第11話 VS腐乱姫 前編その1


  ※※※※


 半年前。埼玉県鴻巣市。

 浅田ユキヒトは、禿げ上がった頭に残るわずかな髪を整えながら、外科手術室によく似た地下実験場で最後の手順確認を行なっていた。

 蛍光灯の明かりが強いせいで、手のひらにべっとりと汗をかいている。

 ――手術台に横たわっているのは、娘の浅田ユーリカだった。正確には、一週間前に難病で死んだ彼女の死体である。

「安心しろよ、ユーリカ」

 とユキヒトは呟いた。「父さんが必ず生き返らせてやるからな。たとえ法に背いても、神の掟に逆らっても、お前のことは甦らせてやる。なにを犠牲にしてでも我が子の命は救ってみせる。――おれには、その力があるんだ」

 それから手術台の隣にある、培養液でパンパンになったガラスのボトルを見つめた。そのなかに漂っているのは獣人核である。

 獣人核。

 あらゆる獣人の心臓、もしくは脳の近くにあって、ヤツらの異常な肉体能力・再生能力・型を司る神秘の器官。ユキヒトはその一つを非合法なルートで入手していた。

 彼は手順書を改めて確認する。

「ユーリカの心臓近くに獣人核を移植する。そして、獣人核が壊死する前に高圧電流を流す――癒着した獣人核がユーリカの死体を蘇生して、生き返らせる」

 ふーっ、と、ユキヒトは息を吐いた。

「『人造獣人』、その実験第一号だ。なあユーリカ、成功してくれ。もう父さんを一人にしないでくれ――!」


 施術が終わった。途中、ほとんど雷鳴に近い音が実験場に響き渡ると、家屋全体のブレーカーが落ちて、地下は真っ暗になってしまった。

 慌ててユキヒトが電気経路を復旧し、ユーリカのもとに戻ったところ、

 ――死体が目を開き、ゆっくりと、静かに呼吸をしていた。

「ユーリカ!?」

「お、とうさん」

 ユーリカは裸の上半身を起こす。胸にはまだ、獣人核を移植した際の縫合の跡があった。だがそれを除けば、彼女は死ぬ前の、ユキヒトの娘そのものだった。

「ユーリカ! ユーリカ! ああ、成功したのか!」

「おとう――さん?」

「ああ、そうだ、そうだよユーリカ!

 お前のお父さんのユキヒトだよ! よく生き返ってくれた! 獣人核があるから、今のお前は日本では獣人扱いだ。この家からは出られないが、我慢してくれよ――」

 そんな風に呼びかけながら、ユキヒトは涙を流す。

「なあ、見てるか日岡ヨーコ。日岡レンジ。君らが中止した人造獣人プロジェクトは、このおれが成功させた! 娘を現世に留めたいと願うこのおれの、おれの祈りの力だ! 見てるか!! あの世から見守っていてくれ、日岡ヨーコ、レンジ!

 学会から追放されたって、おれが獣人科学を進歩させてやる――いつか人間と獣人が、細胞レベルで和解する日が来るさ、ハハ、ハハハハハ!!」

 そんな浅田ユキヒトを、蘇生したユーリカはキョトンとした顔で見つめていた。

「おとう、さん」

「? どうした、ユーリカ」

「おとうさん、あそぼ、あそぼ」

「ん? なんだ、参ったな。精神年齢はいくらか後退しているようだな」

「おとうさん、すき! すき!」

 ユーリカは――ユーリカの死体は、ガッ、と、勢いよくユキヒトの頭部を掴んだ。

「な――!? どうした、ユーリカ!! なにがしたいんだ!?」

「おとうさん、ひさしぶり、うれしい! おとうさん、あそぶ! おとうさん、あたま、つかみやすくって、やわらかい!!」

 ユーリカは、ただ無邪気に父親の頭蓋骨を両手で握りしめ続けた。

「よせっ――!! やめろ、ユーリカ――!!」

「おとうさん、あたし、しょうらいのゆめ、ある! およめさんになって、すてきなだんなさまと、しあわせにくらすの――! おとうさん、ね、おとうさん、だんなさまっていないの? だんなさまも、つくってよ?」

