第19話 VS摩天楼 後編その3


  ※※※※


 一方そのころ。

 尾木ケンサクは、布瀬カナンを連れて下北沢のライブハウスまで来ていた。


 結局、彼女は数日間ずっと彼のアパートに居座り続けて、彼の外出もほとんど許してくれなかった。ただ、ガタガタと体を震わせながら「どこにも行かないで?」とだけ呟いた。

「ひ、ひとりは怖い――怖い」

「んなこと言われたってなあ――」

 オレだってサボりがちだけど大学あるし(W大の文学部)、バンドの練習もライブもあるんだよなあ。

 そう思いながらカナンを見るが、彼女はケンサクの買ってきた菓子パンを頬張りながら気休めのビールを飲んでは眠るだけで、ほとんど話し合いに応じてくれなかった。

「はあ――」

 そうしてテレビをつけても、ニュースで関心を持てるものといえば、戦争の話か獣人の話かだった。

 旧ソ連がかつての傀儡国家に因縁をつけて侵略戦争を起こしているとか、はたまた、中東では何千年もの因縁からなる一神教同士の血で血を洗う諍いがあるとか――。

 そこに軍用猟獣が投入されていることとか。

「獣人だってヤバイのに、人間同士の争いってぜんぜんなくなんねえな」

 獣人事件で言えば、日本も物騒になりつつある。豪華客船が何者かに襲撃されたことに加え、東京拘置所は獣人により多数の犠牲者を出し、この前は豊島区の東京ガイナシティワールドという遊園地で多数の獣人による乱闘があった。

 そして、そうした大事件の全てで活躍しているらしいのがオオカミの獣人、ラッカ=ローゼキだった。

 ――ラッカ。

『しかしね』

 とコメンテーターの茂呂梨草は語る。『依然として、オオカミの獣人が正規の猟獣訓練を受けていない事実には変わりありません。彼女がいつ、人間に愛想を尽かしてしまうか、私たちには把握のしようもないのです。こうした危険因子を運用すること自体、警察の、ひいては政府全体の甘い見通しによるものだと思いますね』

『そもそもですよ?』

 と別のコメンテーター、江州島敦が口を挟む。『オオカミは獣人駆除に貢献しているとはいえ、結局は犠牲者を出していることも無視できません。もっと迅速に行動していれば、いや、そう行動するように警察がしっかりと手綱を握っていれば、死傷者の数は遥かに抑えられたのではないでしょうか。これは怠慢です! 獣人捜査局はケモノの少女にヒーローごっこをさせる組織ではない!』

『というか』

 と、末席の元落語家が指を立てた。『豊島区の遊園地の件がどうにも引っかかるんですよ。オオカミの女の子は、当日は非番だったそうですよね。たまたまその場にいたから事件に対応できた――それ本当ですか?

 獣人のなかには、オオカミの彼女を良く思っていない輩もいるはずです。彼女を狙うためにそもそも事件が起こされていたとしたらどうしますか?

 その場合、彼女は本来なら発生しなかった事件を不用意に起こしていることになりますよね?』

 聞くに堪えない。

 そう思って、ケンサクはテレビの電源を落とした。

「――ったく、どいつもこいつも勝手なこと言ってやがんなあ。不満があんなら自分がオオカミになって人間でもなんでも守れっての」

 いつもそうだ。守られる側は文句を言って、注文をつけて、不満を垂れるだけ。守る側だけが苦しんで、傷ついて、痛む。

 ――ラッカはニンゲンを守るだけの使い走りの道具じゃない。ケンサクはそう思った。

 オレが知ってるあいつは、タバコを美味そうに吸って、酒をドカドカ飲んで、誰とでも楽しそうに笑って、そして――そして、オレのギターと歌を綺麗と言ってくれたんだ。

 ふと、彼は自分のスマートフォンを見た。後輩たちのバンドが小さなハコでアマチュアのライブ大会に参加するらしい。暇なら来てほしいとのことだった。

「やべ――忘れてた」

 とボヤくと、ケンサクはその場で着替えて荷物をまとめた。

「コンビニに行くの?」

 と、後ろから布瀬カナンが訊いてくる。「すぐに戻ってくる? 独りは怖い――」

「ちょっと遠出するわ」

 そうケンサクが答えると、カナンは顔色を変えた。

「うっウソ!? なんで、なんで助けてくれたのにそんなこと言うの!? なんで独りにするの!?

