第13~16話 A Thousand Suns(Including Living Things)
第13話 VS南瓜頭 前編その1
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「オオカミはそれぞれの瞬間をそのままに受け取る。これこそが、わたしたちサルがとてもむずかしいと感じることだ。わたしたちにとっては、それぞれの瞬間は無限に前後に移動している。それぞれの瞬間の意義は、他の瞬間との関係によって決まるし、瞬間の内容は、これら他の瞬間によって救いようがないほど汚されている。わたしたちは時間の動物だが、オオカミは瞬間の動物だ」(マーク・ローランズ『哲学者とオオカミ』より抜粋)
※※※※
2023年6月12日
警視庁捜査一課刑事、黒井サワコは東京拘置所の地下までエレベータで下がった。そこにいる死刑囚、間宮イッショウと会話をするためである。
廊下を奥まで進むと、強化ガラス張りの独房がある。サワコが録音機を携え、彼の部屋の前にあるパイプ椅子に腰かけた。
「お久しぶりです、間宮さん。それとも、まだ『パンプキン・ヘッド』と呼んだほうがいいでしょうか」
「――貴女の敬意が僕に伝わりやすいほうでいいよ、黒井警部補」
間宮イッショウは穏やかに笑った。体つきは細く、手足は長い。髪と髭は拘置所のルールに合わせて、短く丁寧に切り揃えられていた。
鼻筋は整っているが、どこか、単に美形とは言えない雰囲気がある。
――間宮イッショウは、冷戦後の日本を代表するシリアルキラーである。「ふと思い立ったように」という形容詞でしか表せない唐突さで、彼の殺戮は始まった。判明しているだけで、殺害したのは若い女性24人。やがて彼は郊外の地主一家を丸ごと脅し、拷問の末に親族同士を殺し合わせて13人の犠牲者を出した。たまたま逃げ出した甥家族の長男が交番に逃げ込むと、そのまま逮捕。現在に至る。
公判では容疑をおおむね認めると、捜査協力する代わりに死刑執行の延期を申し入れた。
24人は、あくまで犯行が確定した死体の数だ。彼はその他に、35人の殺害を自供している。
「全ての人間は生きている価値がない。つまり、僕は良いことをしたんだよ。
――両親については、なにも言いたくない。良い親だったんじゃないかな。僕を生んだわけだから」
それが彼の言葉だった。
さて、ここからが本題である。
彼はいくつかの死体について、それは自分のしたものではなく、自分のもとで証拠隠滅のノウハウを学んだ獣人たちの仕業だと否認していた。
「僕と知り合った獣人たちはみんな強いんだけど、人殺しに関しては素人もいいところだった。どうやって死体をキレイにすればいいか、警察の目を誤魔化せばいいか、教えたんだ。
良い奴らだったよ。僕と同じ手口で事件は起き続けてるんだろう? みんな僕の『パンプキン・ヘッド』さ」
要するに。
ひとりの、ただの人間がバラ撒いた悪意が、複数の屈強な獣人によって模倣され続けているのである。
そして現在。
黒井サワコはファイルを閉じて、間宮イッショウの双眸を見つめた。
「また事件が起きました」
「へえ?」
「頭蓋骨が割られて、なかの脳と眼球、それから口腔の肉が綺麗にくり抜かれている。残った死骸の形からついたあなたの異名、それがパンプキン・ヘッド。今回も、その模倣犯と思われます」
「あはは、大変だねえ刑事さん。すぐに捕まえなくちゃ?」
爽やかに笑う間宮イッショウを、黒井サワコはガラス越しに睨みつけた。
「事件が起きたのは東京都東中野。その近辺に、あなたの仲間はいましたか? 今、その人はどこでなにをしていますか? いや、人ではなく獣人?」
「聞き覚えがないな。きっと引っ越したんだよ、だから誰なのかも分からないな」
のらりくらりとかわすような話しかたのあとで、イッショウは、
「あ、そうだ」
と言った。
「現場と死体の写真はある? 僕の仲間たちも、やりくちは少しずつ個性があるんだよね。それを見たら分かるかもしれない」
サワコは歯ぎしりをした。どうせ、死骸のピンナップを見て性的な興奮を得るのがこいつの目的だ。
だが、今は目の前の胸糞悪い殺人鬼がいちばんの手がかりなのだ。
「分かりました、手配します」
「――あとは、そうだな」
とイッショウは言った。「獣人捜査局の人たちはなにをしているの?」
「今はまだこれは我々捜査一課の事件です。獣人案件と確定次第、本件も、彼らの管轄になりますけどね」
「駄目だよ、それじゃ遅すぎる」
間宮イッショウはゆっくり立ち上がった。
「新聞で読んでるよ? 警視庁獣人捜査局は最近いくつもの獣人事件を解決してるんだ。頼りになるよ。僕の仲間の話なんだから、すぐにここに来てもらおう。
――オオカミの女の子が話題なんだって? まだ若いのにすごいって?
