第11話 VS腐乱姫 前編その3


  ※※※※


 夜。

 紀美野イチロウは静岡県伊東市の西洋風旅館にベンツを止めた。スーツのネクタイをゆるめ、車を出てから後部座席のドアを開ける。

 既に着替えを終えた浅田ユーリカ、腐乱姫(ゴシシ=ディオダディ)も車を降りた。オオカミの獣人、ラッカ=ローゼキをお姫様だっこにした状態である。

 旅館の名前は「月光亭」。切り盛りしているのは、代表取締役社長の1人娘である伊波チカ。――既にイチロウの眷属である。

 つまり、ここが彼と彼の仲間たちのアジトだった。

 脅威度B級、分散型。血を吸った相手を自分と同じコウモリの獣人にできるのがイチロウの型である。元はと言えば、彼自身もまた、かつて吸血鬼のチトセに血を吸われてコウモリになった身だ。自分も同じことができると気づくまでに、半年もかからなかった。

 ――分散型がB級のなかで最悪と呼ばれる所以はここにある。たとえ本体が駆除されても、眷属が一体でも生き延びていれば、そいつが新しい本体になるのだ。

「ご主人のお帰りだ」

 とイチロウは言った。「さっさとメシを用意しろ。あとは捕獲したオオカミ女の着替えと首輪だ」

 彼の言葉に、ゴシック調のメイド服へ身を包んだ女たちが集まった。

 経営者のチカ。従業員のリコ。カナン。アリサ。ヨル。シュカ。ルチフェロ。クニキダ。マリ。――全員、イチロウの眷属である。

「直ちにご用意をいたします、イチロウ様」

「おう」

 彼は旅館に入ると、眷属たちをじっとりと見回し、やがてシュカの前で視線を止めた。

「食事のあと、身を整えて俺の部屋に来い」

「はい、イチロウ様」

 彼女は改めてうやうやしく頭を下げた。腐乱姫のもとにはルチフェロが駆け寄る。「腐乱姫様、オオカミ女の寝室は既に準備しております。どうぞこちらへ」

「はーい!」

 腐乱姫はニコニコと笑いながら、彼女にラッカ=ローゼキを預ける。そして、イチロウに振り返った。

「いっぱいなかまがいて、こうもりってすごいねえ? いちろうさんはたよりになるね!」

「だろう?」

 とイチロウは言った。

 ――電気をバリバリやるだけの脳筋女とはな、選べる戦略の質も幅も違うんだよ。お前はこの俺にお世話されながら鉄砲玉の戦闘要員をやってりゃいいんだ。

 そう思ったとき、

 ふと脳裏に、熊谷チトセの声が聞こえてきた。幻聴だ。

《また女の子に守ってもらってるの? ダーリン。相変わらず情けないね》

 黙れ。

《あたしの命令をペコペコ聞いてたときの姿、今のダーリンの部下に見せてあげたいなあ。きっとみんな幻滅しちゃうよ。ダサくてみっともない、命乞いしか取り柄のない使い走りだったんだってバレちゃうね?》

 黙れ、チトセ。

《あ、使い走りなのは今もいっしょか! あはは! ねえイチロウ、いいことを教えてあげよっか? 哲学者のアリストテレスが言ってることだよ。

 奴隷に生まれた人間は、生まれながらにして奴隷に向いてる。他の生きかたなんか最初からできない。

 ――身の程をわきまえず権力にすがりつく男がどうなるのか、見ててあげるね、可哀想なイチロウくん?》


「黙れ! チトセ!

 お前はもう死んだんだ!

 偉そうにしやがって、情けなくオオカミに負けたくせによお!

