第22話 VS黒獅子 中編その3


  ※※※※


「ぎ、い、いい――!!」

 クロネコは顔を押さえながら、その場にあるエレキギターのスタンドを倒し、ベースを散らかし、ドラムセットとキーボードを床に転がすと、店の奥へと逃げていく。眼球を抉られた顔面からは、まだバタバタと血が垂れていた。

 熱い。痛い。熱い。痛い。痛い。痛い。

 ラッカはギターを握ったまま追いかけた。クロネコの頭蓋骨にヒビを入れたテレキャスは根本から折れてしまったため、いま手に持っているのは漆黒の Gibson Les Paul Custom 。

「逃げんなよお――!」

 ラッカが血を吐きながら呻くと、クロネコはヨロヨロと逃げながら「来るな、来るなよ」と叫ぶ。

 そして、「あっ」と声を上げて、クロネコはその場に前のめりに倒れる。床に張っていたコードに足を引っかけた――それに気づかないほど今の自分は疲弊しているのだ、と分かった。

 絶対貫通の《矛》を二発受けて、シルバーバレット入りの砲弾を一発防御、少しずつだが着実に、クロネコの体力は奪われつつあった。

「くそ、くそ――!」

 クロネコはラッカのほうを見つめる。彼女のほうも傷は完全には癒えていない。腹に空いた穴からは赤い血が垂れ続けて、息も絶え絶えという状況だった。

 ラッカは、それでもレスポールを大きく振りかぶった。

「やめろ――来るなアアアア!!!!」

 クロネコは残った右目を《狙撃》の形に変える。そして、ゾーロ=ゾーロ=ドララムの型を流用し、ラッカに光線を放った。

 キイイイイィィィィン――と、刃物と刃物がぶつかるような金属音が響く。それはラッカが咄嗟に《盾》を展開して狙撃を受け流したときに発生する、時空断絶の断末魔。

「がああ――あああッ!」

 ラッカのほうは、咄嗟に狙撃型の攻撃を防ぐものの、足もとがおろそかになったため、後ろに転がるように倒れる。そこに、名バンドのポスターとショップ専売の革ジャケットが雪崩のように落ちていった。

 クロネコはそれを見て立ち上がる。

 ――盾の防御力が弱くなってるな。ここでゴリ押しすれば行ける、そうすれば、僕の勝ちだ! ラッカ=ローゼキ!

 クロネコはもういちど手をかざし、すぐに狙撃型による攻撃を準備する。一方、ラッカのほうは上体を起こすのに時間がかかり、彼の動作に対応しきれない。

「反撃してみろよ――ラッカ」

 とクロネコは言った。「お前の《矛》は、こっちの逆行型の防御から免疫型の対応で処理してやる。お前がどれだけ強くても――どれだけ生ぬるいことを言っていても全部こっぱみじんにブチ壊してやる!」

 次の瞬間。

 クロネコの手から、再び狙撃型の光線がラッカの身体に命中する。

 かと思った。


「――え、えあ、ああ――!?」


 クロネコは呆然とする。そしてそれは、ラッカのほうも同じことだった。

 なぜなら、クロネコの手から出るはずだった光線がラッカに命中するほんの数ミリ手前で立ち消えたからである。

「なんだよ――バッテリー切れかあ!?」

 誤算に次ぐ誤算。

 たしかにクロネコとラッカは死闘に次ぐ死闘を繰り広げてきた。だが、それは本人たちが想定する以上に早く、二人の体力切れをもたらしたのである。事実、二匹はもう獣人体になることができない。クロネコは自衛隊戦車からの砲撃によって、そしてラッカは腹に空いている風穴のせいで。

