第-1話 VS狼人間 前編その1

  ※※※※


 今から19年前のことである。

 2004年7月25日。

 警視庁刑事部獣人二課、渡久地ワカナ36歳は病院の廊下を歩いていた。クールビズが施行された年である。夏の蒸し暑いなかをYシャツ姿で歩き、うちわで仰ぎながら彼女は病棟に入ると個室に向かう。

 治療を受け、個室のベッドで寝ているのは、同じく警視庁刑事部獣人二課、志賀レヰナ25歳。

 病院着だった。長い金髪。顔面の左半分に、術後を伺わせる痛々しいガーゼと包帯が貼りつけられている。本来であれば美人に属する顔立ちをしていたが、この傷の様子ではそれは台無しになるだろう――とワカナは静かに思った。

「お前らしくもないな。B級の獣人にそのザマか?」

 そうワカナが声をかけると、レヰナはすっと右目だけでワカナを見つめた。

「銃がジャムった。万にひとつの確率が最悪のタイミングで起こったんだ。二度と自動拳銃は使わねえ。これからは必ずリボルバーを支給してくれ、いいな?」

「拳銃は二丁ぶらさげてただろう?」

 とワカナは訊いたが、レヰナは返事をしなかった。

 ――他に別の理由もあるんだろうな、この感じは。

 ワカナはパイプ椅子に座った。

「銃の口径が変われば適応可能なシルバーバレットのサイズも変わる。お前のお望みの回転式拳銃でも使えるかどうか知らん、開発者の日岡ヨーコのほうに聞いておこう。だが、シルバーバレットはまだ完成品じゃない。それを忘れるなよ?」

「分かってる」

 レヰナは返事をしてから、指をくいくいと動かした。タバコを寄越せ、の合図だ。

 ワカナはキャメルを出し、レヰナの唇に咥えさせるとジッポに点火。そして、自分も同じ煙を吸い込んだ。

「なあ」

 とレヰナは言った。「アタシが獣人から庇った一般市民の男は、無事だったのか?」

「無傷だよ。流石、正義のお巡りさんだな」

「――ならよかったよ」

 レヰナがそっぽを向いて煙を吐くのを見て、ワカナは少しだけ面白かった。

 ――コイツ、自分が獣人から助けた男に見惚れて油断しやがったってのか。バカなヤツだな――。

 