 もう俺はお前の指図を聞いてるだけの俺じゃない!! せいぜい地獄から見守ってやがれ!! 俺が裏王になるところをな!!」


 はぁ、はぁ――と息を切らしながら彼が幻影に怒鳴り散らしているのを、周囲の女たちは、

 ただ心配そうに見つめていた。


  ※※※※


 翌日。

 ラッカ=ローゼキの消息が途絶えた件で、警視庁獣人捜査局の緊急会議が開かれていた。

 第一班、渡船コウタロウ。

 第二班、志賀レヰナ。

 第三班、藤田ダイスケ。

 第四班、中村タカユキ。

 第五班、笹山カズヒコ。

 第六班、橋本ショーゴ。

 そして局長、渡久地ワカナ。

 壁際には各班の猟獣たち。

 ただしそこにイズナ=セトの姿はなかった。ショーゴの許可を得て、臨時訓練中である。

 全員が殺気立っている部屋に、遅れて入ってきたのが第七班班長の日岡トーリだった。

「体調はもういいのか?」

 とワカナが訊くと、

「ええ、ご迷惑をおかけしました」

 とトーリは頭を下げて椅子に座る。

「情けねえ」

 と藤田ダイスケは言った。「自分の獣が襲われてるときに寝込んでるなんてな。だから今どきの小僧は嫌いなんだ」

「返す言葉もありません。いかなる処分も甘んじて受けるつもりです」

 それに対して、

「処分?」

 と志賀レヰナが睨みつける。「ナマ言うな。てめえ一人が処分を受けて、どうこうなる問題じゃねえだろうが。

 形はどうあれ警視庁の猟獣が弓ひかれたんだぞ。今お前がやるべきは一秒でも早く証拠を挙げて、ナメ腐った獣人どもをブチ殺すことだろうが!! 違うか!?」

「――おっしゃるとおりです」

 トーリはズボンの膝を握りしめ、歯を食いしばりながら頭を下げ続けていた。

 沈黙。

 局長のワカナは腕を組んでから、

「現場は見てきたんだろう? どうだった?」

 と声をかけた。

 トーリは、彼女の言葉を受けて報告を始めた。

 ――現場は渋谷区の獣人捜査局官舎近くにある地下駐車場。夕方頃、監視カメラがラッカ=ローゼキと腐乱姫の戦いをログとして記録している。

 ただ、その記録は途中から奇妙な形で破損していた。

 腐乱姫が両手を挙げ、下げた瞬間に、駐車場全ての電気回路がショートしてカメラが故障したためである。

 そして復旧したころにはラッカの姿は消えていた。

「雷鳴型か」

 とワカナは言った。「過去に事例がある。射程距離内の電気系統を壊して、接触した生物の神経系もイカれさせる。初見殺しだな」

 ――超加速のオオカミならば、本来、初手で打ち倒せていたはずの相手だ。カメラの映像を見る限り、彼女は捜査を優先して致命傷を避けた攻撃をしている。そのあとの反撃でやられたんだろうな。

 ワカナがそう言うと、渡船コウタロウが手を挙げた。

「ワカナさん、それはオオカミを信用しすぎだろうよ」

「なに?」

「オオカミの娘さんは、正規の猟獣訓練を受けていない。いつでも人間を裏切る危険がある。であれば、敵の獣人に負けたフリをして意図的に捜査局のもとを去った――そういう可能性もあるだろう。

 万が一のことを見て、シルバーバレットによる射殺許可を今ここで事前申請する。見つけ次第、オレはオオカミが妙な動きをしたら即座に殺す」

 その意見を聞き、トーリは思わずコウタロウを睨む。しかしコウタロウのほうは椅子の背もたれに体を預け、無視を決め込んだ。

「なあ」

 と笹山カズヒコが言った。「コウタロウさん、その可能性は低い思うわ。もしラッカちゃんが人間を裏切りたいなら、夜牝馬のときにしとけばええだけの話やんか。

 あんときボクらはみんな死にかけてた。活動できてた猟獣はイズナとメロウとサビィ。みんな、ラッカちゃんが本気出して敵と組んでたらブチ殺されてたで?

