第0話 VS狼人間 後編その1


  ※※※※


 ――結論から言えば、オオカミは少女を連れて新宿を去ってから八年間、完全に姿を消していた。今どこでなにをしているのか、どれだけ警察が調べても手がかりは掴めなかった。

 そしてその間、様々なことが起きた。

 志賀レヰナはオオカミ事件に前後して交際を始めていた男性と、五年後に入籍。

 敵対組織の報復から家族を守るためだろう、式は挙げずフォトウェディングの形で、結納は慎まやかに行なわれた。複数のセーフハウスを転々とする生活もしばらく続くという――夫となるミサオはこれに従い、塾講師の仕事を辞めて専業主夫に転身。

 本名、志賀レヰナから武者小路レヰナに変わる。警察組織内部では旧姓のままでの業務が認められた。


 同年2009年、獣人捜査局が国会の承認を経ずに強行設立。各都道府県警の刑事部、警備部(警視庁の場合はさらに公安部と組織犯罪対策部)をまたいだ形で特権的な捜査体制が敷かれ、獣人案件の場合、即座に行動の主導権を奪うことが可能になった。

 この決定は野党およびマスメディアから厳しい批判に晒されたが、それでも、獣人捜査局の存在が覆ることがありえないほどの強い民意を得た。

 主な理由はふたつ。ひとつは2004年のオオカミによる新宿虐殺により、大衆がA級獣人の脅威を目の当たりにしたこと。もうひとつは2011年の東日本大震災以後、急速な社会情勢不安の拡大により――反権力派たちによる市民運動や、排外主義者と反差別主義者の抗争が過激化したことで、後天性獣人の発生ペースが一気に増加したことである。

 人間そのものを見限り、諦め、冷め、そして憎んでいく――そんな風に獣人は、わらわらと現れてはシルバーバレットの餌食になった。

 そんな状況で、国家による治安維持のための強権発動を否定しきれるほど、普通の人間は自由主義に殉じているわけではなかったのだ。


  ※※※※


 そして2012年、夏。

 志賀レヰナがタバコを咥えて喫煙室に入ると、藤田ダイスケと渡船コウタロウがいた。

「なんだ、お前らもまだ残業か」

 とレヰナが微笑むと、ダイスケが火を貸した。

「久しぶりに、あのオオカミの事件ファイルを調べてましてね――ちょっと前に梶原の命日で、墓参りをしてきたら、なんか寝つけなくて」

「あんまり奥さんを心配させんなよ? ガキも小っちゃいんだろ?」

「オオカミが連れ出した小娘、いたでしょ? ちょっと深掘りしたら面白いことが分かりましたよ」

 とダイスケは言った。「蒼野ハコって子。年齢を偽ってスナックでバイトやってた女の話ですよ」

「――ああ」


 レヰナは、あの日のことを思い出した。

 勤務していたスナック『クセナキス』で聞き込みをしても、常連客も、ママも、誰もがハコのしでかしたことを信じられないという風だった。

「ウソだ。きっとあの殺人オオカミに騙されてるか、脅されてるんですよ! 警察でしょ、ちゃんと調べてよ――!」

「ハコちゃんはお人よしっつうか、ちょっと危ういところがあるのはそうだよ。でも、獣人を庇うほどバカじゃねえよ! それ本当にハコちゃんなのか――!」

 常連客が口々に擁護するなかで、ママのマキ姐は冷静にタバコを吸うだけだった。

「刑事さん」と彼女は言った。「もしハコが捕まったらどんな罪になるの?」

「獣人蔵匿罪、もしくは獣人隠避罪。どちらも執行猶予なしの実刑無期懲役。A級獣人の場合は死刑の可能性もあります」

 それを聞いたマキ姐は、「そうかい」と言って煙を吐いた。


 レヰナはそんな日の煙を思い出しながら、ラッキーストライクを深く吸い込んだ。

「人当たりも良い、勤務態度も真面目、年齢詐称は夜店で働くために仕方なく。――そんな小娘に新発見が?」

「ええ」

 ダイスケはバインダーを見せた。「蒼野ハコは両親の離婚と母親の再婚で新しい親父の名字を名乗ってる。それが蒼野。だが、もともとの名前は守屋ハコです」

「守屋――」

 レヰナは少し考えてから、すぐに思い至った。

 1999年に発生した強姦未遂冤罪事件、そのとき無罪の罪で服役するに至った男の名前が守屋イツキだ。つまり蒼野ハコは、冤罪事件のせいで一家離散した男、その一人娘なのだ。

