第17話 VS摩天楼 前編その2
※※※※
10月16日(月)
渡船コウタロウは、久しぶりに私服を着て東京都笹塚を歩いていた。
警視庁獣人捜査局第一班班長という肩書きは、すでに失われている。シルバーバレット入りの拳銃も、小銃も、散弾銃も、短機関銃も、狙撃銃も携帯することはできなかった。
猟獣であるゾーロ=ゾーロ=ドララムを呼び出すことはできないし、他班との連絡はおろか、第一班の部下である櫻木、風野、八宮への個別メッセージも送ることもできなかった。おそらく、三人は別の班に再配属されるのだろう。
「まあ、いいさ」
と彼は言った。これまで任務に追われていたが、不思議と身軽になった気持ちだった。
そんな彼に、メールが届いてきた。実の娘からである。
『お父さん、獣人捜査局を退職したってほんと?』
「ああ、そうだよ」
彼がそんな風に応答すると、すぐに返信が届いた。
『よかった! もう危ない任務に行くこともないんだよね!? あのさあ、お父さん、もしよかったらこっちに来て暮らさない?
うちの夫も、お父さんのことを気に入ってるし。それに息子のツトムもおじいちゃんのこと大好きだって言ってたよ!』
「いや迷惑だろう、オレは――独りで静かに暮らすよ」
『ダメ!!』
と娘は送ってきた。『お父さんってば今まで人間のために、日本のために頑張ってきたんだから! 老後は幸せじゃないとダメなんだよ!
――仕事でなにかトラブルがあったのは知ってる。定年まで勤め上げられなかったのも知ってるよ。でも、お父さんの家族だったらずっとお父さんの味方でしょ』
そんな文面を読んで、思わずコウタロウは立ち止まってしまった。
「分かった。少ししたらお前らの家に行く」
そう書いて、コウタロウは周囲を見渡した。
大昔からそこにあるパチンコ・スロット店が営業していた。
――そういえばオレは、ここで負け倒している妻と出会ってコーヒーを奢って、そうして夫婦になったんだったな。
コウタロウはそんな風に独り静かに思いながら、騒音に満ちているパチスロ店内に入っていった。
適当な台を見つけて、そこに座る。
『Pフィーバーダンベル何キロ持てる?』のところだ。
――そんなアニメがあるのか。
そして、適当に遊んでいく。目の前でちかちかした演出が流れながら銀色の球が落ちていくのが、ただひたすらに心地いいと感じた。パチンコをやった人間なら誰でも知っていることだが、勝ち負けは重要ではないのだ。勝利は、気持ちいい遊戯のための手段のひとつでしかない。
ふと。
コウタロウが適当に台に座っていると、店舗入口の自動ドアが開いた。髪の長い、少女のように白い肌と華奢な体をした少年が入ってくる。帽子から見える瞳の色は、エメラルドグリーンだった。
「なんだ?」
そう思いながら、コウタロウは無視を決め込む。
一方で少年は、ゆっくりとエナメル質のシューズを床に鳴らしながら歩いてくると、周囲の席を見渡し、コウタロウのとなりにゆっくりと座った。
黒のトートバッグを床に置き、カードを台に挿入しながら、その少年は美しい鼻歌を歌っていた。
気味の悪いガキ。
彼がそう思っていると、
ずぶり。
と。
彼の脇腹に冷たい感触があった。すぐに、刃物で刺されたのだと分かった。
「なあ――っ!?」
「お前は、さあ?」
と少年は微笑んだ。「警視庁獣人捜査局第一班班長、渡船コウタロウだ。違う? 違わないよねえ?」
美少年は、コウタロウの耳もとで囁いてきた。
「ぐ、うう――!」
コウタロウはすぐに左腕を伸ばし、少年が刺し込んできているナイフを押し返す。そして右手のほうは反射的に腰のホルスターへと伸びていた。
もちろん、そこにシルバーバレット入りの拳銃など存在しない。渡船コウタロウは、もう獣人捜査局の捜査員ではないからだ。
「かはっ!」
コウタロウが血を吐くと、目の前の美少年は吐息を漏らしながらハンカチを出し、彼の口もとを拭い取った。
「だめだよ~だめだめだめだめ、お前はここで誰にも気づかれないまま死ぬんだからあ」
「が、あ、あ」
コウタロウは美少年を睨みつける。「お前は、誰だ。なにが目的だ――!?」
「くくくく」
と美少年は嚙み殺すように笑った。
次の瞬間。
エメラルドグリーンをした瞳の瞳孔、その左側が、カシャン、と金属音を立てて形を変える。ただの円形の黒ではなく、『変化』という漢字の形にフォルムを変えているのだ。
「『超再生』型、発動」
「あ、ああ――あ!?」
コウタロウは思わず我が目を疑うしかなかった。
目の前にいるのが、先ほどの美少年ではなく、自分の娘と結婚した青年になっていたからである。
『やあ、義父さん』
「なに――い、?」
『悲しまないでよ、義父さん。義父さんの娘さんも僕も大事な一人息子も、みんな丸ごとクロネコ様に食べられることができたんだからさ!
