第18話 VS摩天楼 前編その4


  ※※※※


 日岡トーリと第七班のメンバーは、そのまま神柱ホシゾラの豪邸を追い出された。

 シルバーバレット入りの拳銃で暴れ回っても勝ち目がないことは明白である。ホールにいるだけでB級以上の獣人が10体を上回っていた。ゼロから出直すしかないだろう、というのが、とりあえずの結論だった。

 サングラスの男たちに両脇を固められながら、トーリは玄関を出て自分たちの車に歩いていく。その見送りにはホシゾラ本人もいた。

「残念だったわね、生意気な狩人さん」

 とホシゾラは言った。「でもダメダメ。クロネコをダシにして怖がらせようとしたって、私は自分の命が惜しくないもの。私が怖いのはたったひとつ――退屈よ。退屈こそ、人間のあらゆる不幸の原因。諸悪の根源ですもの。人は退屈だから気晴らしに人を殺め、気晴らしに国を犯し、気晴らしに世界を壊す。なにか違ってるかしら?」

「神柱ホシゾラ」

 とトーリは呼びかけた。「君ともういちど交渉のテーブルに着きたい。どうすればいい?」

 その言葉を聞き、ホシゾラはさらに頬を赤らめ、呼吸を荒くした。

「そうね――今度はおひとりでいらっしゃい。それからホールでお話をしようとしたのもダメ。今度あなたが独りきりで来てくれたら、寝室で、ちゃんとお話をしましょうか?」

「独りで?」

 トーリが眉をひそめると、ホシゾラも頬を歪める。

「いいのよ? 貴方が断りたいなら断ってもね!?」

「そんなことは誰も言っていない。勝手に自分の物差しで話を進めるな」

 トーリは襟を正した。「分かった。今度は独りでここに来る。クロネコを捕らえることができれば、君も安全になる。俺は一人の警察官として君のことも守る。それを忘れるな」

 それからトーリは仲間を引き連れて、2台の外車にそれぞれ乗ると邸宅をあとにした。


 そんな彼の後ろ姿を見ながら、ホシゾラは苛立たしげに――あるいは楽しげに、指の爪を噛んでいた。

「なんて、生意気な男。ほんと、生意気。私にあんな言葉遣いをして。しかも『守る』ですって!? 許せない許せない許せない許せない許せない――!」

 ハァ、ハァ、と、ホシゾラは熱い息を漏らしていた。

「やっと退屈が紛れるわ! 人生がバラで飾られる、ずっとそういうときを待ってたのよ。

 狩人さんのこと、何回も追い返してあげる。屈服するまでノーを貫いてあげるわ。楽しみ。いつ私に跪いてくれるのかしら――」

 そんなホシゾラに、サングラスの男が近づく。

「お嬢様。旦那様に案内されて、鈴木が2階で待っておられますが――?」

「そんなヤツもうどうでもいい。帰してあげなさい」

 ホシゾラは冷たく言い放った。

「いま私が楽しみにしてるのは、狩人の日岡トーリとオオカミのラッカ=ローゼキなんだから!」


 そして。

 日岡トーリと第七班のメンバーは車を走らせていた。

 1台目は運転手:田島アヤノ。助手席:山崎タツヒロ。

 2台目は運転手:日岡トーリ。助手席:仲原ミサキ。後部座席:佐藤カオル。

『失敗しちゃいましたねえ』

 と、田島アヤノがハンズフリーフォンで2台目のほうに話しかけてきた。

『これからどうします? 向こうのお望みどおり、今度はトーリさん1人で再挑戦してみますか?』

「それは上手くいかないかもね」

 とミサキが言った。「あのワガママお嬢様が望んでるのは、とにかく話を引き延ばして、自分が主導権を握ってる状況を維持し続けること。向こうの要望は聞くだけ無駄」

『うおお、そういうもんなんですね?』

「あれはそういうタイプの女だよ、きっとね」

『あはは。ミサキさんが言うならそうなんでしょうね』

 と。

 アヤノは笑った直後に、『お?』と声を漏らした。

「どうしました?」と佐藤カオルが訊くと、