「あれは現場の刑事から見ても、最悪の冤罪だった」

 とコウタロウが口を挟んだ。「被害者の女がモンタージュ写真をもとに守屋イツキを指差した。だが、事件当日、守屋にはアリバイがあった。

 被害者の女はそれを知ると、犯行日時に『覚え違い』があったとして、守屋イツキにアリバイのない日時を再度指定した――。しかし、その日は雨が降っていた。『芝生に押し倒された』とほざいた被害者の女の服が濡れていないことと矛盾する。

 にもかかわらず判決は有罪だった。その頃には雑誌記者の独自調査で、そもそも被害者の女は事件当日に男性と会っていたことも、それを親に知られたくないからデマカセを言ったこともハッキリしていた。

 が、裁判官は、そんなクソガキの言い分を鵜呑みにして有罪を言い渡した。冤罪の男は一家離散。妻は他に男をつくって離婚。そして再婚後、娘の蒼野ハコは母親にも愛想を尽かして家出して上京したというわけだよ」

 コウタロウは、苦虫を嚙み潰したような顔でセブンスターの煙を吐く。

「蒼野ハコは人間社会を恨むに余りある。法に裏切られ、権力に見放され、母親から捨てられた。ならばニンゲンを憎むオオカミと同行していても不思議ではないな」

「なにが言いたい?」

 レヰナが訊くと、ダイスケがさらにファイルをめくる。

「オオカミを探るには、まずあの小娘からです。小娘がオオカミを唆すにしても、オオカミが自ら小娘を助けようとするにしても、いずれ過去の司法制度の歪みのツケをあいつらは清算しにきます」


  ※※


 志賀レヰナはダイスケとコウタロウから貰ったファイルのコピーをカバンに入れて、飲み会の集合場所に向かった。目白にある個室つきのリストランテである。

 先に席に座っていたのは、警視庁獣人捜査局局長に就任した渡久地ワカナ、獣人研究所と獣人訓練校のカリキュラムを制定した日岡ヨーコ、そして、いずれ女性初の内閣総理大臣になると評判の高い自由社会党の国会議員、祁答院アキラだ。

 アキラは獣人捜査局の設立強行を提言した極右だ。黒髪のロングストレート、色白の頬をいつも染めている赤ら顔に、パンツスーツを着こなす品行方正な立ち振る舞いは支持者の保守層からも評判が高かった。

「アハハ、やっほー!!」

 とアキラは手を振った。「いまワカナちゃんにいじめられててさあ~、助けてよ~レヰナちゃ~ん!」

「私はいじめていない」

 とワカナは答えた。「獣人捜査局設立の真の目的を問い質していただけだよ」

「え~? まいっちんぐだなァ? ワカナちゃん!」

 アキラは笑いながらピザを噛み、ワインを飲むと、不意に瞳に殺気を宿した。

「――いつまでも野良の獣人を駆除するだけで莫大な予算が降りてくると思ってるわけでもないだろお? ワカナちゃんも、レヰナちゃんも!」

 せっかく都合の良いときにA級獣人が街を荒らして、震災をきっかけにC~B級の獣人が増えたんだ。治安維持のための大義名分はとっくにできてる。

「私はね!」

 とアキラは腕を組んだ。

「日本もアメリカと同様、獣人を馴致して軍事運用すべきだと思ってる! そのための戦略的実験場が獣人捜査局だ。

 獣人研究が発展して猟獣訓練をさらに洗練させ、その猟獣が現場で確実な成果を上げていく。そうすれば、自衛隊にも猟獣が必要だという世論が高まっていく。

 国際秩序に貢献する積極的な平和主義国家として、日本はさらに欧米列強との連携を強化し、旧共産主義圏やイスラム過激派の脅威にも対抗していく。それが獣人の政治的有効活用というものさ!」

