第-1話 VS狼人間 前編その3


  ※※※※


「ハコちゃん!! 逃げろ!!」

 蝶野がカウンターの椅子を持ち上げ、スンハに向けて思い切り投げる。が、その椅子をペギンが右脚で柔らかく受け止め、ほとんど音も立てないまま床に置いた。

「너는 용감해(勇敢なカタギだ)」

 と彼は言うと、蝶野に速攻で近づき、その腹に拳を当てた。

「잠시 자자(しばらく寝てろ)」

 とペギンが言うと同時に、蝶野がスナックの床に横たわる。その刹那、スンハの拘束が緩くなったのを見計らってハコは逃げ出した。

「쪽발이!!(クソ日本人!!)」

 スンハは怒鳴ってナイフを構えながら追おうとするが、その体に、ラグビーの要領で鹿乃がタックルをした。

「逃げろォ!! ハコォ!!

 ――ここは俺らの飲み屋なんだよ、ガイジンどもは出てけボケェッ!!」

「빌어 먹을!(畜生がッ!)」

 たとえプロの殺し屋と素人の技術差があっても、人間同士で、男女の体力差が埋められるわけではない。スンハはそのまま鹿乃に押し倒され、スナックの床に後頭部をぶつけた。

 だから、そんな鹿乃の頭をペギンが蹴り飛ばして気絶させ、スンハを起き上がらせたころには、既に蒼野ハコはスナックの裏口から逃亡していた。

 そして、ママのマキ姐はすぐに警察に通報していた。この通報が警視庁刑事部獣人課へと届き、志賀レヰナ、渡久地ワカナ、藤田ダイスケの耳に聞こえるのは、ほんの数分の出来事だった。


 ハコは息を切らしながら走る。彼女を守るために横を走るのは常連客の猪股だった。

「あいつらなんなんだ――!」

 と猪股は怒鳴った。「ハコちゃんにカスみてえな濡れ衣きせやがってよ!」

「濡れ衣!?」

 ハコが顔を上げると、

「そうだろうがよ!」

 と猪股は再び叫んだ。「あいつら、ハコちゃんがオオカミの獣人を匿ってるだの隠してるだの、好き勝手に言いやがって!!

 ――んなわけねえだろ、クソ!!

 オオカミの獣人がどんだけヤバい人殺しか、俺だって知ってるんだぜ!? そんなヤツを、ハコちゃんが庇ってるわけないだろうが――!!」

 そうして猪股はハコの手を掴んで走り続け、彼女のアパートに辿り着いた。

 ――違うよ猪股さん、濡れ衣じゃないよ、あたし本当にオオカミを匿ってるんだ。

 ハコはそう思いながら、でも息を切らし、額から流れる汗を拭うことに必死で、なにも答えられなかった。

 猪股は、

「持っていきたい荷物ある? すぐアパートから持ち出そう!」

 と言い、彼女のポケットから受け取った鍵で、玄関のドアを開けた。

 出てきたのは、当然サイロだった。ハコと目が合う。

「おお、今日は帰りが早かったんだな、ハコ!」

 と彼は微笑んだ。手に皿を持っている。「見ろよ、ハコに教わったとおりに料理してみたんだ。肉入りの野菜炒め。いっしょに食おうぜ?」

 そう言ってから、サイロは猪股の存在に気づいた。

 猪股も、サイロの顔を見つめていた。指名手配されている獣人の顔そのままの男が、そこに立っている。彼の主観ではそういうことだった。

「なんで――!?」

 と猪股は青ざめ、後ずさる。「ハコちゃん、なんで、なんでだよ、なんでここにオオカミがいるんだ?」

 次の瞬間。

 猪股は意識を失って体のバランスを崩し、サイロの腕に抱かれた。

「え――」

 とハコが戸惑っていると、

「『超加速』で首の根本に手刀を当てた」

 とサイロは答えた。「気絶させただけだ。ここで寝かせよう。オレの正体を知ってるみたいだったからな」

 それからサイロは、改めてハコのほうを見た。

「誰かに追われて逃げてきたのか?」

 と言った。

「――ん」

 とハコは答えた。「韓国のヤクザ? みたいな人がサイロを狙ってる。あたしの店に来て大暴れした。早く逃げないとだよ!」

「逃げるならお前もいっしょだ」

 とサイロは言った。「オレを匿ったせいで巻き込んじまったみたいだな。悪かったよ。だがこの場にいたらヤクザはお前を拷問するし、警察はお前を逮捕する。獣人を庇うのは無期懲役だろ――ついてこい」