「はは――こりゃいいや」

 とラッカは泥のように笑った。「悔しいか? クロネコ。悔しいって気持ちがどういう気持ちか分かったかよ」

 そう言うと彼女は再びレスポールを振りかぶった。

 もう型は使えない。ならば、あとは純粋な暴力による決着があるだけだ。

「ぎ――!」

 クロネコはすぐに両腕を頭の上でクロスするように構える――防御姿勢――そこに向かって、ラッカは容赦なくエレキギターを振り下ろした。

 ボキボキボキ――と勢いよく腕の骨が折れていく。

「うあああううっ痛っううう――!!!!」

 クロネコは呻きながら、ラッカの攻撃が終わるコンマ1秒を見計らって足技を出した。

「がっ!?」

 ラッカはその場に仰向けに倒れて、後頭部を床に打ち付けた。

 そのダメージを見てから、クロネコは逃げ出す。左目からの流血は止まらず、両腕は折れたままで使いものにならなかった。

 それでも逃げれば――逃げ続ければ獣人核の再生が追いついて立て直せる。立て直せるはずだ。立て直さないといけない。最後に勝つのは僕なんだから! その思いだけで、クロネコはなんとか楽器店から去ろうとしていた。

 そして、その姿を追うのがラッカだった。

「テメエ――!! 逃げんなコラァ――!! 殺す殺す殺す殺すッ!!!!」

「わ、うわ、わああああ!!!!」

 クロネコはブラブラとした両腕を引きずりながら、全力で駆け出す。ラッカは腹から血を垂れ流しながらそれを追いかけ続けた。


  ※※※※


 クロネコは逃げ惑いながら、ただ、昔のことを思い出していた。自分のことを母親代わりに育て上げてくれた、パンテラ=ポロロロッカのことである。

 当時の彼には――今もだが――名前などなかった。そして、『クロネコの村』と呼ばれている集落のしきたりにも、馴染むことはできなかった。理由は簡単である。僕と最初に遊んでくれたあのオオカミのねーちゃんは、村から追い出された。オオカミのねーちゃんの父親と母親も死んだ。

 そして村は、ねーちゃんたちを守ってくれなかった。それだけが全てだった。

「過去に囚われんなよ、ボーズ」

 とパンテラはクロネコの頭を撫でた。「長く生きてりゃ理不尽のひとつやふたつある。折り合いをつけろとは言わねえよ。耐えろとも思わない。でも、自分がなんのために生きていくのかを考えりゃあ、ニャア、つまらない選択肢の優先順位を下げることくらいはできるだろうさ」

 パンテラはそう言ってから、ニッ、と笑顔を見せた。「お前さんがしたいのは復讐か? 弔い合戦か?」

「――違う」

 とクロネコは答えた。それは本心だった。僕は復讐がしたいわけじゃない。ただ、なにがしたいのか分からないんだ。

「そうかよ」

 パンテラはポケットから錠剤を取り出すと、いつものように丁寧にクロネコにそれを握らせた。「今日のぶんのチューZだ。ちゃんと飲めよ? 獣人がヒトを殺さずに生きていくためには、これが必要不可欠だからな」

「――うん」

 クロネコは、パンテラが見ている前でそれを口に含み、ごくんと喉を鳴らしてみせた。そうして安心した様子のパンテラが去っていくのを見てから、ぺっと口のなかのチューZを吐き出した。

 ――ニンゲンに対する攻撃衝動? バーカ、誰がそんなもん捨てるかよ。

 それからクロネコは――山里を降りて市街地を視察するメンバーに志願し、ノルマを果たしたあとは、自分のためだけの調査を進めることにした。

 誰がオオカミ男を殺したのか。今の日本で獣人たちを牛耳っている組織はなんなのか。そうして突き止めた、反社会勢力と政府との癒着(それが事実かどうかは知らない、少なくともクロネコはそう信じたのだ)。

 戦後関東ヤクザ・横井総会傘下の暴力団が犯している悪事。ザコ獣人に不法業務を押しつける櫻井会。彼らを飼いならすために違法ドラッグを都内で売買する岩田組。そして反抗的な獣人たちを奴隷として売買する宮本組。

