第10話 VS鋏道化 後編その3


  ※※※※


 辻トモコ(トレコトレマータ=プラチュラ)は、壁に打ちつけられたまま動かなかった。ラッカは、アームチェアに手錠で繋がれた小澤光に視線を向ける。

少年は、涙を流しながら顎を震わせていた。一時的なものだろうが、言葉を発せられないらしい。

「あ、が、わ――!」

「大丈夫。助けるよ」

 ラッカはそう答えてから、部分獣化を開始する。左拳と右拳、それぞれの甲から三本ずつ刃を伸ばした。オオカミの爪である。

「いま自由にするから、動かないで」

 と声をかけ、ラッカは彼を縛りつけている鉄製の手錠――ではなく、それと結びついているチェア・アームのビニール接合部分を切断した。

 ――さすがに鉄の鎖は、オオカミの爪でも無理っぽいしな。

「立てる?」

 とラッカは小澤光に訊いた。「この部屋を出て、階段を降りたら外の道路まで行く。できそう?」

「あ――、う、い――!」

 光は、言葉にならない声を上げながら、それでも何度か頷いた。

「よし、カッコいいぞ」

 ラッカはにっかりと笑う。

 立ち上がる少年の体を支え、彼が殺人ルームから出ていくところを見送ったあとで、改めてラッカはトモコのほうを睨んだ。

 トモコは血を吐きながら、ゆっくりと起き上がる。

「オオカミ女ァ――! よくも――! よくも、あたしのボクちゃんをォ!」

「お前のガキじゃないだろ、バーカ!」

「死ねェ!」

 トモコが業務用ハサミを構えて突進してきた。予想よりも体術のデキが良い。彼女の繰り出す左腕を、ラッカはバックステップで回避する。

 こちらを睨みつけるトモコの目が細くなる、と、

 ジョギン――という、空間を切り裂く音がすぐ目の前で聞こえた。

「あぶねっ!」

 ラッカは回避した勢いのまま宙を舞い、距離を置きながら着地する。

「くっそー、初めて見る武器だからなんか戦いづらいな」

「クク、ククク――」

 トモコは肩を震わせたながら、ラッカとは目を合わせないまま、

「『切断』」

 と言った。

 次の瞬間、ラッカの左耳の付け根が2センチほどパックリと斬れ上がり、血が溢れ出した。そのことを、ラッカは頬の濡れた感触によって気づく。

「なっ!」

 いつ斬られた!? ちゃんとハサミは避けたはず――避けたはずの斬撃が当たった!?

 ラッカは傷口に手で触れて、きちんと血を確かめてからトモコに視線を戻した。ピエロ女は不敵に笑い続けている。

「どうやって斬ったんだ、お前」

「キャハッ! ハハハ――!!」

 ピエロは哄笑を上げる。

「ねえ怖い!? 怖くなっちゃったぁ!? 『どうやって斬ったんだ』ってぇ――そんなの答えるわきゃねえだろ!! ボケッ!!」

 それからピエロは、さらに両手のハサミを構えて突撃してきた。

「!」

 ラッカは、左手と右手の攻撃、両方とも手首ごと掴んで止める。そのまま勢いで、ピエロの腹を蹴り上げた。

「ぐ――おおお!」

「じゃあ避けなきゃいいだけだ。初手で止める!」

 あとずさるピエロの腹を、それでもラッカは容赦なく何度も膝で蹴り上げる。相手の上半身を同時に引き寄せながら――内臓に直接ダメージを与えた。

「があぁっはぁ――!!」

 ピエロは白目を向き、胃液を吐き出す。

 が、

「ヒヒ、痛ぁい、ヒヒヒ――オオカミさん痛いよぉ」

 そう顔を上げると、

 ――ジョキン。

 と、両手に持っているハサミで空中を斬った。もちろん物理的には、ハサミの刃はどこにも当たっていない。

 が、今度はラッカの両腕にぱっくりと斬り傷ができ、そこから動脈血が噴き上がった。

「ぐ、ああああ――!!」

 ラッカは思わずピエロを手離し、その場に転げ回る。ピエロのほうも、その反撃を最後にフラフラと倒れ、さらに嘔吐した。


 ――なんでだ!? なんで当たってないはずの斬撃が当たる!?

