第14話 VS南瓜頭 後編その2
※※※※
超加速型。物理法則を無視して、10秒間だけ時間の流れの外に出られる。平たく言えば、時間を止められる。
停止した時間のなかで、ラッカは最初に重力の傾きを感じた。
「な――なんだこれ!?」
よろめきながら、壁に足をつける。床ではなく壁に向かって重力の方向が変わっているわけだ。まるで映画『インセプション』で廊下がグルグルと回転するシーンみたいだ、とラッカは思った(ノーランの映画は田島アヤノといっしょに全部見た)。
「んにゃろー、これがアイツの型か。大雑把なくせに応用すごいな」
ラッカは愚痴ってから、壁を走ってクイーン=ボウのもとへ向かった。当然、ブチのめすためである。
が、
拳が届く前に10秒が経過。クイーン=ボウはニヤリと笑いながら、ラッカの拳を手のひらで受け止めた。
「充分に距離を置けば、時間停止の能力は恐れるに足りねえ! テメエが10秒間に移動できる距離は何メートルだ? ああ? その外側から何度でも『廻天』をブチかます!!」
「クソッ!」
ラッカはローキックを繰り出す。が、クイーンはそれをガード。次にラッカはキックボクシング式のジャブ、ジャブ&ストレートを放った。が、クイーンはそれを難なく防御。
「弱えな! こんな雑魚にアタシのハバは殺られちまったのかって、失望させんなよ! オオカミィ!」
クイーンの突き蹴りが、不可避の速攻でラッカの腹にめり込んだ。
「がっ!」
吐き気がこみ上げて動きが鈍る。その隙をクイーンは見逃さなかった。静かに、素早く両手を合わせてから手刀を上に切る。
「『廻天』!! 死ねェ!!」
天井と床の重力が入れ替わる。ラッカは頭から天井に落ちていった。
「まだまだ! 『廻天』!!」
「あっ、ぐっ、あああっ!!」
重力の方向が死刑囚の独房側に変わる。ラッカは、強化ガラスに左半身を強く打ちつけられた。
「ククク――最初に能力が分かってりゃなんてこたあねえな。テメエの型はよ!! どうせハバのことも汚ぇ不意打ちで仕留めたんだろうが!!」
「ぐ――うう!」
ラッカはうめきながら起き上がる。クイーンは最初から拘置所にある鉄の柵を掴み、自分の重力操作に影響が出ないようにしていた。
――まずいなあ、なんとか攻略しないと。
そう思っているラッカの耳に、「助けて」という声が聞こえた。それは、独房にいる死刑囚たちからのSOSだった。
「えっ――」
ラッカは声のしたほうを見る。死刑囚たちは、クイーンの型によって独房の壁や天井に体をぶつけて、血を流しながら苦しんでいた。
「たっ、助けてくれ、助けてくださいオオカミさん。こんな死にかたはしたくない――頼むよお――!」
死刑囚のひとりが、そんな悲鳴を上げる。
ラッカは、唇を噛みながら立ち上がった。
「おいクロネコ派コラア!!」
「あん?」
「その廻天型っての今すぐやめろ!! お前が憎いのは私一匹だけだろ!! 他の関係ないニンゲンを巻き込むな!!」
ラッカの恫喝に、クイーンは小首を傾げた。
そして、
「なに言ってんだ、お前? ぜんぜん意味わかんねえな」
と言った。「アタシはニンゲンを人質に取ってねえよ。この独房にいるヤツらはどうせ死刑になるニンゲンだ。なら、いつ死んだって構わねえんだろ? いや、死刑執行日を早めてやってんだから感謝されてもいいくらいだぜ?」
「とにかくやめろ!!」
ラッカの怒声に、しかしクイーンは微笑みを返した。
「ああ、そういうことか?」
と彼女は言った。「ここにいるヤツらは、ニンゲンのくせにニンゲンを殺した裏切りモンだ。ケモノのくせにケモノを殺すテメエとは同類だから、情でも湧いてんのか? カス同士だもんなあ――?」
「黙れ!!」
ラッカは走り出し、再びクイーンへの距離を詰めようとする。
が、
「おせえんだよ、バカが」
とクイーンは笑った。「四連撃だ!!