 宮本組と癒着して多額の利益を得ているキリスト教系新興宗教・統和教会。宮本組と統和教会の縁を取り持つことで勢力を維持する神柱家。

 クロネコは爪楊枝でチッチッチッと歯をいじりながら、その資料を眺め続けた。そして書かれていた情報はもうひとつ。

「代議士の祁答院アキラは祖父の代から続いていた統和教会との関係を維持して、獣人奴隷の調教データを不当に入手している。それは欧米列強諸国との連携を強めるために、彼女が獣人の軍事転用を公約に掲げていることと関係している」

 クロネコは、その紙ペラに目を止めた。「なお、祁答院アキラは2010年代におけるA級獣人オオカミ、XXX(伏せ字)討伐との関係も疑われている」

 そう書かれていた。

 クロネコは、村に戻る前の山脈中腹で笑い転げた。そうかそうか、なんだよ、ぜんぶニンゲンが悪いんじゃないか。

 彼は涙を流しながら、しかし、このときはまだ村を去ろうという気はなかった。

 彼が村を去ったのは、その帰りに、自分のそんな村が火に焼かれているのを見たからである。


「え――!?」

 クロネコは呆然としてから、すぐに気を取り直し、集落に向かって駆け出した。「パンテラ!! パンテラかーちゃん!! かーちゃん!!!!」

 口で呼吸をすると喉が熱い、と思った。それでもクロネコは全力疾走で集落の家々を見て回った。

 村長は頭をカチ割られて死んでいた。自警団長、医師長も同様だった。

 そうしてパンテラの住処に行くと、彼女は、その場にある大きめの石で顔面をグズグズに破壊され、瀕死の重体だった。

「パンテラ!」

 とクロネコは泣きついた。反応はない。「誰がこんなことをした!?」

 焼け落ちる家屋のなかで、クロネコはただパンテラにしがみついていた。

 ――なんてことはない。薬物の収入源が割れそうになった、ただそれだけの理由で横井総会は『クロネコの村』を焼き払ったのだ。

「パンテラ――!」

 クロネコはパンテラの体を抱き上げた。彼女がこの村に来る以前なにをしてきたのか、クロネコはそれとなく訊いて調べたことがある。彼女もまた人の街に住んでいた頃は、獣人核の衝動に流されるままニンゲンを襲う連続殺人鬼だった。

 ただし、パンテラはそんな生きかたにウンザリしていたのだ。だからこんな山奥では、自分の寿命をどれだけ縮めるか分からない劇薬を飲みながら過ごしていたのではないのか。

 オオカミの父親、サイロもそうだ。ニンゲンの連中が余計な刺激さえしなければ、彼は自分の娘ともっと長く生きられたんだ。

「ヒトザルども――!!」

 とクロネコは怒鳴った。

 身勝手な怒りだと我ながら思った。人間社会から見れば単に罪の清算をしていない獣。たとえ心を入れ替えたところで、報いを避けられるはずもない。

 ――だが、ならば、ヒトザルどもの身勝手についてはどうなんだ。

 クロネコは、とっくに両手のなかで冷たくなっているパンテラを抱えながら山の炎を眺めていた。

 カシャン、と音がする。クロネコの瞳孔が生まれて初めて形を変え、ひとつの魂を受け入れた音だった。それは漢字の《疾走》になる――パンテラ=ポロロロッカの型だった。

「ニャア、さっさと逃げるぞ!」

 と後ろから声が聞こえた。振り返ると、そこにはパンテラが――その屍鬼が立っていた。

 クロネコは屍鬼に手を引かれ、下山を始めた。

 途中で「本物の」パンテラの死体のほうは手放してしまったのだが、それに気づける精神状態ではなかった。今はただ、自分の生き甲斐がやっと見つかりそうな予感に胸を震わせていた。

 破壊だ。

 ただの復讐じゃない。小賢しく群れて、武器を携えて、自分たちの身を守っている矮小なヒトザルどもの世界を、綺麗さっぱり一掃する。そのために必要な力が、僕にはある――クロネコはパンテラの屍鬼を見ながら、そう思った。