 ユーリカは無邪気に笑いながら、そのまま力任せにユキヒトの頭部を破壊した。頭蓋骨が割れ、血液と脳漿が飛び散ると、圧力に負けた眼球がスポンと床に転げ落ち、鼻と口から新鮮な血が溢れる。

 それを見ても、しかし、ユーリカは自分の父親が死んだことに気づけなかった。

「おとうさん、おもしろい! おめめ、すぽん! すぽんってしたあ!」

 おとうさん! おとうさん! なんでうごかないの?

 ね、あたし、だんなさまがほしいなあ! おとうさんつくってよお! おとうさん! おとうさん――?

 ユーリカの死体は、史上初の人造獣人として、地下室で虚ろに笑い続けていた。


 ――彼女をクロネコが利用しようと思ったのは、数週間前のことである。


  ※※※※


 そして、現在。

 東京都の外れにある龍王寺。その本尊前で、イズナ=セトは座禅を組み座っていた。黒の袴姿に橙色の帯を合わせている。

 カコン、と、ししおどしの音が鳴った。

 彼女の前には、頭を綺麗に剃り上げた60代の僧侶が数珠を片手にして立ちはだかっていた。

「猟獣訓練を終えてからしばらく顔も見せんと思っていたら、昨日の今日でいきなり現れて『ゼロから鍛え直してほしい』とはなあ」

 と男は言った。

「いったいどんな心境の変化があった? イズナよ」

「師範」

 とイズナは目を開いた。「ここ最近は任務に追われて挨拶をおろそかにしていたこと、まずは謝罪させてください。

 ――その上で、直近の仕事で気づいたことがあります」

「ほう?」

「それは、私は弱いということです」

 イズナは、きゅっと唇を結んだ。「この間は、A級の獣人を相手に手も足も出ませんでした。それに、新人のオオカミにも遅れを取っています。今のままでは、私はショーゴさんの道具には相応しくない」

 彼女の目は鋭かった。うなじを刈り上げた、くすんだおかっぱの茶髪。猜疑心の強い三白眼。身長は159cm。

「またあの人の隣に自信を持って立てるように、私を殺す気で鍛え直してください。

 ――お願いします」

 そう言うと、イズナは畳の上で深々と頭を下げた。僧侶はため息をついて、少し歩く。

「イズナよ」

 と彼は言った。

「頭の良いお前なら薄々は気づいているだろうが、改めて言っておくぞ。

 ――警視庁獣人捜査局第六班班長、橋本ショーゴに対してお前が抱いてる感情は、お前の心の底から生まれた自然のものではない。猟獣訓練のなかで獣人研究所が植え付けた偽物の慕情だ」

