第0話 VS狼人間 後編その3


  ※※※※


 2012年11月。日岡ヨーコ・レンジ夫妻の葬儀は粛々と進められた。二人には社会的に頼れる親族は存在しない(全て獣人に喰い殺されている)、そして一人息子の日岡トーリはまだ17歳の高校生である。

 ゆえに弔辞は渡久地ワカナが読むことになった。ただ、辛い、とだけ彼女は思った。

「日岡夫妻は人類のため、この国のため、多くの研究成果を残しました。私も一人の警官として、警視庁獣人捜査局局長として、彼女たちの遺志を継ぐことをここに誓います」

 ワカナがそう言うと、その場からすすり泣きが聞こえた。

 全てが終わると、関係者たちが清酒を飲み交わす会合から席を外して、ワカナは中庭でタバコを咥えた。そこには渡船コウタロウ、志賀レヰナ、藤田ダイスケ、そして祁答院アキラがいた。

 アキラは目を真っ赤に泣き腫らしていた。――普段は冷酷そうに見えて、こういう場で妙に感情的な女だ、とワカナは感じた。

 アキラはこう言った。

「日岡夫妻の損失は甚大だが、うしろを向いていられない。シルバーバレットの開発と獣人訓練制度には、これからも莫大な予算を出すことを約束する。もちろん獣人捜査局のさらなる発展にもね。

 ここで退いたら、なんのために彼女たちが死んだのか分からなくなる。

 獣人の軍事転用計画、そしてその果てにある日本の建て直しを私は決して諦めないつもりだ」

「アグレッシブなヤツだな。好きにしろ」

 ワカナがそう言うと、アキラは鼻をすすった。

「では、政治屋の私はそろそろ立ち去るよ。ここにいると野党やマスメディアが私のことを狙って騒ぎ立てるし――人間社会に貢献してくれた日岡夫妻は静かに見送るべきだからね」

「そうだな」

 そうしてアキラは去っていった。

 ワカナはそんな背中を見つめながら、キャメルに火をつけた。

「なあ」

 とレヰナは言った。「一人息子のトーリってやつはどうなる」

「葬式には来なかったが、父方の祖父が山奥で猟師をしているらしい。しばらくはそこに預けることになるだろうという話だ。マスコミ関係の質問攻めに遭うよりは、田舎で静かに暮らしたほうがいいだろうさ」

「で、そのあとは?」

 とレヰナが問い詰める。となりでタバコを吸っているダイスケが苦い顔をした。

「自分の両親をA級獣人のオオカミに殺された男が、そのあと獣人どもに対する復讐心に目覚めたらどうする? そのときは、お前の捜査局に入れてやるっていうのか?」


 ワカナは中庭から立ち去ると、飲み食いの場所を通り抜け、もっと静かな廊下のほうに足を進めた。

 そこに日岡トーリ、17歳がいた。

「やあトーリ少年」

 とワカナは声をかけた。「今後の君の生活については、あとあと使用人から公式の説明があるだろう。親戚の田舎でゆっくり暮らすといい」

 トーリは振り返った。その容姿に、ワカナはゾッとした。実父であるレンジの整った顔立ちを受け継ぎながらも、細部にヨーコの繊細な面影が残っている。口もとの艶ぼくろ。

 ヘテロセクシュアルの女が100人いたら、85人はその見た目だけで恋に落ちる。そういう男に育つだろうとワカナは思った。

 トーリは、

「母さんと父さんの知り合いですか?」

 と言った。低く、落ち着いた声だった。骨格が頑丈である証拠だ。「二人が人類のためになる、立派な仕事をしていたことは知っています。あまり会ったことはないですけど、だから悲しいとは思っています」

「復讐したいと思うかな? 獣人に対して」

「両親を殺した獣人は、もうこの世にいません。ですよね? だから、そんなことに意味はないです」

「そうか」

「でも――」

 とトーリは言った。「母さんと父さんが守ろうとした人間を、俺も守りたいとは思いました。だから、いつか、俺も獣狩りの狩人に――獣人捜査局の捜査員になりたいと感じます」

