第0話 VS狼人間 後編その2


  ※※※※


 夜、室内。

「オオカミ王ロボの物語を知っているだろうか? 彼は『シートン動物記』の登場人物だった。人里に降りて家畜を食い荒らす最悪のオオカミであると同時に、伴侶のオオカミ・ブランカを慈しみ隣に歩かせる愛妻家。

 ロボを捕まえられない人間どもは、先にブランカを捕獲して絞殺するとそれを釣り餌にしてロボを誘い、彼を捕らえることに成功した――。

 そんな悲しいオオカミの物語だ」

 と祁答院アキラは話し終えると、うしろのほうを向いた。高級ソファに座った渡久地ワカナ、志賀レヰナ、藤田ダイスケそして渡船コウタロウが険しい表情で座っている。全員スーツ姿だった。

 目白にある祁答院アキラの一軒家だった。使用人は部屋から排除し、暗い部屋のなかでの作戦会議というわけだった。

「同じことをオオカミの獣人、サイロ=トーロに仕掛ける。彼を庇って共に逃げ出した愚かな人間の女、蒼野ハコの素性をデマカセ込みでメディアにバラまく。

 あのオオカミは、愛する女が世界に傷つけられて平気でいられるような性質じゃない。米軍の知人からよく聞いてる。

 そうすれば、サイロは必ず東京に戻ってくる。悪どい記事を書いたメディアや、被害者の女や、我々の獣人捜査局に必ず牙を剥くだろう。そこを捕獲すればいい」

 アキラはそれだけ言うと、ワイングラスに注がれたロマネ・コンティを飲んだ。

 渡船コウタロウのうしろには銀の箱が置かれていた。なかで生きているのはゾーロ=ゾーロ=ドララム23歳。イッカクの獣人、狙撃型、脅威度B級。射程距離2キロメートルで光線を放つ――2回までは自動追尾可能。

 志賀レヰナのうしろには、猟獣クダン=ソノダ21歳が立っていた。闘牛の獣人で、占星型、脅威度B級。未来を見ることができる。確定した未来なら五秒後まで、天気予報レベルなら一週間先も。

 藤田ダイスケのうしろでは、猟獣ラルル=ララランド14歳がもじもじと髪をいじっていた。ビーバーの獣人、防波型、脅威度B級。長い期間をかけて用意する特定の領域、そこに侵入した敵の力を半減させる。

 そして、渡久地ワカナのうしろには、ギボ=ジンゼズ22歳がいた。ウサギの獣人、逆行型、脅威度B級。左手で触れたモノの運動を「逆再生」させ、右手で触れると「順再生」に戻すことができる。

 アキラは三人と三体を見てニヤリと笑う。「優秀なB級猟獣の集まりだ。この三匹でA級のオオカミを捕らえる。クダンが現場を予想して、ラルルが領域を展開し、最後にギボがサイロの『時間停止の被膜』を逆行型で崩壊させる。被膜を広げる前に戻すんだ。狙撃手としてのゾーロ=ゾーロ=ドララムがこの被膜を張らせる」