いいねえ。いいよ。
僕たちニンゲンの命令で同族の獣人を殺しながら、そのオオカミはなにを考えてるんだろうねえ。きっと、自分の殺しを誤魔化すために色んな言い訳を考えながら苦しんでるんだろうな。正義とか、道徳とか、人間の味方とか、さあ」
軽やかな口調でそう言うと、イッショウはふっと、真顔に戻った。
「そのオオカミ少女に死体の写真を持たせて、僕の部屋に、ここに、持ってくるように言ってきてよ。そしたら事件のヒントを喋ってやる」
※※※※
2023年6月14日。
女子寮で目を覚ましたラッカは、朝のトレーニングルーチンをこなした。冷蔵庫に買い置きしてあるペットボトルをガブ飲み。歯みがきをして、爪をヤスリで磨くと髪を束ねて、胸からドッグタグを下げる。
ジャージを着込み、庭で準備運動、そして近くの土手を通る14kmのランニングコースを走る。曇天だった。
――ただひとつ以前と違うのは、隣でイズナ=セトも走っていたことである。いつの間にか、二人は運動訓練を同時に行なうようになっていたのだ。
庭に戻って縄跳び。部屋に帰ると、左手だけの腕立て伏せと、右手だけの腕立て伏せ。スクワット、背筋、腹筋を終えてから、女子寮地下1Fの運動場に向かう。両拳にサラシを巻いて実戦を意識した拳と蹴りの練習。ときどき敵に攻撃されることを想定した、回避の動作を入れたシャドーボクシングをみっちりとこなす。
その隣でイズナは座禅を組み、カンフーの型をひととおりこなすと、木刀の素振りを繰り返した。
そうして、二人でシャワーを浴びる。
「あ、イズナ。こっちの石鹸ちょっと小さい。使い終わったらあとで貸して」
「あとで予備と入れ替えておいてくださいね」
「はーい」
そして、地下の浴場に首までつかった。ラッカは、
「んああ~!」
と声を出す。イズナはそれを見て、
「オッサンくさいですよ、ラッカ」
そう苦笑いを浮かべた。「それで、今日のあなたはどんな任務が?」
「えっ? ああ、うん」
ラッカは風呂の熱さに頬を火照らせながら、天井を見上げた。「獣人捜査局の訓練学校に行って、猟獣として生徒と話すんだって」
「へえ」
「まあ、私は特例だから、他にメロウ=バスもついてきてくれるらしいけどね」
メロウ=バス。警視庁獣人捜査局第五班専属猟獣、クモの獣人である。
「なるほど。まあ彼なら適任でしょう」とイズナは答えた。「普段は適当な口調ですが、任務には実直な殿方です」
「あんまり話したことないんだよなあ。イズナとみたいに友達になれるかな?」
とラッカが言うと、イズナは
「はあっ!?」
と声を大きくした。顔の赤らみは熱湯のせいなのかどうか、分からない。「べっ、別に私とラッカは友達ではありません!!」
「ええっ、ひどっ!!」
と、ラッカは素直にショックを受けた。
ふたりで風呂から上がり、仲原ミサキのスクランブルエッグを食べ終えると、ラッカのほうは日岡トーリからの連絡を待ちながら個室のベッドで本を読んだ。横溝正史『悪魔が来りて笛を吹く』。
そうして、昼になる前に女子寮の前にトーリのBMWが停まった。
「トーリ!」
ラッカは文庫本を枕元に投げ捨てて玄関に出た。トーリはハイライトを携帯灰皿に捨てると、
「行こう」
と運転席に戻った。
「今日の任務は、どんな風に聞いてる?」
「訓練学校で、生徒の前で話すんだろ?」
「――それもあるんだが、直前で厄介な用事が入った」
トーリの顔は厳しかった。「ちょっと昔の連続殺人事件の模倣犯が起きたんだよ。しかもその容疑者は、かつての犯人と仲間だった可能性が高い。犯人には、そういう模倣犯が何人もいる。で、捜査協力をすることで死刑延期を申請し続けてるんだ」
「え?」