 ワカナが持ってきた鞄、その着替えに袖を通して、レヰナは退院手続きを済ませた。

「日岡ヨーコとはいつ会えんだ? シルバーバレットの話はさっさと済ませたいが」

「いまは大学で特別講師だ。そこで落ち合ったら、夕飯でも食いながら話し合おう」

 そうして二人が病院から出ると、その前に、ひとりの男がスーツを着て立っていた。

 ――レヰナが顔面を犠牲にしながら任務中に守った男である。

「すみません」と彼は言った。「狩人への面会は基本謝絶だと言われてしまいまして。でもどうしても、貴女にお礼を言いたくて――!」

「礼は別に要らねえよ。警察の仕事はこういうのだ」

 彼女はそう言うと、じっと男の顔に右目を近づけ、

「これからは夜道をフラフラ出歩くな。自衛しろ。アンタはなんか、弱っちそうだから心配だよ」

 と囁いた。

 自分の顔についた傷が永遠の跡になることは、決して彼には言わなかった。そんな風に相手に恩を着せることを嫌がる性格だった。

 そうして彼女は立ち去ろうとしたのだが、

「あのっ!」

 と、男が後ろから食い下がってきたので、振り返るしかなかった。

「なんだ?」

「あの――志賀レヰナさん、ですよね? 名前は聞きました。あの、また会えますか?」

 そう彼は言った。

 隣で聞いていたワカナはキョトンとしたあと、思わず吹き出しそうになった。

 レヰナのほうはと言えば、ぽかーん、とした表情で男のほうを見つめていた。

「は?」

 という、驚きとも呆れともつかない声が彼女から漏れた。

 ファッションに気を遣っている風ではないが、顔立ちは甘く整っている。なるほどレヰナの好みのタイプだろうな、とワカナは思った。

 ――おいおいレヰナちゃん、まさかこんなタイミングで春が来るとはな。

 ワカナはそう思うと、おかしくてたまらなかった。


  ※※※※


 志賀レヰナはカローラの助手席、渡久地ワカナは運転席に座り、二人は高田馬場にあるW大Nキャンパスへと到着した。

 駐車場に車を置き、警備員に警察手帳を見せて学部棟に入ると、教室のドアを静かに開ける。軽く振り向いてきた学生たちのことは気にせず、壁に背中を預けて講義に耳を傾けた。

 教壇に立ってボソボソと呟きながらチョークを走らせているのは、日岡ヨーコ36歳。白いTシャツにジーパンのシンプルな姿で、髪は黒くまっすぐにのばしたまま。

 日米欧共同プロジェクトのブルックス研究会を一時離脱して、客員講師としての仕事をこなしているところだ。

 講義名は『獣人科学の形而上学的基礎づけとその未来』だ。

「獣人には従来の物理学では説明できない現象があることを今回は説明しました。獣人核によるほとんど無際限の再生能力、そして獣化、部分獣化、型の存在。

 にもかかわらずこれらの諸現象には固有の制約がある。それをまとめることで、本日の講義を終わりましょう」

 ヨーコはどこを見ているか分からない目つきで、ほとんど他人の都合を気にしないペースで喋る。

 彼女は前の席に座っていた同僚の福島アライト――ではなく、その隣に座っていた9歳のボブカットの少女を指差した。あとで聞いたが、住吉キキという女の子だそうだ。

 彼女は立ち上がり、回答した。

「その1.獣人は架空の動物に模すことはない。

 その2.獣人の型がもたらす効果は人間の技術的な限界を越えることはない――獣人の型は、人間が技術と時間をかければ実現できることを短縮するのみ」

「その2について、具体例を述べよ」

「工作型の獣人は、人類の知らない武器はつくれない」

「――そのとおり。これらの制約は、獣人の現象にも何らかの基礎づけがあることを示します。この講義ではそれについて最先端の研究を含めて紹介する予定です。

 以上、終わり。次回に向けて各自予習を」

 彼女が合図をすると、学生たちは散っていった。残ったのは福島アライトと住吉キキ。そして渡久地ワカナと志賀レヰナだった。

「ワカナが途中から入ってきたのは気づいてた、挨拶が遅れてごめん。どうしたの?」

 とヨーコは言いながら、板書を消し始めた。

 ワカナは隣のレヰナとともに掃除を手伝う。

「シルバーバレットの現場での使用状況について、話をしようと思ってね」

 そうワカナが言うと、ヨーコは振り返らないまま、

「ジャムったからリボルバー対応タイプがほしい?」

 と言った。お見通しのようだった。

 ヨーコは黒板消しを置く。「夫にメールする。たぶん今ごろ研究棟で院生あたりとダベってるはずだから一緒に誘おうと思う。食事?」


  ※※


 それから渡久地ワカナ、日岡ヨーコ、日岡レンジ、志賀レヰナ、福島アライト、住吉キキの六人はNキャンパス付近のレストランに入り、タバコをふかしながら酒瓶を開けた。

 ワカナは住吉キキの顔を見たあと、アライトに訊いた。

「この子いくつだ?」

「9歳。獣人訓練校でかなりの優等生でね、ブルックス研究会の英雄である日岡夫妻の講義でも見せようと誘ったんだ」

 とアライトはビールを呷った。「いつか僕くらいの才能は簡単に超えると思うよ」

「だとすると、日岡夫妻のご子息と同い年くらいか」

 とワカナは言った。「ヨーコ、あの子はどうしてるんだ? トーリ、だっけか?」

「トーリの衣食住については家事育児の専門職に任せてる。プロだから心配ないよ」

 ヨーコはそう言いながら、夫のレンジから唐揚げを奪う。

「母親としての実感はどうだ?」

 ワカナがからかう。「今も曖昧か?」

 それに対して、ヨーコは鶏肉を飲み込んだあと喋り始めた。

「――とても興味深い。

 着床した時点では卵子と精子が結合しただけの細胞だった。自分の体内から排出されたときも、泣き喚くだけの脆く柔らかい血肉の袋。なのに、今は直立二足歩行を可能にして言語を習得している。