 いや、そうじゃない。発想を切り替えろ。

 ――こいつの『型』は、どういうカラクリで私に斬撃を当てているのか、だ。

 ラッカはハバ=カイマンの言葉を思い出す。

『相手がどういう型なのか見極めてから最善の戦略を選び続ける、それが獣人同士の狩り合いの醍醐味だろうがよ』

 そうだ。

 そのとおりだ。

 傷口の再生を待ちながら、ラッカは頭を使う。わずかな手がかりを探り当てる。

 ――当たらないハサミを当てるなら、なんらかの予備動作が要るはずだ。どんな動作だ? こいつは私にハサミを当てる前に何をした?

 そして閃く。

 一撃目のとき、こいつはハサミを閉じる前に私の顔をちゃんと睨んだ。二撃目のとき、ハサミを閉じる前にこいつは顔を上げた。

「そうか!」

 とラッカは声を上げた。

「お前の型の仕組み――視界だ! お前は自分の視界のなかでハサミを当てれば、本当は斬れていなくても斬れたことにできる!」

 視覚は本質的に《奥行》を無視する。手前で斬っても奥の物体を斬る。それがピエロの型なのだ。


 それを聞きながら、ピエロ女は――トレコトレマータはゆっくりと体を起こした。

 なんだ、もうバレちゃったのか――あたしの秘密は。

「そうだよ、オオカミ――」

 とピエロは言った。「どんなに遠くに避けても、逃げても関係ない――斬撃を飛ばしているのとも違う。視界のなかで斬れたのなら『斬れたことにする』、それがあたしの切断型」

 そして、ゆっくりと右手のハサミを持ち上げた。

 そのハサミの刃は、彼女の視界のなかで、ぴったりとラッカの首筋を捉えていた。

「この型の便利なところはさァ、相手が遠くに行けば行くほど、『遠近法』であたしの斬撃が大きくなるってことだよ、オオカミ――!」

 ジョキン!

 ピエロがハサミを閉じる、と、その前にラッカは大きくしゃがんで回避、即座にピエロはハサミを振り下ろす、が、ラッカはそれを横ステップでさらにかわす。

 ――ピエロにとっては、ただ、自分の目に映る少女を小手先でチョキチョキといじめているだけ。しかしラッカにとっては、それらが全て、大振りの連撃になってしまう。

「くそっ――!」

「ほらぁ、ほらぁ、どうしたオオカミィイ――!!」

 ピエロは叫びながら、

 ――ここだ!

 と思える場所を見つけた。そして、アーケードのシューティングゲームで遊ぶように、指先を微調整する。ハサミの両刃が『彼女の視界のなかで』ラッカの胴体を捉えた。

 ジョキン。

 ハサミを閉じる、――いや、閉じようとしたそのとき、

 