 あそこで裏切らんくて、なんで今裏切るんや?」

「――獣も人と同様、心変わりくらいするものだろうさ」

 とコウタロウは言った。「夜牝馬のときは人を守る気でいたが、今は違うのかもしれん。

 ――トーリ。あれからラッカ=ローゼキについて、なにか彼女の気を変えるような新しい出来事があったか? 教えろ」

 そこで、班長たちの視線がトーリに集中した。中村タカユキはため息をつく。

 トーリは周囲を見回したあと、こう言った。

「三月末から四月半ばにかけて彼女は獣人研究所に滞在し、猟獣訓練についての事実を改めて知りました。人間と獣人がどういう関係にあるのか、その目で――」

 そこまで言ったあと、トーリはすぐ言葉を繋いだ。

「しかしラッカは、そのあとも我々人間のために活動しています。殺人ピエロのカニの獣人を倒したのは、そのあとのことです。

 ――俺はラッカを信じます。ラッカを拉致した輩はこの俺が捕まえます。そして、彼女が無実であることも証明します」

 彼が言い終えると、他の班長たちは腕を組んで検討のために黙りこくった。

 ほんの少しだけ空気が変わった。

 ――だが。

 第六班班長のショーゴが眼鏡の位置を直しながらトーリを睨んだ。

「『信じる』? お前は『信じる』と言ったのか?」

「――ああ、信じると言った」

「なにも分かっちゃいないな、お前ってヤツは」

 とショーゴは眼鏡の位置を直した。

「人間にとって猟獣は、任務遂行のための駒だ。ただの道具、武器、兵器にすぎない。無自覚かどうか、お前はそんな獣に過度に思い入れている。

 獣人は人類にとってただの敵。分かってるのか?

 洗脳なしに人間の味方をやれるオオカミのお嬢さんは面白い存在だがな、下らん感情移入はやめろ」

「ショーゴは自分の猟獣を信じてないのか?」

「ただのナイフを、信じるも信じないもない。使うだけだ。トーリ、お前はそこを間違えてるんだよ」

 ショーゴが凄むと、トーリはしばらく黙った。

 そして、ゆっくりと顔を上げた。

「でも、イズナさんはお前の信頼に応えたいと思ってるよ。だから、今ここにいないんじゃないのか?

 ――何度でも言うが、俺はラッカを信じてる。相棒だと思ってる。それについては、お前にとやかく言われる筋合いはないな。黙ってろ」


 ガン!


 と机を叩く音がした。それは、ショーゴの拳によるものだった。

「よせ」

 とワカナが言うまで、会議室では誰もなにも言わなかった。


  ※※※※


 昼下がり。

 ラッカ=ローゼキは「月光亭」の一室、柔らかいベッドのなかで目を覚ました。ゆっくりと体を起こし、傷跡や後遺症が自分に残っていないことから確認する。服は備えつけのバスローブを着せられていた。

 そして首には、鈍いシルバーカラーの幅の広いチョーカーが巻かれている。

 ラッカはその首輪に見覚えがあった。獣人研究所の地下牢で猟獣の候補たちに巻かれていた、シルバーリングと呼ばれる拘束具である。

「な、なんだ――これ」

 チョーカーと首筋の間に指の挟み込み、静かにいじっていると、

「それ、やめたほうがいいよ」

 という、浅田ユーリカの声がした。顔を上げると、

 昨日の夕方、自分と戦った浅田ユーリカ(腐乱姫、ゴシシ=ディオダディ)が純白のワンピースを着てドアの前に立っていた。その隣には、ゴシック調のメイド服を着たショートヘアの女が1人――カナンという眷属がいた。

「ほんものだよ?」とユーリカは首を傾げる。あまりに説明不足だと感じたのか、カナンのほうが言葉を補足する。

「そのシルバーリングは、現在、ニンゲンの暴力団が粗製乱造している劣化品ではありません。クロネコ派が宮城県獣人研究所に潜入し、最新の仕様を把握した上で作成した完全なコピーです。

 拘束者がスイッチを押すだけではなく、被拘束者の貴女が無理に外そうとしたり、事前に設定した射程距離の外に出たり、部分獣化・完全獣化・型の使用などを試みた時点で作動します。具体的には内蔵された極小式のシルバーニードルが貴女の首を串刺しにして、生命活動を確実に停止させます」

 カナンはそこまで言うと、フンと鼻を鳴らした。

「オオカミ女のラッカ=ローゼキさん、でしたか。

 貴女はA級獣人のようですが、警察という立場と、連勝による驕りのために、腐乱姫様に敗北したのです。無駄な抵抗は控えて頂けると助かります」

「え、ああ――うん」

 とラッカは言うと、自分の手のひらを見つめた。「そっかあ、私、負けちゃったのか。まいったな――」

 それからユーリカに視線を戻す。

「私を捕まえてどうすんの?」

 訊きながら、ラッカは少し相手を挑発してみた。「たぶんだけど、私に人質としての価値はないよ。ただでさえ猟獣の立場は低いし、私は事情も違うから都合よく切り捨てたい捜査員も出てくる。私を盾にしてなんか要求するなら、やめたほうがいいと思う」