 アキラはそう言ってから、窓の外にある月光を眺めた。

「オオカミ――君たちは愛情も憎悪もいささか純粋に過ぎるんだ。それが弱点だ。ニンゲンの、どこまでも腐り果てた悪意を分かってないな、獣人」


  ※※※※


 ハコに対するメディアのバッシングを知ったあとも、サイロは初めのうちは矛を収めようとした。

 当のハコが青ざめながら、

「大丈夫だよ」

 と言ったからだ。「大袈裟だなあ。こんなの大昔のことだよ。もうどうにもならないことくらい分かってるってば!」

「本当か?」

 とサイロが訊くと、ハコは、

「うん!」

 と頷いた。

 だがその言葉に反して、ハコは過呼吸でよく倒れるようになった。寝床ではいつも涙を流していた。サイロのとなりでラッカは親指を噛みながら不安そうにしていた。

「ママ、びょうきなの? ぐあいわるいん?」

「大丈夫だよ。なんにも心配は要らないから、あっちで遊んでろ?」

 サイロはそんなウソを娘につきながら、自分のなかに眠っていた殺人衝動がグツグツと煮えたぎるのを感じていた。

 仕事中に、人里のある方角を眺めることも増えた。

「よせ」

 いつの間にか隣にいたパンテラが、サイロの肩に手を置いた。「復讐になんの意味があるんだ? ニャア、お前さん。ここで三人家族でずっと暮らす、それがいちばんの幸せじゃないのか?」

「分かってる」

 サイロはそう答えながら、拳を握りしめた。両手の指が手のひらに食い込み、血をダラダラと流す。その傷を、無尽蔵の再生力を持つ獣人核が癒していく。

 夜中、サイロはハコの寝床に向かった。ひとつひとつ雑誌記事を読みながら、サイロは、ハコが眠りながら静かに泣いているのを眺めるしかなかった。


 我慢の、

 限界だ、

 と思った。


 ある記事には『蒼野ハコはオオカミのイカれた情婦だ。色ボケで生物兵器の逃亡に加担するバカ女だ』とある。

 ――オレの女の名前を口にするな。

 別の記事には『筋違いの復讐心に囚われた哀れな女だ。オオカミを使ってまたレイプでも起こす気か』とある。

 ――オレの女の名前を口にするな。

 別の記事には『もともと蒼野ハコ自身にも看過できない犯罪歴がある』だとか『性依存症の蒼野ハコこそが実の父親の篭絡して強姦犯罪に走らせた』だとか、ほとんど支離滅裂な根も葉もない風評が書かれていた。


 ――オレの女の名前をテメエらが口にするな! 腐ったニンゲンどもが!


 サイロは首に巻いていたドッグタグを外すと、ハコの枕元に置いた。そして、手もとの紙と万年筆を使って、2通の手紙を書いた。


  ※※※※


 翌朝、パンテラは山道に立っていた。その日はサイロといっしょに、東南方面の見張り番の仕事だった。

 だが、約束の時間になっても彼は現れなかった。

「――イヤな予感がする」

 彼女は里に戻り、サイロのハコの寝床に走った。彼はどこにもいない。代わりに彼のドッグタグと、手紙が2通だけあった。

 片方はハコ宛。もう片方はパンテラ宛だった。彼女は自分宛のほうを受け取り、朝焼けの眩しい村の中央でゆっくりと読む。

『悪いな、パンテラ。

 もう人は襲わないとハコに約束したが、また破ることにした。

 オレは、オレが大切にしているものを平気で汚す連中がのさばっている世界は愛せない。

 せっかく平和に生きられるようになったオレを刺激したニンゲンが悪い。彼女の家族を壊したクズどもに、しかるべき報いを受けさせる。

 ――ドッグタグは娘に預ける。オレとは違う、ちゃんとニンゲンの味方をやれる獣人になれるよう面倒を見てくれ』

 それが全文だった。


「バカヤロウ!!!!」


 とパンテラはその場で怒鳴り、手紙を握りつぶすとその場に捨てた。


  ※※※※


 サイロは山里に下りると、その場にあった観光客のバイクであるHONDA CB750Fを盗んで、東京まで疾走した。目指すは、冤罪女が生放送で出演する予定の放送局本社、東京都港区六本木グランドタワーである。

 ――撤回させる。ハコの親父が犯罪者だということを撤回させてやる! 何人ブッ倒してでも!