 そんな彼の言葉を聞いて、ワカナは改めてトーリの体つきを見つめた。

 長い間、狩人として生きていれば相手がどのくらい素質があるかは分かる。残念ながら、トーリは中の中。仮にレヰナを100、コウタロウを90、ダイスケを80とすれば彼は50~60くらいの才能しかないだろうとすぐに分かった。

 しかし、大切なのは所与の才能ではない。自らに与えられた天命に対してどれだけ自覚的であるのかだ。

 その意味でいえば、たしかにトーリの覚悟は合格点だった。

「しばらく山奥で暮らしたら、私に連絡するといい」

 とワカナは言った。「獣人訓練学校に推薦で入れてやる。ただし決して甘やかしはしないぞ」


  ※※※※


 やがて「クロネコの村」にも、日岡夫妻の死は知らされることになった。そして、ずっと行方不明だったサイロが始末されてしまったことも。

 パンテラはその記事を、静かにハコの家まで届けに行った。この三か月間、ただ彼の身を案じていた彼女はその場にうずくまると、ただ涙を流し続けた。

「あたしのせいだ――!」

 とハコは言った。「あたしが傷ついてる姿なんて見せたから、サイロは人間に怒っちゃったんだ――またケモノに戻っちゃった――あたしが悪いんだ!」

「ハコ」

 パンテラが背中をさすっても、ハコは泣くのをやめてくれなかった。「あたし、別によかったのに! ここで三人家族でいられたら、それだけでもうなにも要らなかったのに!」

 その姿を遠くで見ていたラッカが、お湯の入ったコップを持ってきた。彼女にはワケが分かっていないから、母親が泣いているのは具合が悪いからだと思っているのだろう。

「あったかいよ? お母さん」

 とラッカは言った。「おなかいたいの、あったかいものがいいよ? のんでよ、お母さん」

 ハコはそんな娘の姿を見ると、さらに泣き崩れた。ラッカは、

「いたいのじゃないの?」

 と訊き直す。「誰かにいじわるされたん? しかえしすればいい?」

 ハコはしばらくうずくまったあと、頑張って笑顔をつくりながら起き上がった。

「――だめ。しかえしなんてしたら、またそのしかえしがきて、みんなが辛くなるよ」

 ハコはラッカを抱きしめた。

「ひとつママと約束して?」

「やくそく? うん、する」

「――ニンゲンのことを、嫌いにならないでね。悪い人もいるけど良い人もいる、そういうニンゲンの味方をできるような子になってね?」

「みかた? みかたって、なにすればみかたになるの?」

 とラッカは戸惑っていた。「ニンゲンのみかたをちゃんとやったら、お母さん泣きやんでくれる?」

「――うん。どんな風に味方をするのかは、自分で考えなくちゃだけど、できるかな?」

「まかせて! よゆー!」

 なにも知らないラッカは、そんな風ににっかり笑った。


 そこへ、村の長老と医師長そして自警団長が来た。

 パンテラは息を呑んだ。三人の雰囲気は重く、そして、もう既に決断すべきことは決断し終えて、あとはそれを言いに来ただけという風だった。

「蒼野ハコさん、そして、その娘さん」

 と長老は言った。「あなたが連れてきたオオカミの男は村の掟を破り、人の世を襲った。それがなにを意味するかは分かるかな」

「――はい」

 ハコは立ち上がる。「明日までにはこの村を出ます。今までお世話になりました」

 それを聞いたパンテラは、思わず長老たちに食ってかかった。

「待てよ! ニャア、あんたらもあの記事読んだろ。あれ見てキレるのがそんなに悪いことなのかよ!」

「悪い」

 と長老は言った。「我々の村が是としているのは、人間と獣人の共存だ。それは曲げられない」

「なにが共存だ! 綺麗事ぬかしやがって!」

 パンテラは肩を怒らせる。「クスリ売り捌いてヤクザに守られてる悪徳村がよお。あたしらに使ってる薬だって、旧式猟獣制度の劣化粗悪品だろうが!!」

「――ではパンテラ、お前も出ていくか?」

 村長がそう言うと、パンテラはぐっと怒りの言葉を飲み込むしかない。チューZには劇的な副作用と凶悪な依存性がある。もはや彼女は、村に従うことなしに生きられなくなっているのだ。――たとえいつ、その副作用が暴走して死ぬとしても。