 そう言いつつ、

 ――でも、トーリたちは助けにきてくれるんだろうな。無茶しなきゃいいけど。

 と思った。

 しかし、ユーリカの回答はラッカの予想外だった。

「けいさつに、ようきゅうなんかないよ?」

「え?」

「ゆーりかはねえ、おおかみさんとけっこんするの!」

 彼女はそう言うと、ラッカに駆け寄って抱きついてきた。

「おい、ちょっと!」

「だめ! にげないで! ていこうしたら、くびわのスイッチおしちゃう!」

 ユーリカはラッカの体を抱きしめ、しばらく撫でつけたあとでにっこりと笑った。


「かっこいいおおかみさん!

 あたしがあそんでも、こわれなかった! しななかった!

 すき! すき! だいすき!

 ――ここで、ずっといっしょにくらすの! おようふくもいっぱいきせてあげる! たべものも、いっしょにたべようね!

 それから、それから、えっと、けっこんしきで、おとうさんをよぶの!

 あたしのからだがよわいから、おとうさん、ずっとしんぱいしてて、はなよめすがたをみたかったって。

 だからね、おとうさんのまえで、おおかみさんと、けっこんしきをあげて、ちゃんと

『いままでそだててくれて、ありがとう』

『だいすき』

 っていってあげるんだあ!」


 ユーリカはそう朗らかに笑った。まるで、もうずっと叶わないと思っていた夢がとっくに叶ってしまったかのような笑顔だった。もちろん実際には、彼女の父親・浅田ユキヒトは彼女に殺されて、既にこの世にいないのである。


  ※※※※


 同時刻。

 東京都の豊島区立図書館で将棋雑誌を読んでいたシュドー=バックは、部下の紀美野イチロウからの着信を受け取った。通話可能スペースに行くと、スマホのボタンを押した。

 顔と体中にタトゥを入れた薄着の男だ。

「どうした? イチロウ。人造獣人とオオカミは無事に戦わせたか?」

《はい》

「ほお――勝ったのか? 報道はなにもないが?」

《勝ちました。現在はこちらのアジトにて、シルバーリングをつけて問題なく収監しています。この後の処遇をお伺いしたく、連絡した次第です》

 それを訊くと、シュドーはゆっくりと息を吐いた。

「はあん――クロネコ殿の読みどおりってわけか」

《ええ?》

「なんでもねえよ。下っ端のテメエが知ってどうこうなることじゃない」

《――はい》

「目的のオオカミはクロネコ殿が回収に行く。それまでは館から動かすな、いいな。人造獣人が妙な動きをしたらお前が始末しろ、分かったか」

《承知いたしました》

 紀美野イチロウはそう答えたあとで、

《クロネコ様にとっては、オオカミは、とても大切な存在なのですね? わざわざこんな風に捕獲命令を出すなんて、よほどのことだ》

 と言った。

「なにが言いたい?」

《いえいえ。ちょっとした確認ですよ》

 彼はそう答えてから《諸々把握いたしました》とだけ回答した。そうして、通話は終わった。

 シュドー=バックはスマートフォンを画面ロック状態にした。

 ――あいつがなにを企んでるのかは分かってる。どこかのタイミングでオオカミ捕獲を己の手柄として、幹部クラスの会合に顔を出そうという魂胆だろう。それは別にいい。

 彼は図書館を去りながら、クロネコからの命令を思い出していた。

《そろそろオオカミには、いちど戦いに負けたという経験が必要だと思うんだ、シュドー=バック。お前の部下になったイチロウを使って、フランケンシュタインの怪物と狼人間と戦わせろ。