『割り込み通話が来ました。第六班、橋本ショーゴ班長からです。ちょっと繋ぎますね』

 そうアヤノは言って、ハンズフリーフォン通話が3Pの状態になった。アヤノの車、トーリの車、そして橋本ショーゴの車である。

『――よう、第七班』

「なんの用ですか?」

 ミサキが訊くと、橋本ショーゴはこう答えた。

『住吉キキとかいう獣人科学者に言われててな、ずっと観察してた。お前らの作戦は成功だよ』

「え?」

『詳しい話は近くのファミレスでやろう――神柱ホシゾラの家にいる獣人奴隷を奪う件だろ?』


 そして。

 日岡トーリ率いる第七班の車2台は、そのままジョナサンの本駒込店に入った。後追いで橋本ショーゴ率いる第六班の車2台も駐車場に停まる。

 それぞれの車から、全員がスーツ姿で降りる。日岡トーリ、仲原ミサキ、佐藤カオル、田島アヤノ、山崎タツヒロ。そして、橋本ショーゴ、西城カズマ、白石ルミネ、河野タイヨウ、我孫子リンタロウ。

 ゆっくりとファミレスに入ると、案内しようとする中年女性店員をやんわりと制し、彼らは窓際にあるいくつかのボックス席に腰を下ろす。

 日岡トーリ、橋本ショーゴは対面で向かい合う。トーリの隣には仲原ミサキ、ショーゴの隣には白石ルミネだった。

「第七班が暴走してんのは知ってる。公安あたりとツルんでんのか?」

 とショーゴは言った。「先に釘を刺しとくが、逃げられると思うなよ。戦闘能力だけなら、うちのルミネとカズマだけで釣りが来る。第六班が第二班に次ぐ攻性武闘派組織なのはお前も知ってるよな?」

「――俺たちを観察してた?」

 トーリがそう訊くと、

「ああ」

 と、ショーゴはマルボロに火をつけた。「渡久地ワカナ局長がお前を心配してた。ってのは建前で、実際にはお前を通じてラッカ=ローゼキを監視しようっていう動きが上層部内に発生してるわけだ」

「上層部内? 祁答院内閣のことか?」

「まあ、そこは本題じゃない」

 ショーゴはオールバックの黒髪を撫でつけ、銀縁眼鏡の位置を直す。

「本題は、おれたちはお前ら第七班の動きに賛成ってことだな」

「――なに?」

「もういちど言おうか? おれたちは渡久地ワカナ局長からお前ら第七班の牽制を指示された。が、おれたち自身はお前らがやろうとしてることに味方したい」

 店員がコーヒーを運んでくる。ショーゴはそこに砂糖とガムシロップを入れながら、トーリに顔を近づけた。

「――神柱ホシゾラお嬢様のカスみたいな豪邸には、クロネコ攻略のキーになるような獣人が奴隷として飼われている。それを手に入れたい、そうだろ?」

「なぜ知ってる? どこでそれを聞いた?」

 トーリが訊くと、

「あはっ!」

 と、ショーゴの隣にいる白石ルミネが噴き出した。

「もお~! トーリさんってば鈍感なんですねえ? 気づかなかったんですかあ?」

 彼女はスプーンをくるくると回した。「ルミネちゃんたち第六班のところにいる獣人、イズナ=セトは隠密型のイタチなんですけどお?」


 まさか。とトーリは思った。

 しかし、そのまさかなのだ。


 イズナ=セトは隠密型。その能力は、「自分の実際の位置と、他人から見えている位置を誤認させる」。


 イズナは、彼女は、トーリたちが神柱ホシゾラの家に向かう車のなかに既に乗り込んでいたのだ。そして彼らとともに神柱邸宅のホールに侵入すると、ホシゾラがトーリたちを追い返したあとも神柱邸宅に居残り、獣人奴隷が隠されている座敷牢を探索し続けていたのである。

「――!」

 トーリは思わず手で口をふさぐ。

 いつからだ? いつから隠密型で監視されていた? 車のなかで作戦会議をしたとき、いや、雀荘で鮫島カスミと会っていたときにはもう、イズナ=セトはそこにいた――?