ラッカは助手席に乗ってトーリのタバコを1本だけ口に咥えながら、シートベルトを閉めた。「死刑囚ってこと?」
「ああ」
とトーリは答えながら、アクセルをゆっくり踏んだ。「ヤツは当時、『パンプキン・ヘッド』と呼ばれていた連続殺人犯だ。――熊谷チトセの殺害人数84人や、ハバ=カイマンの125人には遠く及ばないが、それでも大したヤツだ。合計で59人の殺害を自供してる」
「駆除はしないの?」
「獣人捜査局にそれはできない。なにしろ、ヤツは人間なんだよ」
「――?」
ラッカには、途端にワケが分からなくなった。それだけニンゲンを狩ってるのが、同じニンゲン?
トーリはハンドルを切る。
「どれだけ検査しても同じことだった。『パンプキン・ヘッド』こと間宮イッショウは、健康な成人男性の身体そのものだった。人間が人間のままで、人間を殺してたんだ」
それから、トーリはラッカの顔を見た。
「その間宮イッショウがラッカに興味を持ってる。『オオカミ女と話ができるなら、喜んで捜査協力をする』だそうだ」
※※※※
トーリとラッカは東京拘置所を訪れた。車を降りる。窓口には既に、警視庁捜査一課の黒井サワコが待っていた。
「お疲れ様です、日岡トーリ警部」
とサワコは敬礼した。「それと、ラッカ=ローゼキ警部補も」
「えっ? ああうん」
ラッカは頭をポリポリとかきながらおじぎした。
「人殺しのニンゲンの話を聞けばいいんでしょ?」
そう言いながらラッカがあとをついていくと、黒井サワコは、エレベータのスイッチを押して振り返った。
「オオカミの猟獣である貴女にお願いがあります」
「う、うん」
「まず独房のなかにいる間宮イッショウとは、決して目を合わせないでください。それからどんな質問をされても個人的なことは話さないでくださいね。ヤツと貴女の間には強化ガラスが張られていて、身の安全は保障されています。書類の受け渡しも鉄製のトレーで可能です。とはいえ、油断は禁物です。向こうは怪物ですから」
サワコの言葉が、ラッカには不思議だった。
「怪物っていうなら」
とラッカは言った。「私のほうが怪物じゃないの? オオカミなんだから」
そんな彼女の問いに、サワコは首を振った。「アイツは言わば、人間のままで獣の心になったサイコ野郎です。貴女のちょうど逆でしょうね――そう思ってください」
エレベータが地下に辿り着く。ラッカが降りると、目の前に鉄格子があった。サワコがボタンを押すと開き、廊下に誘ってくれる。
「なあ」とトーリが言う。「俺は同席できないのか」
「できませんね」とサワコが答えた。「間宮イッショウはオオカミ一匹としか会話する気がないそうです」
「だとしたら、第七班としては本件への協力を断ることもできる」
そう言うと、トーリは少しだけサワコを壁際に追い詰めた。
「ラッカは他の猟獣とは違う。人間の心を得て、今まさにそれを育ててる。意味不明な殺人鬼で混乱させたくないんだ。それは分かるか」
「もちろん分かります」
とサワコは言う。「しかし日岡トーリ警部。ラッカが貴方と同い年の男性でも、同じ心配をしますか?」
「なに?」
「トーリ警部の言葉は要するに、『ラッカはか弱い女の子なんだから優しくしてほしい』と言っているだけに聞こえます」
ふう――とサワコは息を吐いた。「貴方を悪く言う気はないです。男性は女性にそういう思いやりを持つものですから。しかし、もし貴方がラッカを対等な相棒と認めているなら、彼女の心の強さを信じてあげるべきでは」
サワコにそう言われると、トーリとしては、なにも言い返せなかった。
そうしてラッカは一人で間宮イッショウの前に来た。その途中で、何人もの無期懲役刑囚や、死刑囚の独房を通過した。
南無阿弥陀仏と呟きながら額をコンクリートの壁にぶつけている男性。