――ニンゲンの役割ってさあ、獣人の食いものになることなんだから! だから、ありがとうね、義父さん!
獣人捜査局の狩人とかいうなんの意味もない仕事をしてさあ、僕たちを生贄として献上してくれた最低の人生を送ってくれてありがとうね!』
そこまで言い終えると、コウタロウの義息子の顔をした男は、
「くひっひひ」
と笑って、すぐさまに容姿を元の美少年に戻した。長く綺麗な黒髪、エメラルドグリーンの瞳。少女のように華奢な体と、白い肌。
――クロネコ。それが獣の王である。
「どうだった? 死ぬ前に大切な家族と会話できた気分は――さあ?」
「貴様!」
コウタロウはクロネコに掴みかかった。「オレの家族をどうした――! 答えろ――!」
「みんな食べちゃったよ。知らないの? それが変化型の獣人の能力だろ」
クロネコは、まるで哀れむかのように微笑むと、ナイフをぐりぐりと、さらにコウタロウに刺し込んだ。
「ああ、ぐっ――!」
「おい、渡船コウタロウ。お前は10年前にオオカミの男を卑劣な罠で狩った。その償いをするときが今なんだ」
クロネコはただ、美しい顔でそう告げた。
「誰がオオカミ狩りに参加したかは分かってる。渡船コウタロウとその猟獣、志賀レヰナとその猟獣、藤田ダイスケとその猟獣、渡久地ワカナとその猟獣、そして現内閣総理大臣、祁答院アキラだ――そうだろう?」
「あ、あ、ああ――!」
「死ぬ前に教えておく。
最近になってオオカミの娘が覚醒したことが分かった。なら、もうお前ら獣人捜査局のもとに置いておく理由はない。
あの子はいずれ自分の出生に気づき、ニンゲンを許せなくなる。だから、こっちももう我慢しないんだ。彼女を迎えにいくためのニンゲンの墓標は、あと四つ。すぐに完成させないといけない」
そこまで言うと、クロネコはナイフを引き抜いて立ち上がる。
コウタロウのほうは、ただ、パチンコ台にもたれかかったまま息絶えようとしていた。
「ああ、そうだった、四つっていうのは間違いだった」
クロネコは刃物についた血を舐めながら腰に戻すと、死にかけのコウタロウに楽しげに微笑んだ。
「日岡夫妻の一人息子――日岡トーリ」
とクロネコは呟く。
「ゴミのようなシルバーバレットを生み出し、猟獣訓練制度を最悪の形で洗練させて、僕たちのオオカミの男を滅ぼした最低の男女。獣人の、敵のなかの敵。その息子が今なにも知らないまま獣人捜査局でオオカミの娘のそばにいるらしいんだよねえ」
それって許せるかな? いや、許せない。
クロネコは笑いながら、笹塚のパチスロ店をあとにして歩いた。店内は轟音で、客の誰もが周囲に目を配らないままギャンブルに興じている。だから渡船コウタロウの死に人々が気づいたのは30分以上経ってからのことであった。
クロネコが大通りに降り立つと、そこにワゴン車を停めて待っている獣人たちがいた。
ノコリ=マヨナカ。
ヴァンデ=ブラ。
アダム=アダム=アダム。
トーボエ=ピル。
リトウ=ワン。
ハツシ=トゥーカ=トキサメ。
フカミ=アイ。
シュドー=バック。
ランデ=カナリア。
アノ=バリアテ。
それが今いるクロネコ派のメンバーだ。
「さあ行こう、みんな」
とクロネコは言った。「今日からは狩人が狩られる番だ」
※※※※
同時刻。