 両手首が吹き飛んだ。


「――あ、え?」

 彼女の両手はハサミを握ったまま宙を舞い、床に転がっている。そして、彼女の視界からは、いつのまにか――いつのまにか、オオカミ女が姿を消していた。

 直後。

 うしろから背中を勢いよく踏みつけられる。

「ハァ!? ア!?」

 ピエロはうつぶせに倒れながら、手首から先のない両腕を掴まれ、完全に自由を奪われていた。

 彼女の背を――正確には、うなじの下から肩の範囲を踏んでいるのは、ラッカ=ローゼキである。

「視界が問題なら、背後に回ればいい。――振り向こうとしてもできない場所を踏んでる。

 無駄な抵抗はやめろ」

「なに、てめ、この――!!」

「お前の夫も事情聴取を受けてる。証言の裏取りができるまでは無闇に始末はしない。――それに、いい加減吐いてもらうぞ。クロネコってのが何モンなのか」

「――なんでだよぉ!? どうやって一瞬であたしのうしろを取れたぁ!?」

 ピエロは叫ぶ。

 それに対して、

「『どうやって』?」

 と、ラッカは獣の目のまま言った。「そんなの答えるわけないって、さっきそう喚いたのはお前だろ」


  ※※※※


 ラッカはピエロが抵抗しなくなったのを認めてから、骨伝導のインカムに声をかけた。

「こちらラッカ。現場で獣人を捕獲したよ。攻撃手段は無力化してある。子供も無事に逃がしたから、応援ちょうだい――って、この場合はアヤノに言えばいいかな?」

『了解、聞こえたよ』

 とアヤノが答えた。

『今回も、ありがと。捕獲中は、くれぐれも慎重にね』

「オッケー、分かってる」

 それから、ラッカはピエロを――トレコトレマータを見下ろした。

「クロネコってなんなんだよ。お前もクロネコってやつと繋がってるのか?」

 その問いに、トレコトレマータは答えなかった。

「クロネコから有名人の子供の情報を貰ってたのか? それとも、やっぱり公安部が言うみたいに、どっかのニンゲンのテロ組織の手先なのか、お前は?」

 トレコトレマータは無言のままである。

「お前の夫はどこまで知ってたんだ。知ってたのに警察に黙ってたのはなんでだ。まさか証拠隠滅も手伝わせたりしてたのか?」

 トレコトレマータは、なにも言わない。

 ラッカは、暗い気持ちになった。

「獣人研究所でちゃんと見せられたよ。どんな獣人も、人間に対して酷い気持ちを持ってるんだって。特別なのは私だけだって。

 ――お前も獣人だから、こんな酷いことしたのか? もともと人間なのに、なんでこんなことができるんだ?」

 思わず、彼女を拘束する両手に力が入る。

「お前が子供を殺すたびに、その家族が泣いて――そのおばあちゃんが泣いて、そういうこと、なにも思わなかったのか! 獣人になると、本当に、ひとつも感じなくなっちゃうのかよ!?」

 すると。

《う――うう――》

 と、トレコトレマータの、いや、辻トモコの泣く声が聞こえた。

「――えっ」

《止めて――あたしを、誰か止めて――》

 とトモコは言った。《じ、自分で、自分を抑えられないの――ダメだって分かってるのに、か、体が言うことを聞かなくて――! 心臓が勝手にバクバクして、気づいたら――ああ、あ、止められないんだよ――!》

 部屋の床に、ボタボタと涙が落ちる。

「そんな――」

 ラッカは、一瞬だけ混乱する。トモコはさらに畳みかけてきた。

《オオカミさん、もういい、もういいから殺して――もう同じ人間をっ、手に、かけたくない――お願い、今のうちに駆除して――!》

「まさか」

 と、ラッカは踏む足の力を緩めた。

「まさか、お前、まだ人間の心が残ってるんじゃ――」

 それは。

 時間で言えば、0.5秒にも満たない《ゆるみ》ではある。

 そのゆるみを、辻トモコは――いや、獣人のトレコトレマータは見逃さなかった。

《ウラァ!》

 そんな叫び声とともに、彼女はラッカを背に乗せたまま勢いよく跳躍。コンクリートの天井に、ラッカの体は強く打ちつけられた。

「がはっ!」

 吐血。

 そして着地すると、トレコトレマータはラッカの腹を蹴り上げる。

 ――その上半身の、今まで地に伏せていた腹の側は、既に突起まみれの赤い甲羅に覆われている。気づかれないように少しずつ獣人体へ戻り、力を溜めていたのだ。

《キャハッ!》

 と、カニが笑った。《キャハハハハハ!! バァ~カ!!》

 ラッカはよろめきながら、なんとか直立二足を維持しようとする。が、その胴体をカニの巨大な右腕ハサミが問答無用で切り裂いた。

《お人よしのウザ説教、ご苦労様でぇ~すッ!!》

 そして、左腕ハサミでさらに斬る。《なぁ~にがニンゲンの心だよ気持ち悪ィ~!! そんなもん捨てられて、あたしは清々してるってのォ!!》

 最後にタックルすると、ほとんどボロ雑巾のようになったラッカの体が、壁に当たって崩れ落ちる。

《なんだっけ? 子供を殺したら家族が悲しむか考えないのか、って? ――考えてるに決まってるじゃ~んバァ~カぁ!! こちとらそれが目的なんだよ、ご遺族どもの泣きっ面がよ!!》