 超再生型。特殊な条件を満たすことで①獣人を屍鬼として蘇らせて意のままに操る②その獣人の型をクロネコ自身のスペックで再現できる、2つの能力を持つA級の能力。

 条件は以下のとおり。

 ・自分または屍鬼の手で獣人を殺害する、もしくは、その目で獣人の死を見届ける

 ・生前戒名として相手に名前を贈与する

 それはクロネコが下山後、長い実験期間のなか把握した自分自身の能力だった。

 ずいぶんややこしくて使いにくい型を手に入れちゃったなあ、と彼は思った。もっと敵の意識を一斉に奪うとか時間を停止するとか、分かりやすく強いほうがよかったのに。

 まあ、いいや。

 クロネコは自分の力を強めるために、どういう積み重ねが必要なのか理解していた。まずはできるだけ仲間を集めること。そしてその仲間に、自分自身で名前をつける――それが自然になるような習慣を仲間うちでつくる必要があるだろう。そして、それと並行して能力強化に必要な獣たちを自分の手で狩っていく。

 クロネコは先に調べておいた獣人奴隷の飼い主のうち、いちばん手ごろで、かつ、死んだあと簡単に斬り捨てられそうな存在から始めることにした。

 彼がパンテラとともに突入した広間では、ニンゲンが何人かの仲間たちとともに、銀の首輪をはめられた少女獣人の群れをマワしていた。

 犯されている獣人のなかには、十歳に満たないメスさえいた。

「抵抗したら腹を刺して大人しくさせろよ~?」

 とニンゲンは言っていた。「どうせ獣人核で、いくらでも再生できるんだからなあ~!」

 それを眺めていたクロネコは、ふう、と息を吐いた。

「なあパンテラ、人間と獣人の間には善も悪もない。ただ力の強い者が弱い者を滅ぼす、純粋な争いの場がそこにあるだけだよ」

 彼はそう呟く。

「ヒトザルどもが獣人を圧し潰すように僕はヒトザルどもを喰い散らす。そして、こいつらが今まで築き上げてきたものを、欺瞞を、建前を、偽善を――完膚なきまでに粉々にする。その力がある者は、それをやっていいんだ。

 ――ここは獣が人を食い散らかす世界だってことを証明してやるよ」

 そこまで語り終えたあとで、カシャン、と瞳孔の形を変えると、クロネコは獣人奴隷の飼い主たちをバラバラに引き裂いた。楽しい、と思った。コソコソ生きて悪を為すだけの浅ましい弱卒を滅ぼすのは楽しいことなのだと知った。


「僕に名前は要らない! 呼びたければ『クロネコ』と呼べ! この世で最も腐った村の名前で僕を呼べ!」


  ※※※※


 イズナ=セトはバイクの後部座席にビーコルニ=リノセロを乗せ、現場に急行していた。

『本当に大丈夫なの!? イズナちゃん!!』

 と田島アヤノがインカムで話しかけてくる。

「問題ありません。ようやく獣人核による再生が終わりました」

『そっちじゃなくて、リノセロちゃんだよ!!』

 とアヤノは言った。『拘束手段もないし仕方ないけど、イズナちゃんに同行させて本当に問題ないかなあ!?』

「それも大丈夫ですよ。彼女には戦闘能力そのものはありません」

「あのっ」

 と後部座席のリノセロが声を上げた。「あたしイズナさんの言うことは聞きます! 脱走とかはないと思ってください! 狩人さん!」

「――とのことです」

 イズナは言葉を繋いだ。

「猟獣専用二輪車『 LAST KICK 』のオートコンパスによれば、ラッカ=ローゼキの現在地は交差点を曲がったすぐ先に。移動はしていません――既に戦いは終わっていますね」

 それから、イズナはアクセルをふかした。

 戦闘終了――もしラッカが負けていたら、そのときは? そのときは、誰かがクロネコとの戦いを引き継がなければならない。

 でなければ、祁答院内閣は米軍と協働して東京に容赦なく核を落とすだろう。

 しかし、イズナのほうには確信があった――ラッカが負けることはない。たとえ周囲の自衛隊を人質に取られたとしても、事前調査で仕入れていたクロネコの能力と比べて、ラッカの型はその性能を上回るはずだ。