『廻天』!!
『廻天』!!
『廻天』!!
『廻天』!!」
クイーンが両手を合わせて手刀を切るたびに、ラッカは壁、強化ガラス、天井、床に体をぶつけて骨を痛めていく。とうとう内臓を痛め、口から血ヘドが零れ出た。
「くそ――チクショウ」
うめきながらラッカは再び立ち上がる。
が、
ふと、視界が歪んで、胃のなかのものがさらに逆流してくるのを感じた。
嘔吐感。
「げっ――げえ、ええええ!!!!」
ラッカは膝をついてうずくまりながら、その場にゲロを吐く。そんな彼女の姿を見て、クイーンは満足げに笑った。
「三半規管だ」
とクイーンは言った。「何度も重力を変えられて酔ってきたな、オオカミ。もうこれで本来の力は出せねえ。テメエは終わりだ! あとはボコって殺す!」
「ぐ、ううう――!」
ラッカはフラフラと起き上がる。どうしよう、このままじゃ負ける――!
そして不意に、独房にいる死刑囚の言葉を思い出した。
《――たとえこの世の誰にも許されなくても、真っ当に生きようと試みることは間違いだろうか?》
それは、ラッカに話しかけてきた、罪を悔いながら死刑執行のその日まで、遺族に手紙を出し続けている男の言葉だった。
ラッカは拳を構えた。
「クイーン、お前の言ってることは間違いだ」
「なに?」
「ここに、死んでいいヤツなんていない。死刑囚は、自分の命を差し出すことで罰を受けて罪を償うんだ。だからこの場所に閉じ込められてる。それを良しとした群れのなかに生きてる――それは無意味な殺生とは違うんだ」
ラッカは拳に力を込めた。
「お前みたいなケモノに、ヘラヘラ笑いながら殺されるためにここにいるわけじゃないんだぞ!! 最後の最後まで罪を悔いるためにここにいるんだ!! テメエの無責任なヒト殺しと、いっしょにすんな!!」
「うるせえ!!」
クイーンは吠えた。そしてすぐにバックステップで距離を置き、超加速型の射程距離から外れようとした。直後、両手を合わせる。
「『廻天』!!」
だが、ラッカのほうも同時に左手をピストルの形にしていた。
「『超加速』!!」
再び10秒、時間が止まる。ラッカは走り出した。
8秒。強化ガラス越しに囚人たちの姿が見える。
6秒。重力の変化にはまだ慣れないが、突き進むしかない。
4秒。クイーン=ボウの目の前にラッカは辿り着いた。拳を固める。
2秒。あとは一発、ぶちまかせばいいだけだった。
そのとき、ラッカの脳裏に、
《――ゆーりかはねえ、おおかみさんとけっこんするの!》
という声が聞こえた。
それは腐乱姫、浅田ユーリカの声だった。
「え?」
ラッカはその声を聞いて、途端に腕が動かせなくなる。
次に聞こえてきたのは、五味ユキオの声だった。
《家庭にも学校にも職場にも居場所のなかった男が、たったひとつ生きがいにしていた歌姫を奪う権利がお前らにあるのか!! ああ!?》
聞こえてくるたびに、ラッカの拳は震えたまま、少しも動かせなくなっていた。
次に聞こえてきたのは、熊谷チトセの声である。
《もうママの言いなりはウンザリ。もう神様の言いなりはウンザリ。そんなの、死ぬまで幸せになれない。だからあたしは、あたしの仲間を集めて、みんなを言いなりにさせる側に回るんだよ》
ラッカは、
「あ――あ、う――!!」
と呻き声を上げながら、ブルブルと震える自分の腕を自分で握っていた。
さらに、戸塚トシキの声が響いてくる。
《オレを生んだ母親がクソだった。母親が連れてくる新しい彼氏もクソだった。オレはそんなクソ彼氏になびくクソ女から生まれたクソ男なんだ。
だからオレの人生はクソだったんだ!!》
そして、ダメ押しのように頭に流れ込んできたのは津島マナオの声だった。
《あたしの気持ちを分かんない奴は、みんな死んじまえ――!!》
ラッカは自分の震える拳を握りながら、その場所から動けなくなっていた。
10秒経過。とっくに『超加速』の効果は終わった。
クイーン=ボウのほうは眉をひそめ、ラッカを見つめる。
「おい、オオカミ。そいつはなんの真似だ?」
「えっ、あっ、これは――」
答えは簡単である。腐乱姫事件以降、人の心に近づきすぎたラッカは、ほとんど今さらになって、獣人の命を奪うことについて人間的な葛藤を覚えるようになっているのだ。