 知識を獲得するだけでなく、私の想定にない発想を披露し始めた。現在は友達という形態で、別の個体とも情緒的ネットワークを構築している。

 魂はいつ肉体に宿る? 人はいつ人になる?

 こういうことを、怖れではなく喜びとともに感じられる。だから、親になってよかった」

 ヨーコはそう言ったあと、夫のレンジからさらにフライドポテトの皿を奪った。

「そういえばレンジ。あの論文はどうなったの?」

「ああ――浅田ユキヒトくんのか?」

 レンジは困ったように肩をすくめる。そういう仕草がサマになる、憎らしいほど美しい顔立ちの男だった。

「着想は面白いが、危険すぎる。それに対するリスクの考察も、倫理的危機についても楽観的だった。人造獣人プロジェクトはしばらく凍結するしかないよ。だいたい、猟獣訓練制度を洗練させるほうが先決だしな」

「――そう。残念」

 ヨーコが唐揚げにかじりつく隣で、レヰナは二本目のタバコに火をつけた。

「現状のシルバーバレットを改善してもらうほうが現場としてはありがたい」

 彼女の言葉に、ヨーコとレンジが顔を向けた。

 当時のシルバーバレットには2つの問題があった。

 その1.規格に適合する銃は専用の自動式拳銃のみであり、通常の武器との互換性を著しく欠いていた。

 その2.シルバーバレットの耐久性の低さを補うために、弾倉には良くて数発程度しか装填できなかった。

「普通の拳銃に、普通の弾数で入れられるようになるのはいつなんだ?」

 レヰナがそう訊くと、ヨーコは箸を置いた。

「テストは最終段階に入ってる。実運用までに三ヶ月から半年はかかると思うから我慢してほしい。ただし最初は9ミリパラ弾と標準的なライフル弾の対応を優先する。44口径対応はそのあと」

「――半年か。遅いな?」

 レヰナは近くのオレンジジュースを飲み干した(傷に響かないように、しばらく飲酒は禁じられていた)。

 レンジは彼女を見て、

「その間は、猟獣を一体引き取ってみないか?」

 と言った。「サンプルデータは多いに越したことはないんだ。現状のシルバープロダクトで心もとないなら、強力な型を持つ獣人を護衛につければいい」

「猟獣、か――」

 レヰナはタバコの火を灰皿に潰して消した。「強力すぎるのは使い勝手が悪そうだな、要らない。その代わり――そうだな、不慮の事故を予測して未然に防げるような型の獣人は研究所にいたりするか?」

「ちょうどいいのがいる」

 レンジは端末を操作して、テーブルの上に置いた。

「クダン=ソノダ。闘牛の獣人、占星型。未来を見ることができる。まだ12歳だけど、訓練は最終段階に入ったよ」

「――未来? どのくらいだ?」

「確定した未来なら5秒先まで常に観測可能。漠然とした将来なら1週間ほど先まで、気まぐれに」

 そうレンジが言うと、レヰナは興味を引かれたのか、端末を自分に引き寄せてデータファイルを読み始めた。

 そんな彼女が面白くて、ワカナは日本酒が進んだ。

 ――おいおいレヰナよ、お前が本当に知りたいのはさっきの男との未来じゃないのか?