 アキラはそう言った。「そのための獣人捜査局だということを分かってくれたまえ!」


 ワカナは「物騒な発想だな。果たして国民の理解が得られるかな」と呟いたが、アキラはキョトンとしたあと笑い転げた。

「国民の理解か、いいね! 日本を建て直すにあたって今後100年は不要な発想だ!」

 国民の理解は求めるものじゃない、与えるものだよ。平和ボケした愚民どもを正しく導くのが国政家の仕事なんだ――とアキラは笑いながら酒を飲んでいた。

 レヰナはただただ不愉快になりながらタバコを吸った。


「それで?」

 とアキラは言った。「シルバーバレットはともかく、獣人訓練のほうはどのくらい研究が進んでる?」

 日岡ヨーコはそれに対して、ほとんど無感情に報告を始めた。

「オオカミの事件から、新しい知見を得た。今それを猟獣訓練制度に取り込んでる」

「ほう?」

「――オオカミは他の獣人と同様にニンゲンを憎んでいるのに、蒼野ハコという女の子には手を出さず、むしろ守るようなそぶりを見せていた。つまり、獣人は例外なく人間に対して攻撃的衝動を持つけれど、特定の個体には愛着や執着を持つということ。

 ――レイシストにも異人種の親友がいたり、セクシストにも異性の伴侶がいたりするようにね?」

 ヨーコはそこまで言ってから、スープを飲んだ。

「今回のメカニズムを『パブロフ』と名づけて、猟獣訓練に導入する。これからの猟獣は特定の人間に対する愛着・執着・恋慕の情を刷り込まれた上で現場に出る。

 ――そうすれば、過度の訓練による自我崩壊や戦力去勢は起こらない」

 ヨーコは写真をテーブルに置いた。それはサビィ=ギタ、メロウ=バス、イズナ=セト、それぞれの幼児期の顔写真だった。

「猟獣訓練制度第4世代――ここから全てが変わる」

 とヨーコは言った。


  ※※※※


 一方のサイロとハコは東京を離れ、首都圏郊外の特に治安の悪い地域を転々とし、最終的に長野県の山奥に車ごと入っていた。


 ときどき車を停めて飲食店で飲み食いし、ラブホテルで遊び惚けたあと泥のように眠る。金が足りなくなれば超加速。居酒屋でハラスメント自慢をしている正社員の財布をくすねると、二人でゲラゲラ笑いながら札束だけ抜き取って車窓から放り投げた。

 ――楽しい逃避行だった。

 サイロはやがて、ハコの体調が悪くなり始めると山入りを急ぐようになった。

「行く当てはあるの?」

 とハコが訊くと、サイロは頷いた。「米軍を抜けてモスクワと上海とソウルを行き来してたころ、東京から来てた獣人と話したことがある。『もしも日本でどうしようもなくなったら、その村を訪れろ――俺もそこで世話になった』だそうだ」

 そう言うと、サイロは可愛らしい黒猫のロゴマークが入ったカードを見せた。

「『クロネコの村』。それがそのコミューンの名前らしい。――獣人と人間の共存を謳う、カルト宗教から分派した酔狂な農業共同体だそうだ。地図には載ってないし、水道もガスも電気も公共から引かれてない。なにをどうしてるか分からないが、自警団と医師団で完全な自治を達成している。――ここなら、見つからない」