過学習である。
そして、ラッカは――最強の獣人であるということを除いて考えるならば、ただの17歳の女の子なのだ。
クイーン=ボウは、キレた。
「てめええええッ!!!!」
ラッカの両腕を掴み、その腹に勢いよく膝蹴りを与える。「なあに今さら良い子ぶって悩んでんだあ!!?」
「がはっ!!」
そして彼女の髪を掴み、顔面を壁に叩きつけた。
「薄汚ぇ裏切りモンがあッ!!!!」
「ぐ、あああ――!!」
ラッカが血を吐いても、クイーンは止まらない。
「アタシのハバを殺したくせによお、今さら苦しむ権利がテメエにあんのかあッ!!?」
そして、全身を殴り、蹴りながらクイーンはラッカを打ちのめした。怒り、恨み、全ての感情を相手にぶつける。
「消え失せろ、獣人のツラ汚しが――!!!!」
クイーンのストレートパンチが、ラッカの頬骨に命中した。
※※※※
ラッカは壁に倒れたまま、もう動けない。
「ケッ、あっけねえもんだな? ――オオカミよお?」
クイーンはそう吐き捨てると、再び両手を合わせてから手刀を切った。
「『廻天』」
長い独房の廊下、その突き当りが重力の底になった。つまり今から、そこは高度数十メートルの落とし穴に変わるのだ。
ラッカは頭から落ちていった。その行く末を、クイーンはただ眺める。
「復讐ってのは空しいもんだ――アイツを始末してもハバが帰ってくるわけじゃねえ」
そう彼女は言った。「だけどアイツの生首を手土産にしたら、仇討ちを果たしたら、またあの世で抱きしめてくれるか? ハバ=カイマン」
クイーン=ボウは、自分の左手の薬指にある指輪にキスした。それは、いつだったかハバがヤクザを始末したついでに手に入れた札束で買ってくれたものだった。
「そんな宝石、盗めばいいだろ?」
とクイーンは笑ったが、
「お前さんには、正式に買ったものを渡したかった。笑うかい?」
とハバは言ったのだ。
「ハバ――愛してる。あんたと会うために、アタシは生まれてきたんだ」
そうしてクイーンは目を閉じ、黙って、ラッカが壁に打ちつけられる音を心待ちにした。
だが。
そんな物騒な衝撃音は、いつまで経っても聞こえなかった。
「――?」
クイーンは目を開いて、自分の足元に広がる長い廊下を見た。
そこに、クモの巣が張ってあった。太く、白く、何本も広がって、壁と床と天井に結びつき、野球のキャッチャーミットのようにラッカ=ローゼキの身体を受け止めていた。
「ああ!?」
クイーンは凝視する。ラッカの横に、クモの巣を張りながら仁王立ちする一人の少年がいたからだ。年齢、18歳。
生まれつき両目の下にある濃いクマと、気だるげな眼差し。青白い肌に痩せた体。ボサボサの黒髪と黒色系のパンクファッション。
「なんとか間に合ったみたいっすね。ほんと、疲れるのはイヤなんすけど」
と彼は言った。
「なんだテメエ?」
とクイーンが訊くと、彼はこう答えた。
「――仲間の危機に、必ず駆けつける男。
警視庁獣人捜査局第五班専属猟獣、メロウ=バス」
ラッカはうめきながら上体を起こす。
「メロウ――? なんで、どうしてここに――?」
「第五のカズヒコさんから連絡きたんすよ。正確には、カズヒコさんといっしょにいた第七のトーリさんっすけど。『オオカミを援護してくれ』ってね」
「トーリが――?」
そんなメロウとラッカのやりとりを聞きながら、クイーンは歯ぎしりする。
「増援か? 別にこっちは二匹相手でもいいんだぜ」
「へえ?」
「そこにいるクソオオカミを――アタシの恋人、ハバ=カイマンを殺ったラッカをブチのめせんなら、なんでもいいんだよ!」
クイーンは肩を怒らせる。ラッカは唾を飲み込んだが、メロウのほうは冷静だった。
「で?」
と彼は言った。「あんたが誰を好きとか愛してるとか興味ないんで、そういうのは下らねえアホの女子会か、フワフワした日記帳でやってもらっていいすか? 女の恋バナ、宇宙でいちばん興味ないんすよ」
「あ?」
クイーンのこめかみに青筋が立つ。が、メロウは全く気にしない。
「獣人になってから今までの間に、いったい何人、ニンゲンを殺したんすか? あんた。自分が被害者のポジションを気取れるライン、とっくに踏み越えてるって自分でも分かってるっすよね?