「ふん」

 とショーゴは鼻を鳴らした。「前に言ったろ。おれのイズナ=セトは日本の猟獣訓練制度史上における最新作にして最高傑作。最優のB級だってな?」

 それから、無線イヤホンで話し始める。「イズナ、無事に潜入したか? あとは任せる、サイを捕まえて帰還しろ」


  ※※


「はい」

 イズナは答えながら、天井の鉄板をブチ破って地下迷宮の廊下に降り立つ。

 ガン! という音が虚空に鳴り響いた。

 うなじを刈り上げた茶髪、猜疑心の強い三白眼、小柄で華奢な体躯――身長は159cmほど。黒のパンツスーツ姿には、日本刀をぶら下げている。シルバーブレードである。

「まるで『ウィザードリィ』ですね。どこに目標の獣人がいるのか分かりません」

『ほう。お前でも難しいか』


「いえ、楽勝ですよ。ショーゴさん」


 イズナ=セトは小声でそう宣言すると、鋼鉄の壁と触手のようなパイプ管、そして意図不明な漢詩文の貼り紙に覆われた迷路のなかを駆け抜けた。


  ※※※※


 警視庁獣人捜査局第二班、志賀レヰナとそのメンバーは高田馬場のゲームセンターで時間を潰していた。第一班の残メンバーから運ばれてくるはずの専属猟獣、ゾーロ=ゾーロ=ドララムを受け取るためである。

 彼女は三本目のマルボロに火をつけながら、とりあえず、メンバーが遊ぶに任せていた。

 ――遅い。予定の時間から30分も超過している。

 明らかに異常事態だった。第一班は、あの鬼教官である渡船コウタロウからスパルタ教育を受けて警視庁獣人捜査局の第一番を張る連中。仮に雑な仕事をすることはあっても結果を出せない連中じゃない。

「なんらかの襲撃があった、ってことかあ――?」

 レヰナはすぐに端末で都内全域の事件を検索した。

 ヒットする。

 中野区のアフガニスタン民族料理店で銃撃事件が発生した。のちに路上駐車してあったワゴンアールが原因不明の爆発炎上、木っ端微塵になっていたという話だ。死亡したのは店内にいた四人の男女。どうも三対三の撃ち合いがあったらしい。

 レヰナは中野区警察署に電話を入れた。

「アフガニスタン料理店の事件、なぜ獣人捜査局に報告しなかった?」

『え――』

 電話相手の男性刑事は、明らかに戸惑った様子だった。『これも獣人案件という確証があるってことですか?』

「確証があるから報告するんじゃねえんだよ。迷ってんならまず上に通達しろ。バカかお前は」

『すみません――』

 男性刑事は憔悴しきった様子だった。『なにしろご遺体の顔全体がひどい損傷具合でして。グチャグチャに撃たれていて誰なのか分かりません。スーツのなかには身分証もなにもなし。誰が犠牲になったかも、いま早急に監察医を探そうとしているところでして』

「ハァ!?」

 レヰナは思わず立ち上がった。

「そんなもんこっちの初動捜査を遅らせるために犯人が鉄砲撃って顔面壊したに決まってんだろうが!! 分かってんなら関係各所に連絡回すんだよ!! 実行犯が他にも標的がいたらどうすんだ!? 万が一そいつら死んだらテメエのせいだぞコラァ!!」