「――クソがよお」

 パンテラは俯き続けた。それに対してハコは、長老、医師長、自警団長の三人にゆっくり頭を下げた。そして娘のラッカに、

「明日、ひっこしになったからね。早く起きようね」

 と笑いかけた。ラッカは、ワケが分からないという調子で親指を噛む。

 

 ――そんな様子を、長い黒髪の、エメラルドグリーンの瞳をした男の子が、陰から覗いていた。

 ――僕と遊んでくれたオオカミの女の子が、村からいなくなる? なんで? やっぱりニンゲンが悪いの? ニンゲンどものせいでオオカミが苦しめられてるの? 女の子のお父さんもニンゲンのせいで死んじゃったの?

 嫌だ。許せない。

 男の子は――のちに「クロネコ」と名乗ることになる少年は、ふつふつとニンゲンへの憎悪を燃やしていた。


  ※※※※


 明朝、ハコはラッカを連れて村を出た。パンテラは人里までガイドとして付き添うと言ってくれたが、ハコは首を横に振った。

「天気が悪くなるかもしれねえよ、危険だ」

「あたしにこれ以上優しくすると、パンテラさんの立場も危うくなるかもしれませんから」

 とハコは答えた。「大丈夫です。最初に合流したところまで連れていってくれれば、あとは自分たちで降りていけます」

「――そうか」

 パンテラは横を向いた。ハコはその表情を見て、うっすらと悟った。

 たしかに村の掟を破った者は、ここを出ていく決まりとなっている。しかし、どこへ向かうかは書かれていない。人里に下りるのだろう、というのは勝手な解釈だ。

 考えてみれば自然なことだ。反社会的な営みを続けるこの村を秘匿し続けるために掟があるのに、村から人を追い出して情報漏洩性を高めるのは本質に反している。

 ――パンテラさんはガイド役を装って、村の命令であたしを始末する予定だ。ハコはそう理解した。

 ラッカを自分より少し先に歩かせる。せめて自分が先にやられて、盾になれるように。そして後ろのパンテラに話しかける。

 11月の雨は、やがて予報外れの雪になった。

「パンテラさん、今日はチューZは飲まないんですか?」

「――お見通しか」

「ごめんなさい。夫のサイロといっしょに生きてきて、生きものの殺気は少し分かるようになっていました」

「――ニンゲンにキレたサイロを責めたくねえ。今の村の態度も気に入らねえ。だけど、あたしも他に行く場所なんかないんだよ」

「恨みません。でも、娘よりも先にあたしを始末してくださいね――」

 もう失う辛さはイヤなんです――ハコがそう言って振り返ると、パンテラは、下唇を噛んで血を流しながら、両手の拳を懸命にこらえるように握りしめていた。

 表情が震えていた。

 薬物が切れて湧いてくる殺人衝動を必死に抑えているのだ。

「ハコ、ひとつ教えろ」

「はい」

「成り行きであのオオカミを助けて、恋に落ちて、ここまで来たことに、後悔はないか?」

 パンテラがそう訊くと、ハコは少し考えてから、

「大切な娘を生むことができたので」

 と答えた。「――否定できません、自分の今までの人生も、夫を愛してしまったことも」

 それを訊くと、パンテラは頷いた。

「分かった」


 そして、パンテラは近くの大木に自分の頭部を思いきりぶつけた。


「パンテラさん!?」

「逃げろ!! あたしから逃げろ――!!」

 雪が本格的に強くなってきた。

 パンテラは「ああ、クソ!! ヤキが回った!!」とさらに怒鳴って、また自分の頭を大木にぶつける。額から血がパパッと飛び散った。彼女はフラフラとした足取りのまま、その場に尻もちをついた。