 や、やっぱり体が目当てってこと? だから私を怖がらせたいの――?」

「いや、違うし」

 とケンサクはウンザリして言った。さっきのテレビを見てなんだかムシャクシャしていた彼は、こう言った。

「じゃあライブハウスまでついてこいよ?」


  ※※※※


 そんなわけで、ケンサクはカナンを連れて下北沢のライブハウスまで辿り着いた。

 途中、カナンは酷い状態だった。電車の乗客を見て

「あ、あの人さっきからこっち見てる。クロネコの仲間かも」

 と怯え、道路を歩いていて車と通りすぎるたびに悲鳴を上げた。

「あっあっ、さっきの車ってクロネコの仲間が乗ってたら――!」

「あのさあ」

 とケンサクは口を挟んだ。「そのクロネコってなんなんだよ」

 そうケンサクが訊いても、カナンは自分の爪を噛んでいるだけだった。どうやら、深く説明する気はないらしい。

 ――まあ、いいさ、事情なんて誰にでもあるもんだしな。

 ケンサクはそう思い、歩を進めた。

 が、下北沢のライブハウス前では、後輩とそのバンドメンバーが店長とモメているところだった。どうやら東京都政の監査が入り、安全が確認できるまで営業停止になってしまったのだという。

 店長は憔悴しきった顔だった。

「都内の獣人警戒度、レベル6からレベル7まで上がってたらしい。ニュースをちゃんと見てなかった俺の落ち度だ。すまん」

 と店長は頭を下げた。

 獣人警戒度に応じて、市民の行動は制限される。レベル5の時点で不要不急の外出が制限され、レベル7の時点で密室型の店舗では専用の機械による顔写真撮影システムが義務づけられる。――このライブハウスはその設置を失念していたのだ。

 ケンサクの後輩は、歯ぎしりをしていた。

「ふざけんなよマジでよお――」

「おい、抑えろよ」

「抑えられるかよこんなの!! じゃあなんだ!? 獣人をブチ殺すためなら市民はぜんぶ我慢しなくちゃいけないってか!! 音楽もやっちゃダメなのかよ!! いつまで我慢すんだよこんな生活よお!!」

 それに対して、店長のほうは頭を下げるしかない。「指示に逆らったら、さらに無期限の営業停止処分だ。すまん」


 こうして、ライブ目的のメンバーと常連客は解散になってしまった。ケンサクは元来た道を歩く。そこにカナンもついてきた。

「獣人――獣人のせいなのか」

 とケンサクが言うと、カナンのほうは、

「やっぱり、獣人にいなくなってほしいと思う?」

 と訊いてきた。

 ――当たり前だろそんなもん! 人間を食い殺すことしか考えてねえケダモンなんか、今すぐ全員ブチ殺されちまえばいいんだよ!

 と。

 そう言おうとしたのだが、ケンサクの脳裏にふと、オオカミのラッカ=ローゼキの顔が浮かんでしまった。

 あえ?