『すっ、すみません――!』

 そこで男性刑事は完全に委縮し、なにも言わなくなってしまった。レヰナは舌打ちをしてから言葉を繋ぐ。

「お前、所轄か?」

『ええ、まあはい』

「怒鳴って悪かったな。捜査一課が来たら伝えとけ。獣も狩らないニンゲン専門のザコが仕事ナメてんじゃねえぞってな」

 それから志賀レヰナはスマートフォンのボタンを押して電話を切り、ゲームセンターのなかをゆっくりと歩き回った。

 ――おそらく、アフガニスタン民族料理店で殺られたのは第一班のメンバー三人だ。物証はない、ただの勘だ、だが経験に裏打ちされた感覚は浅薄な理屈より正しい。

「渡船コウタロウは?」

 彼女はそう思ってから、すぐに渡船コウタロウの住所近くで起きた事件を検索し始める。

 ヒット。

 こっちは渋谷区笹塚のパチスロ店で、60代らしき老人が刃物で腹を刺されて死亡している。レヰナはすぐに渋谷区警察署に電話をかけた。

「獣人捜査局第二班、志賀レヰナだ。そっちで渡船コウタロウは死んでるか? 死んでないか? 先に教えろ」

『どうですかねえ』

 と女性刑事は言った。『ああー、でも、ご老人が店舗内のトラブルで亡くなったという事件は、ええ、こちらで承っておりますね』

「どうしてすぐに獣人捜査局に繋がない!?」

『これって獣人案件なんですか? 知りませんでした。渡船コウタロウさん――でしたっけ? それが獣人捜査局員の名前だったんですか? すみませんね、ノンキャリの刑事には与り知らないことです。ま、たしか被害者のかたもそのような身分証を持っていました。でもその身分証が本物かどうかの確認もありますので。正式な連絡は明後日になるかと思います』

 のらりくらりとした女性刑事の言葉回しに、志賀レヰナはため息をついた。要するに電話先の女は、自分と違って警視庁内のエリート部署で働いている連中の足を少しでも引っ張りたい、そういう感情しかないわけだ。

「分かった。もういい。――地獄に落ちろ」

 レヰナは苛立ち紛れに電話を切ってから、

 ゲームセンター内、クレーンゲームに夢中になっているクダン=ソノダの近くに行って耳を寄せた。

「クダン、悪い連絡がある。おそらくだが、第一班が獣人のせいで全滅した。アタシはこれから局長の渡久地ワカナに状況を報告するから、お前は占星型をフル稼働しながら他メンバーに今の事実を伝えろ」

 それを訊き、クダン=ソノダは「マジで?」と声を漏らした。

「マジだ。頼んだぞ。――最悪の場合、こっちも襲撃される」

 レヰナがそう言った、次の瞬間。

 ゲームセンターのなかに、派手な格好をした三人組の男女がゆっくりと入ってきた。レヰナにもクダンにもその正体は分からないのだが、彼らは、全員がクロネコ派の刺客である。


 ヴァンデ=ブラ。バッタの獣人。男。

 シュドー=バック。サソリの獣人。男。

 ハツシ=トゥーカ=トキサメ。ボノボの獣人。男。


「ここに」

 とトキサメが言った。「オオカミの父親を殺した罪深いニンゲンがいると聞きました。素直に首を差し出してくださいな? あなたが謙虚に命を捧げてくれるのであれば、我々も鬼ではありません、あなたの家族までは犠牲にしないと約束しましょう」

 それから、トキサメはリボルバーを天井に発砲する。スプリンクラーが作動し、ゲームセンターにいた他の客たちが悲鳴を上げながら逃げ出そうとする。そんな人々の体に対し、トキサメは優しく指先で触れていく――その所作は、まるで優雅なダンスのようであった。