「あたしがあたしのことを抑えてるうちに、さっさと逃げろ!! ニンゲン!!」

 その怒声を聞き、ハコはすぐにラッカのもとへ駆け寄ると、その手を握って山のなかを走り始めた。

 パンテラは荒れた息を整えながら、母と娘が雪の向こう側へ見えなくなることだけを願った。そして彼女たちが消えると、

「ニャハハ」

 と自嘲した。「なんて言い訳するかなあ。『すまねえな長老。吹雪のなかで反撃されて見失っちまった。まあ、どうせこの天候じゃ生きてねえよ』とかかあ? いや、あるいは単に始末したってウソつくかあ――?」

 まあ、運が良けりゃ、あいつら片方くらいは助かるかもしれねえけど。


 不運にはさらなる不運が襲うものだ。その日は予報外れの、数年ぶりの悪天候だった。

 ハコは吹雪のなかをラッカと歩いた。地図とコンパスはとっくに落としていた。なんとか下へ下へ足を運ぼうとしていたが、実際にはぐるぐると山を回っているだけだった。

 ――それは、典型的な遭難コースだった。

 ハコはぶるぶると震えながら、上着の前をおさえる。不幸中の幸いだったのは、ラッカ自身は全く平気そうにしていたことだ。

 ――冬に強いオオカミの体質が、長い山生活のなかで完全に開花していた。ハコも、パンテラも、村の連中も気づかなかったことだが、ラッカは獣人としては、父親以上の資質を生まれつき持っていたのだ。


 やがて、ハコは力尽きるとその場に座り込む。吹雪に巻き込まれてから、既に3時間以上が経過、天候はさらに悪化していた。

「お母さん、どうしたの?」

 とラッカは訊いてきた。ニンゲンでない彼女には、ニンゲンの体力の限界がまだ分かっていない。

「うん、えっと――」

 ハコは、なるべく笑顔をつくろうとした。「ママちょっと疲れちゃったから、先に行ってて? あとで追いつくからね」

 嘘である。

 自分の死に様を娘に見せないための――。


  ※※


 その場で立っているラッカに、ハコは、布織りの手提げ袋を手渡した。なかに入っているのは、父親のドッグタグである。

 かつてサイロが米軍の猟獣だったころ、合衆国から渡されたものである。彼自身の識別番号と、祖国への忠誠を誓う文言が刻まれていたものだ。サイロはその文字をナイフで削り、ただの一言をそこに刻み直していた。