電波攻撃と人工地震に慄いて叫んでいる長髪の男。
戦後の世襲総理とカルト宗教の癒着を信じながら、暗殺テロに万歳を挙げ続けている小太りの若い男。
「死にたくない」と呟き続けている初老の男。
そういう独房をかきわけて、ラッカ=ローゼキは間宮イッショウの前、パイプ椅子に座って顔を見つめた。イッショウも椅子に座る。
「やあやあ、オオカミ女さん」
と間宮イッショウは微笑んだ。直後、
「質問は面白いもので頼むよ。僕が退屈だと思ったらすぐに出て行ってもらうからね」
と言う。
ラッカは短く息を吸い、イッショウの顔を見つめると、
「どうやって獣人と人間を見分けながら人殺しを続けてたんだ」
と問いかけた。
「――へえ」
イッショウは笑みを浮かべた。「なかなか良問だ。たしかに僕は人間どもと獣人を正しく見分けながら、人間だけを狙って殺し続けた。相手が獣人だったら、返り討ちに遭って死んじゃうからね。
――そのあたりについては、きちんと気をつけたよ」
それから彼はラッカの顔を覗き込んだ。
「匂いで分かるんだよ。人の肉を抉って食い漁っているうちにさ。――ラッカ=ローゼキ」
※※※※
ラッカは忠告を忘れ、間宮イッショウの目を見つめた。イッショウも視線を返す。そうして、
「写真と資料を寄越せよ、オオカミ」
と言った。
ラッカは強化ガラスの下、独房の壁にある引き出しに茶封筒を置いた。イッショウはそれを受け取り、一枚一枚を舐めるように観察する。――頭蓋骨を割られて、脳ミソを空っぽにしたにしたまま横たわる裸の女の死体。股間と乳房に、性的暴行の痕跡。
「ふうん」
「死体の写真を見るだけでなんか分かるのか?」
「分かる」
とイッショウは答えた。「たとえば獲物の性別、年齢、容姿、服装。それはだいたい、犯人のコンプレックスの投影なんだ。極端な場合には、虐待をしてきた母親にそっくりな女性しか標的にしない殺人鬼もいるし、自分にひどい失恋を負わせた女と同じ髪型しか狙わない劣等感野郎もいる。後者の代表は、テッド・バンディだ」
「――へえ」
「現場を見てみろよ、オオカミ」
とイッショウは言った。「手足に傷跡はないし、周囲の家具もそこまで乱れていない。被害者が大袈裟に抵抗しなかった証拠だ。犯人は被害者と顔見知りか、なにか女性を心理的に安定させる制服を身に着けた特殊職業である可能性が高い。たとえば警察官や消防士や、医師だ」
それからイッショウは資料に目を通す。
「被害者の女性は24歳。犯人がアブノーマルな性的嗜好を持たない限り、快楽殺人の加害者と被害者は近しい年齢であるのが一般的だ。ちなみに猟奇性を伴う精神病質が深刻化するのは男性では20代半ば。――近辺の診察記録を漁るべきだと僕は思うね」
「――なるほどな。だけど、もし仮に犯人がビョーキ野郎だったら、警察官だったり消防士だったりする可能性は低いわけだな?」
「そのとおり」
イッショウは肩をすくめ、ラッカを見た。「その場合、犯人は独り暮らしじゃなく、実家で両親と暮らしてるだろう。配偶者や恋人はいないかな。身なりはそこそこ汚いはずだ」
そんなみすぼらしいカッコウで、どうして被害者を警戒させず現場に辿り着けたのか。知り合いだから、以外の回答はない。
ラッカはしばらく黙ったあとで、
「イッショウ、お前はどっちだと思う?」
と質問した。
「え?」
「被害者の知り合いのビョーキ野郎か、あるいは被害者を安心させる制服マンなのか?」
「十中八九、前者だな」
とイッショウは言った。
「快楽殺人には2つのタイプがある。無秩序型と、秩序型だ。その見分けかたはいくつかあるけれど――被害者が生前と死後どちらのタイミングで性的暴行を受けたのかが有力な判断材料になる。
