第-1話 VS狼人間 前編その2


  ※※※※


 ペギンとスンハが去ったあと、蒼野ハコは、動悸の静まらない胸を両手で押さえながらゆっくりと後ずさる。

 ――さっきの人たち、なに!? なんなの!?

 それからアスファルトの地面を凝視した。血はない。先ほど腹を押さえながら歩いていた白銀の男は、まるで、したたる鮮血が血に落ちる前に超能力で全て掬い取っているかのようだった。

 ――あの人、いま大丈夫なの!?

 ハコは、男が歩いて行ったほうに向かう。ただし、足音をなるべく立てように、シューズをゆっくりと地面に着けながら。

 そうして、ハコは見つけた。ゴミ袋の山の上で、白銀の髪の男が横たわっているのを。

「あ――」

 ハコが声を上げると、男もゆっくりと目を開けた。シャツの脇腹には穴が開いていて、そこからトクトクと、血がやはりまだ流れている。

 男はハコをじっくりと見つけると、

「よう、ニッポンのニンゲンの女」

 と笑った。「悪いが、匿ってくれねえか。クソシルバーバレットが掠っちまった。獣人核は無事だが、再生に時間がかかるんだ。お前の実家でもアパートでも連れていけ。そこで寝かせろ」

「え、えっ、ええ――!」

 ハコの表情が引きつるのを見て、男のほうは少しだけ眼差しを優しくした。

「安心しろ――お前に危害は加えない。もし助けてくれたら、テメエの気に入らないニンゲンを好きなだけブッ殺してやってもいいぜ――オレは約束は守る。ニンゲンどもと違ってオレは嘘はつかねえ――!」

「ひ――い!!」

 ハコは悲鳴を上げて、その場から走り去った。


 その姿を見て、白銀の男は少し笑った。

「なんだよ――もしかしたらって思ったのにな」

 それから傷口を撫でて、手のひらを見る。真っ赤に染まっていた。「この調子だったら、ここで数時間はオネンネかあ。その間に追っ手が来たら終わりだな」

 ふう、と――息を吐いて、白銀の男は仰向けになり、空を見つめた。

「まあいいさ、いつ死んでも文句がないように生きてきたんだ。ニンゲンも、この世界も、オレは大嫌いだ」


 そうして、彼の意識は落ちた。


 回復したのは、六時間後だった。彼は大久保にあるボロアパートで、万年床らしい敷布団に寝かされていた。傷のある場所にはガーゼが何枚も重ねられ、包帯が巻かれている。

 首を横に回すと、台所でチャーハンを炒めているハコの姿が見えた。

「やっと起きた? もう大変だったよ。大人の男の人ってすごい重いんだね」

「バカか?」

 男は目を見開いた。「あんときの追っ手がお前のことも狙ったらどうすんだ。アタマ悪いのか?」

「アタマ悪いよ。義務教育受けてないし」

 とハコは言い返した。「だいたい、あなたが助けろって言ったんでしょ――んで、これ食べるの? 食べないの?」

「――食うよ」

 こうして、男は風呂場もないような女のアパートで暮らすことになった。


「服脱いで。血、床に落とさないで。ガーゼ当てて包帯巻くから」

 とハコは言った。「それって銃弾? ちゃんと貫通してるの? ピンセットで傷えぐって抜くとかヤだよ、あたし」

「大丈夫だ」

 と、男はよろよろ歩きながら言った。

「シルバーバレットに、貫通の概念はない」

 男はそう答えた。

 ――獣人の身体に着弾したらすぐに、周囲の細胞を急速にガン化させながら消え失せる。とんでもねえ精密計算の賜物だ――開発者の日岡夫妻は、獣どもに八回殺されても殺されたりねえ最悪の獣殺しだよ。まったくな。