 サイロの言葉遣いには、いつも合理性のなかに有無を言わさない粗暴さと強引さがある。

 ハコはサイロの目を見つめながら、

「分かった」

 と言った。


  ※※※※


 サイロはハコの手を引いてアパートの階段を降りると、小路を抜けて大通りに出た。東京に完全な夜はない。まだ多数の自動車が走り抜けている。

「ちょうどいいな。ハコ、目をつぶってろ。酔うぞ」

 そう言ってサイロは、ごつごつした左手の平でハコの顔をゆっくり覆った。

「えっ!? えっ!?」

「もういい」

 サイロにそう言われて目を開けると、彼女はいつのまにか三菱アウトランダーの助手席に座っていた。シートベルトも締まっている。

「なにこれ!?」

「『超加速』だ」

 サイロはそう言いながらハンドルを切った。「もともとの運転手は歩道に置いといた。この車で行くとこまで行くぞ」


  ※※


 ペギンとスンハも近くに停めていた自動車へと乗り込んだ。

「オオカミ――逃がすか!」


  ※※


 志賀レヰナと渡久地ワカナがカローラを走らせて現場に向かう。そのうしろを走るシトロエン2CVは藤田ダイスケが運転する車だった。

「オオカミを――そいつを追ってるヤクザごと捕まえろ!」


  ※※※※


 車を走らせながら、

「なあ」

 サイロは言った。「海と山、どっちが好きだ?」

「なんの話?」

 ハコが訊くと、

「まあ、山のほうがいいな」

 とサイロはアクセルを踏んだ。「安心しろ。オレは人類史上、最強の獣人だ。お前の身くらい守ってやれる」

 彼は蒼灰色の瞳でハコを見ると、再び手のひらで彼女の視界をふさいだ。

「もういちど目をつぶれ」

「え――」

 再びハコが瞬きをすると、今度はシボレー・コルベットZ06(C5型)の助手席に乗っていた。周囲の景色も変わっている。

「ええええ!?」

「いちいち信号待つのが面倒くせえからな。目当ての車線のクルマに『超加速』で乗り換えた。元の運転手は歩道で寝かした」

 そう言いながら、サイロは意気揚々と車を走らせていたが、やがて、ゆっくりとブレーキを踏んだ。

「クソ――早えな」

 十字路の前方から、左から、右から、そして当然うしろからも車が追ってきていた。おそらくペギンとスンハが雇い主に相談して応援を呼んだということだろう。

「数が多すぎる、逃げらんねえ」

 そんなサイロとハコの二人に、

「죽일거야、늑대!!(ブチ殺すぞ、オオカミ!!)」

 という罵声が聞こえてきた。

 さらに、ずっと遠くからパトランプの光とサイレンが鳴り響いた。渡久地ワカナと志賀レヰナ、そして藤田ダイスケが現場に到着してきた合図である。当然、三人はシルバーバレットを携帯している。