  ※※


 そんなオオカミの行動を、クダン=ソノダは予知していた。スマートフォンで志賀レヰナに電話をかける。

「レヰナちゃん。オオカミはオレが予知したとおり六本木グランドタワーに直行してる」

『了解。ダイスケの猟獣、ラルルに領域の展開を指示する。お前もそこに集合しとけよ』

「――分かったよ、レヰナちゃん」


 そして志賀レヰナからの連絡を受け取った藤田ダイスケは、うしろにいるラルルに声をかけた。クダンの予言に従い、六本木グランドタワー周囲に白チョークで陣を描き続けた女である。

「オオカミが目的地に入った瞬間、型を発動しろ。いいな?」

「はい、ご主人様」

 ラルルは――ボブカットに一重まぶた、そばかすの多い女だ――ダイスケの腕にぎゅっとしがみついた。猟獣訓練の実験台として、ダイスケに対する疑似恋愛感情を植えつけられている。

「作戦に成功したら、頭を、なでてください――」

「はあ?」

 ダイスケは舌打ちして、彼女を強引に引き剥がす。「薄気味悪い女だな、ったく――だから猟獣なんか持ちたくねえんだ!」

「そんな、ご主人様――」

「ああ? もう、分かった! 分かったから離れろ!」

 そんな風にラルルを邪険に扱うダイスケは、しかし、ごく普通の人間がそうであるように、とっくに彼女への愛着を捨てられないでいた。


 その頃、渡船コウタロウはゾーロの入った銀の箱を持って隣のビルにいた。

「オオカミに八年前、ゾーロ=ゾーロ=ドララムの光線が容易く防がれた。そのとき思ったよ、あの獣はなんとしてでも滅ぼさなければならない、と。存在そのものが世界の均衡を崩す存在だ。善か悪か、それ以前の問題としてな」

 コウタロウは電話越しにワカナに言った。

『ああ』

 と彼女は答えた。『切り札は私のギボ=ジンゼズに任せてくれ』


 作戦開始。


 オオカミのA級獣人、サイロ=トーロはバイクを道路上に乗り捨てて港区六本木グランドタワーに入った。歩くたびにブーツが大理石の床を鳴らし、銀色の天井が光の反射で彼の位置を映し出す。

 だが、誰もいない。

 そう、彼が妨害しようとしている番組は、最初から放送されていない。放送局員を含めたタワーの人間は今回の作戦に合わせて全員退避している。――全てはトラップなのだ。

「?」

 サイロはそのままビルの奥に入った。エレベータに乗って、放送スタジオのある階まで上る。

 扉が開いた。

『いま明かされる冤罪事件の真実! オオカミの獣人と結託した悲劇の少女、そして明かされる事件の真相とは!?』

 そんな貼り紙のある簡素な看板を見つけ、サイロはそちらに向かっていく。カメラが集中している第24スタジオの台座へ、サイロはゆっくり進んでいった。

 そのとき、

「今だ!」

 と藤田ダイスケが叫んだ。「ラルル! 型を発動しろ!」

「はい!! 『防波』!!」

 ラルル=ララランドが型を発動。オオカミの力が、これで半減した。獣化、部分獣化できなくなる。たとえ超加速型を発動しようとも、時間は四秒弱しか止められず、時間停止の矛を射出することもできなくなった。

「な――!?」

 戸惑うサイロに対して、志賀レヰナ、渡久地ワカナ、そして藤田ダイスケが吹き抜けの階上から姿を現した。クダン=ソノダと、ラルル=ララランドもそこにいた。

「すまないな、オオカミ」

 とワカナは言った。「どれもこれもお前をおびき寄せるための罠だった。大人しく捕まってくれ。日岡夫妻がシルバーバレットと猟獣訓練制度の仕上げにお前を欲してる――それに、2000人も殺した獣を人間社会は放置できない」