 拙い英語で、

「Obey Your Mind(汝の心に従え)」

 と書かれていた。

「お守り」

 とハコは言った。自分の呂律が回っているのかどうかさえ、もう、よく分からない。「大丈夫だよ、それを探して、ちゃんとあとから見つけるからね――」

 ラッカは、うん、と頷いて雪山を歩き出す。

 ときどき不安そうに振り返ってくるが、ハコはそのたびに最後の力を振り絞って、笑顔で手を振った。娘が悲しまないように。自分から離れてまっすぐ歩けるように。

 娘が、父親のようにニンゲンを恨んだりはしないように。

 真っ白な吹雪がラッカのうしろ姿を覆い隠すと、ハコはとうとうその場にうつ伏せに倒れた。

 ――不思議な夢を見た気がした。

 まどろみのなかで、体が暖かい。それは実際には凍傷の最終段階なのだが、それを知らないハコは、自分は死んであの世にいるのだ、と感じた。

 体の周りを、本物のオオカミの群れが囲んでいた。

 ――やっぱり天国だ。

 とハコは思った。だって、オオカミはこの国にはもういないもん。

《愚かだな。ニンゲンの世ではそういうことになっているのか――》

 先頭に立つメスのオオカミが、皮肉屋な口調でそう言った。

 ――え、天国のオオカミって喋れるんだ。すごいなあ。

《お前こそ、なぜニンゲンのくせに私の言葉が分かっている。オオカミの娘を生んで血の因果が逆流したか?》

 ――オオカミさん、お願いがあるんです。たしか日本では、オオカミって神様なんですよね? 聞いてください。

《もうすぐ死にゆくお前の頼みを聞いて、それでどうなる? 意味はない。ニンゲンにもケモノにもなれないお前の娘の面倒を見ろというなら、それこそ馬鹿げた相談だ》

 ――娘の名前、考えたんです。

《ナマエ?》

 オオカミが訊く。ハコは、ゆっくりと、夢のなかで唇を動かした。今まで考えたこともなかった名前を、どうして今、よどみなく言えるのだろうと思った。

 ――ラッカ=ローゼキ。全てを蹴散らす、大いなる力。

 あの子が独り立ちするときに、伝えてあげてください。お願いしますね、オオカミさん。

 ハコはそこまで言うと、うとうとと、真綿のベッドで横になったかのように眠くなって、だから眠った。

 実際には吹雪のなかで、神経をずたずたにされたまま永遠に意識を落としただけである。

 ――蒼野ハコ、死亡。享年25歳。


 オオカミはそんな彼女をしばらく見つめていた。

《母の愛か。よく喋る》

 群れのオオカミたちが不安げに見つめてくる。

 ――獣人は人間の社会にも居場所などないが、本来の獣たちの社会ではさらに忌み嫌われる。どこまでもまとわりつくヒトのニオイが思春期を越えて強まり、人を引き寄せる因子になるからだ。

 それにいずれにせよ、獣と心を通わせるほどの資質を持つ獣人は、先天性でもごくわずかなのだ。

《ほうっておけ》

 オオカミは遠くにいるらしい娘のニオイを嗅いでからそう言った。《どうせこの吹雪だ。しかも猟師の放った罠が雪の下に眠っている。あの娘もじき終わる。

 ――だが、もし、もしもなんらかの奇跡が起きて彼女が助かり、彼女のほうから我々の在り処を嗅ぎつけて、求めてきたとしたら――。

 そのときは邪険にするのも面倒だ。爪と牙の正しい使いかたくらいは教えてやる》

 そう、オオカミは静かに言った。かつて、我が子が生まれる前に族長の夫を失い、メスのオオカミとしては珍しく群れの長になり、今まで生きてきた――そんな彼女が気まぐれのように、ラッカのことを気にかけていた。


 ――こうして、物語は始まりの場所に戻る。


 ラッカはトラバサミに足を挟まれ、肉を抉られながら何度も再生し、そのたびに再び肉を削り取られると、完全にパニックになり、顔と体の半分をオオカミにしながらもだえ苦しんでいた。

 吹雪が和らいだあと、彼女のか細い悲鳴を聞きつけた少年が――つまり、祖父のもとに預けられていた日岡トーリが――駆けつけてくるまで、ラッカはずっと泣き続けていた。


  ※※※※


 雪のなか、森の奥。

 知らないまま生みの両親を喪い、自覚もないまま獣として人の世を追われたラッカは、ハコに着せて貰った洋服とほんの少しの荷物以外、ろくな食いものにもありつけないまま、山をさ迷い続けていた。

 ――お母さんが追いついてこない、そう思って来た道を引き返そうとしたが、初めての悪天候は彼女に方向感覚を失わせた。そしていずれにせよ、ハコの体はとっくに埋もれて誰にも見つからなくなっていたのだ。

 既に一山分を外れたところまで、無自覚にラッカは駆けていた。

《いたっ!》

 左足に激痛が走る。狩人のトラバサミに足を挟まれ、身動きが取れなくなっていることを悟った。

《なに、なにこれ――! いたい、いたい――!》

 ラッカは泣きわめきながら、左足を何度もトラバサミから引っ張った。そのたびに刃が肉に食い込み、血を散らしていく。やがて、幼い獣人核が彼女の足を回復させると、再び刃が肉に突き刺さる――その繰り返しだった。