生まれの不運? 育ちの不幸? それが殺されたヤツらに対して言い訳になるって本気で思ってるんすか?
――テメエより悲惨な境遇でもマトモに生きてるヤツなんか腐るほどいるんすよ。ただの人殺しが」
「黙れよ」
とクイーンは怒鳴った。「研究所に脳ミソいじくられて洗脳された奴隷がよ!」
「その奴隷に論破されるってどんな気持ちっすか? あんたの本心はその程度だ」
メロウは中指を立てた。
「ニンゲンを喰い散らしてるケモノ風情が、ごたごた屁理屈を並べて弱者ぶんなって言ってんすよ、俺は」
それから、冷たい目のままで言う。
「ハバって男も、大したことなかったみたいすね? お前みたいな女に惚れたんだし」
「てめえ――!! ハバを侮辱すんな――!!」
クイーンが戦闘態勢に入る。メロウも拳を構えた。
だが、その間に割って入るように、
「やめろ!!!!」
と怒鳴る声があった。ラッカである。
メロウは思わず体を止めた。それは、クイーンも同様だった。
ラッカはゆっくりと立ち上がり、
「メロウ。ありがとう、でも、もういい」
と言った。そして、ペッと血を吐き捨てる。「クイーン=ボウのことは私が相手する。メロウは、囚人たちの保護をお願い。ここにいる誰ひとり死なせちゃダメだ」
「大丈夫っすか?」
とメロウは訊いた、が、ラッカの瞳は固かった。
「こいつは私を恨んでる。そのためにここに来てる。ニンゲンの味方をしたら、同じくらいケモノに憎まれる。――最初から分かってるべきだったんだ」
そう言うと、ラッカは再生を終え、拳を構えた。「もう大丈夫だ! 私に任せろ!!」
メロウはしばらくラッカの顔を見つめてから、ふう、と息を吐いた。
「本領発揮すんなら、もっと早く頼むっすよ。ラッカはうちのエースなんすから」
「押忍!!」
そんなラッカの返事を合図にして、メロウはその場を去った。即座に部分獣化でクモの糸を飛ばし、死刑囚たちを強化ガラスに固定する。廻天型によって怪我をしないように、彼らを壁や天井に巻きつけていった。
メロウが行ったあと、ラッカは改めて髪を結い、シャツの襟を正した。そこにドッグタグが光る。蛍光灯に照らされて、彼女のための明かりになる。
そしてクイーン=ボウを睨みつけた。
「クイーン、今からお前のことも駆除する」
「いいぜ。かかってこい。この距離ならアタシが勝つ」
クイーンが言葉を発するたびに、頭の痛みがもっと酷くなっていく、とラッカは思った。
しかし、もう迷う状況じゃない。
「お前みたいなヤツらの、恨みも、怒りも、ぜんぶ背負って、私は走り続けてやる」
そうラッカは言った。
頭のなかにある腐乱姫の幻を、彼女は理性で消した。
「ヒト狩りの獣人!! 獣人を殺すことが、この世から消すことが罪だとしても、だったら私がぜんぶ抱え込んでやる――!!」
そして、左手をピストルの形にした。クイーンはそれを見て、慌てて手を合わせる。
「『超加速』!!」
「『廻天』!!」
だが、クイーン=ボウの廻天は発動しない。コンマ数秒でラッカの超加速のほうが早かった、ということだ。
ラッカは壁を駆け上がっていく。頭のなかで、今まで殺してきた獣人たちの声が木霊しようとも、もう迷うことはない。
それは、開き直りとは違った。痛み、傷つき、苦しみながら戦うことを彼女は選んだ。
涙は流れない。流す資格がないと思っているからだ。