「テメエら!!」

 とサイロは怒鳴った。「オレのことはどうでもいい!! だが、ハコはテメエらと同じ人間だろうが!! なんで同じ人間を傷つけてんだコラ!!」

 それに対して、ワカナは胸の痛みを押さえながら、こう言うしかない。

「人間は目的遂行のためなら同じ人間も犠牲にできるのさ。大義ゆえに少数を殺し多数を生かすことを良しとする。その狡猾さを甘く見ていたお前の負けなんだよ、オオカミ」

 直後、

 シィン――という、光線が空間を貫いてくる音、それが遠くから響いてきた。ゾーロ=ゾーロ=ドララムの狙撃型である。

「チッ!」

 サイロは右手を突き出し、時間停止の盾を展開する。


 ――キイイイイィィィィンンンン


 彼がゾーロの光線を弾く、鋭い金属音にも似た悲鳴が空間に響く。それを見て、ワカナは静かに呟いた。

「やれ、ギボ=ジンゼズよ」

『アティサミラカウ』

 とギボは答えた(「分かりました」の逆再生)。そして待機していたスタジオの天井から落ちてくると、サイロの展開した絶対防御の盾に左手で触れた。

 逆再生。

 彼の時間停止の盾が、瞬く間にしぼんでいった。つまり、元に戻っていったのだ。

「なに――!?」

 サイロがギボを睨みながら、怒鳴り声を上げた。

 それが唯一にして無二の、人間がオオカミを狩るための最後の油断だった。


 ――刹那、志賀レヰナの弾丸がサイロの腹を抉った。リボルバーのコルトアナコンダ、彼女専用シルバーバレットである。


「がああああッ!!!!」

「八年前の借りを返すぜ。

 ――やっと捕まえたぞ、人殺しのクソオオカミが!!!!」

 レヰナはさらに二発、三発と弾き金を引いていった。

 サイロ=トーロの、最強のオオカミの身体に何個も風穴が空いていく。再生力、耐久力の強さが彼を支えるも、シルバーバレットの毒性に少しずつ血を吐きながら弱っていく。

「グ、ア、アアアアッ!」

 彼は悲鳴を上げながら、なおも力を振り絞った。

 最後の『超加速』発動。

 まず、レヰナのとなりにいたクダン=ソノダが胸を削り取られた。獣人核も指に引っかけられて一部損壊。

「う、ああああ!!!!」

「クダン!!」

 レヰナが叫び声を上げるなか、クダンはその場に崩れ落ちる。命はあったが、もはや型の発動は今までのようにはできなくなった。

 さらにサイロは牙を剥き出しにして爪を立てながら走る。

 ダイスケのとなりにいたラルルが、獣人核を完全に抉られて、その場に崩れ落ちた。


「ラルル――!? おい、ラルル――!!??」

 ダイスケはすぐに膝をついて、彼女を抱き起こした。

「ダイスケ、さん――!」

「ラルル、おい!! なにやってんだお前!!」

 そう呼びかけると、彼女は微笑むだけだった。

 ただ、彼の頬に伝っている涙を指でこすると、

「これじゃあ、頭をなでて、もらえませんね?」

 そう言って息を引き取った。

「なんでだよ――」

 とダイスケは震えていた。「なんで――どいつもこいつもよお、俺より先に死ななきゃいけねえんだよ!?」


 サイロ=トーロは力尽き、さらに志賀レヰナから二発ほどシルバーバレットを撃ち込まれると、ようやくその場に倒れた。息はあるが、もう動けない。――つまり、獣人捜査局の勝利だった。


 レヰナは息を吐く。

「アキラさんの指示とはいえ、二度とごめんだよ、こんな胸糞悪い作戦は。これじゃあ、ニンゲンのほうがクズみてえだ」

 そんなレヰナの横顔を見ながら、ワカナは、

「そうだな」

 と頷いた。「今回に関しては、だが、獣よりも人のほうがよほど醜悪だ」


  ※※※※


 数週間後、意識不明の状態から起き上がったサイロ=トーロは、自分が両手両足を銀の鎖に縛られ、壁に磔になっていることに気づいた。どこまでも真っ白な床、壁、そして天井が広がっている――獣人研究所東京本部の最地下階である。