「シルバーバレット?」

 ハコは薬箱を取りながら、壁に背を預けて座り込む男に近寄った。

「じゃあ、本当に、あなたは獣人なの?」

「ああ――」

「獣人ってことは、人間たちを殺すの?」

「昨日も30人ほどチンピラとポリ公を始末してやった。あいつらは殺される覚悟があるニンゲンだ。悪いとは思ってない」

 白銀の男を前にして、ハコは自分がなにを考えればいいか分からなかった。どうして助けたのかも、言語化はできない。

「あなたの名前、教えて」

「どの国で名乗ってた名前がいい?」

「ほんとの名前」

 彼女の注文に対して、男は少しだけ苦笑した。

「サイロ=トーロ。《人さえ統べる獣の中の王》って意味だ」


 それから、ハコはサイロの傷を何度か手当てしたあと、彼の食欲のためにだたに夜食をつくってあげた。お徳用のチキンラーメンをつくって生卵を入れる。

 サイロは箸の使いかたを知らないらしく、割り箸をそのままぐるぐる麺に巻きつけていたので、仕方なくハコが目の前で教えてみせた。

「箸も使えないって――」

 とハコは呆れた。

「サイロ、今までどこの国でなにをやってたの?」

「オレはアメリカの獣人研究所で生まれた。10歳の頃には猟獣として湾岸戦争に駆り出されてた」

 とサイロは答えた。「色んな戦争とか、テロリストを殺す仕事に参加させられたんだ。でも不意にイヤになって、逃げ出した。それからはモスクワと、上海と、ソウルを行ったり来たりしながらニンゲンのための殺し屋をやってた。

 ――東京に来たのは去年のころだな」

 そう答えるサイロの首には、鈍く光る銀のドッグタグがあった。

「これか? オレの魂がアメリカに忠誠を誓った証だ、って言われて貰ったよ。まったくバカげた話だ。

 ――もうオレは誰のケツにもキスしねえ」


 そんなサイロの家に置いておきながら、ハコは昼はスーパー、夜はスナックでバイトを続けた。洗濯物は近くのコインランドリーで回したが、そのたび、生きた心地がしなかった。

 あるとき駅前でサイロの服を買っていると、いつもスナックでいっしょにカラオケで歌うサラリーマンと出くわした。

「うおお、蝶野さん!?」

「やあ、ハコちゃん――どうしたの?」

 サラリーマンの蝶野の目線の先に、自分の買い物カゴ――そのなかにある、気軽に買える男物の下着とジャージと上下揃ったシャツ・ズボンがあることに気づいた。

「あー、いやあ、これは、アハハ!」

 ハコが笑って誤魔化すと、蝶野も合わせて笑い、

「大丈夫、マキ姐のママには言わないよ?」

 と言って、人差し指を唇に当てて「しー」のポーズをつくった。

「ハコちゃんも年頃だし、そういうのがあるのは分かるよ」

「あー、え、助かります」

 そんな風にハコは答えながら、蝶野さんの買い物カゴのほうには赤ん坊用のオムツが入っていることに気づいた。彼は独身のはずだ。つまり、それは、もっと別の形の女に対する買い物だった。