 キャハハ、キャハハハ――と、カニは笑い続けた。その両目からは、ピエロのメイクのように涙が流れ続けている。

《さっさと逃がしたボクちゃんを追いかけないと》

 と彼女は言った。《狩人どもが邪魔するなら、そいつらもまとめて始末しよっかなぁ。このハサミで、さぁ――ククク、アハッ、ハハハ――!》


 そんな笑い声を聞きながら、ラッカは倒れたまま、拳を握りしめていた。

 許せない。

 そう思いながら、頭のなかにいくつもの言葉が響いていた。


『カナタはね、獣人に殺されたの』

『自分が例外だという自覚をもっと持ちたまえ』

『母さんの前で、あと少しだけ、孫のカナタのふりをしてあげて?』

『実際には、人間と獣人はどこまでいっても相互理解など不可能だ。互いに互いを食い物にし合う戦争関係でしかないんだよ』

『悪い獣人なんか、全部そのオオカミが喰っちまえばいいんだ』


 そんな声が、頭のなかで木霊していた。

 だから。

 気づくと、立ち上がれていた。血は流しすぎている。でも、もう関係ない。

《はぁ?》

 と、カニが振り返った。《なんで起き上がれてるわけ?》

「お前のことを、許さないから」

 ラッカは言った。「私がニンゲンの味方だから、ここで私は起き上がるんだ」

《バッカみたい!! まだ言ってんだぁ!?》

「お前が子供を殺すせいで、またどこかの家の、どこかのおばあちゃんが泣くんだったら――私の爪と牙が届くところで、そんなもん二度と起こさせるもんか!!」

 ライダースジャケットを脱ぐ。

 全身に力が入る。

《ウ――オオオ――オオ――!!》

 それは、遠吠えだった。

 目の前に立つカニが思わず怯み、その場から逃げ出したくなるような獣の声。人間からの畏れと憎しみを一身に引き受ける、獣のなかの獣――オオカミの声である。

 バキバキと体中の関節が鳴り、骨格そのものが形を変えていく感覚。

 頭髪と同じ白銀の体毛が、体を、顔を、全て覆い尽くしていく感触。

 ぐっ、ぐっ、と鼻と口が前方に突き出て、歯並びとその鋭さが完全にオオカミのものに変貌する。対象を狩り、噛み、喰い千切るための牙。

 獣としての耳が頭の横後ろに生えていく。聴覚がさらに鋭敏になる。蒼灰色の瞳は、さらに鋭く。

《ウウ――ウオオ――オオオオ――!!》

 ゴキゴキと鳴る背骨がさらに伸び、体長が2メートルを超えたところで、人間用の衣類は全て千切れて消えた。

 ――白銀の、血に飢えたオオカミが本来の姿でそこに立っていた。


《ヒィッ!》

 カニが悲鳴を上げてさらに後ろに下がろうとした、そのとき、

《ガアァッ!!(超加速!!)》

 とラッカは叫んだ。

 瞬間、白銀のオオカミ以外の全てが動きを止める。物理法則を無視して、オオカミだけが時間の流れの外に出られる。平たく言えば、時間が停止する。


 0秒、オオカミはカニに体当たりする。

 1秒、窓を割り、二匹ともビルの外に出る。

 2秒、オオカミはカニの右腕を掴み、その関節にかかと落とし。

 3秒、カニの右腕が引き千切れる。

 4秒、オオカミはカニの腹部を噛み、べりべりべりべり――と、その甲羅を牙で剥がす。