日岡トーリはBMWの後部座席に乗っていた。運転席にいるのは田島アヤノ、助手席に座っているのは仲原ミサキである。BMWのうしろにはベンツが貼りつくように走っている。そちらに乗っているのは山崎タツヒロと佐藤カオルだった。
警視庁獣人捜査局第七班のメンバーである。
「神柱ホシゾラの素性を調べてきたよ」
と仲原ミサキは言った。「戦前から名を馳せてる建築家一族の長女だね。といっても、神柱家はただ建物の設計図を書いてクリエイティブを発揮した気になってるデザイナー気取りの連中じゃない。日本の五大財閥の裏側と必ずコネクションを持っている。つまるところ隠し部屋、隠し通路、存在しないはずの階層、ありとあらゆる巧妙な仕掛けを施す見返りに自分たちの娘を資本家どもに嫁がせて私腹を肥やしてきた――戦後日本の隠された暗部のひとつってわけ」
「なにかの都市伝説じゃないのか? それは」
トーリがそう訊くと、ミサキはやれやれという風に首を振る。
「そんな神柱家が1990年代か、あるいはもっと前から手を出していたのが、獣人奴隷の売買だよ」
とミサキは言った。
「神柱ホシゾラには、年の離れた胎違いの妹がいたの。その名前は、神柱ヨゾラ。――覚えてる? 神柱ヨゾラはかつて、のちにハバ=カイマンと名乗るワニの獣人を奴隷として飼っていた。
本名は有馬ユーゴ。薬物中毒の父親に虐待を受け続けてグレた、どこにでもいるチンピラだったみたいだけど。
そして、ある夜を境にしてハバ=カイマンは姿を消し、神柱ヨゾラはその使用人も含めて惨殺された。そして、ハバ=カイマン捕獲に関わったらしい反社会的勢力の全員が何者かによって嬲り殺しにされてる。――その犯人はまだ捕まっていない」
ミサキがそこまで話し終えると、日岡トーリは、ただ腕を組むしかなかった。
「犯人はクロネコか」
「十中八九、ね。だから神柱家はクロネコ派を恐れて、住居を移し、大事な長女のホシゾラさんを東京のなかでも駒込なんていう田舎に逃がしたってわけ」
そしてその神柱ホシゾラは、性懲りもなく獣人奴隷の売買を続けている。そこには、サイの女がいる。
――自分たちがクロネコ派を攻略できることさえ示せれば、神柱ホシゾラは容易くサイの女を渡してくれるだろう。そうミサキは言いたいわけだ。
ぱっと、赤信号が見える。運転手の田島アヤノはブレーキを踏み、車を止めた。
「ねえ、トーリさん」
とアヤノは言った。「やっぱり色々考えてみたんですけど、ラッカちゃんはこの作戦に参加しなくていいんですか」
だって、この件、っていうかクロネコ? っていうのにいちばん関係ありそうなのはラッカちゃんですよね――と彼女は言いながら、タバコに火をつけた。
トーリは少しだけ目をつぶって、思い出していた。
あの日。
東京ガイナシティワールドで凄惨な殺し合いがあった日の夜に、トーリとラッカは、もともと予約していたホテルに泊まって体を休めることにした。追加捜査員からの聴取は拒むことにした。
「俺のラッカが疲れてる、今は休ませろ」
『いえ、しかし』
「もし俺の対応に不服があるなら、渡久地ワカナにでも、その上にいる警視総監にでも告げ口すればいいだろ。お前は二度と連絡を寄越すな」
トーリはそう言って電話を切ると、ついでにスマートフォンの電源も落とした。もううんざりだと思った。
――なぜラッカがこんな目に遭わなきゃいけないんだ。
彼女がなにをしたっていうんだ?