 そうすれば、あのオオカミはもっと強くなる。もっともっと、計画に相応しい存在になるよ》

 彼の言葉を思い出し、シュドー=バックは歩きタバコをしながら街に踊り出た。


  ※※※※


 それからラッカは、獣人捜査局の誰かが助けに来るまでの間、ユーリカの結婚生活ごっこに付き合わされる日々を送ることになった。

 昼間のうちは、月光亭にある様々な服を着せられた。

 黒ネクタイを合わせた高級スーツ。なかにチョッキ。足元はエナメル質の靴。ユーリカは「かっこいい~!」と歓声を上げた。

 次にだぼだぼの白衣。オモチャの聴診器を首から下げながらカルテの板らしきボードを小脇に挟み、ユーリカの手を取りつつ、膝をついて目線を合わせる。「どんな病気でも治してみせますよ、お姫様」とラッカが台本どおりに言うと、「わあい!」とユーリカは心底嬉しそうに転げ回った。

 次に警官の制服。いや、一応本当に警察なんだけどなあ――と思いながらラッカが袖を通したのは、交番勤務の巡査制服だった。「君を脅かす悪者は必ず俺が逮捕するよ、プリンセス」とラッカが台本どおりに言うと「うれしい! いっぱいまもって!」とユーリカは顔を赤らめながら身をよじっていた。

 次にパイロットの制服。「安全なハネムーンの旅を保証いたします、お嬢さん」「おきなわ! ねえねえ! おきなわいきたいなあ!」

 次に教師の制服。「駄目じゃないか、こんなにテストの点が悪い子はおしおきが必要だよ?」「せんせえ、ごめんなさい、いっぱいいのこりします――おしおきしてください」

 次に海賊の(は? 海賊の? なんでそんなもんがホテルにあるんだよ!)コスプレ。「嬢ちゃん、テメエは頭のてっぺんから爪先までオレ様のもんだ――せいぜいこの旅に死ぬまでついてくるんだな?」とラッカが台本どおりに言うと「は、はい――どこまでもつれていってください――」とユーリカは瞳をときめかせた。

 次に中東世界の王様のコスプレ。「娘、有無は言わさんぞ。我のモノになれ」「はっ、はいい――!」

 次に北欧神話の神様のコスプレ。「貴様は人の世で生かしておくのは惜しい。余のそばにいて、永遠を過ごすのがふさわしいだろう」「ああ、かみさま、かみさまにはさからえません――!」

 次に平安時代の貴族のコスプレ。「ささ、ちこうよれ。麗しきそなたを歌に詠んでみた。その暖簾を開けて顔を見せるがよい」「は、はい、さだいじんさま――!」

 次にエセ中世の騎士のコスプレ。「姫をお守りするのが我が本懐。どうか此度の参戦を命じてください」「だめえ、だめえ! しなないでえ――!」

 ――――。

 ――――。

 なにこれ? 意味わかんねえ、とラッカは思った。

 ラッカはユーリカから離れて廊下に出ると、「うああああ」と息を吐く。エセ中世時代の甲冑? とっくに脱いだよそんなもん。

 ――どうしよう、なんかよく分かんないけどすげえしんどいぞ! なあトーリ、早く助けに来てくれ! このままだと私、色々ダメになる――! 今までのどんな訓練とか戦いよりも辛い――!


 そうして温泉に入り(いっしょのユーリカに念入りに体を洗われた。もう感情を無にしてやり過ごした)、夕食の席に着く。

 ユーリカだけではなく、メイド服の眷属たちと、紀美野イチロウもいっしょだ。

「きょうのごはんも、とってもおいしいんだよ! おおかみさん!」

 とユーリカは微笑んできた。「つくったの、だれだったっけ?」

「――私でございます、腐乱姫様」

 そう答えたのはアリサだった。「人間時代の経験を活かして、お二人の門出にふさわしいディナーを準備中でございます。本日はアミューズの盛り合わせに、帆立貝柱と季節のお野菜のマリネ、それに白子のソテーのリゾット添えと、朝市からの鮮魚を私なりの調理法で。メインの肉料理は、黒毛和牛A5ランプ肉のステーキを赤ワインソースで仕上げてあります。

 ああ、もちろん、デザートと小菓子もご用意してございますので、どうぞお楽しみに」

 そこまで言うと、アリサはふっと笑う。片目が茶髪で隠れている、背の低い細い女だ。

「ふーん」と思いながら、ラッカはトーリから教わったテーブルマナーで料理を食べ続けた。ただ、

 ――これなら、女子寮でいつもみんなと食べてる適当な野菜炒めのほうが、ずっとおいしいや。

 と思った。

 どうしてニンゲンは、そんなに美味しいわけでもない料理や、そこまで着心地のよくない服に、お金をいっぱい払うんだろう。そういうことも、人間の世界についてたくさん勉強したら分かるのかな。