 イズナがそこまで考えながらバイクを走らせていると、ふと前方に白銀の髪の少女が立っているのが見えた。

「ラッカ?」

 イズナはバイクを止め、ヘルメットのバイザーを上げて声をかける。ラッカのほうは、ふらふらと彼女に顔を向けた。

 左手には、血まみれの姿でぐったりとうなだれる黒髪の少年。右手には、ぼろぼろになったレスポールのエレキギター。そんな様子でただ立っていたラッカは、やっと味方が来たことに安心したのか、ばたり、とその場に倒れた。

「ラッカ!!」

 イズナは思わず駆け出して、ラッカのそばに膝を突いた。すぐに呼吸と心臓の鼓動を確認する。「無事です――しかし、酷く衰弱しています――!」

 それから、ラッカの体に残る傷跡を見た。このとき腹に空いていた穴はほとんど塞がっていたが、それでも血を流しすぎていることに変わりはなかった。

「獣人核の再生力をほとんど使い果たしていますね、これは――」

 イズナはラッカの頬を軽くはたく。「聞こえますか、ラッカ!」

「――い」

 ラッカは、ようやく薄目を開けた。ヒュッ、ヒュッ、と浅い息を繰り返している。「イズナ――?」

「援護に来ました。クロネコは?」

 彼女の問いに、ラッカは黒髪の少年のほうを指をさした。彼のほうは微動だにしない。呼吸も、心臓の動きも止まっているようだった。

「――勝ちぃ~~」

 ラッカは力なくそう言うと、再び目を閉じた。それを見てイズナは、ふぅ、とため息をつく。

「ひやひやさせますね、本当に――」


 しばらくすると、イズナとラッカ、リノセロのもとへ獣人捜査局第四班、および第五班のメンバーが車に乗って駆けつけてきた。後部座席に座っていたメロウ=バス、そしてサビィ=ギタが急いでドアを開ける。

「オオカミは無事か!?」

 サビィは怒鳴って走り出す。そのうしろを、のろのろとメロウは追った。イズナは少し体の力が抜けて、

「ええ――ラッカとクロネコの戦いは、ラッカの勝ちです!」

 そう言った。


 ときのことだった。

 メロウ、サビィ、そして膝を突くイズナ――三匹の位置する真ん中に、漆黒のロングコートを着て、シルクハットにステッキを携えた長身の男が降り立っていた。

「――え」

 どこからそいつが現れたのが見当もつかない。ただその男は着地すると、黒いルージュを引いた口から、ほとんど呪詛のような声をひり出していた。

「クロネコ様が――負けるわけがない」

 男の名前は、ハツシ=トゥーカ=トキサメ――彼はオールバックの髪を乱し、帽子を地面に飛ばす勢いで身をよじりながら、周囲にいる猟獣たちへ憎悪の視線を送っていた。

「なんの地獄も見ず、なんの糞溜めも味合わなかったお前らに――クロネコ様が負けるわけがない!!」


  ※※※※


「――あ?」

 突然の乱入者に対して、真っ先に困惑を捨てて対応したのはメロウ=バス。彼は腰に巻いていたベルトからコンバットナイフを取り出すと、すぐにトキサメとの距離を縮めようとした。

 が、トキサメの動きが速い。彼は自分の両まぶたを閉じていた紐を引き抜くと、それを鞭のようにしならせる――予想よりも長いそのロープがメロウの左足首に巻きつき、次にトキサメが右腕を引いた勢いで彼は勢いよく転倒。

「! うらぁぁぁぁアアアア!!」

 サビィが一拍遅れて攻勢に出る。手のひらに機雷を詰め込んだ炸裂型の掌底を繰り出した――が、トキサメはそれを左手のステッキでしなやかにいなす。二撃、三撃。サビィが交互に繰り出す両腕を、トキサメはその棒きれ一本で回避。肘先と手首を効率よくヒットさせる方法で、彼の攻撃軌道をそらしていた。

「この二匹は別にいい――」

 とトキサメは呟いた。「今いちばん厄介なのは、貴女ですね? 最優のB級獣人」

 彼がそう怒鳴る目線の先にいたのは、イズナ=セト。

「――くっ」

 彼女は病み上がりのまま立つと、迎撃態勢に入る。最初に意識したのは、その場に横たわるラッカ=ローゼキだった。

 ――ラッカを死なせるわけにはいかない! 彼女はクロネコを斃した英雄なのだから!