「どうしよう――!?」

 ハコはサイロの腕を握る。

 それを見て、サイロは不思議な気持ちになった。

 オレの命を救ってくれたコイツを、オレは救いたい。そんな気分だ。

「ハコ、悪いな。お前のことは好きだが、約束は破るぞ」

「え?」

「目をとじて耳をふさいでうずくまってろ。さっさと終わらせる」

 サイロはドアを開けて車から降りる。彼の車を四方で囲っているヤクザたちも拳銃を持ってアスファルトの地面に足を下ろした。

「ざっと見て30人前後。――また殺すのか、オレは」

 そう呟いてからサイロは丸眼鏡のサングラスを外し、放り投げた。夏の風にドッグタグが揺られて、月の光、彼のための明かりになる。

「『超加速』、同時に、獣化開始」

 バキバキと体中の関節が鳴り、骨格そのものが形を変えていく。

 頭髪と同じ白銀の体毛が、体を、顔を、全て覆い尽くしていく。

 ぐっ、ぐっ、と鼻と口が前方に突き出て、歯並びとその鋭さが完全にオオカミのものに変貌する。対象を狩り、噛み、喰い千切るための牙。

 獣としての耳が頭の横後ろに生えていく。聴覚がさらに鋭敏になる。蒼灰色の瞳は、さらに鋭く。

 ゴキゴキと軋む背骨がさらに伸び、体長が3メートルを超えたところで、人間用の衣類は全て千切れて消えた。

 ――白銀の、血に飢えたオオカミが本来の姿でそこに立っていた。

 そして跳躍。

 次の瞬間には、目の前にいるヤクザ三人の生首を喰い千切りながら着地していた。超加速の効果が切れ、ヤクザたちがオオカミの蛮行に気づき、悲鳴を上げる。

《ウウウ――!! ウウウウ――――!!!!》

 唸りながら、オオカミは千切ったニンゲンの生首を勢いよく投げつける。

 その場にいたヤクザの腹が、連続で四人分、貫かれて弾けて消えた。

「아아아아아!!!!」

 ヤクザが拳銃を構える、が、引き金を引く前に全ての指が千切られ、それに驚く間もなく首を切断されながらコンクリートに転がった。さらに五人が死亡。

《ウウウウ――ウオオオ――!!!!》

 完全なオオカミになったサイロは、口もとを血でべったりと汚しながらオオカミ特有の遠吠えを繰り返す。

 ――獣のなかの獣、オオカミが暴走したら、もう人間には止められないのだ。

《ウオオオ――!!!! オオオ――オ――!!!!》

 それを見ながらペギンは、「악마(悪魔め)」と吐き捨てながら拳銃を構えた、が、安全装置を外した音のせいで気づかれたのだろう、オオカミが振り返ってくる。

「兄さん!! ダメだ避けろ!!」

 スンハは飛びかかり、ペギンを助けようとするが、

《ガア、アァァッッ!!(超加速!!)》

 その声と同時に、

 ペギンとスンハ、二人の身体は腰のところで一刀両断されて血飛沫を撒き散らしながら地面に転がった。


  ※※


 ヤクザが引き金を引く間もなく、オオカミに蹂躙され続ける地獄絵図。その様子を、警視庁刑事部獣人一課の渡船コウタロウは遠くから双眼鏡で眺めていた。

「やはり、獣の始末は獣でつける他ない、か」

 と彼は言うと、銀色の箱を開ける。なかに入っているのは猟獣、ゾーロ=ゾーロ=ドララムである。

 部下の刑事が「大丈夫なんですか? そいつ」と言ってきてもコウタロウは気にしない。

「問題ない。獣人研究所の調教が行き過ぎて、自我崩壊を起こしたコイツは魂のない抜け殻だ。が、型の発動はできる」

 そう言うと、コウタロウはゾーロ=ゾーロ=ドララムを保護する銀の箱に拳を振り下ろした。

「さっさとオオカミを撃ち殺せ!! 出来損ないのガラクタが!!」

《アアアア――アアアア――!!》

 なかに入っているのは、四肢をもがれたまま銀の鎖で何重にも縛られ生気を失い、ただ呼吸するだけの獣人だった。

 彼の口が大きく開かれる、と、喉奥に光源が発生。やがて、

 シィン――、

 と、静かな音とともに紫色のレーザーが射出された。

 イッカクの獣人、狙撃型、脅威度B級。射程距離2キロメートル以内に光線を発射する。そのレーザー、最大二回まで自動屈折可能。

 空中で、駆除対象の獣人を見つけた光線が「キン」「キン」と音を立てて垂直に曲がる。

「これで終わりだ、オオカミ」

 とコウタロウは言った。


 が、実際には光線はオオカミに着弾する5メートル前で止まってしまった。

 ――キイイイイィィィィンンンン

 という金属音にも似た不快な響きとともに、ゾーロ=ゾーロ=ドララムの攻撃が防がれたためである。オオカミは無傷のままその場に立つと、しばらくして再び殺戮を繰り返していた。