 ――お互いに秘密はある。そういうのを見ないフリして、人は人に対して優しくなれる。


 サイロのための買い物を終えてアパートに帰ると、彼のほうは包帯を外して、もともとのヤクザな洋服に袖を通していた。丸眼鏡のサングラスもかけている。

「おう、ハコか」

 と彼は言った。「歩けるようになった。やっとシルバーバレットの毒が抜けたな」

「――そうなんだ」

 ハコが袋を床に置きながら返事をすると、サイロのほうはヘラヘラと笑う。

「なんだ。オレに出ていってほしくないのか?」

 彼の言葉に、ハコは上手く返せなかった。彼が近づいてくる。

「そういやお前、結局、最後までオレに誰を殺してほしいのかは言わなかったな?」

「えっ?」

「なんだ、違うのか」

 サイロは目を丸くした。「最初に取引で言ったよな? お前はオレに殺してほしいヤツがいたからオレを助けた。そうじゃないのか」

「――違うよ。違う」

「じゃあ、なんだよ」

 サイロの顔が近くなっていた。ハコは壁に背を預けていて、そこにサイロはゆっくりと肘をついた。

「お前の望みを言ってみろよ、ハコ。オレはお前のしてほしいことは、なんでも叶えてやれるぜ――獣のなかの獣、オオカミだからな?」


「もう人を襲わないって約束できる?」

 とハコは言った。


「は?」

 サイロは、わけがわからないという顔をしていた。

 だがそれは、言った本人であるハコも同じだった。


 私、獣人のひとに、なんでそんなお願いしてるの――。


  ※※※※


 同時刻。

 ペギンとスンハは、直立不動で事務所の中央に立っていた。二人の顔面に、雇い主のテフンが中身のたっぷり入ったガラス灰皿を投げつける。

「바보!(ボケがよ!)」

 とテフンは怒鳴った。「왜 늑대를 놓쳤습니까!? 죽고 싶니!?(なにオオカミ逃がしてんだ、死ぬか!?)」

「죄송합니다(すみません)」

 ペギンは、頭と顔面をタバコの灰まみれにして、さらに灰皿のぶつかった額に血を流しながら、ゆっくりと頭を下げた。「다음 번에는 실패하지 않습니다(次回は失敗しません)」

「당연하다(当たり前だ)」

 とテフンは椅子に座り直した。隣のスンハが殺気に満ちているのを目線で宥めながら、ペギンは頭を下げ続けた。

 ――オオカミの獣人による殺害人数は、おおよそアメリカで300人、モスクワで200人、上海で500人、ソウルで400人、そして東京での被害は未だに数え切れない。

 オオカミの男。あいつは人類の敵そのものだ。そいつを始末できれば、こんな界隈から足を洗う金だって手に入る。そうすれば妹のスンハは自由になれるんだ。

 それまでは耐えるんだ――と、ペギンは歯を食いしばり続けていた。


  ※※※※


 同時刻。

 ――人を襲わないと約束する? この女はなにを言ってるんだ?

 サイロにはワケが分からなかった。たしかにこの女には恩義がある。だが、他のニンゲンに対してはそうじゃない。

 そのとき、アパートのチャイムが鳴った。

 ハコは我に返った様子で、「隠れてて!」と言うとサンダルをつっかける。

 サイロは彼女の腕を掴み、引き寄せると、耳もとで囁いた。

「来たのは警察だ。部屋に上がろうとしてきたら無闇に抵抗するな」

「――なんで分かるの?」

「ポリ公は聞きゃ分かる」

 そうして彼女を解放し、襖の影に身を潜めた。耳を澄ませる。玄関の向こうには男が二人だ。衣擦れの音からしてスーツ着用、アパートの階段を上がる音から判断するに、戦闘用にシューズかスニーカーを履いている。足音が片方だけ重いのは、腰に拳銃を下げているからだ。

 ――シルバーバレットか?

 サイロが訝しむなか、ハコはドアを開けた。

「はい、なんでしょう?」

「お忙しいところすみません。警視庁刑事部、獣人三課の津田と櫻井です。

 最近、このあたりで獣人案件がありましてね。逃亡中の獣人を追って近隣住民に聞き込みをしています」

「――はあ」

 ハコの人畜無害そうな見た目に、津田と櫻井はそこそこ油断しているらしい。声質が柔らかくなるのがサイロにも分かった。

「こちら、容疑者の写真です。なにか気になることはありませんでしたか?」

「とくにはなにも」

「――そうですか。

 なにか思い出したらこの連絡先にメールか電話をください」

 津田のほうが手帳に番号とアドレスを書くと、几帳面に破いてハコに手渡した。「あと、これは形式的な手続きなので断ってもいいですが、念のためお部屋のなかを確認してもいいですか?」