 そのとき、ワカナのガラケーが鳴った(当時、スマートフォンは普及していなかった)。

 警視庁刑事部獣人三課、藤田ダイスケ37歳からの連絡だった。

「ダイスケか、どうした?」

『参った。韓国マフィアと関西ヤクザ上京組の抗争が新宿~新大久保間で勃発!』

 とダイスケは言った。『どっちの勢力が持ち出したか雇ったのか知らんが、野良の獣人を持ち出して手がつけられなくなってる。このままだと一般市民にも被害が出る! シルバーバレット、使うが構わんな!?』

「落ち着け」

 そうワカナは言った。「抗争の前兆はなかったのか?」

『公安の鮫島って若造が、有力筋からの情報ぜんぶ握り潰してやがったんだ! あのガキ、死人が出たあとでそれを口実に組織丸ごと潰すことしか考えてやがらねえ!!』

「公安か――我々とは信条を異にする連中だ」

『どうする?』

「先に確認しておく。獣人はどのタイプだ?」

『型はまだ分からねえが、目撃証言によると白銀のオオカミだ! 目にも止まらねえ、速すぎる!

 ――アッ、クソッ! 市民に被害が出た! オオカミの野郎、戦況を乱すためなら見境なしだ!!』

 ワカナの耳もとに、電話越しから悲鳴が響いてきた。

 どうやら、一刻の猶予もないらしい。

「シルバーバレット発砲を許可する。ダイスケ、獣人を撃ち殺せ。援護が必要か?」

『頼む! 三課だけじゃ荷が重い!!』

 そんな彼の言葉が聞こえたあと、不意に受話器の向こうが静かになった。

「ダイスケ?」

 ワカナが呼びかけても、返事はない。ただ、

『嘘だろ――!』

 というダイスケの声が聞こえてくるだけだった。

『梶原ァ! オイ! 梶原しっかりしろ!! 血がァ――血がァ!! オオカミか!? 梶原オイ!!』

 梶原とは、警視庁刑事部獣人三課の警官であり、藤田ダイスケの部下である。

 ――獣人に殺られたのだ。

 ワカナはガラケーを握りしめた。

「待ってろ。すぐにそっちに行く――! それまで絶対にそのオオカミを逃がすな!!」

 彼女は通話を切り、レヰナに「車を出せ」と言った。

 事態を察したレヰナは荷物をまとめ、日岡夫妻と福島アライト、住吉キキに会釈をしてから万札を置いた。

「悪いが仕事が入った。この街に近い場所で獣人案件だ。皆はなるべくこの店から出ないでくれ」

 そうして二人でカローラに乗り込む。志賀レヰナの運転はワカナと比べてずいぶん荒っぽいが、今はワガママを言っていられる状況ではない。

「退院直後にすぐドンパチかよ。こりゃあいつか死ぬなアタシも」

 とレヰナは独りごちた。

 ワカナは助手席で、ベレッタ92に外観を模した専用自動拳銃にシルバーバレットを装填する。

 ――その夜から、東京のオオカミ狩りが始まったのだ。


  ※※※※


 新大久保の交差点中央には、一人の男が立っていた。身長は190センチ超。白銀の前髪は、蒼灰色の鋭い瞳を隠してしまうほど長かった。

 エナメルの靴に、白のズボンと、いかにもヤクザ風な真紅のドレスシャツ。胸元のボタンを開け肌を晒し、鈍く光るドッグタグを下げていた。

 顔も体も返り血に染まっている。

 そんな彼の四方を、韓国マフィアの構成員が取り囲む。全員の手に握られているのは、トカレフTT-33パキスタンモデル。

「늑대를 죽여라!(オオカミを殺せ!)」

「망설이지 마라!(一切容赦無用だ!)」

 そんな風に叫びながら、彼らは拳銃を構えた。

 中央に立った白銀の髪の男はニヤリと笑ったあと、左手をピストルの形にした


「『초가속(超加速)』」


 男がそう呟くと同時に、全てが始まり、終わる。

 信号機のライトが割れ、街灯は破裂し、ビルに立てかけられた電光掲示板はバチバチと音を立てながら明かりを消した。

 暗転。

 そして、トカレフを握っていたマフィアたちの腕は1本残らず切り落とされ、アスファルトに転がりながら鮮血を撒き散らした。