 5秒、千切ったカニの右腕を、オオカミはカニの腹部――甲羅の剥がれた肉に突き刺す。

 6秒、二匹とも地面に激突。衝撃で周囲の車が揺れる。

 7秒、突き刺したカニの右腕を、オオカミはさらに深く中心まで抉っていく。血と体液が噴き出していく。

 8秒、カニの獣人核に到達。オオカミはカニの返り血を浴びながら、《ウオオ――オオオオ――!!》と吠え、さらに力を入れる。

 9秒、カニの右腕が背中まで貫通した。


 そして10秒。

 タイムアウト。

 時間が動き出したあと、カニの獣人は――辻トモコは、

《アッ! アア!? アアアア!!》

 と、悲鳴を上げながら絶命した。


  ※※※※


 鮫島カスミは現場の近くを張りながら、不審な人影に気づいていた。

 それは、カニの獣人――トレコトレマータ=プラチュラの死を確認してから遠ざかろうとする、長身のシルクハットの男――ハツシ=トゥーカ=トキサメだった。

「ヤツは、なんだ?」

 小声で呟きながら、鮫島カスミは移動を開始。

 あのシルクハットの男、明らかに今回の事件と繋がりを持っている。その気配がする。だが、人間の反社会的組織に特有な臭いはしない。

 カスミは頭のなかで、トーリの言葉を反芻する。

 クロネコ。

「日岡トーリ班長――まさか、本当に《クロネコ》というグループが獣人の側にいる、と――そう言うのか?」

 このとき、鮫島カスミはゆっくりと、しかし確実に公安部本来の職務から逸脱しつつあった。


  ※※※※


 同時刻。

 日岡トーリはボールペンを止めた。警察署の一室で辻トモコの夫から話を聞いていた彼は、ふと、なにかが終わる気配を感じた。

 ――ラッカ、戦いは終わったのか?

 そんな彼を、辻トモコの夫――辻タクマが覗き込む。

「あの、どうかしましたか?」

「別になんでもない。余計な口を叩くな」

 それからトーリは、辻タクマの顔を見つめ返す。よれたスーツを着る、30代の後半らしい小太りの男。

 だがその体型は、幸福な家庭料理のせいで脂肪を蓄えたというより、自暴自棄な酒浸りの生活のなかで衰弱した内臓が体内の毒を吐き出すことに飽きている――そんな印象を与えるものだった。

 調査によれば、この男は、妻のトモコが獣人になったことにも、獣人になったあと繰り返している殺人にも気づいていた。正確には、獣人になる前の児童連続誘拐も知った上で、積極的にその証拠を隠蔽していた。

 トーリは想像した。妻の衣類にほんの少しでも返り血が残っていたら、それを必死の形相で洗い落とそうとする夫の姿を。

「獣人を」とトーリは言った。「獣人案件をそれと知りながらそれを匿うのは、最高で無期懲役の罪だ。今は取り調べの最中で、この部屋は録音もされている。

 ――その上でもう一度聞く。辻トモコが獣人だと分かって隠したのか」

「はい」

 と辻タクマは答えた。ほとんど、ほっとしたような笑顔だった。

「逆らえるわけがないですよ。彼女は僕のせいで獣人になってしまったようなものです。そんな僕が、どうやって彼女を警察に突き出せって言うんですか?