  ※※


 超加速型。

 平たく言えば「時間を止める」というだけのこの型は、実際には、あらゆる獣人の能力の雛型なのだ――かつてそう分析したのは日岡ヨーコである。

「考えてもみて。超加速型は本当に時間を止めているわけじゃないの。本当に時間を止めていたら、固まった大気のなかをどうやって移動できる? 光が止まっていたら視界さえ働かないはずでしょ。

 強いて言えばあの能力は、『物理法則を無視し、時間の流れから外れた被膜を体に纏って移動できるし、体外に展開できる』、そういう能力だよ。だから、殴った相手を吹っ飛ばすこともできる。

 そして、それは物理法則を捻じ曲げるあらゆる獣人の型のプロトタイプでもある」


  ※※


 そう。

 サイロ=トーロは時間を止めるだけではない。時間停止の被膜を体外に展開し、絶対防御の盾とする。それゆえ、ゾーロ=ゾーロ=ドララムの光線を止めることができる。

「バカな――!」

 とコウタロウが焦るなかで、オオカミは、

《ウウウウ――アア》

 と唸ってから、両手を突き出した。

 超加速型のさらなる応用。

 時間停止の被膜を体外で凝縮し、射出し、絶対貫通の矛とする。

 そしてその標的は――彼の眼に映るのは、まだ生きているヤクザどもだった。

 ギィン――。

 という、空間を裂く音が聞こえたあと、ヤクザの乗っていたスズキのジムニーが大爆発した。

 もはやいかなる攻撃も通じず、逆にオオカミの攻撃を防ぐ手段は存在しない。オオカミはこの場で、ただ無敵の獣だった。


 ハコは車のなかで目を閉じ、耳をふさいでうずくまりながら、それでも周囲の悲鳴に動揺していた。

「いったいなに!? なにが起きてるの!?」

 耐えきれずに彼女が顔を上げると、

 三十人を越えていたはずの追っ手のヤクザが、車ごと炎上して、生首を切断されるか、内蔵をはみ出しながら喰い殺されるか、四肢を吹き飛ばされるかして、既に死んでいた。

 そして、蒼灰色の瞳をした白銀のオオカミは唸り声を上げながら、牙と爪をニンゲンの返り血に染めて、その場に立っていた。

「サイロ!?」

 ハコが戸惑っていると、ふと、オオカミのほうが彼女に顔を向けた。

《悪いな》

 と彼は言った。《約束は守れなかった。が、お前のことは守る――》

「なに言ってんの!?」

 そこへ、ようやく志賀レヰナの運転するカローラが到着した。

「止まれ!!」

 と志賀レヰナは怒鳴った。助手席にいた渡久地ワカナと、うしろを走っていた藤田ダイスケも車を降りる。

 レヰナは現場の惨状を見ると、青筋を立てながら、

「このクソオオカミ!!