今回の犯人は被害者をすぐに殺して、そのあと死体を犯してる。
これは基本的に、犯人の知能が低いせいだ。頭のいい殺人鬼は、被害者を殺す前にたっぷり拷問して痛めつけるんだよ」
「知能が高いと、被害者を効率的に苦しめる?」
「ああ」
彼は微笑んだ。「イルカやサルもそうだろう? 頭の良い動物に共通の行動は、胸糞悪い虐待と強姦と育児放棄だよ」
――動物たちはもともと、知恵の実など食うべきじゃなかったんだろうね。どうせロクなことはしないんだ。
そうして。
イッショウは資料と写真集をパラパラとめくり、最後のページまで辿り着くと、引き出しにそれを挿入した。
ラッカのもとに封筒が返ってくる。
「これで話はおしまいかな? ラッカ」
それに対して、ラッカは姿勢を正した。
「話は終わりじゃない」
「へえ」
「お前が今まで喋ってたのは、事件現場を見たときに刑事がやる一般的なプロファイリングだ。特別な技術でもなんでもない。そんな話なら講習を受けた私だってできるよ。わざわざ人殺しの死刑囚の話を聞きに来るまでもないんだ」
ラッカは強化ガラスに手をかけた。
「秩序型? 無秩序型? そうじゃないだろ。
死体は爪を切られて、髪と体を綺麗にアルコールと水で洗われて、暴行後の性器も丁寧に洗浄されてるって話だった。
お前の手口といっしょだ。
犯人は知能が低いんじゃない、獣人としてニンゲンに対する強い攻撃性はあるが、アタマは悪くないんだ。
――なあ教えろよ。今回の『パンプキン・ヘッド』は誰なんだ?」
初めて、間宮イッショウは――パンプキン・ヘッドのオリジンは彼女の顔を見つめた。
真っ白な髪を後ろでひとつに束ねて、太い眉の下にある蒼灰色の瞳が獣の鋭さを纏っている。男顔、と言ってもいい精悍な顔立ちだった。
首から銀のドッグタグが下がっていて、反射光が彼女のための明かりになっている。
いい女だ。ニュースで見たとおりだ。真っすぐで、粘り強くって、つまり、壊し甲斐がある。こういう女の信念をヘシ折ってみたい、と彼は思った。
「死体写真の三枚目を見てみろ」
とイッショウは言った。
「左の足の裏にだけ僅かに傷があるだろ? これは抵抗とはなんの関係もない。その場所で何度も母親に踏まれてたから、思わず傷つけてしまったんだ」
赤の他人の女の体を使って、自分を傷つけた母親に対する復讐をしてるのさ。
「ラッカ=ローゼキ。このトラウマを抱えている獣人を僕はよく知ってる。――四番目に知り合った仲間だった。名前は、梅田ジュンイチだよ」
※※※※
ラッカ=ローゼキは独房前のパイプ椅子から立つと、廊下を歩いて元の場所に戻った。途中で、膝をつき両手を合わせて天井の豆電球に祈りを捧げている男がいた。
「なにしてんの?」
とラッカは訊いた。「そこに――なにがいて、どういうことを祈ってる?」
彼女の問いに、男はゆっくりと振り返った。
「いつもこうしてるんだ」
「どうして?」
「昔、小学校を襲って四人を殺した。当時はなにも感じなかったはずだが――ここに来て本を読み始めて、知識を得て、教会に申請して来ていただいた先生の話を少しずつ呑み込んでいると――自分のしたことが初めて恐ろしくなった」
「――へえ」
「刑が執行されるその日まで、やるべきことをやっておきたい。もちろん、奪った命が帰ってくることはないし――ご遺族への謝罪の手紙は、当然、全て突き返されたが」
そこで男は、初めてラッカの顔を見た。
「たとえこの世の誰にも許されなくても、真っ当に生きようと試みることは間違いだろうか?」
その言葉に対して、ラッカはなにも言えなかった。
――今そんな風に思えるなら、なんで最初から人間を殺したりしたんだよ。お前は人間なんだろ?