 ――どこだ、ここは。たしかオレは、ニンゲンどもの罠にハメられて負けたはず。

 そう思っていると、吹き抜けの上から螺旋階段を伝って降りてくるハイヒールの音が聞こえた。

 音の主は、祁答院アキラだった。パンツスーツに、黒髪のロングストレート。色素の薄い白い肌は常に紅潮している。獣人捜査局の強行設立を提言した極右のタカ派であり、初の女性首相候補との声も高い女だった。

「やあオオカミ。お目覚めかな」

「お前は?」

「やがてこの国の王になる女だ」

 アキラはそう答えると、右手に持っているリモコンで部屋全体を照らした。そこにいるのは、獣人研究所所長の日岡ヨーコと、獣人捜査局の渡久地ワカナ、渡船コウタロウ、志賀レヰナ、藤田ダイスケだった。

「君は貴重なA級獣人だ。そのデータを使って、シルバーバレットと猟獣訓練制度を完成させる。それが同盟国アメリカ合衆国への手土産になり、我が国の解釈改憲を国際的に許す土壌になる。この日本を正しい方向に発展させる犠牲になりたまえ。

 ああ、そうそう! 逃げようとしても無駄だよ。手錠、足枷、そして首輪は全てシルバーリングの第二世代だ。獣化、部分獣化、型の使用、どれを試みても君の命を奪える」

 アキラのそんな言葉に対し、サイロは静かにフッと笑った。

「取引だ、ニンゲンの女」

「なに?」

「お前らの実験には全て付き合ってやる。代わりに、オレのことを庇っていた女のことは無罪放免で見逃せ」

「――オオカミ。君はなにも分かっていないようだ」

 アキラは微笑むと、そのヒールでサイロの腹を蹴る。シルバーバレットによる傷口がまだ残っている横腹だ。

「ガッ!?」

「取引というものは、対等な生命体どうしが行うものなんだよ?」

 とアキラは微笑んだ。「なんで獣人風情とニンゲンが商談をすると思った? 身の程をわきまえたまえよ、社会のゴミクズが――!」

 ぐりぐりぐりぐり、と、アキラはヒールの爪先でサディスティックに傷跡を抉り続けた。

「アアアア!!!!」

 サイロは悲鳴を上げる。アキラはさらに頬を紅潮させながら彼のもとを離れた。

「さて、あとは研究所と捜査局の諸君に任せる。私のほうは我が党のオジサン連中のご機嫌を取りに行かなくてはいけないからね――」


 そんな風にして祁答院アキラが去ると、次は藤田ダイスケがサイロのもとに近づいた。

「傷が痛むか? オオカミ」

「――え?」

 サイロの返事を待たず、ダイスケはサイロの腹に――包帯に血が滲んでいるその場所に――拳を当てた。

「アアアアッ!」

「これは梶原の分だ! テメエが殺した俺の部下だ!」

「クソが――!」

「それと、これは猟獣のラルルの分だ!!」

 ダイスケは手元の金槌でサイロの頬を砕き殴った。

「グ、ウウウウ、ウウウ――!」

「痛えのか? 痛えだろうなあ」

 とダイスケは言った。「だがテメエに対する同情心は全く湧かねえ。テメエを可哀想とはこれっぽっちも感じねえ。貴様が殺した人の数は約2000名。そいつらの苦しみに比べたら、テメエの体の痛みも、テメエを庇おうとした女の屈辱も屁みたいだもんだ――違うか!? コラア!!」

 ダイスケはさらにサイロを叩きのめした。

「なんだテメエは!? 『愛するニンゲンの女ができて更正したから、もう殺しはやめて引きこもります』だ!?