 ――てめえはこの世にいちゃいけねえ災害だ!! 今すぐブチ殺す!!」

 そう叫び、シルバーバレット専用銃を構えた。そしてハコに向かって、

「どけコラ!!」

 と怒鳴った。

 それに対し、ハコは、オオカミを庇うように両手を広げてその場に立った。


「撃たないで!! もう――もうみんなやめて!!」


  ※※※※


 渡船コウタロウは、双眼鏡越しにハコの姿を見た。容疑者リストの女が、オオカミを背にして立っている。

 彼はふと、公安部の鮫島カスミとかいう若造の言葉を思い出した。

《人間の女がコイツに惚れて、積極的に匿っている可能性は捨てきれない。その場合、もう少し捜査は厄介なものになるぞ》

 要するに、その推測はほとんど当たっていたわけだ。それが色恋の感情なのか、いわゆる女性的なヌルい同情なのかは知らないが。

「クソが――!! だから女は嫌いなんだ――!!」

 と、コウタロウは歯ぎしりした。


  ※※


 レヰナは目の前のハコを睨みながらも、シルバーバレット専用拳銃を下ろさない。

「テメエ――!!」

 とレヰナはハコに怒鳴った。「自分がなにしてるか分かってんのか!? さっさとそこをどいてオオカミ撃たせろ!!」

「ひ、い――!?」

 ハコは怖気づいて後ずさる――だが、近くにいるオオカミのことは少しも恐れず、同じ人間であるはずのレヰナを恐れていること自体が、彼女の立場を明確にしていた。

 ――もう彼女は、成り行きとはいえ獣人に加担する人類の裏切り者なのだ。客観的には。

 オオカミはハコを優しくどかし、レヰナに顔を向ける。

《これ以上、この女との約束を破りたくない。今すぐ拳銃を下ろせ。どうせオレには勝てないだろ?

 ――オレの好きにさせろ》

「ナメやがって――!!」

 レヰナは引き金を引こうとする、が、そのときイヤホンから声が聞こえた。

 それは獣人研究所にいる自分の猟獣、クダン=ソノダの声だった。

《レヰナさん、5秒以内に跳んで藤田ダイスケを押し倒せ。撃ち殺される》

「!!」

 レヰナはすぐに隣の藤田ダイスケに肘鉄を食らわし、二人諸共地面に倒れた。

 そんな彼女の頭のすぐ上を、

 ギィン――。

 という、空間を裂く鈍い音が通り過ぎた。

 かと思うと、彼女のすぐ背後で爆発音が響いた。新たに駆けつけようとしていたヤクザの武闘派構成員のトラックに着弾、炎上してしまったらしい。

 オオカミが時間停止の矛を再び射出した証拠だった。

「――クソぉ――!!」


 ハコはオオカミの身体にしがみついた。

「なんで撃ったのっ!? どうして!?」

《先に銃口を向けたのはアイツのほうだ》

「あなたは防げるんでしょ!?」

《先にケンカを売ってきたのはアイツらだろうが!》

 オオカミは、ウウ、ウ――と唸り始めた。憎悪に満ちた表情が、ハコの胸を突き刺した。

 全ての獣人に備わっている、人類への攻撃衝動。今、サイロはそれに囚われているのだ。

《オレを勝手に生んで、戦争したがりの軍隊に入れたのは誰だ!? 人殺しは善行だってオレに教えてきたのはニンゲンどものほうだ!!》

「やめて、サイロ、落ち着いて――!」

《いつだって先にオレの心を傷つけてオレの生活を台無しにしたのは、ニンゲンどものほうだろうが!! たかだかサルどもが数十人、数百人殺されたくらいで、腐った下等生物がガタガタ騒ぐな!!》