そう思っていると、風呂から上がったラッカ=ローゼキが、すっぽんぽんのままで出てきた。
「トーリ、私は別に疲れてないよ?」
「――そうだったのか」
トーリが体を起こすと、ラッカは、少しだけ不安そうな目をしながら彼のほうに近づいてきた。
「なに怒ってんだよ? トーリ」
「――俺が怒ってるように見えるか?」
「見えるじゃなくて実際キレてんだろーが、バカ!」
ラッカはそう言った。
「捜査中に感情的になるなって言ったのはトーリだろ! トーリがそれを守らなくてどうするんだよ、しっかりしろよ!」
と、少し怒鳴り気味に、ラッカはトーリの肩を掴んで軽く揺すった。
痛い、と思った。
まだチトセから受けた腕の負傷と肋骨の軋みが癒えていないのを感じる。
だから顔をしかめるトーリに対して、ラッカはハッとしたような表情で、
「ごめん、トーリ」
と手を離してくれた。「ごめん、私と違って、トーリはニンゲンだから傷の治りが遅いって――知ってたのに忘れてた」
「いいんだ」
トーリは少しだけ微笑むと、しゅんとしているラッカの頭を撫でた。
「それに、俺が悪かった。たしかにラッカの言うとおり感情的になってた。ちゃんとお前に捜査の心得を教えた俺がこんなザマじゃ、駄目だよな。ごめん」
「うん――」
「ラッカのことを考えたら、今の俺はきっと、冷静でいられなくなるんだ」
そう彼は言った。
「ラッカ、聞いてくれ」
と言葉を繋げる。
「今から解決しなくちゃいけない問題は三つあると思ってる。
その1.クロネコ派と呼ばれる奴らは未だにラッカのことを狙ってる。まあこれは前々から分かってたことだ。
その2.獣人捜査局はラッカについてなにか大事なことを隠してる。今回はそれが初めて分かった。
そして、俺の直感ではこの二つは繋がってる」
「なるほど――」
とラッカは口もとに手を当てる。彼女の体に巻かれていたバスタオルが床にバサリと落ちるが、トーリもラッカもそれを気にしている余裕はなかった。
「――で、3つ目は?」
「ラッカの超加速型が成長している」
トーリは彼女の胸を指差した。
「渡船コウタロウさんの使うゾーロ=ゾーロ=ドララムの狙撃型が、ラッカには一切通じなかった。だから無傷でいられる。――これは時間停止の能力から飛躍している」
「うん」
「もしかしたら超加速型は――もっと、なにか別の能力なんじゃないかという気がする」
「うん」
「それを住吉キキといっしょに調べてほしい。俺のほうはクロネコ派を探るよ」
彼がそこまで言うと、ラッカは頷いた。
「分かった。トーリはトーリのほうでなんか調べてみてよ。私はもっと強くなって帰ってくればいいんだな?」
「ああ」
「そういえば、なんだけどさあ――」
とラッカは天井のほうを向いた。
「ビームに撃たれたあと、なんかヘンな男の声が聞こえたんだよねえ――」
「声?」
「『オレの娘ならもっと強くなれ、盾も矛も使えるようになれ』とかなんとか――よく覚えてないけどさ」
それを聞いた瞬間、トーリの頭になにかが閃くような音がした。
盾と矛?
時間停止の能力がなぜ盾と矛を展開できる?
「ラッカ」
「うぃ?」
「超加速型で時間を止めているとき、どんなイメージなんだ?」
「え、うーん、えー、なんか、えっと」
と、ラッカは身振り手振りで答えた。「なんていうか、自分だけを世界からスパーンって切り離すような感じ。そこだけ時間が進まないっていうか――うん、感覚なんだけど」
――世界を切り離す? そこだけ時空が断絶するということなのか?
トーリはホテル備え付けの聖書を手に取った。
「ラッカ。たとえば、その『世界から切り離す』感覚を自分自身じゃなくて、自分の周りに与えることはできるか? そいつの時間を、つまり、運動自体を停止させるようなイメージで?」
「えっ」
ラッカは当たり前のように困った表情を浮かべながら、「やってみないと分かんない」と答えた。
だが、トーリは確かな手ごたえを感じていた。
超加速。
時間停止。
だが本当に時間が停止しているなら、どうして静止した空気のなかを動ける? 敵に干渉できる? 光が止まった空間で視界が働く?
そうではない。
超加速型は厳密には単に時間を止めているわけではないのだ。
獣人の型だからとおざなりにしていた理解を、彼はこの場で、一歩進めた。
トーリは聖書をラッカに見せた。「今からこれをラッカに投げつける。避けるんじゃなくて、ゾーロのときみたいに弾き飛ばせるか試してみてくれ」
「分かった」
ラッカの返事を聞いてから、トーリはハードカバーの聖書を投げつける。
直後。
ギィィィィンンンン――という鈍い音とともに、聖書はバラバラの紙束になって崩れ落ちていた。
ラッカ自身は呆然としている。トーリも、目の前の光景になにも言えなくなっていた。
これが《絶対防御の盾》である。
ただのバリアではない。ラッカの周りとその他の世界の間の時空が根本的に断絶している。だから、あらゆる干渉を受けないのだ。ゆえに、絶対防御。
ラッカ=ローゼキが、最強に一歩近づいた夜だった。
そして、現在。
あの夜のことを思い出しながら、日岡トーリは、ゆっくりと目を開けた。
「ラッカは、今は大丈夫だ」
※※※※
同時刻。
尾木ケンサクは近場のミニストップで買い物を済ませると、スマートフォンを確認した。このまえのアマチュアバンドを集めたライブで、インディーズのレコード会社の社員に声をかけられた、その男からの連絡を見るためだった。
『私はあなたに、なにか光るものを見つけました。気が向いたらでいい、そこに書かれた連絡先に、ぜひ何でも送ってください』
そうして受け取った名刺に描かれていたアドレスに、試しにメールを送ると、「ヘイストレコード」という名前のレーベルとの接線がいきなりに生まれてしまった。
――嬉しいはずなのに、どうすりゃいいんだろう?