 そんな風にやめたり続けたりする権利がなぁ、更正する権利がなぁ、テメエにあると思ってんのか!? 人殺しのクズ野郎が!!」

 そんな風に怒鳴りながら、ダイスケは体力が尽きるまでサイロをいたぶり続けた。

 そうしてサイロが鼻の穴、口、目、耳の全てから血を流してぐったりすると、ダイスケはそれでも腹の虫が収まらないという様子で部屋を去った。


 志賀レヰナはそんなオオカミの姿を見ながら、ため息を吐いた。

「こいつから女の情報を聞き出すのは無理だな」

「そうだな」

 とワカナは答えた。「ニンゲンに対する憎悪はあるが、こいつは蒼野ハコという女に関する愛情だけは本物のようだ。だから我々も外道な作戦を成功させることができた。これを崩すことはできない」

 ワカナがそう言うと、レヰナは「もうアタシのリボルバーは要らないだろ。帰る」と、ウンザリした口調で研究所を去った。


 そうしてワカナはヨーコのほうを見つめた。

「これからどうする? ヨーコ。やっと捕まえたA級獣人だぞ」

「時間が必要」

 とヨーコは答えた。「夫のレンジと二人きりで、しばらくこのラボを借りる。シルバーバレットについても猟獣訓練制度についても、A級獣人である彼の再生力と耐久力を上限値に設定して実験する。何度も、シルバーバレットを生身の身体に撃ち込むの。そして何度も拷問する。

 オオカミ個人に恨みはないけど、ニンゲンが獣人の脅威に打ち勝つにはそれしかない」

「――そうか」

「本当は、夜牝馬っていう欧米出身のA級の獣人を実験対象にしても良かったんだけど、そいつは旧ソ連圏に簒奪されて行方不明らしいからね。たぶんオオカミほど型を洗練させていないし、仕方ない」

 ヨーコは、科学者としての冷酷な瞳のなかに、ニンゲンの母親としての暖かな愛情の光を灯す独特な眼差しでそう言った。

「息子が安心して生きられる世界に、少しでもしてあげたいの。そのためには、獣人は邪魔」


 渡船コウタロウは、そんなヨーコとワカナを見つめながら、腕を組み直す。

「オレは公安の鮫島カスミって若造といっしょに、オオカミの男が今まで隠れていたであろう場所を調査しよう。

 オオカミは全国で指名手配されていた獣人だ。そいつが逃げおおせていたってことは、つまり、獣人に協力的なコミュニティがどこかにあるということだ。

 もちろん人間と獣人は相互理解など不可能。そこにいるのは憎悪を撒き散らす獣だけ。であれば、特定のドラッグか金銭のやりとりによって反社組織との繋がりがあるはず――それを探る」

 そう語る渡船コウタロウの手には、二種類の錠剤があった。

 違法薬物の『キャンD』と『チューZ』である。

「いまヤクザのなかで主に使われている違法薬物はこのふたつだ。

 キャンDは人間の殺人衝動を獣人レベルに高め、チューZは獣人のそれを人間のそれに抑える。

 だがどちらも副作用は劇的だ。一錠でも服用すればマトモな寿命では生きていけまい。

 そこに手がかりがある。必ず尻尾は捕まえてみせる」

 それに対して、

「分かった」

 とワカナは答えた。「そのあたりの調査はお前に任せることにしよう」

「安心しろ、目ぼしい成果は必ず挙げるさ」

 そうしてコウタロウもその場を去ると、部屋に残っているのは、傷だらけのサイロとワカナだけになった。


 ワカナは煙草を咥えると、サイロを見つめた。

「すまないな、オオカミ。あと数十年は生き地獄を味わうと思え」


  ※※※※


 2012年8月15日に捕らえられたオオカミの獣人、サイロ=トーロは、約3ヶ月、獣人研究所のなかで実験材料になり続けた。意識が飛びそうになるたびに電流を浴び、鞭で打たれ、シルバーバレットを撃ち込まれた。