部分獣化で両手から刃を生やし、クイーン=ボウの両腕を切断する。そのとき、超加速の効果は切れた。クイーンの想定よりも、彼女はさらに疾くなっていた。
つまり、やっと本気である。
クイーンは自分の両腕がなくなったことに悲鳴を上げながら、ラッカのほうを見た。
「ああ、がああああ――!!!!」
「腕がなけりゃ祈れねえだろ!!」
「クソ!!」
クイーンは両腕切断部の血を撒き散らしながら距離を置く。「バカが!! こんなもんノリだ!!」
そうして彼女は両腕を――その切断部を――グチュグチュと合わせながら、痛みにうめきつつ叫んだ。
「『廻天』!!」
さらに重力の方向が変わる――が、ラッカはもう惑わされなかった。
「――重力を変えられるからなんなんだよ!! 慣れちまえば普通といっしょだ!! 雑な対軍用を個体相手に乱発すんな!!」
とラッカは叫び、さらに、
「『超加速』ッ!!」
と怒鳴った。
とっくに1日あたりの発動限界を超過している。鼻血が垂れてきた。
次に、クイーン=ボウの両脚が根元から切断され、千切り取られる。
「――ああっ、アッアア、アアアア!!!!」
ごろごろとクイーンの胴体が床に転がる。血が飛び散って床と天井と壁を汚していく。
「クソがああああ!!!!」
彼女は最後の力を振り絞って、数秒後、シャチの姿に変わった。
ラッカの胴体に食らいつき、ボキボキと肋骨を噛み砕きながら迫ってくる。
「死ねっ死ねっ死ねっ死ねえっ!! ハバの仇がああああ!!!!」
それを聞いても、もう、ラッカは容赦しなかった。
「テメエが死ね復讐女!!!! 『超加速』!!!!」
10秒。ラッカはオオカミの獣人体に変わる。
7秒。オオカミに変わったラッカが、クイーン=ボウの胸に爪を立てていく。
3秒。獣人核が取り出される。
1秒。ラッカは獣人核を口に入れ、力を込めて嚙み砕いた。
0秒。タイム・アウト。
「アアアア!!!! アッが、がああああ!!!!」
クイーン=ボウは血を噴き出しながら、断末魔の悲鳴を上げた。その鮮血をオオカミは全身に浴びながら、黙って、その場に立ち続けた。
※※※※
拘置所に、遅れて狩人と刑事たちが集まる。
救急車が大量に門前に停まり、救急隊員たちは負傷した刑事被告人、懲役受刑者、死刑確定者、労役場留置者、被疑者、引致状による留置者、少年受刑者、そして所長を含む刑務官と調査官たちが運び出されていった。
メロウ=バスの迅速な活動にもかかわらず、重軽傷者は数えきれない。打ちどころを誤って既に命を落とした者は十数名を超えていた。
獣人捜査局第五班班長の笹山カズヒコと、第七班班長の日岡トーリは捜査一課の黒井サワコとともに正面玄関から入った。
「メロウ」
とカズヒコは呼びかけた。「お疲れさん。大仕事やったな、今回は」
「疲れたっすよ。部分獣化でクモの糸を飛ばすの、体力の消耗エグいんで」
そう答えるメロウの上半身は裸だった。ラッカを背負っている。敵との戦闘中にオオカミに変わって服を全て破いてしまったため、今は、メロウのバンドTシャツをぶかぶかに着たまま眠っていた。
「ラッカは?」
そうトーリが訊くと、
「寝ちゃってるっすね」
とメロウは答えた。「訓練校の任務中でも、なんか寝不足っぽかったんで。やっとぐっすり眠れるようになったんじゃないすか?」
「そうか――」
メロウはトーリにラッカの身体を渡した。今度はトーリがラッカの首と足を支えながら身体を胸に抱きかかえる。
「ねえ、トーリ第七班班長」