「サイロ!!!!」


 ハコはオオカミの首に両腕を回し、抱きついた。

 オオカミはウウ、ウ――と唸り続けていたが、やがて、ゆっくりと平静を取り戻した。

 蒼灰色の瞳が、元々の美しさに帰っていく。

 美しい白銀の体毛に覆われた腕が、ハコの頬を撫でて、涙をすくった。

 ――なぜ、そんな優しい心を持つ獣が、同時に、平然と人殺しもできるのだろうとハコは思う。

 だが、それが獣なのだ。

《――もう大丈夫だ》

 とオオカミは言った。《ハコ、お前のことはちゃんと逃がしてやる。オレを信じろ》


 それからオオカミは、現場で仁王立ちする渡久地ワカナを見た。

《オレは逃げる。人を殺さずに済ますのは難しいな》

「――貴様が猟獣だったらどんなに頼もしかったか分からんよ、オオカミ」

《猟獣? ハッ、ニンゲンの奴隷は二度とごめんだ》

 そうしてオオカミは彼女を抱き、姿を消した。


 超加速型を回数制限なしに連続で発動できるなら、もはや奴は数分後には日本のどこに逃げていてもおかしくない。

 つまり、警視庁刑事部獣人課の捜査は失敗に終わったのだ。

 ワカナはキャメルに火をつけ、ゆっくりと吸って吐く。それから地面で横になっている藤田ダイスケと、隣でうずくまっている志賀レヰナを見た。

「大丈夫か?」

 とワカナが訊くと、

「なんとかな。レヰナさんが咄嗟に助けてくれたおかげだ、悪い。礼を言う」

 とダイスケは答えた。体を起こしてあぐらをかくと、彼はしばらくして「クソッ!」と地面を拳で殴った。

「部下は――梶原は死んだのに、なんで俺はのうのうと生きてやがる!!」

「よせ、死んだ人間の数は数えるな。心が壊れる」

 とワカナは言い、優しく彼の肩に手を置いた。次に、

「レヰナ、無事か? ――オオカミの弾丸を避けられたのはビックリした」

 と言った。「猟獣の力か?」

「ああ。クダン=ソノダ――未来視のおかげだ」

 レヰナはそう答えながら、しかし、ずっと両手で顔を覆っていた。よく見ると、強張った身体をぶるぶると震わせている。

「あのオオカミが撃ってきたとき――あ、アタマんなかにあいつの――彼氏の顔がいっぱいに浮かんじまって――!」

 震えながらレヰナは泣いていた。顔面を抉られたときも平気だった女が、まさか恋人ができた途端にここまで脆くなるとはな。

「畜生――!! 畜生――!!」

 レヰナが泣きじゃくり続けるのを、ワカナは冷静に見つめていた。ダイスケも、なにも言えない。

「立て直せ。お前は死神が迎えに来るにはまだ早い」

 とワカナは言った。「オオカミは逃がしたが勝負はここからだ。ヤツは危険すぎる。何年かけても探して息の根を止めるぞ」


  ※※※※


 ハコは、おそらく血肉の溢れる現場を見たショックと、サイロの本性を見たパニックで疲れ果てたのだろうか、しばらく意識を失っていた。

 目を覚ましたときには、だから、また見知らぬ車の助手席に乗っていて、サイロは大きなハンドルへ丁寧に両腕を載せながら高速道路を走っていた。服は誰かのものを奪ったらしい、ジーンズと、上半身裸の上に黒ジャケットだった。

 ハコは少し考えてから、サイロに、

「――人殺し」

 と軽口っぽく呟いた。サイロのほうは自嘲気味に微笑んでから、

「しばらくは郊外を転々とする生活になる。追っ手の気配が完全に消えてから山入りだ。我慢できるか」

「たぶん」

 とハコは答えてから、ドアのクルクルレバーを回して窓を開けた。夏のぬるい夜風が彼女の髪を揺らす。少し見上げると、そこに月明かりがあった。

「ひとつ聞いていいか?」

 とサイロは言ってきた。「なんでオレを助けた?」

「え、今さらそれ聞く?」

「思い直されるのがイヤだったからな。アパートにいたときは訊かなかった」

 そんな風に正直に言うサイロの横顔を見つめながら、ハコは、高速道路の向こうにある街並みを眺めていた。


「あたしの家族さ、お父さんが冤罪で捕まって離散してるんだ。

 だから義務教育も受けてない。

 お母さんはお父さんを信じないまま、どっかの誰かと再婚しちゃったの。お父さんを疑わないあたしのことも、狂ってるって言ってた」


 そう率直に言った。

「思うんだ。誰か――誰かたった一人でも信じてくれる人がいたら、きっとその人は救われるんだって。お父さんがいなくなったとき、あたしがそうだったし――。

 だから、オオカミのサイロがあたしに助けてほしいなら、ちゃんと信じようと思ったの」

 それを聞いてから、サイロはしばらく長いあいだずっと黙っていた。

 そして、やっと絞り出すように、

「ごめん」

 と言った。

「約束、破ってごめんな――ハコ」

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