 ――許さねえ、許さねえ、許さねえ。

 サイロは朦朧とした意識のなかで、ただそれだけを考え続けていた。

 やがて眼前の強化ガラス越しに、日岡ヨーコと日岡レンジが夫婦そろって現れた。護衛に立っているのは、渡久地ワカナと志賀レヰナだ。

 ――オレは、もう死ぬのかもしれねえな。

 ボンヤリとそう思うなか、ヨーコとレンジが自分を指差しながらなにかを話しているのが見えた。

 ――動け、オレの体。動け。

 サイロは両手両足と首筋を銀の鎖に封じられながら、ただ念じ続けた。

 動け。

 ひたすらにそう思う。だが、体は銀の鎖に縛られたままなにもできなかった。サイロは無力感に苛まれるままに目を閉じ、意識が落ちようとしていた。

 そのとき。

「子供に――自慢――会える――」

 という、途切れ途切れの日本語が耳に入ってきた。それは、日岡ヨーコの言葉だった。

《ずっと一人きりにしてた子供に、顔向けできるような研究になった。自慢の息子だから、きっと分かってくれると思うけど。会えるのが楽しみ、とは思ってる》

 それが、断片的な言葉の全てだった。

 ドクン。

 と、獣人核が鼓動を強くする。

 ――良い女だな。気持ちはよく分かる。オレも自分の女と娘に会いたい。娘に会いたい。会いたいだけなんだ。


 ピ――――――――


 という音を立てて、サイロを拘束する両手両足そして首筋のシルバーリングが全て外れた。そして、拘束室の明かりが消える。バキバキと電球の破裂する音とともに。


「バカな! なにが起きた!」

 日岡レンジが、慌てて端末をチェックした。「獣人識別エラー!?」

「どういうことだ?」

 とワカナが訊くと、隣にいるヨーコが説明した。

「シルバーリングは、誤作動防止のために獣人以外には着用できないようになってるの。獣人因子を索敵できなければエラーを起こし、自動で外れる。つまり――」

 ヨーコは強化ガラスに両手を当て、オオカミのほうをじっと見つめた。

「彼は獣人ですらなくなってる。単世代進化を繰り返す気なの? ――どういうこと?」

 サイロはオオカミの牙を露わにしながら、

《ウウオオオオアアアア――アアアアオオオオ――!!!!》

 と叫び声を上げた。

「言うなれば――神獣化」


 ヨーコがそう呟いた瞬間、ギィン、と、オオカミから絶対貫通の矛が飛びかかってきた。だから、避ける間もなく彼女の頭は吹き飛んで、両肩にバタバタと真っ赤な血を撒き散らしながら、ゆっくりとうしろ向きに倒れていった。

 レンジはそれを見て、なんの反応もできなかった。

「ヨーコ――? え――?」

 レンジがボンヤリとしていると、

 ギィン、と、再び絶対貫通の矛が走る。

 レンジの腰から上が全て消し飛んだ。ただ、下半身の両脚がバタバタと無意味に足踏みしながら廊下を歩き回ると、しばらくしてから倒れ、内臓が床に転がって広がった。


「アアアア!!」

 ワカナは立ち上がると、シルバーバレットを何回も発砲した。

 頭のなかにはただ、ヨーコの顔だけだった。ヨーコと初めて会った女子校時代。自分のセクシュアリティを打ち明けたときに、当たり前のように受け止めてくれたヨーコの顔。レンジと出会って、初めて恋愛感情に目覚めるヨーコと、置き去りにされる己の姿。

 そんなヨーコに、結婚式場で「幸せか?」と微笑んで訊いてみた思い出。

《幸福の概念は分からない。でも、今の私に葛藤はないよ、ワカナ》

 そんな風にヨーコが微笑むのを、ワカナはズキズキと痛む胸で見つめていた記憶。


「よくも――よくもヨーコを――!」

「ワカナ!!」

 レヰナが抱きしめると、ようやくワカナは拳銃を床に落とし、その場に崩れた。


 オオカミ男のサイロは、先ほどの攻撃を最後に力尽きて、とっくに死んでいた。

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