもしれないと、いつも思ってた――いつか、どう思ってるのか聞きたかった」
「トーリ――」
「ラッカ」
彼は言葉を繋いだ。「ラッカのことが大事だ。だからときどき分からなくなる。本当にこれでよかったのか――ラッカは気ままなオオカミとして、東京を楽しく旅してるほうが本当は良かったんじゃないか、そのほうが幸せだったんじゃないかって――こう思うのは俺の傲慢か?」
「んーん」
とラッカは首を振ったあと、
「でも私はこれで良かったよ」
と答えた。「私はトーリに会うために人間の世界に来たんだ。だから、トーリといっしょにいられる今のやつがいちばんいい。
本当だよ。
最初に会ったときって、トーリは言ったけど――本当はもっと前に会ってんだ」
「え?」
「あ、ひでー、やっぱ忘れてたのか」
ラッカは少し笑ってから、それからシャンと背すじを伸ばした。
「私はもうとっくにトーリの相棒で、警視庁獣人捜査局第七班専属猟獣、オオカミのラッカ=ローゼキだよ。
だから、待っててほしい。
私が戦いを終わらせて、帰ってくるの」
「――分かった、信じてる」
「おう、信じてろ――相棒」
それからラッカが拳を突き出すと、トーリはそこに拳を合わせてくれた。
二人目は、イズナ=セトだった。あとから聞いたが、酷い頭痛にうなされていたところからようやく持ち直したところだったらしい。
彼女の隣には双眼ライトのバイク――SUZUKI GSX1300R HAYABUSA をさらに改造した猟獣専用二輪車、『LAST KICK』があった。
「フラフラでしょう? 乗せていきますよ、ラッカ」
「うん、ありがとう」
「――クロネコの野郎を、さっさとブチのめしに行きましょう」
イズナの殺気に満ちた表情に、ラッカも少しだけ獣の目を取り戻した。
「ああ。ぜんぶカタをつけようぜ!」
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