 あれ、えっと、獣人は全部クソで、でもオレが好きなラッカも獣人で、なのに良いヤツで――ああクソ、なんか分かんなくなってきた。

 だから、

「さあな――」

 とだけ答えて、ただ歩き続けた。

「なあ、そういえば、オレの家にはいつまでいるつもりだよ? 一生オレにくっついてるつもりか?」

「え――」

 とカナンは顔を上げたあと、また伏せた。「私にも分からない。あなたは、どうして私となにもしないの? あなたが家賃を払うアパートで寝てる。あなたの買ったごはんを食べてる。私にできることなんて体を使うことくらいなのに――それもみんな断られてる。これってどういうことなの?」

 ニンゲンの男なんて、どうせ、そういうことしか考えてないんでしょ? だから、私は今までこんな風に生きてきたのに――。

 そう彼女が言うから、ケンサクは振り向いた。

「あんたさ、ダメな人間のダメなとこばっかり見て、それで人間のこと知った気になってんじゃねえのか? 本当は良いヤツだっているのに勝手に失望してさあ――」

 彼がそこまで言葉を繋いだときだった。

 二人が立っているところは交差点だったのだが、その向こう側で、一人の女が老人に絡まれているのを見つけてしまった。女と目が合う。

「しゃーない、助けるか」

 とケンサクが言うと、カナンは驚いた顔で「助ける?」と訊き返した。

「あなたには関係ない存在でしょ。そういうのは平気で見捨てる――それが人間でしょ? それともお礼のお金目当て?」

 とカナンは言ってくるが、ケンサクのほうはあまり気にしなかった。

「理屈に合わねえって言いたいんだろ? 悪いかよ」

 そして、ケンサクは信号機が青になると同時にダッシュを始めた。


  ※※※※


 で。だ。

 ケンサクはなんとか老人のほうの話を聞いて宥めてやったあと、女のほうといっしょに深夜のファミレスに入っていた。そこにはカナンもついてくる。

 ――理解できない。

 カナンはそう思いながらビールを飲んだ。酒は常に胃に入れておきたい。獣人核の殺戮衝動を少しだけ麻痺させるからだ。

 話を聞いたところによると、女のほうは獣人の権利に関する市民活動家だった。シルバーバレットと猟獣訓練制度の廃止を求める政治主張をスケブで掲示しながらチラシを配っていたらしい。

 一方で老人のほうは、愛する娘が獣人に殺された被害者遺族だった。彼には、活動家の女の主張が耐えられなかったのだ。

《俺の娘の墓ン前で言ってみろよそれを! なあ、言ってみろ! 人間を殺すことしか頭にない獣人どもに人権が必要ですだあ!? 全部の遺族の前でなあ、頭ァ下げながら言ってみろコラ!! 言えよ!! 来いよオラァ!!》

 そんなところにケンサクは割って入って、市民活動家の仲間のフリをして「今度、正式に謝罪に行きますので」

 と言って一万円札を握らせながら、なんとか老人を帰した。――運がよかった。下手をすれば警察沙汰だ。

 そうしてケンサクとカナンは、女から「せめてものお礼に」とファミレスに連れていかれたのである。

 ケンサクのほうは、妙だと思っていた。前にも似たような市民団体と出くわしたことがある。そのときは10人も20人も現場のメンバーがいたはずなのに、今はこの女ひとりだけだ。

「どういうこと?」

 とファミレスで訊くと、活動家の女――宮坂シズクは話し始めた。

「実は活動メンバーが、ここ最近の獣人事件の多発によって激減しておりまして――このエリアには私しか残っていないんんです」

「え、マジ!?」

「みんな、もう獣人を許せない、やっぱりシルバーバレットと猟獣制度を推し進めた政府は正しかった、そう言って団体を去ってしまいました」

 シズクは白ワインを飲んだ。「で、でも私はやっぱりおかしいと思います。たしかに獣人は酷い事件を起こしていますけど、同じように酷い事件を起こしたのが人間なら、きちんと司法の裁きに委ねていますよね? 更生して職業訓練も受けて人間社会に順応します。なぜ獣人事件というだけで、なんの裁きもなく即時射殺が許されるんですか」

「えー?」

 ケンサクは赤ワインを飲んだ。「そら、獣人が強すぎてそんな余裕もないから――とかかな?」

「では、通常よりも屈強な人間の男性が武装して、犯罪を犯していたら法の裁きはなくてもいいんでしょうか?」

 シズクと名乗った女はヒートアップしてきた。「私たちはなにも、獣人を許せとは思っていません。正しい人権運用のもとで正しい法的裁定が必要だと思うんですよ。そもそも獣人の多くは元人間です。