「存じています」

「自分本来の感情ではないのに、それに殉じる気か?」

「構いません」

 とイズナは答えた。「そんな風にショーゴさんを想える自分の感情を、嬉しいと感じられるから。たとえ偽物の恋の心だとしても、私はそのために生きてそのために死ねます。

 ――問題は、それに見合う強さが私にあるかどうかだけなのです、師範」

 彼女の言葉を真正面に受け止めながら、僧侶は、ゆっくりと本堂の隠し戸を開けた。

「――血反吐を撒き散らすことになるぞ。強くなりたければ、ここから生きて帰れるとは思うな」

「ええ、もちろん。覚悟の上です」


  ※※


 龍王寺の駐車場に、橋本ショーゴは車を止めていた。青色のレクサスRXである。

 胸ポケットのスマートフォンに連絡が届いた。『修行の許可が下りました。しばらくの間戻りません』とのことだった。

「イズナから報告が来た。ここに残るそうだ」

 とショーゴは言った。「おれたちはさっさと帰るぞ」

「えええ!」

 と、後部座席にいた西城カズマが声を上げた。「イズナちゃんと絡む機会、またオアズケかよ~!?」

「今は案件もないし、あいつが強くなりたいと言ってるんだ。やらせてやれ」

 それに対して、西城カズマの隣にいた白石ルミネも手を挙げる。

「イズナちゃん、大丈夫かなあ? なんか思いつめてないといいけど」

「思いつめる? なにを?」

「だってイズナちゃんって、ショーゴ班長のことラブでしょ?」

 とルミネは言った。「ここ最近の任務で、ショーゴさんを助けられなかったこと気にしてるんじゃないかなあ。女の子としてさあ。班長、そういうケアってちゃんとしてる?」

「? なんの話か分からんな――」

 そう答えると、ショーゴはゆっくり車を動かした。

「猟獣が野良の獣人と違って人間様の味方をやれるのは、獣人研究所が猟獣訓練のなかで心をいじってるからだ。イズナも例外じゃない。

 ――その結果、仮にイズナがおれについて妙な勘違いをしてるとしたって、そんなものはおれの知ったことじゃないんだよ」

 車はすぐに大通りに出て、アクセルに従ってスピードを上げていった。

「えー」

 とルミネは言った。「ショーゴさん、でも、それって酷くない? イズナちゃんの気持ちとか考えたらさあ、もっと優しくしてあげてもいいと思うけど」

「なあルミネ」

 とショーゴは無愛想に言った。「お前はまだよく分かってないみたいだから、言っておいてやる。

 ――人間と獣人は決して分かり合えない。獣人が洗脳のお陰でこっちに媚びてるように見えても、余計な同情はやめろ。牧羊犬を恋人にする羊飼いがいるか?

 あいつらは本来、全て例外なく駆除対象だ。道具として使い捨てて、名前は忘れる。それが正しい選択なんだよ」

 そう吐き捨てると、ショーゴはハンドルを回して角を曲がった。


 ルミネは「じゃあ、オオカミにも同情は要らない? あの子は洗脳されてない!」と言おうとして、無意味だと悟ると、途中で言葉を打ち切った。


  ※※※※


 同時刻。

 ラッカ=ローゼキは、夢のなかで日岡トーリに迫られていた。

 どこの部屋に自分たちがいるのか分からない。たぶんトーリの部屋という設定なのだろう、ラッカはその壁に追い詰められ、彼の腕に逃げ場を塞がれていた。カーテン越しに夕日が差して、薄暗い空間をぼんやり照らしている。

「トーリ――?」

「ラッカ、ごめんな」

 とトーリが言った。「ラッカの気持ちに、俺はもっと早く気付くべきだった。これじゃあ遅すぎるな」

「なっなっなっ、なにがっ――!?」

 汗が出る。心臓がバクバクして、息が苦しい。なのに体は逃げられない。逃げようと思えばいつでもできるはずなのに、体に力が入らなかった。

「ラッカ――」

 トーリの指がラッカのあごを優しく掴んだ。くい、と上向きにさせられる。トーリの背はラッカの171cmよりも13センチほど高い。その大きさと、肩幅の広さを彼女は改めて感じていた。

 顔が近い。

「トーリ」とラッカは言った。「私、まだ子供って言われたんだよ。だから、まずは大人にならなくちゃ。こういうことはしちゃダメなんだって、みんな言ってるんだ――だって、ニンゲンって、そうなんだろ?」

「そうだな」

 トーリとラッカの鼻の頭が、こすれるくらいの距離にあった。

「だから、これは誰にも内緒だ」

 そうして、唇と唇が重なる。

「ん! んん――!?」

 思わずラッカは目をつぶった。

 獣人は人間体の時点で、人の倍以上の力がある。本当に嫌だと思うなら彼を突き飛ばせばいい。簡単だ。なのに今このとき、自分の両腕に少しも力が入らないのをラッカは感じていた。