 悲鳴を漏らす。

 混乱のなかで、獣人体と人間体の区別が少しずつできなくなっていった。

 顔と体の右半分にだけ毛が生えて、牙と爪が伸びた状態のまま、ただ叫んでいた。

 そのとき、まだ7歳だったが――彼女は、自分が母親とは違う生きものなのだと、はっきり気づいた。お母さんは、私と違って寒さに強くない。お母さんは、私と違ってオオカミにはならない。

 ふと、「ニンゲンの味方をしてね」という母親の言葉を思い出す。その言葉の意味を、だんだんと理解していく。

 そっか。私はきっと、その「ニンゲン」じゃないんだ。

《アアアア――アアアア!!!!》

 泣き喚くと、涙が頬に張りついて頬を傷つける。だがその傷と痛みも獣人核によって再生していくのだ。

 ――お母さん、お母さん、痛いよ。これ、どうやったら外せるの。どうやったら、普通の生きものとして生きていけるの?

 誰か、誰か助けて――と、そう声を上げても、さらなる混乱のせいで人の言葉と獣の唸りが交じり合い、どちらの世界にとっても無意味で無価値な雑音になってしまう。

「オ、オオ――《たす》――ウオオ――《けて――》――!!」

 そのとき。

「大丈夫か!?」

 そんな声がして、そちらを見ると、唇の右下にホクロのある、綺麗な顔立ちの男の子が猟銃を持って立っていた。

「ケモノ用の罠にかかったんだ。早く外さないと」

 彼はそう言って、器用な手つきでバネを外すと、トラバサミから彼女を解放した。「ひどい怪我だ。手当てするから、早くおぶされ!」

「グ、アア――《駄目だよ――》ア――《私――》アアアア《人間じゃないから――》――!」

「バカ! 血だって出てんじゃんかよ!」

 そうして、男の子は7歳のラッカを背負い、右手に握りしめていた太い縄を伝うように祖父の家まで戻っていった。

 幸いにも、その日、祖父は留守だった。

「私――ニンゲンじゃないよ?」

「そうだな。それがどうした!」

「ニンゲンじゃないのに、こわくないの?」

「怖くない!」

 と男の子は言った。「俺が怖いのは――自分が何も助けられないまま、誰も守れないまま終わることだけだ!」

「ニンゲンじゃないのに、にくくないの?」

「さあな!」

 と男の子はさらに答えた。そのときには、ラッカの体は人間体に戻っていた。落ち着いてきて、彼の背中を暖かいと感じる。

「俺が憎いのは――なんの力もない自分だけだ!」


 こうして彼は――日岡トーリはラッカを家に運び込むと、彼女の再生中の生傷が完全に癒えるまで手当てした。

 そして、実の親と永遠に離ればなれになった彼女が、ゆっくり眠れるようになるまで、寝ずの看病を続けてくれた。


 翌朝、ラッカはうっすらと目を覚ます。トーリはラッカが持っていた手提げ袋を、大事そうに彼女の枕もとに置いていてくれた。

 ――そこに入っていたのが、銀のドッグタグである。

「獣人なら、山に帰れ。俺は忘れるから」

 とトーリは言った。「ニンゲンを襲わないなら、狩る理由はないよ。俺はいつか東京に戻るんだ――そしたら、俺はもう追わない。二度と会わないだろ?」

 そんな風に横を向くトーリの顔を、ラッカは綺麗だなと思った。

 ――トウキョウかあ。と、思った。


 七歳の獣人の女の子が、十七歳の人間の男の子に恋に落ちた。

 初恋だった。

 互いに互いを親の仇と知らないまま、ただ雪を溶かす日差しが、二人を、十年後の再会まで導こうとしていた。


 全てはここから始まったのだ。

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