 漆黒のシルクハットにステッキを握ったタキシードの男。両瞼を糸で結び、自ら視界を封じている。それがハツシ=トゥーカ=トキサメ。ボノボの獣人。脅威度B級。

「それでは『啓蒙』、発動させていただきます」

 次の瞬間。

 トキサメに触れられた男女が、全員、殺気に満ちた表情で志賀レヰナのことを睨んだ。

 これが啓蒙型である。自らが直接触れた相手の常識を3つまで改変する。今回の場合、トキサメは「敵は獣人ではなく、狩人である」「狩人に立ち向かえば、死後に報われる」という2つの改変を施した。

 実際に接触するという制限つきではあっても、その後の操作能力について申し分がない。トキサメの力は、特定の状況下では無法の強さを発揮するのだ。

「――はあん」

 と志賀レヰナは笑った。「なかなか胸クソ悪い能力みたいだなあ、おい」

「お褒めに預かり、光栄ですマダム」

 トキサメは微笑む。

「人が集まれば集まるほど、ワタクシの力は強度を増していきますゆえ――100%こちらの勝ちです。なにか言い残したいことはありますか?」

「質問がある」

 とレヰナは言った。「お前に操られたニンゲンは元に戻れるのか?」

 それを訊いた途端、トキサメは口もとを歪めた。

「いいえ、もう無理です。洗脳ではなく、改変なのです。もう、ワタクシに脳をいじられたニンゲンは元の人格を取り戻せません」


「ほう、残念だ」


 その答えを聞いてから3秒経たないうちに、レヰナは操作されている人間に連続して発砲した。

 リボルバーが火を噴く。

 彼らは血を吐いて倒れていく。

 トキサメが用意した操り人形は、10秒経過する頃には、既に半分以下へと数が減っていた。

「ハァ――――?!?!?!?!」

 トキサメは額に脂汗をかきながら、弾丸を回避。ヴァンデ=ブラと シュドー=バックもすぐに脚力を活かして筐体の影に隠れた。

「なんで、なんでですかあ!? あなたにとっては同じ人間でしょうがあッ!?

 そんなに簡単に命を奪って、心は痛まないんですか、あなたぁッ!!」

 トキサメの悲鳴に対して、志賀レヰナはただ、沈黙。リボルバーを回転して薬莢を排出すると、陰に隠れて、再び44口径用のシルバーバレットを装填した。

「聖職者でも相手にしてると思ったか、生きる価値のないケダモノ野郎ども」

 そう呟いてから、レヰナは、

「タソガレ! ナツオ! サツキ! 今日は暴れていいぞ! 暴れねえとこっちが死ぬからなあ!! 目に入るモンに全部ブチ込めや! ――!!」

 と怒鳴った。

 射撃ゲームエリアにいた芹澤タソガレ、音楽ゲームエリアにいた黛ナツオ、プリクラエリアにいた和泉サツキが、拳銃を構えながら獣人とその人形たちに飛びかかった。

 ――獣人取締法の末尾にはこんな記載がある。もしも獣人に操られている人間がいる場合は、そいつも駆除の対象としてよいということ。――祁答院アキラ内閣総理大臣が野党の反対を押し切って捻じ込んだ攻撃主体の法である。

「ニンゲンのことナメてんなよなあ!! 獣人!!」


  ※※※※


 同時刻。

 ラッカ=ローゼキは、両手に四重の手錠をはめられたあと、さらにシルバーリングを首にかけられた。

 ピー、という電子音が鳴り、リングが施錠される。

「これからお前を拘束する、オオカミの小娘」

 と、サングラスの男は言った。「シルバーリングの仕様について、改めて説明しよう。お前が獣化、部分獣化、型の使用、そのいずれを試みても獣人核からは微弱な電磁パルスが放出される。シルバーリングはそれを察し、首輪の内側にあるシルバーニードルをお前の首筋に直接刺し込む。ニードルはシルバーバレットと同じ成分でできているからな。回避不可能かつ致死不可避のシロモノだ」