 抵抗できないんじゃない、したくないんだ、とようやく思った。

「トーリ」

 ラッカはトーリの背中に手を回す。

「いいよ――?」

「ああ」

 と答えながら、トーリはラッカをベッドに押し倒した。

「最初からそのつもりだ」

「――うん」

 そうして彼のゴツゴツした手が、彼女のジャケットを脱がし、ズボンのベルトに手をかけた。

 ――そのタイミングで、彼女は夢から覚めて昼寝から起き上がった。

「へ――!?」

 ラッカは天井を見上げる形で、女子寮、自分の部屋のベッドに横たわっていた。

 宿題を終えたあと本を読みながら眠くなってしまったらしい、枕元に『僧正殺人事件』の文庫版が転がっていた。

 寝汗がひどい。首まわりと両脇がべっとりと濡れていて鬱陶しかった。

 それからラッカは、さっきまで自分が見ていた夢のことを思い出した。

 トーリ。トーリに壁際に追い詰められて、キスされて、押し倒されて――。

「うあああ!

 なにヘンな夢見てんだよ、私――!」

 頭を抱えてベッドの上でバタバタと両足を暴れさせながら、なんとか恥ずかしい気持ちを追いやる。


 部屋のドアがノックされ、警視庁獣人捜査局第七班副班長、仲原ミサキが入ってきた。豪華客船で負った怪我は全て治ったらしい、もう松葉杖もギプスもなかった。

「夕飯、下にあるから」

「あー、うん」

「なんかうなされてた? 声、聞こえたけど」

「いっ、えーと、なんでもない! 大丈夫!」

 ラッカは慌てて作り笑いを浮かべ、ミサキが出て行ったあと、とりあえず着替えだけしてから女子寮一階の食堂に向かった。

 第七班の仲原ミサキ、田島アヤノ、そして第六班の白石ルミネは揃っている。あとは訓練学校の生徒だ。

「あれ? イズナは?」

 とラッカは首をひねった。「イズナはいないの?」

「イズナちゃんなら特別訓練だよ~」

 とルミネが答えた。「もっと強くなりたいんだって。真面目だよねえ?」

「へえ――」

 ラッカは頷きながら椅子に座った。

 ――よく考えたら、私、イズナとあんまり仲良くなれないまま今まで来ちゃったよなあ。任務が一緒だったこともあるし、スパーリングもやってるのに。

 ラッカは、研究所で出会った住吉キキの言葉を思い出していた。

『キミは他の猟獣とは違うんだ。自分が例外だという自覚をもっと持ちたまえ』

 うーん。

 そうなのかな。本当に私はイズナたちとはぜんぜん違うのかな。なんかピンとこないや。

「どうしたら、イズナともっと仲良くなれるのかなあ」

 そう言うと、

「ラッカちゃん、イズナっちと仲良くなりたいの?」

 とルミネが訊いてきた。「難しいよお。ルミネちゃんもけっこう付き合い長いけどね、イズナっち、こっちに心開いてくれる感じじゃないんだもん。――猟獣って、そういうもんだって言うけどさ」

「そっか――」

 ラッカは頷くと、焼き魚を箸で捕まえて、そのまま丸呑みするように口のなかに運んだ。ぶちっ、と、尻尾のあたりで噛み切り、何度か咀嚼して細かい骨を噛み砕きながら、胃の中に流し込む。