 それに、協力を拒んだらどんな目に遭うか――自分より強いケダモノに逆らえるほど、僕は強くありません」

「妻のトモコにそう脅されていた――と?」

「いいえ」

 と答えたあと、辻タクマは極度の緊張状態にあるのか、ぷっと吹き出した。

「彼女が僕を脅しているかどうか、た、確かめるのも怖かったんです――だから裏で、犯行に協力しました」

 トーリは録音機を止めて、後ろの山崎タツヒロにそれを渡した。

「肝心の情報は手に入れた。こいつのほうは、裏の組織のことはなにも知らない。あとは刑事部に引き継いでいい」

「了解」

 そんな風に二人が会話するのを尻目に、辻タクマはぼそぼそと「人間が獣人を御せるわけない。向こうのほうが強いんだから、こっちは仕方ないんだ」と、うわ言を呟いていた。

 そして、「ねえ、狩人さん――」と言った。

「狩人さんのところにも、獣人、いるんでしょ? 本当に人間の味方をやれるんですか? ――コントロールに失敗して、僕みたいにならないといいですよね?」

 それに対して、トーリは少しだけ振り返った。

「――俺は仲間をコントロールなんてしない。ただ信じるだけだ」

 それからドアを閉めて廊下に出ると、外で待っていた佐藤カオルとともに歩き始めた。


 間もなく、部屋のなかから甲高い笑い声が上がった。辻タクマの声だ。

「あはははは! なか、仲間だって! 獣人が!? 人間と!? ――そんなのなれるわけない!! あいつらの目を見れば分かるんだ!! ははは!!

 なあトモコ~! 俺が悪かったよ~! なあ許してくれよ~!! あと何匹、お前のガキ殺しを手伝ってやったら俺のこと許してくれるんだ~!? トモコ~!! なあおい、返事してくれよぉ~!!」


  ※※※※


 ラッカ=ローゼキはバイクを走らせ、小澤光の自宅――小説家・小澤恩音の邸宅まで辿り着いた。並走するのは田島アヤノの運転するVW。その後部座席に少年は座っていた。

 とっくに夕方になっている。

 邸宅の門の前に、獣人捜査局からの連絡を受けた小澤恩音が立っていた。

「光!」

 彼女がそう叫ぶと、停車したVWの後部ドアが勢いよく開いて、小澤光が駆け寄っていった。命の危険から助かった今、少しでも早く母親の暖かさに触れたいのだろう、そうラッカは思った。

 ――分かるよ。私もオオカミだったころ、冬の山奥でちょっと迷ったとき、いつも母ちゃんが恋しかったからな――。

 すると、邸宅の玄関からは小澤光の祖母らしい女性も出てきて、ゆっくりと、恩音と光の両方を抱きしめた。

 それを見て、ラッカはズキリと胸の奥が痛んだ。この家の、家族の、おばあちゃんの笑顔は守れたんだ――それが嬉しくて、切なくて、よく分からなくなった。


 ――ねえ、病院のおばあちゃん。

 私はやっぱり孫のカナタじゃなくて、オオカミのラッカ=ローゼキなんだ。だから、オオカミにしかできないことをするよ。

 ニンゲンを傷つける獣人を、私が倒すんだ。だから、安心しててね。

 そう思っていると、小澤光が――まだほんの小学校の四、五年生だ――こちらを向いてきた。

 ラッカはバイクから降りる。

「お姉ちゃん、もう行っちゃうの?」

「うん」

 ラッカはしゃがんで、小澤光の頭をわしわしと撫でた。

「悪いやつらをやっつけるために、お姉ちゃん、色んなとこに行かなくちゃいけないんだ。

 ――お母さんの言うことよく聞いて、友達大切にしろよ」

「――うん」

「よし」

 ラッカは立ち上がる。

 小澤恩音が、そんなラッカに頭を下げた。「本当にありがとうございます。――このことは決して忘れません」

「忘れたほうがいいです。獣人に襲われたなんて思い出、怖いだけですから」

 そうしてラッカはバイクに再び跨った。

 アヤノが「ミサキ先輩が祝杯買って待ってるって!」と、声をかけてくれる。

「いいねえ! トーリたちも呼ぼう!」

 そう笑って、ラッカはフルフェイスメットのバイザーを下ろすと、エンジンをふかした。

 そのとき。


「――お姉ちゃん!」


 と、小澤光が呼んできた。

 ラッカは思わずバイザーを上げて、振り返る。視界のなかに、自分が助けた子供の命がある景色を、ラッカは見た。


「ありがとう――!」


 そんな少年の叫び声に、ラッカ=ローゼキは、親指を立てて別れの挨拶をした。

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