 サイロの説明にハコは曖昧に頷いた、が、

「ご近所づきあいは大変そう」

 とだけ苦笑した。


『クロネコの村』は、すんなりサイロとハコを出迎えた。道案内兼門番の女が、ほとんど直感でふたりを気に入ってくれたからだ。

「よーう!」と女は言った。「あたしはヒョウの獣人、パンテラ=ポロロロッカ! よろしくな、オオカミとその女!」

 パンテラは手を差し出す。

 オオカミと名乗った覚えはない――サイロがそう訝しんでいると、彼女はニャハハハハと笑った。

「その反応は、さては生粋の研究所育ちだな、お前さん? 嗅覚を鋭敏にすれば、お前がオオカミってことくらい車が1キロメートル先にあったときから気づけるぜ」

「そういうもんか?」

「来いよ。村人を順番に紹介してやる。あんたは力仕事に向いてそうだな」

 パンテラは意気揚々と森のなかを抜けていく。もう人が舗装した道はどこにもない。獣の足跡を辿れない者が村に辿り着くことは不可能になっていた。

 ハコは、

「あの」

 と言った。「あなたは獣人なのに、人間が憎くはないんですか?」

「いや、憎いよ。今すぐにでも全員ブチ殺してえ」

 パンテラは即答した。「でも村のヤツらは別だ。それにお嬢さん、お前もな」

「え――」

「ニャハハハハ! つもる話はあとだ! 村長と自警団長、それから医師長に挨拶してから空き家に連れてってやる」


 そうしてサイロとハコは村のお偉方に形式的な挨拶を済ませた。そのときサイロは、

「医者に相談がある」

 と言った。

 村長は震える手で杖を握りながら、

「なにかな?」

 と訊いた。サイロはサングラスを外した。

「ハコの具合が悪い。東京の医者に見せられねえから山に入るのを急いだんだ。できれば早めに診てくれると嬉しい」

 それに対して、医師長は眼鏡をかけ直す。

「症状は?」

「気分が悪いらしい。よく吐く」

 サイロの言葉に、となりのハコも頭を下げた。

「入村早々、ご迷惑をおかけしてしまい申し訳ありません。どんな病気か分かるだけでも安心なので、お暇なときに診て頂ければ」

「医者に暇なときなどない」

 医師長は険しい顔で言った。「同じく、患者を蔑ろにしていいときもない。すぐに私の家に来なさい」

 サイロとハコは顔を見合わせた。


 ――診察して分かったことは、ハコはサイロの子供を妊娠しているという事実だった。それがのちに、ラッカ=ローゼキと呼ばれることになるオオカミの女の子だった。

 つまりハコは「獣人と性交する」「妊娠する」という、人間社会における死刑相当の罪をさらに犯していたのだ。


  ※※※※


 ハコが村の医院で精密検査を受けている間、サイロはパンテラに連れられ空き家を紹介されていた。

「ちょっと廃屋状態だったていうか、ニャハハハハ、散らかってるから掃除には時間がかかるかもだけどね!」

「いや、問題ない」

 サイロはそう言うと超加速を発動した。次にパンテラが瞬きしたときには空き家は完全に埃を払われ、修復され、整頓されて人が住める形になっていた。

「ニャアアア!!??」

 パンテラはひっくり返った。サイロは手のひらの汚れをポンポンとはたく。

「なにビックリしてんだ? お前」

「いやいやいや!! だってなんでこんな早く掃除掃除掃除が終わってんの!?」

「オレは時間を止められる。『時間がかかる』とか『かからない』とかは、オレには関係ないぜ」

「へああああ!?」

「そういうお前も型、いつか教えろよ。共同生活には必要だろ?」

 サイロがそう言うと、パンテラは頭をかきながら立ち上がった。

「いやあ~、なんか久々にすごい人材、いや、獣材が来たにゃあ」


  ※※


 そして、二人の歓迎会が村長の邸宅で始まった。

「皆の者」

 と村長は言いながら、ブルブルと震える指で酒の盃を持ち上げた。「新参者が入村した。これを歓迎し、今宵のみ酒を良しとする。飲め」

 村民たち(40人にも満たない)がそれに倣う。サイロも目の前の盃を持ったが、ふと、ハコの前に酒杯がないことに気づいた。

「それと」

 と村長は言った。「新参の男女のうち、女は子を産む予定があるとの知らせを聞いた。命の数はさらに増える。それも合わせて喜ぼう!」