「――はい」

「失礼します。――どのお宅にお伺いしたときもやっていることですので、ご安心を」

 津田はシューズを脱いで、部屋に入った。櫻井もそのあとに続いてくる。

 サイロは直後に『超加速』を発動。ふたりの間をすり抜けて、入れ違いにアパートの廊下へ出た。

 そして、ふたりがアパートを出ようとしたとき、再び『超加速』を発動。再び彼らの間をすり抜けて、アパートの部屋に戻った。

「それじゃあ」

 と津田は言った。「今後は自動車の検問と、公共交通機関の監視がより強化されます。急ぎの遠出のとき不便な思いをするかもしれませんが、ご容赦ください」

「あ、はい。大丈夫です。お仕事お疲れ様でした」

 ハコが頭を下げるなか、獣人三課の男二人組は階段を降りてアパートを去って行った。


「――ふうう」

 とハコは息を吐き、サイロのほうに振り返った。「どうやって隠れたの?」

「あいつらが部屋に入るときは外にいて、外に出るときは部屋に戻った」

 とサイロは答えた。「平たく言えば、時間を停めた」

「――マジかあ」

 ハコは居間にしゃがみ込む。サイロはその隣に座り、ハイライトに火をつけた。

「面倒なことになった」

 と彼は煙を吸う。「狩人どもはずいぶん大規模なやりかたでオレをハメようとしてるみたいだ。しばらくここからは出られない」

 そうしてハコを見ると、彼女のほうは自分の唇を指差してトントンとしていた。タバコをくれ、の意味らしい。

 サイロは彼女の下唇に、さっきまで自分が吸っていたタバコを乗せた。彼女はそれを咥えて、煙を吐く。

「今まではどう凌いできたの? こんな風に追い詰められたとき」

「全員殺した。オレにはそのくらいの力はあったし、それしかなかった」

「でも、今回はそうしないんだ?」

 ハコがそう訊いてきて、サイロは思わず彼女の表情を見つめた。

 結局のところ、彼女の言うとおりだったからだ。

 ――そうだ。さっきのポリ公ふたりも、殺そうと思えばいつでも殺せた。そのあとは適当にここから逃げることもできたはずだ。なぜオレはそうしなかった?

 サイロはぼりぼりと頭をかいてから、疑問を振り払うように、

「――お前が『人を襲うな』って言ったんだろうが」

 そう言った。「お前の街にいる間は、仕方ない、ニンゲンは殺さないでおいてやるよ。それで助けてもらったのはチャラだ。

 ウソじゃない」

 そうして彼は自分のぶんのタバコに新しく火をつけた。


  ※※※※


 新宿警察署の捜査本部に、所轄の刑事課捜査員、警備課捜査員、そして警視庁刑事部捜査一課、獣人一課~三課、公安部捜査員が集まっていた。

「各捜査員、調査結果を順に報告しろ」

 と刑事部長の遠藤が言った。「まずは警視庁刑事部捜査一課、日笠からだ」

「ハイ」

 と日笠は立ち上がる。「所轄案内で新宿区各所の監視記録を押収し、通行人を今回の獣人と照合しました。結果、成果なし。獣人はどこか機械化されていない場所に潜伏した模様です。ランダムで聞き込みをしましたがめぼしい結果もなし。

 以上です。

 ――あ。獣人課の要請で韓国マフィアと関西ヤクザの構成員を多少『痛め』ましたが、そちらはなにも吐きませんでした」

「分かった」

 遠藤はセブンスターに火をつけた。「次は獣人一課から三課、順番に頼む」

 それに対して最初に立ち上がったのは、警視庁刑事部獣人一課、渡船コウタロウだった。

「韓国マフィアと関西ヤクザの抗争の背景には、関東と関西の諍いがあると判明しました。関東の北村会は上下関係の乱れから内戦状態にあり、勝利したのは右腕だった三浦です。その内乱で直属の親を失った武闘派構成員の三池が関西の神山会に直訴し、結託して北村会を追い詰めた。

 ――三池は在日です。そのバックに韓国マフィアの《하이에나》というグループがいたため、状況は泥沼。北村会は撤退したものの、次は韓国と関西の覇権争いになったわけです。