 それを問答無用で撃ち殺す社会は――いつか排外主義や差別主義に任せて、同じ人間にもトリガーを引く、そう思いませんか!?」


 そのとき、ずっとビールを飲んでいたカナンがジョッキをテーブルに置いた。かなり顔が赤い。

「人間と獣人を平等にしろってことお――?」

「え、ええ、そうです」

「バカバカしい」

 カナンはビールを飲み干し、通りすがった店員に追加のビールを頼んでからタバコ(メビウス)に火をつけた。

「なんで獣人が人間なんかと平等にならなくちゃいけないの?」

「え?」

「せっかく獣人になれて、自分が人間であることを捨ててせいせいしてるってのに――貴女は『獣人は可哀想だから人間のうちに入れてやろう』なんて上から目線で言ってない?

 ――大きなお世話。

 法律を変えるなら、『ニンゲンは獣人に従うべき。殺されても文句を言うな』って条文にしてほしいよね。アハハ!」

 だいたいなに? 屈強な人間の男性が武装したら――って。獣人はそんなもんよりずっと強いんですけど!

 酔いと緊張に任せ、カナンの笑い声は少しだけ大きかった。発言にも遠慮がなくなり、自分の素性を隠す気がなくなっている。

 だがこのとき、まだカナンが獣人であることを知らなかったケンサクには、彼女がただ苛立ち紛れに謎の論理を振りかざしているようにしか見えなかった。

 彼は彼女を少しだけ見つめてから、その発言の意味はいったん放置すると、活動家のシズクのほうを見つめた。

「でも獣人は人間を嫌いなんだろ?」

 そう訊くと、

「そ、そう!そこなんですよ!」

 とシズクは調子を取り戻して手を合わせた。「いるじゃないですか、獣人なのに人間と共存している子がひとりだけ!!」

「え――?」

 ケンサクが戸惑うのも構わず、シズクは身を乗り出す。

「オオカミのラッカ=ローゼキですよ! 彼女こそ、人間と獣人が共存できる可能性そのものなんです!」


  ※※※※


 ケンサクはその言葉を聞いて、

「可能性?」

 と、オウム返ししかできない。カナンのほうは「ふん」と鼻を鳴らしたあと、さらにビールのジョッキを傾けている。

「はい」

 とシズクは両手を合わせた。「オオカミのラッカ=ローゼキさんは、非人道的な猟獣訓練制度を受けていないにもかかわらず、私たち人間への攻撃衝動を持っていません。それどころか率先して人間を守ってくれています。

 これって彼女だけの現象でしょうか? 私の先生によれば――あ、先生というのは私たちの会の指導的な立場にいらっしゃるかたなんですけど――たぶん、これは獣人の新しい進化の姿なんです。環境に適応し、遺伝的形質をリデザインしていくなかで、やがて人間と敵対しない、より生存に適した獣人が増えていく。そういう仮説があるんです」

 そこまで言うと、彼女も白ワインを飲む。「どう思いますか? そういう獣人がもし他にもいるなら、やはり、獣人には人間と同等の権利が与えられるべきですよ」

 シズクは自信たっぷりに、その『先生』とやらの受け売りを話していた。ケンサクがとなりのカナンを見ると、彼女は酩酊しながら、「はっ、くだらない――ニンゲンってほんと何様なの?」と小声で呟いてさらにビールを飲んでいる。

 ケンサクのほうは、ただ、頭がぐるぐるしていた。

 ――ラッカは、マスコミには正義のヒーローとして小言を言われながら、胡散くさい市民運動家サマには、自分たちの活動を広げる旗印みたいな扱いを受けなくちゃいけないのか?