 それから、ぐいっと飲んだ。村の者たちも一斉に飲み干した。が、サイロは驚きと喜びのあまり、盃をいったん置いてハコを見る。

「本当か――!?」

「え、う、うん!」

 とハコは顔を赤らめた。「ごめんね、だからしばらくお酒はダメなんだってさ――医師長に言われちゃって」

「そうか! そうか! じゃあオレも飲まねえ!!」

 サイロはハコの両肩に手を添えた。「元気なガキを生んでくれよ、ハコ! ふたりで良いガキにしよう!」

「いや、祝いの席なんだからサイロは飲まなくちゃ!」

「えっ、ああ、そうか――そういうもんか」

 サイロが戸惑っていると、既に酒瓶をイッキ飲みして出来上がっているパンテラが「オオカミィ~!!」と後ろからヘッドロックをしてきた。「めでてえなあオイ!! ガキが生まれるぞ〜!! テメエ飲めオラア!!」

「いてえな、この野郎!」

 とサイロは笑った。「分かった、飲むよ! 飲む!」

 それを見て、ハコも大声で笑う。


  ※※


 ハコが少しずつ腹を大きくしながら、回診の医師に面倒を見られて家でゆっくりしている間は、サイロのほうは担当になった田畑の管理と、パンテラとバディになった門番業務――ついでにシカやイノシシを狩って日々の食料にする仕事――をこなしていた。

 幸いなことに、人を追い払う仕事はほとんどない。仮にあったとしても、それは遭難した登山客を超加速型で人里まで返すだけのものだった。

 パンテラはそれを見ながら「羨ましい~!」と口笛を吹いた。「あたしのときはちゃんと足で道案内して帰してたんだぜ!? 時間停止マジで便利すぎるわ!」

 サイロはそうして少しずつ、この農村の生活に慣れていった。


 それはそれとして、この村が田畑で野菜と果物と穀物以外のなにを育てているのか、あえてサイロは考えないようにしていた。

 山入りの前に、東京で流行っていた違法ドラッグ『キャンD』と『チューZ』。その原材料を育てることで反社組織の盾を使い、お目こぼしを貰っているのがこの村の正体だということは分かっていた。だが、今のところハコの出産と育児を支えてくれる共同体はここにしかないのだ。

 だから、問題ない、とサイロは思っていた。


 やがて、ラッカ=ローゼキが生まれた。ハコの身体から排出されたその赤子は、パッと見では、人間の子供とほとんど変わりないように見えた。

 しかし時間が経つと、彼女は発作のように体の半分から白銀の体毛を伸ばしたり、乳歯も生えないうちから口腔の半分にオオカミの牙を生やしたり、右手だけ爪を逆立てたりしてハコを戸惑わせ続けた。

「大丈夫だよ~?」

 と言ってくれたのはパンテラだった。「先天性獣人は、最初のうちは獣化と人間化を上手く使い分けられないからね~。だんだん上手くいくようになるんだよ」

「そうなんですか?」

 とハコは振り返る。ミルクを娘に飲ませながら、彼女はただ実子の身を案じていた。

「娘は、いつになったらちゃんと使い分けられるんですか? 人であることと、獣であることを?」

「ん~、まあ5年くらいじゃないかな?」

 パンテラはのんびりと答えながら、

「でもね」

 と付け加えた。「先天性獣人は、混乱期が長いほどあとあと強くなるんだぜ~? だからママは、どっしり構えてればいいの」


  ※※※※


 ラッカは2005年に生を受け、2012年には『クロネコの村』で7歳の歳になった。だが、ラッカという名はそのときも与えられなかった。

「獣人名は物心がついたあとで贈るものなんだ」

 とパンテラは言った。「それまでは人間用の通名で呼べばいいさ」

「フウコ、と呼んでいます。今は」

 ハコはそう答えた。器に入れた井戸水を飲みながら丸太に腰かけ、娘が砂場の山で遊んでいるのを眺めていた。

 砂場で遊んでいたラッカは、やがて同じ場所に座っていたひとりの男の子に気づく。長い黒髪に、色白の肌、そしてエメラルドグリーンの瞳をした男の子だった。

「ああ、あの子ね」

 とパンテラは頷いた。「最近この村に来たんだよ。先天性獣人らしいけどね、お母さんもお父さんも知らないって。きっと捨て子だ。――年が近い同士、ハコの娘と友達になれるかもね?」