 アヤノのほうはタクアンをポリポリと食べながら話しかけてきた。

「ラッカちゃん、明日は予定なんだっけ?」

「トーリと実地訓練」

 とラッカは答えた。「今度は帝国劇場でミュージカル見るんだってさ。えーと、なんだっけ? 『その銀の食器は私があげたものですよ』って台詞」

「あー、レミゼね?」

 とアヤノは笑った。「どんどん人間になっていくね、ラッカちゃん」

「――えーと、うん」

 ラッカは白米をかきこみながら、少しだけ考え込んでしまった。

 ――私、どんどん人間みたいになってるのかな。でも、本当は人間じゃない。他の猟獣とも違うって言われた。

 じゃあ、私はなんなんだろう? イズナはこういうの悩んだりしないのかなあ。

 そして彼女は、吸血鬼のチトセの言葉を思い出していた。

『オオカミちゃん面白いね。人間としての情緒が芽生えて、なのにそれを言語化できない』


 そして翌朝、トーリとの実地訓練は急遽中止になった。

 警視庁獣人捜査局第七班班長、日岡トーリが、季節外れの風邪をこじらせたのか高熱にうなされて倒れたためである。

 メッセージが届いたが、さらにミサキからも話があった。

「副班長の私にも連絡が来たよ。ここ数年はバカみたいに徹夜してもピンピンしてたくせに、ちょっと働きかたを緩めたらいきなり倒れちゃうなんてね」

「そんな――!」

 ラッカの動揺を察して、ミサキは言った。

「ここだけの話だけど、トーリくん、けっこう無茶な任務のこなしかたをしてたんだよ。任務のない日は、他班や所轄の事件にも首を突っ込んだりしてたんだ。

 ラッカが来て猟獣運用に追われるようになってから、少しマシになったと思ったけど。

 まあ、今まで疲れ果ててた体がようやく悲鳴を上げられるようになったってところかな」

 そんなミサキの話を聞きながら、ラッカはすぐにライダースジャケットを羽織っていた。

「トーリのマンション、どこにあるの?」

「行く気なの?」

「相棒が病気なんだから、やれることは全部したいよ」

 そうして彼女は女子寮を出ると、住吉キキから受け取った改造バイク(Wolfish Darkness)に跨った。速攻でアクセルを全開にする。

「待ってろよトーリ。薬と、スポーツドリンクと、あとゼリー食品か? ぜんぶ買っていくからな」

 女子寮に面した大通りを、バイクが走っていく。ラッカはフルフェイスメットのバイザーを閉じながら、少しでも早く彼のもとに辿り着きたい気持ちをなんとか抑え込んでいた。

「あー、もう!」

 とラッカは叫んだ。「なんだよ風邪って! ニンゲンってなんでそんなに弱いんだ!」

 アクセルを回して、彼女はさらに速度を上げた。


 そして、渋谷のマンション前に彼女はバイクを停めた。1Fのコンビニで、必要なものを買い揃える。

「トーリ? いま近くまで来てるよ。入っていい?」

 とチャットツールでメッセージを送ると、

『すまん、ありがとう。

 この建物は警視庁獣人捜査局の官舎のひとつだ。関係者は顔認証システムでそのまま入れる。部屋番号は1801』

 と返信が届いた。

「了解」

 ラッカはスマートフォンをジャケットにしまい、エントランスホールからエレベータに乗り込む。途中、ホテル然としたコンシェルジュサービスの男たちと目が合った。

「お疲れ様です。ラッカ警部補」

「えっ、ああ、うん。お疲れ~」

 いきなり階級込みで呼ばれて、面食らう。

 猟獣は正規運用が決定した時点で、人間の警察社会におけるそれなりの立場を貰うことになる。

 普段は獣人捜査局のなかでのみ行動するため、意識の外にあることだが、その気になれば単独行動で、下っ端のお巡りを顎で使う程度の権限は与えられているのだ。もっとも、そんなことを実際にしているのは、第二班の志賀レヰナとその専属猟獣クダン=ソノダくらいだが。

 ――改めて呼ばれると、慣れないよなあ。

 そうしてラッカは、トーリが寝込んでいる1801号室の前に立って、鍵が開くのを待った。

 緊急事態だからだろう。日岡トーリの部屋に、というか、人間の男の部屋に入るのは初めてだということを、彼女はこのときすっかり忘れていた。


  ※※※※


 玄関でミリタリーブーツを脱ぎ、リビング・ダイニングルームを通過する。テーブルの上もソファの上も綺麗だった。

 本棚に収められているのは獣人科学関係の専門的な学術書とビジネス上の実用書。そして、いくつかのサスペンス系フィクションのペーパーバックだ。折り目のようなものはない。