 分かったほうが、いいことなのかな。

 そして皿が片づけられたあと、ラッカは月光亭のベランダに出て煙草を吸った。ハイライトを買いに外には出られないので、紀美野イチロウからのお下がりである。

 イチロウは隣に立ち、ラッカに火を貸してから自分も煙を吸った。

「腐乱姫の精神状態が落ち着いてる。もう寝ちまったよ、お前が来てからは見事に静かなもんだ」

 とイチロウは言った。「妙な真似は起こすなよ、オオカミ女。お前はクロネコのお気に入り。つまり俺の取引材料だ。もっと上に行くための――な」

「上って?」

「俺はかつて、そこそこの宗教団体で権力争いに競り勝ってたんだ。それをメチャクチャにしたのがお前だ、オオカミ。――俺を獣人に引きずり落とす代わりに出世を約束してくれたチトセ、あのカス女を、テメエが容赦なく殺しちまったんだからな」

 イチロウがそう言うと、ラッカも遅まきながら事情を呑み込んだ。

「チトセの――あの吸血鬼の眷属なのか?」

「ああ。でも今はこの俺が本体だ、今はな」

 とイチロウは笑う。「テメエに恨みはある、が、あの生意気なクソ女を殺したことには感謝してる。だから、今もお前をこうやって生かしてやってるんだ。クロネコ殿との関係だって、俺のほうが上手くやれるんだぜ?

 今に見てろよ、また返り咲いてやる。

 俺にはフランケンシュタインの怪物と、あのコウモリのバカ女が押しつけてきた力があるんだ。こんなところで終わってたまるか」

 ク、ク――とイチロウは肩を震わせる。

 ラッカはそれを見て、なぜか黙っていられない。


「チトセのことを悪く言うのはやめろよ」


「ああん?」

「あいつは悪モンだったけど――平気で人を殺す、酷い奴だけど――それだって、お前が言うそのヤバい宗教のせいだろ。それがなかったら普通に生きられたかもしれないんだ。お母さんとだって、上手くやれたかもしれないだろ?

 なんていうか、そういうのをクソとかカスって、言うなよ。私は言いたくない」

 ラッカがじっとイチロウの目を見ると、彼のほうは真顔で黙ったまま、やがて、痙攣したかのように体中を震わせながら大声で笑い始めた。

「――あ、ハハ、ハハハ! こりゃあ大した傑作だ! あのゴミみてえなコウモリ女に同情してんのかよ! あいつは本当は良い奴だったんだ、可哀想な女なんです~ってな!」

 それから、ラッカの首にあるシルバーリングを見つめると――なんの躊躇もなしに、イチロウは彼女の顔を思いきり殴った。

「がっ!」

 と声を上げて、ラッカはベランダに倒れ込む。

「テメエは呑気にニンゲンの味方ごっこしながら、なんで獣人にも同情してんだ!? ああん!? 本当にチトセを可哀想と思うなら、なあ、テメエが大人しくチトセに殺されてやればよかっただろうが!!

 ――俺はなあ、チトセみてえな高慢ちきな、自分を男と対等だと思い込んでる女も嫌いだが――オオカミ女よお!! テメエみてえなアタマの悪い偽善者が、いちばんハラワタ煮えくり返るぜ! ボケがぁッ!!」

 そして、ラッカの体を蹴る。

「がは――!」

「くそっ! くそっ! どいつもこいつもぉ! 俺を見下しやがって! 俺を見下しやがって! 俺を見下しやがって!! オオカミ女は今は俺のモンだろうが! 今は俺が強いだろうが!!」

 イチロウがチンケな暴力を振るい続ける間、ラッカはシルバーリングのせいでなんの抵抗も許されなかった。

 そんな風にイチロウに蹴り上げられながら、ラッカは目をつぶった。


 ――ごめん、トーリ。

 私は、今は戦えない。早く助けにきてくれ――。

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