廊下の自動ドアが開いて、閉じる。黒井サワコと日岡トーリがタバコを吸いながら待っていた。
「お疲れ様、ラッカ」
とトーリは言った。「気分はどうだ?」
「二度とここには来たくない」
とラッカは答えた。「――頭がぐるぐるする」
黒井サワコが灰皿にウィンストンを落とした。「その心配はありませんよ、ラッカさん。お二人の会話は監視カメラ越しに録音済みです。ヤツは予想より早く模倣犯の名前を喋った。充分な成果です」
「――うん」
「で、トーリさん。間宮が喋った梅田某に狙いを定めるとして、いつ捜査の指揮権はあなたたちに移るんですか?」
「俺たちというより――」
トーリは顎に手を当てた。「事件の性質からして第五班の管轄になるだろう。スマホで報告はした。班長の笹山カズヒコの連絡先は先にサワコさんに渡しておくよ」
「――承知しました」
こうして三人は、あるいは、二人と一匹は東京拘置所をあとにした。
ラッカは独房を去る前、間宮イッショウと交わした言葉を思い出していた。
「もう行っちゃうのかい? オオカミ」
「ああ」
「ねえ、また会えるかな?」
「お前の告げ口が大ウソで、犯人が捕まらなかったらまた来るかもな」
「ウソはついていないよ?」
とイッショウは微笑んだ。「同類にはウソをつかないことにしてるんだ、僕はね」
その言葉は、思ったよりもラッカを揺さぶった。
「――同類!?」
「僕は人間でありながら、人間のまま人間を殺してきたが、ラッカ=ローゼキ、君は獣人でありながら、獣人のまま獣人を殺してる。
――同じだろ?」
ラッカは思わずあとずさった。
「お前と私が同類なわけない。
お前は、だって、自分の楽しみのためだけにニンゲンを殺しただけだろ」
「義務や使命で同族を殺すことに罪はないとでも?」
イッショウは手の指を絡める。
「たしかに僕は人間に恨まれてここにいる。でも僕が不自由なのは、単純に、今の世の中で人間のほうが有利だからだ。人間は自分たちという群れを守るために掟をつくって、柵を立てて、そこに僕のような異端者を放り込んでる。でもね、獣には獣の掟があるだろう? 君を恨んでいない獣人がいないことにはならないよ」
彼は黒髪をかきあげた。「君の思考が手に取るように分かるよ、ラッカ=ローゼキ。自分は人間の味方をしている、人間の世界で正しいことをしている、だから他の獣とは違うんだと思ってるね?」
「うるさい」
「――でも、君がもし正しいことをしているなら、どうして君はときどき眠れない夜を過ごしてるのかな? 目の下にクマがなくても寝不足の跡は僕には隠せないぞ。
当ててやろうか? 一ヶ月か二ヶ月か前に、君は、ずいぶんと同情に値する獣人をその手にかけている。いや、殺されるのを目の前で見ているだけだったのかなあ。同い年くらいの同性の獣人だった。そうだろ? ラッカ。
――そして賢い君は気づくんだ。
自分が信じている『人間の味方』って正義が、実は、とても危うい根拠のもとでしか成り立ってない事実にね」
「うるさいッ!! 頭のイカれた人殺しが!!」
ラッカが怒鳴ってデスクを叩いても、イッショウは少しも怯まない。
彼は人間だ。体力もない。なのに、彼女の目の前にはどんなケモノよりも厄介な存在に見えた。
彼はにったり歯を見せた。
「――イカれた獣殺しに言われたくないよ? ラッカ=ローゼキ――」
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