 その意識のズレが、トキサメに対して致命的な隙を与えた。

「ノン」

 とトキサメは答えた――いや、実際に言ったかどうかは分からないが――たしかにイズナには聞こえた。「ワタクシの狙いはオオカミではありませんよ? マドモワゼル」

 トキサメの手のひらが、油断したイズナの顔面に触れ、

「『啓蒙』、発動――」

 彼がそう唱えた瞬間に、イズナの頭には激痛が走った。

「う、うあ、ああああッ!!!!」

「研究所に偽りの恋慕を植えつけられた哀れな乙女――今その洗脳を解いてあげましょう」

 イズナが頭を抱えてその場にうずくまる、と同時に、トキサメは短刀を内ポケットから取り出す。

 視線の先にいたのは、A級、ビーコルニ=リノセロであった。

 ――しまった!

 イズナは地面に手を突きながら、自分の失態を呪った。


 トキサメの短刀が、リノセロの胸を抉った。ほとんど一突きで、その刃は彼女の獣人核を貫通していた。

「え――えあ?」

 リノセロの唇から、たぱぱっ、と血が漏れる。「な――なんで」

 トキサメは、ふぅーと息を吐いた。それから、エメラルドグリーンの両眼を見開く。

「目当ての獣人核を――本命を捧げました!! クロネコ様ァ!! 死ぬにはまだ早いですよォッ!!」

 あは、あははは、とトキサメはその場で笑った。

 彼の背中を少し遅れて斬りつけたのは、拘束を解いたメロウ=バス。次に、サビィの持つナイフがトキサメの首を切断する。

「――おや」

 トキサメの生首は宙を舞いながら、メロウに獣人核を破壊された自分の胴体を見た。「これは僥倖――追加にもうひとつ命を主に還元できるとは――」

 それが、屍鬼としての彼としては最後の言葉になった。


 ばくん。

 と、心臓の鼓動がその場に響いた。メロウも、サビィもイズナも、音がしたほうを見る。

「――はあ?」

 とメロウは声を漏らした。自分のそばで崩れ落ちたトキサメの死体には、もう気を遣っていられない。なにか、とんでもなくマズい事態が起きたということだけが猟獣の三人には分かっていた。

 心臓の重苦しい鼓動音が、今、横たわっているクロネコの身体のほうから聞こえたからである。

「ウソだろぉ――?」

 とサビィは悲鳴にも近い声を出した。「だ、だって――もうこっちのラッカは動けねえんだぞ!?」

 次に、

 カシャン。

 カシャン。

 と、クロネコの左眼球が回復し、その瞳孔が形を変える――金属と金属を擦り合わせるような不快な音がした。その間もまだ、ばくん、ばくんという鼓動は止むことがない。イズナはそれを聞きながら、ただ、酷くなっていく自分の頭痛を両手で押さえつけるのが精一杯であった。


 約25秒後。

 クロネコは立ち上がった。長い黒髪が風になびいて、美少女のような白く甘やかな顔立ちを晒す。傷は完全に治癒。血も止まっていた。

「――僕、さっきまでちゃんと死んでた?」

 とクロネコは呟くと、くくく、と、まるでゲーム大会で憂いなく負けたガキのような――そんな無邪気な笑顔を浮かべた。

「なんだよぉ、ラッカつええなあもお~~!!」

 とクロネコは大声で笑った。「すっげえ負けちゃったじゃん!! 戦って負けたのなんて生まれて初めてだぜ、アハ、ハハハハハッ!!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る