 そこで件のオオカミが関西側に雇われて、大久保にて皆殺しの一件が起きた模様。以上」

「了解」

 遠藤は息を吐いた。「そこのヤクザをふんじばれば、雇ったオオカミの情報は分かるか」

 それに対して、獣人二課の渡久地ワカナが手を挙げた。

「それには及びません。獣人の正体は既に把握済です」

 彼女が立ち上がると、所轄のいる席から「なんだ、女かよ」という声が聞こえた。ワカナはそれを無視し、報告書を読み上げる。

「獣人名はオオカミのサイロ=トーロ。アメリカの獣人研究所で生まれ、米軍に強制所属。10代の頃から戦争に駆り出されていますが、突如として脱走。そのあとはアメリカと、ロシアと、中国と、韓国、それぞれの闇社会でニンゲンを殺しながら日銭を稼いでいたようです。

 顔写真も先ほど入手しました」

 ワカナはプロジェクターに紙ペラを置き、サイロの容姿を捜査本部全体に見せる。白銀の髪、蒼灰色の瞳、白色人種と黄色人種がほどよく混ざった混血の顔立ち。高い身長。そうして、頑健な体躯。

「――ここからが本題ですが、米警察が日本政府を経由し捜査協力を申し出ています」

 ワカナはそこまで言うと、部屋の明かりを点ける。「どのような捜査体制を敷くかは、刑事部長の遠藤氏に一任します。ただし――」

「ただし?」

「アメリカに日本の捜査を乱されたら、捕まるものも捕まりませんよ」

 それを聞くと、獣人捜査三課の藤田ダイスケが息を吐いた。

「そりゃそうだ。だいたい、メリケンのバカがその獣人を逃がしたから日本が迷惑してるんだ。こりゃあ、そういう話だろが。あいつらに期待することなんかなにもありゃしない」

 ダイスケはそこまで言ったあと、捜査指揮の遠藤が自分を見ているのを知ると、

「獣人三課は二課と協力して聞き込みをした。なにもねえよ」

 とだけ乱暴に答えてから、こう付け加えた。「韓国の殺し屋がうろついてるって目撃証言がある。ペギンとスンハだ。マフィアにすら入れないハグれ者だが、人も獣人も平等に殺すことについては躊躇がねえ。こいつらの尻尾を追ってオオカミに辿り着く捜査員を複数名投入中だ、以上」


 そのあと、志賀レヰナが立ち上がった。

 彼女の左顔面にある抉られたような傷跡を見て、その場がどよめく。

「近隣の不動産会社を押さえてデータを入手した」

 とレヰナは言った。「それらしい住民にだけ絞り、聞き込みに加えて室内調査に出た」

「それらしい住民?」

 遠藤が訊くと、レヰナは頷いた。

「オオカミは交通網にも監視網にも引っかからねえ。十中八九、まだこの街にいるんだ。アタシのシルバーバレットも回収されなかった以上は、アイツに命中してるしな――では、どうやって東京にいる?」

 答えは簡単。既にある住民の寝床を奪うか借りるかしてそこに居座っているのだ。

 レヰナは話を続けた。

「獣人に限らず、この手の犯罪者が狙うのは独り暮らしの若い女だ。抵抗されてもすぐに殺せるからな。だからそこだけを狙って調べた。ピックアップしたのは以下の条件を満たした女だ」