「だといいんですけど」

 ハコが曖昧に頷きながら見ていると、ラッカは男の子に「あそぼうぜ~!」と言い、それに対して男の子も立ち上がった。

 二人はすぐ完全獣化する。ラッカは白銀のオオカミに、男の子は漆黒のライオンに。そしてぐるぐると走り回りながら山の奥に遊ぶように入って行った。それが、獣人同士のじゃれ合いだった。

「も~!」

 とハコは立ち上がった。「夕暮れまでには帰ってくるんだよ~?」

「ニャハハハハ!!」

 パンテラは笑いながら、水筒を持ち出した。「あの頃の先天性はイイ。ニンゲンへの憎しみにまだ囚われちゃいない。――だからこの薬も必要ない」

 彼女は危険ドラッグ『チューZ』を数錠取り出すと、茶といっしょに流し込む。

「くああ――効くう――!」

「それ、なんなんですか?」

「んんニャアア?」

 ハコの問いかけに、パンテラはヘラヘラと笑った。

「違法薬物だよ。この村が原材料をつくってるんだ。農業共同体を謳いながら実際には反社用のヤクで儲けてんのがこの村だ」

 彼女は錠剤のケースを見せた。「こっちがキャンD、こっちがチューZだ。キャンDは人間に獣人相当の殺人衝動を植えつける。チューZは逆に、獣人の殺人衝動を人間レベルにまで抑え込む。

 この村は、そうやってヤクザの鉄砲玉を殺人機械に仕立てながら、逆に自分たちは、人殺しに飽きた獣人たちを引き入れて護衛にしてんだ。

 それが『クロネコの村』の正体だよ。

 ――あたしたち獣人と人間の間に相互利用はあっても共存共栄はない。信用はあっても信頼はないし、性欲はあっても友情はないの。分かったかい、ハコちゃん」

 パンテラは薬物に酩酊しながら笑った。「ていうか、旦那のサイロさんは一日に何錠くらい飲んでんのおォ? これ」

「飲んでるの、見たことないです」

「ほほーう」

 とパンテラは目を見開いた。「獣の血が流れてるのに薬が要らないとは大した精神力。いや愛情か? ハコちゃんへの」

「――さあ」

「んん、愛情深いヤツは嫌いじゃない。だが、愛情と執着は紙一重だぞ? ――ハコちゃんが危険に晒されてサイロがまた暴れちまったらどうする。獣人として。その前にチューZをちゃんと飲むように伝えておいたほうがいい」

 パンテラの真剣な眼差しに、ハコは思わず頷いた。


 そのとき遠くから、畑仕事を終えたサイロの、

「おーいハコ! 終わったぞ」

 という大声と、人里に下りていた連絡役の

「大変だ!!」

 という大声が同時に被さる。「ハコちゃん! ハコちゃんが全国ネットで話題になってんだ! こりゃどういうことだ!?」

「え――!?」

 思わず立ち上がったハコは、連絡役から受け取ったTV週刊誌を開いた。


『2000年の冤罪事件、悲劇の一人娘は殺人オオカミ男と運命の恋へと落ちた。目的は人間への復讐か?』

『「あれは冤罪ではありません」――被害者女性が10年以上ぶりに口を開いた。本誌単独インタビュー!』

 そして次の雑誌にはこう書かれていた。

『弊放送局では、被害者女性を改めてテレビの生放送番組にお招きして、お話を伺います。本件は、決して冤罪ではありません。獣人と結託して復讐を企てる愚かな加害者家族(蒼野ハコ)は明白なるセカンドレイパーです。放送では彼女の浅ましい企みを完全分析します』


「やめろ! もう読むな!」

 サイロはハコから雑誌を奪った。そして両手を震わせながら紙面を見つめ、「くそ、クソォ――!!」と歯ぎしりをする。



 ――オオカミを誘い出す罠。全ての記事は、祁答院アキラの指示によるものだった。

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