尾木ケンサクは途方に暮れていた。
たぶん、バンドメンバーは喜んでくれるはずだと思った。さいきん友達になったラッカもきっと祝ってくれるかもしれない。
でも、この世界は、岡部クリスという歌い手が謂われのないバッシングを受けてメインストリームから追放された社会だ。獣人のはびこる暴力まみれの社会だ。
――誰に相談すりゃいいんだよ、こんなもの。
そんなことを考えながら尾木ケンサクが自分のアパートに帰ろうとしていると、途中にある建物と建物の間、ゴミ袋まみれの隙間にひとりの女がうずくまっているのを見つけた。
「なんだ、ありゃ?」
ケンサクは、思わず声をかけた。「ねえお姉さん、大丈夫?」
すると。
女は「ひ、い、ああああ――!」と、か細い震え声を上げながら後ずさりを始めた。清潔な顔。少し癖のある黒髪のミディアムボブに、パンツスーツ。胸の大きさを隠しきれていないシャツ。
「こ、ころさ、ころ、殺さないで――!」
「はあ?」
尾木ケンサクが呆れて訊き返すと、その女はガタガタと痙攣したように体を強張らせながら、「誰か、助けてぇ――!」と繰り返していた。
「助けて、助けて、勝てない、あんなの勝てない、クロネコには誰も勝てない、やだ、やだあ、しっ、死にたくない――」
「おい、お姉さん。なにワケ分かんねえこと言ってんだよ!」
ケンサクが女に近づくと――彼女のほうは、
「ひゃああああああああ!!」
と悲鳴を上げながら、ケンサクにしがみついた。
「おい、ちょっと!」
「助けて助けて助けて助けてええ! クロネコ様に逆らった私がバカでしたあ!! ――クロネコ様は最凶最悪の獣人で、私なんかが勝てるわけないんですう!! だから、誰でもいいから助けてえ!!」
「はあ――? クロネコ?」
ケンサクには、彼女がなにを言っているのか、全く理解できなかった。
――彼女の名前は布瀬カナン。三代目吸血鬼、ヴァンデッタ=ヴァイジュラ。今はクロネコに反旗を翻したことが露見して逃げ回るしかない、哀れな獣人の一匹である。
そんな事情を、ケンサクが知るはずもない。
「よくわかんねえけど――」
とケンサクは言いながら、カナンの手を取った。「なあ、メシちゃんと食ってる? オレのアパートに来いよ」
そして布瀬カナンは、尾木ケンサクの家で数日ぶりのシャワーを浴び、彼のYシャツを着て、彼の入れたホットココアを飲んでいた。
――この男、どうして私を簡単に助けたの?
気持ちが落ち着いてから最初に浮かんだのは、そんな疑問だった。男性が、なんの見返りもなしに私を助けるはずがない。どんな条件も提示されなかったのが却って不気味だった。
――それともやはり、いつものように体目当てか。
カナンがそう思いながらホットココアを飲み終わると、尾木ケンサクのほうはタバコとライター、そしてビール缶とつまみ、コンビニ弁当を持って近づいてきた。
「なんか食えよ? 灰皿は空き缶のほうに適当にな?」
「――え?」
カナンは、そのとき初めて尾木ケンサクの顔をちゃんと見た。整った目鼻立ちにインナーだけピンクに染めた黒髪。そして、バチバチにキメたピアス。
そんな彼が、自分を、女を、なんの見返りもなく助けたらしいということがカナンには理解できなかった。
「どうして?」
「あん?」
「私、あなたに迷惑かけてる。なのに、なんで?
あ、大丈夫だよ、私。男の人とセックスするの抵抗ないし、だから、そういうの目当てならちゃんとやれるからね?」
カナンがそう早口に言うと、ケンサクのほうは眉をひそめて彼女の肩に手を置いた。
「お前、オレのことバカにしてんのか?」
「え――?」
「そんなもん、好きな人としかやっちゃダメだろうが」
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