 サングラスの男は説明を終えた。

「質問がなければ、お前を獣人研究所の最地下牢に連れていく。――お前が言ったんだ。住吉キキを脅して訓練させたのは自分だってな? 言いたいことは?」

「ない」

 とラッカは答えた。「でも、キキは私に脅されてただけなんだから、クビにするのは許してあげてほしい」

「ふん」

 サングラスの男は、シルバーリングについている銀製の長紐を引っ張った。「さっさとついてこい、獣が」

 そして、エレベーターをさらに降りていく。獣人研究所にある猟獣収容所は地下53階。ここからはさらにそこを降り、地下89階にまで到達する。光はほとんどなかった。湿ったニオイだ。

「そこの右奥の牢に入れ」

 サングラスの男にそう言われるまま、ラッカは独房に入った。扉が閉められる。天井の蛍光灯と簡単なベッドと勉強机、そして剥き出しのトイレ以外にはなにもない地獄のように狭い空間だ。

「バカなオオカミだ」

 と男は言った。「お前は住吉キキ研究員を庇ったつもりだろうが、無理やり人間様を脅したと主張するなら、猟獣としての刺客も、実験動物として生きる僅かな権利もなにもないんだぞ。幸い、祁答院アキラ首相はお前との面会を希望なさっている。それまでの短い命と思うがいい」

 こうして、サングラスの男は去った。ただ、同行していた部下に「お前は見張ってろ!」と言いつけ、自分だけエレベーターに乗っていった。

 取り残された部下のグラサンは、「こええ」とボヤいてから、ラッカのほうに向き直る。

「なにか食べたいものとかあったら、オレに言ってください。地上の食堂に注文の電話とか入れるんで」

「え――うん」

 ラッカは、少しだけ戸惑った。こっちの男は、私のことをそんなに嫌いじゃないのだろうか――?

「私のこと、怖くないの?」

「怖い? なんでです!?」

 部下のグラサンは鞄からスケッチブックを取り出した。

「見てくださいよ、これ。オレの娘がクレヨンで描いた絵なんです。絵心あるでしょ? 将来は美術系の大学とかがいいなあって、アハハ!」

 そうして彼が見せてくれたのは、とてもシンプルなものだった。


 赤いマントを羽織ったオオカミが、悪い「ケモノ」をやっつけて人から感謝されている、まるでアンパンマンみたいな絵面である。


「これって?」

 とラッカが訊くと、部下のグラサンは、へへ、と笑う。

「うちの娘、あなたのファンなんです。オペラ座の怪人事件のとき、メディアで取り上げられたでしょう? あれからもう、夢中で夢中で!

『オオカミさんは次にどんな悪者をやっつけるの!?』

 って、夕食のたびに訊かれる始末ですよお!

 ――あ、このスケブにサインとかお願いできます? きっと娘も喜ぶと思うんだよなあ!

 正義のヒーロー。オオカミであってヒトであり、ヒトであってオオカミである。オオカミビト。それが、ラッカさんのネットでのあだ名ですよ」

 部下のグラサンはそこまで浮かれた調子で話したあと、不意に、真面目な顔になった。

「こんな酷い世の中で、子供なんて生んでいいのかと悩んでた。でも、こういう立派な奴が世の中のために、ニンゲンのために戦ってくれるなら、オレだって娘に示せる生きかたがあるんです。

 ――子供の希望を大人が潰しちゃいけませんよ。違いますか?」

 彼の言葉に、ラッカは思わず頷いた。

「うん、そう思う。私も。皆の期待に応えたい――私にできることのなかでだけ、だけど」

「はい」

 部下のグラサンは立ち上がると、地上に電話をかけた。

「アツアツほかほかのピザを頼みます! オオカミさんハラ減っちゃってて! え? いいよいいよオレが地上まで取りにいくから!」

 大声でそう言いながら、彼は、ラッカに笑顔でウインクした。


 ――要するに、その間に逃げ出せということである。

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