「아아아아아아아아!!!!」

 マフィアたちが悲鳴を上げるなか、白銀の髪の男は、交差点の中央からは一歩も動いていなかった。なにが起きたのか、彼がなにを起こしたか、その場で分かる者は誰もいない。

 そこに、警視庁刑事部獣人三課の藤田ダイスケが追いついた。シルバーバレットが装填された専用拳銃を構える。

「クソ獣人!!」

 とダイスケは怒鳴った。「テメエ自分がなにやったか分かってんのか!! 梶原の仇がこの野郎!!」

 その声に、白銀の髪の男は振り返る。ドッグタグが夏の東京の蒸し暑い風に吹かれ、少しだけ揺れた。

「총을 가진 사람은 전사입니다(銃を持ってる奴は戦士だ)」

 と男は笑った。「전사에게는 죽을 각오가 있습니다(殺される覚悟はあるんだろ)」

「日本語喋れ害獣野郎!!」

 ダイスケがトリガーに指をかけると同時に、男も再び左手をピストルの形に構えた。

 ――だが、全ての明かりが消された今、ダイスケの照準は定まらない。男のほうは獣人であるがゆえに夜目が効く。

 つまり、両者の勝負は始まる前から決着していたのだ。


 そのとき、

 カローラがハイビームを点灯したまま二人の間に割って入った。渡久地ワカナを助手席に乗せた、志賀レヰナ運転の車である。

 白銀の髪の男の動きが、眩しさゆえに一瞬止まった。

 その隙に、レヰナが車窓を開けたまま拳銃を男に向けて構える。

「シルバーバレット、発砲する!」

 そしてトリガーを引いた。火薬の破裂音が響き、薬莢が排出される。

 直後、交差点から、男のほうは匂いも音もなくその姿を消していた。


 レヰナとワカナは車を降りた。ワカナがダイスケに歩み寄り、「強力な獣人相手にひとりでよくやった。立て直すぞ」と声をかける。

 レヰナのほうは交差点の中央に足を運び、先ほどまで男のいた場所をシューズの裏側でなぞった。

「消えた――命中したかどうか分かんねえな?」

 と彼女は首を傾げた。「瞬間移動かあ?」

「いいや」

 とダイスケは言った。「それじゃあ、あの広範囲の破壊力は説明できないさ。意味が分からねえ。まるで――

「時間か」

 ワカナは顎に手を当てて少し考える。そして、周りのマフィアたちがこそこそと逃げようとしているのを見ると、通常の拳銃のほうを取り出して空中に発砲した。

 マフィアたちが動きを止める。それは、近くにいた関西ヤクザのほうも同様であった。

「お前ら、なに逃げようとしてんだ?」

 とワカナは睨んだ。「警察ナメてんのか、クズども。さっきの獣人の輸入ルートを吐かせるまでブタ箱から出られると思うなよ。全員逮捕!!」

 彼女がそう宣言する、と、その場にいた獣人三課の捜査員たちは我に返って一人残らずチンピラを羽交い締めにし始めた。

「ダイスケ、さっきの獣人の追跡はお前らの課に任せる。こっちの現場の指揮は私が執るから、レヰナはダイスケを援護しろ」

 ワカナはそう言うと、タバコを咥えて火をつけながら街に向かって歩き始めた。


  ※※※※


 小規模なスナック「クセナキス」でぼんやりと皿を洗っていた蒼野ハコは、ママであるマキ姐の大声で我に返った。

「ちょっと! テレビテレビ!」

 マキ姐がリモコンでボリュームを上げる。速報では、新宿~新大久保間でヤクザの抗争があったこと、そして獣人が出現したことが報道されていた。

「うちの近くじゃないの、これ?」

 マキ姐が口もとに手を当てる。

 速報のニュースキャスターは、

『続報があるまで、近隣住民は不要不急の外出を控えて、施錠を忘れないで下さい。獣人は極めて危険です。絶対に近寄らず、見つけたら迅速に通報して下さい』

 と言っていた。

 ハコはマキ姐の隣に立つ。

「ねえハコ?」