 マスタールームのドアをノックし、なかに入ると、日岡トーリはベッドの上で息切れを起こしながら横たわっていた。

「トーリ」

 思わずラッカは駆け寄る。「来たよ。大丈夫?」

「――ラッカか」

 とトーリは目を開けた。汗が酷いらしくて、前髪がぺったり額に貼りついている。顔も赤い。服は無地のTシャツにジャージだった。

「ごめんな、今日は実地訓練の日だったのに。劇場に連れていけなかった」

「そんなのいつでもいいよ」

 ラッカはコンビニのビニール袋を床に置いた。「これ、弱ってても口に入れられるもん買っといたよ。ちゃんと胃のなかに収めといて」

「ああ」

 トーリはそのまま、天井をぼんやりと見つめていた。

「こんなこと相棒にさせて、ザマないな。すまん。体調管理には気を遣ってたつもりなんだがな」

「気なんか遣ってないだろ」

 とラッカは言った。「ミサキから聞いたよ。私が来る前のトーリは、平気で徹夜もして無茶な働きかたをしてたんだ。その無茶が今になって響いたんだって言ってるよ」

「そうか――」

「自分をもっと大事にしろ、バカ。トーリは第七班の班長だろ」

 とラッカが声を上げると、トーリはほんの少しだけ目を見開いて彼女を見つめた。

「――悪い。気をつけるよ」

「本当だな? 本当にこれからは気をつけるな?」

「ああ。もう、余計な心配はかけないようにする」

「よし」

 ラッカは立ち上がった。「その言葉、忘れんなよ。私たちは相棒なんだからな」

「ああ」

 トーリは少し苦笑いを浮かべたあと、「食いもん、ありがとな。あとで大事に食べる」と言った。それからラッカのほうに振り返ると、

「部屋の本棚、読みたいものがあったら好きに持っていってくれ」

 と言った。

 ラッカはトーリが寝静まるのを待つと、先ほどの本棚の前に立った。

『獣人犯罪心理学入門 ――獣人の異常行動を暴く五つの凶悪事件』

『哲学者とオオカミ』

『獣人捜査ガイドブック ――獣たちの足跡を辿る50のレッスン』

『獣人科学の教科書[第2版] ――シルバーバレット以前・以後のパースペクティブ』

『獣と主権者』

『獣人倫理宣言序説 獣たちの権利のために』

『狩人のメソッド』

 そして、日岡レンジ・日岡ヨーコ共著、ブルックス研究会編集協力『シルバーバレット開発の歴史』がそこにはあった。

 ――日岡レンジ? 日岡ヨーコ? トーリと同じ名字じゃんかよ。

 ゆっくりとハードカバーを抜いて、ぱらぱらとページをめくる。白黒の写真で、白衣を着た夫婦がそこには写っていた。

 序文はこうだった。

《我々は獣人の脅威を克服するべく、銀の弾丸を生み出した。それは獣人駆除の効率を劇的に向上し、さらに、猟獣訓練制度の安定に貢献してきた。

 人間はこれまでに幾度も自然の災厄を乗り越え、これを征服したのである。獣人という新種の登場にも、必ず、同じように勝利するだろう。

 いや、そうしなければならない。でなければ、支配され滅ぼされるのは我々人類なのだ》

 ラッカは思わず本を閉じた。

 ――トーリの家族は、昔から獣人関係の仕事についてたってことか。それで、トーリも狩人の仕事についてる、ってこと?

 振り返ると、渋谷区の物件としては大きめの2LDKの間取りがラッカの目に入った。部屋には写真の類はなにもなかった。ひとつだけ、靴箱のうえに伏せられたフォトスタンドを見つけたが、裏返してみると、何もない空っぽの台木があるだけだ。

 違和感。彼女はそれを覚えた。

「この部屋は、人間の男が1人で暮らすには広すぎる。きっと、トーリは誰かと住もうとして、でもその相手がいなくなって、だから独りでここにいるんだ――」

 適当にハードカバーの本をひとつだけ選んで小脇に挟んでから、ラッカはトーリの寝室をもういちど訪れた。

 彼は眠っている。そのまつ毛が長いことに、ラッカは初めて気づいた。


「トーリ。――私と会うまでに、トーリになにがあったんだ?」

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