 そう言うと、レヰナはコピーしたクリアファイルを複数部テーブルに置く。

「その1.独り暮らしを申告しておきながら部屋のなかに男の着替えがあった女。

 その2.こちらの捜査に対して標準的な反応を返さなかった女。

 その3.定時外の職業で男ひとりを匿うのに向いている女――水商売の臭いがする女。

 その三つだな」

 彼女の置いたコピーを、各部署の主要な捜査員たちは持ち去ってパラパラとめくり始めた。そして「あとでもう少し複製をくれ」と言う。

 レヰナは肩をすくめて応じた。


 ――ちなみに、容疑者レベルの上位18位には、蒼野ハコの名前があった。


「おそらくはリストのなかの女、その誰かがオオカミに脅されて仮宿を貸してる。今度は上位20名から順に尾行をつけて詳細に調査する予定だ。以上」

 レヰナはそこまで言うと、ゆっくりと椅子に座った。

 そのとき、

「志賀捜査員」

 と警視庁公安部の鮫島が言った。「オオカミに仮宿を貸している女がいるとして、そいつは本当に脅されているのか?」

「なに?」

「先ほどの獣人の顔立ちを見てみろ」

 鮫島カスミは写真をぴらぴらと振ってみせた。「大した美形の男だ。背も高いし筋肉もある。多言語対応可能な頭脳を持ち、異国情緒を匂わすに十分な混血野郎だ」

「なにが言いたい?」

「人間の女がコイツに惚れて、積極的に匿っている可能性は捨てきれない。――その場合、もう少し捜査は厄介なものになるぞ」

 彼の言葉に対して、レヰナは眉をひそめた。まるで、女は恋愛感情に浮かれてしまえば市民的義務を簡単に忘れる、そういう風にも聞こえる言葉だったからだ。

 渡船コウタロウがそこで手を叩いた。

「その点は、レヰナくんの仮説が立証されてから改めて考えればいい。

 ――まあオレは、そんな色ボケがこの街にいるなら、流れ弾ついでにオオカミごと駆除したいというのが本音だがね」


  ※※※※


 その夜、ハコがスナック「クセナキス」に顔を出すと、ママのマキ姐がすぐに寄ってきた。

「あんた、最近大丈夫?」

「――え、うん」

「よかった。ほら、獣人に襲われたらどうしようって、けっこう心配なんだからね。あいつら言葉とか通じないでしょ。平気でニンゲンを殺すんだから」

 マキ姐はそう言いながらカウンターに戻っていく。常連客の蝶野、猪股、鹿乃は既に座っていて、ピーナッツをビールで流し込みながらハコに手を振っていた。

「あはは」

 ハコは笑顔をつくりながら、でも、

 ――獣人だって、言葉は通じるよ。少なくともサイロは私との約束、守ってくれてるんだもん。

 と思った。

 それから客におつまみをつくったり、いっしょに酒を飲んでタバコを吸ったり、カラオケで歌ったりしながら、ハコの業務時間は過ぎていった。

 そのとき、

 スーツを着た男女二人組が店に入ってきた。

 マキ姐が「新顔だね?」と呟く。

 男のほうはオールバックに幅の広い眉、女のほうはポニーテール。薄暗い店内のテーブル席に座った二人に、ハコはメニューを持っていった。

「お客さんたち、初めて?」

 ハコが声をかける、と、男のほうが顔を上げた。

 ――ペギンだった。

「너의 말대로(お前の言うとおりだな)」

 とペギンは連れのスンハに対して、静かに伝えた。「범인은 물 장사의 여자입니다(犯人は水商売の女だ)」

「ペギン兄さんが鈍感だよ」

 とスンハは答えた。「あんな住宅街なかで、女は薄着で荷物も軽かった。酔ってる様子。近くのお店で男にお酒を飲ませることの仕事だよ、ならそれ調べればいい」

「ハハ、流石」

 ペギンは軽く笑ってから、ハコのほうを見た。

「お嬢さん、久しぶり。

 早速だけど、あなたが匿ってるオオカミのところまで、案内して」

「ひ――!」

 ハコは後ずさり、すぐに逃げようとした。その腕をスンハが掴んで、テーブルに押さえつけた。

「逃げんなニッポン人!! てめえウソつきやがってコラァ!!」

「い――痛い、痛い!!」

 うめくハコに対して、スンハはバタフライナイフを取り出すと彼女の目の前でチラつかせた。

「あのオオカミがどんだけ人間の害なのか、お前は分かってることがないから匿ってる!!

 そういう無知の善意がいちばん迷惑だよ!!

 さっさと居場所を吐くのか、さもなくば――死ね!!」


 と、

 常連客の蝶野が、「アアアアアアアア!!!!」と叫びながら、カウンターの椅子を持ち上げてスンハに投げつけた。

「ハコちゃん!! 逃げろ!!!!」

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