とメロウは言った。「ラッカがちゃんと自分の頭で考えて、自分のことを自分で決めようとしてるのは知ってるんすけど――でもトーリさんにも、もっと彼女にできることがあるんじゃないすか?」
「俺に?」
そう呟くトーリのとなりで、カズヒコは少しだけ細い目を見開いた。
――メロウが誰かのことでこんなよう喋んの、久しぶりやな。
とカズヒコは思った。
メロウは肩を竦める。
「ラッカは訓練校の卒業写真を見て、トーリさんのことばっか気にしてたっすよ。
別に、トーリさんが自分の過去とか自分の考えを言ったら彼女の悩みが解決するわけじゃないっすけど、でも――同じ答えになんなくても、同じ問題を解いてるヤツが隣にいるって知ったら、ニンゲンって頼もしかったりすんじゃないすか?」
メロウは、じっとトーリの目を見つめた。
「守ったり信じたりするだけじゃなくて、自分のことも見せてあげてください」
それから、メロウはよろよろと外に歩き出ると、カズヒコが乗ってきた車、その後部座席に座って目を閉じた。――彼の体力も限界だったのだろう。
話を聞いていた黒井サワコは、少し咳払いした。
「オオカミの猟獣のメンタルケアについてはあとで考えるとして、まずは襲撃してきた獣人の身元特定。それから間宮の収容病院の確認等を急ぎましょう」
「それもそうだな――」
トーリは頷いた。「今回の襲撃は、俺たちの考えではそもそも間宮イッショウが企てたものだ。百パーセント上手くいくとも思えない不確定要素の多い計画だが、用心に越したことはない」
それから一人の救急隊員を呼び、
「間宮は搬送中も拘束しておいてくれ。革のベルトじゃ駄目だ。鉄かチェーンで厳重に縛り上げろ」
と言った。
救急隊員は、
「なに言ってるんです?」
と突っぱねた。「間宮は意識不明の重体です。走行中の救急車から脱走なんてできませんよ。たとえ死刑囚でも負傷中の不当な拘束は人権侵害です。相手は獣人じゃありません!」
「ある意味では、ヤツは獣人よりも危険だ。頼む」
とトーリは迫ったが、警察関係者と医療関係者とでは、果たすべき倫理も優先順位も異なるということだろう、救急隊員は断固として拒んできた。
「できません。それに、今あなたが重傷者の拘束を求めた事実はきちんと記録に残してますからね! 俺たちがデカの横暴に素直に従うと思わないで頂きたい!!」
そう怒鳴ると、
「――まったく、狩人か。噂通りの連中だな」
と言いながら、さらに負傷者の救護のために拘置所のなかへ戻っていった。
※※※※
そして、間宮イッショウは救急車内で目を開けた。意識不明の真似ごとはどうやら上手くいったらしい。瞳孔に光を当てられても反応しない程度のことは訓練次第でできる。
――廻天型が来たのはビックリしたけど、建物を壊したり火を放って回ったりする獣人よりはスムーズに物事が進んだな。
頭からは血を流している、が、これは自分でわざと壁に打ちつけたものだ。どの程度の流血であれば健康体のままでいられるか、逮捕前の人体実験で調査済みだった。
彼はストレッチャーを確認した。体を抑えるベルトは緩い。そして、隊員たちが自分から一瞬だけ目を離した隙に、裁断用の医療ハサミをくすねることにも成功した。
――間宮イッショウは、冷戦後の日本社会最悪のシリアルキラーは、ゆっくりと立ち上がった。
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