「あのさ――」

 とケンサクは、カナンが吸っていたタバコの箱から自分も一本奪って火をつけた。

 そして、

「お前らそのラッカとちゃんと会って話してみたことあんのかよ――! アイツがどういうヤツか知ってんのか!」

 と、言おうとした。というか、ほとんど言い終えていた。

 そのときのことだった。

 いつの間にかテーブルの横に、一人の大男がぬらりと立っていた。ジャンパーコートにバンドTシャツ。野球帽からはみ出ている髪は短く、緑色に染められている。

 右手にはワイン瓶を持っていた。

「飲んでくれや、オレの奢りだ」

 と大男は言った。

 ――酔っ払い? と思ったが、顔色はシラフだ。

「誰だ? アンタ」

 そうケンサクが訊くと、

「オレも兄ちゃんと同じ意見だぜ」

 と大男は笑う。「オオカミの女と実際に会ってないからそんなことが言えるんだ。オレは分かる。あの嬢ちゃんは完全な突然変異だ。ヒトザルどもが他の獣人に同じことを期待できるようなもんじゃない」

「え」

 シズクが眼鏡の位置を直す。「な、なんですか? あなたがなにを知ってるんですか?」

「知ってるさ」

 と大男は笑う。「オレはあの嬢ちゃんと一度手合わせしてるからな。殺し合いの感触は、どんな言葉よりも雄弁ってもんだ」

 全ての獣人は人間に対する憎悪を抑制できない。そこにあのオオカミ以外の例外はない。

 そこまで言うと、大男は布瀬カナンを指差した。

「たとえばそこにいる女が酒を飲み続けてるのは、獣人としての殺人衝動を少しでも麻痺させたいからだ」


 カナンは動きを止める。ケンサクは彼女の顔を一瞥してから、もういちど大男の顔つきを仰ぎ見た。

「その女は獣人だ」

 と大男は言った。「なんだ兄ちゃん、知らなかったか。だが同族であるオレの嗅覚は誤魔化せねえぜ。――獣人は酒を飲んでいる間だけは、獣人核の力が肝臓の再生に使われる。それが殺戮衝動を少しだけ弱めてくれる。

 ま、無駄なあがきだがな。オレの知り合いにゃ、警察怖さにアームカットを繰り返して殺人を抑えながら、結局は30人以上殺した獣人もいる。こいつはどうしようもねえ本能なんだ、オレたち獣人のな」

 そこまで言うと、大男は野球帽を外した。


「オレはワニの獣人、ハバ=カイマン」


 その顔が露わになる。イカつい強面、だが、ひとつだけ奇妙な点がある――左の瞳だけエメラルドグリーンの色をしており、瞳孔の部分が円形ではなく、漢字の「再」という形をしていた。

 カナンはハバの顔を見て、急に立ち上がる。

「なんで!? なんでハバ=カイマンが!?」

「あん?」

「あなたは死んだはずでしょ!? だから私がその後任でクロネコ派の獣人になったのに――!」

「いいだろ、今はそのことはどうでも」

 ハバはニヤリと目を細めた。「オレは裏切り者の、布瀬カナンの始末だけ命令されてここにいるんだぜ?」


  ※※※※


 ケンサクは、頭が真っ白になってしまった。

 ――目の間にいる大男が獣人? で、オレとずっといっしょにいたカナンも獣人?

 どういうことだよ?