 とマキは言った。「あんた、家に帰るのちょっと遅くしなさい。最悪、うちで寝ていってもいいから」

「えー?」

 ハコは少しだけ困った。「明日返さなきゃいけないDVDあるんだけどなあ」

「そんな延滞料金なんか払ってあげるから、言うとおりにして。お願い」

「えー? はーい」

 ハコはぶーぶー言いながら、また皿洗いに戻る。カウンターで飲んでいる男たちも、

「また獣人かよ、こええなあ」

「あいつら全然いなくならねえよな。警察はなにやってんだ」

 と口々に不満を言っていた。

 ハコはそんな声を後ろに聞きながら、

 ――獣人って、ほんとにみんな悪い人なのかな。

 と思っていた。

 ――本当はどこかに、良い獣人だっているんじゃないのかなあ。

 なにも知らないハコはそんな風に思いながら洗いものを終えると、カウンターに戻り、酒を男たちの前に置いたりいっしょにカラオケで歌ったりしながら17歳いちどきりの夏を過ごしていた。

 実際は酒場で働くために年齢を20歳と偽って、場合によっては客といっしょにビールを飲んだりタバコを吸ったりしていたのだが。


 結局、テレビのほうは続報もないまま事態は沈静化していった。客の男たちも帰っていき、ハコもマキ姐の許可を得て、給料片手にスナックをあとにした。

「う~、けっこう飲んじゃったや。歩きながら酔い冷ますかあ」

 そんな風に歩いていたハコが人通りのない、自分のアパートの近くまで来たときのことだった。


 白銀の髪の男が、ゆらゆらと歩きながら十字路を横切っていった。

「――え?」

 ハコが声を上げると、男のほうは彼女を見て――しかしなにもしないまま、血に染まった腹を右手で押さえて通りすぎていった。

 ――いったいなに? 今の。

 彼の前髪に隠れた鋭い蒼灰色の瞳は、とても人間のそれには見えなかった。まるで、それは、血に飢えたオオカミのような――。

 彼女が立ちすくんでいると、今度は彼が来た方角から韓国語の罵声が聞こえてきた。彼に対する追手らしい、ということは、いくら世間知らずのハコでも分かった。

 罵声の主は十字路で立ち止まると、ハコに目をつけて近づいてきた。二人組。幅の広い眉にオールバックの男と、ポニーテールの女だった。

「お嬢さん」

 と男は韓国鈍りの日本語で言った。「ここに白銀の髪の男が来ませんでした? どっちに行ったか?」

「えっ――」

 ハコが固まっていると、女のほうが舌打ちをして肩を掴んでくる。

「おい、ウソをつくこと考えるな。

 ニッポン人はすぐワタシたちカンコクにウソつくよ。お前らいつもウソばっかりだ。正直に答えるのことじゃないと絶対許さないよ、理解か?」

「ひ――!」

 ハコが身を竦めると、男のほうがすぐ割って入った。

「スンハ、よせよ。彼女はカタギだ。俺たちは情報を聞く、それだけ」

「――チ」

 スンハと呼ばれた女は舌打ちしながら手を離した。「もういい、ペギン兄さんに任せる」

 ペギンと呼ばれた男のほうは、改めてハコのほうに向き直る。

 ハコのほうは、動悸が止まらなかった。

 ――どうしよう。きっとニュースで見たヤクザの人たちじゃんか。さっきの男の人のこと殺そうとしてんじゃないの? えっ、どうしよどうしよどうしよどうしよ――!

 ハコは混乱しながら、しかし、自分のやるべきことだけは決して見失わなかった。

 つまり、さっき白銀の髪の男が歩いて行った方向と別を指差して、

「あ、ああ、あっちのほうに行きました!」

 と叫んだ。

 ペギンはハコを見つめたあと、ゆっくり「カムサハムニダ」とだけ言うと、スンハを連れて去っていった。


 ――のちにラッカ=ローゼキの母親になる女が、のちにラッカ=ローゼキの父親になる男を助けた。これは、そういう瞬間だった。

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