 だが、彼がその疑問を口にする前に、

 カナンがテーブルをハバに向かって蹴り上げた。

「うおおおお!?」

 ケンサクが思わず飛びのくと、そのテーブルが、さらに強い拳で弾かれて「バン!」という音を立てながら奥に吹き飛んでいった。ハバが殴り飛ばした音である。


 カナンの酔いはすぐに醒めた。先ほどテーブルの上にあったナイフ類は、全て自分の手のなか。それをハバに向かって投げつける。

 ハバのほうはそれに対して、ジャンパーコートを脱いで盾にすることで対応。バサッ、と勢いよく広げるとすぐに横に飛ばし、刺さったナイフごと床に落とした。

「く――!」

 とカナンが歯ぎしりすると、

「弱えな! 女!」

 とハバは大声で笑った。「せっかく蘇ったのに、最初の任務がこんな相手かよ! オオカミの嬢ちゃんが懐かしいぜ!」

 それから手ごろな椅子を掴み、全てカナンに投げつけてくる。カナンはすんでのところで回避、しようとしたのだが、最後の一脚が体に命中してそのまま壁に吹き飛ばされた。

「がはっ!」

「ヒトザルのクズと絡んだ獣人は、クロネコ派のルールじゃ裏切り者指定でデスペナルティだ――諦めな、女」

 ハバはゆっくりとカナンに近づきながら、両手の拳から鈍く太い爪を伸ばした。部分獣化である。「せめて一撃で獣人核を引き抜いてやる。恨むなよ?」


 カナンは痛みに耐えながら、ゆっくりと立ち上がる。

 ――どうする? このままでは、負けて死ぬだけだ。

 そう思った彼女は、

「すみませんチトセ、交代です」

 そう呟いた。

《久しぶりに呼び出して、いきなり戦い?》

 と脳内で声がチトセの響いた。《まあいいよ、カナンが今ここで死ぬとあたしも困っちゃうし》


 次の瞬間。

 カナンは――いや、チトセはゆらりと上半身を揺らすと、猛ダッシュしながら自身も部分獣化を展開。コウモリの羽を硬化してでハバの爪に即時対応。

「んん!? さっきより速いか?」

「お褒めにあずかり――どーも!」

 チトセの羽の高速運動が、ハバの爪をいなしていく。それに加えて、彼の死角を狙ったハイキック。ハバのこめかみに見事命中。

 ほんの一瞬だけ、彼は距離を取った。

 ――おそらく長年の戦闘経験による勘で、カナンとチトセの人格交代による戦闘能力の向上を察したのだろう。《少なくとも、なにかが起きているのだ》と。未知のものに対してまず回避を優先するのは、熟練の獣として正しい行動である。

「――でもその経験が仇になる!」

 とチトセは笑った。「なにも気にしない猛獣なら、あたしを狩り尽くせたのにね?」

 それから彼女は、別席のテーブルを窓に投げつけてガラスを全壊。次に尾木ケンサクの腕を掴んで、「逃げるよ!」と怒鳴った。

 コウモリの羽は、言うまでもないことだが、飛行能力を持つ。彼女はバンドマンの体を抱えたまま、夜の街を飛翔していった。

「なんだこれ――!?」

 とケンサクは戸惑っているが、

「つもる話はあとでね、ギターくん」

 とチトセは笑う。

「あとでって、そんな――!」

「あたしはコウモリの獣人、吸血鬼、分散型」

 とチトセは言った。「名前は熊谷チトセ――正確には、獣人核に残ったチトセの殺戮衝動の残滓、ってところなのかな。カナンの知り合いっぽいから助けたよ――まずは適当なところに避難しなきゃ」


  ※※


 ハバ=カイマンは、飛び去っていくカナン(チトセ)とケンサクを眺めたあとで舌打ちをした。

「飛べる相手には追いつけん。こりゃ厄介だな――もういちどクロネコ様に連絡を取るか」

 そうして周囲を見回すと、あたりは自分たちの乱闘で吹き飛ばされたテーブルとイスでメチャクチャになっていた。

 それから、先ほどまでカナンとケンサクのいた席に目をやった。

 ひとりの女――市民運動家の宮坂シズクが、ただ、両目から涙を流して震えていた。その手元には、彼女が属している会のアジビラがあって、ハバはそれを奪って読む。

 ――シルバーバレットと猟獣訓練制度の撤廃を訴える内容。獣人に人権を求める嘆願。獣人と人間は《平等》なのだ、という政治的な主張。

「ほう」

 とハバは読み終えたあと、ニヤリと笑った。


「オレら獣人とお前らが平等? ヒトザル風情がずいぶん調子に乗ってるみてえだ」


 宮坂シズクの首は吹き飛び、その鮮血がファミリーレストランの壁に散った。

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