第10話 VS鋏道化 後編その2


  ※※※※


 カニの獣人、辻トモコ。獣人名、トレコトレマータ=プラチュラ。

 治療の果てにやっと授かった我が子を、彼女は妊娠期間のかなりあとになってから、不慮の事故によって失ってしまった。そして同時に、妊娠能力そのものも永遠に奪われてしまった。

 医療技術の進んだ現代社会では、ここまでの惨事は珍しい。そのため、日岡トーリが作成した被疑者名簿のなかでも、彼女は優先度Aでリストアップされていた。タレコミがなくても、いずれ彼女は捕まったであろう。

 おおよそ、今から1年以上前のことである。

 それだけでも、トモコに与えられた心の傷は計り知れないものがある。

 しかし、不幸は常に連続して起こるものだ。

 彼女の夫はトモコの妊娠中に職場の後輩女性と不倫関係に陥り、その行為は、遊びの範囲をとうに越えようとしていた。そして、不倫相手の女性はいとも簡単に彼の子供を孕んでいたのだ。

 その事実を尾行によって知ったとき、トモコは頭のなかが真っ白になった。

 我に返ったとき、彼女は夫の不倫相手を駅の階段から突き落とし、その胎のなかにあった忌々しい命を奪い去っていた。

 夫のほうは、犯人が誰なのかすぐに分かった。しかし自宅に戻ると、トモコはなにもなかったかのように笑顔を浮かべ、簡単な夕食をテーブルに並べていた。

 ――テイクアウトのお子様ランチセット2組だったという。

 夫は不倫相手と別れたあとも己の過ちを打ち明けず、妻のほうも自分の犯罪行為を告白しない、歪んだ夫婦生活がその日から始まった。

 

 もしもトモコが人間のままでいられたら、話はここで終わったのかもしれない。

 だが、実際には――トモコはその後、無関係の母子連れを見つけては母親が目を離した隙に子供を連れ去る連続誘拐犯になっていた。

 大抵の場合、母親が血相を変えて我が子を探しているのを遠くで眺めたあとは満足し、被害者を解放した。だがあるときは、犯行が上手く行き過ぎてしまい、子供を人気のない場所まで遠く遠く連れ去ってから、震える手で新聞を読み、ニュースを漁るはめになった。

 あるとき、三つ目の不幸が起きた。

 連れ去った子供の持病が発症して、トモコが抱きかかえるなかで、路地裏で息絶えてしまったのである。

「あ――ああ、あ――!」

 トモコは痙攣しながら涙を流した。

「なんで――なんでえっ――!」

 子供をその場に落としてしまう。

「なんであたし、何回やっても満足できないの――!」

 自分の頭を抱えながら、ヒヒヒ、ヒ、と勝手に笑い声が漏れてしまうのを止められない。

 最初は憎い不倫相手への復讐だけだったはずなのに、ニンゲンの子供に対する攻撃衝動が全く収まらないのだ。

 正確には、「子供を失うことで悲しむ母親たち」への攻撃衝動なのだが。

「誰か止めて――! あたしを止めてえ――!! ヒヒッヒヒヒ、こんなの愉しすぎるっ――!! もうあたし狂ってるんだ――! アハッ、ハハハ、誰か止めてよお――!!」

 まるで。

 まるでピエロが滑稽なダンスを踊るように、トモコは体のバランスを崩し、その場にうずくまった。

 ――――。

 やがて、

 カツ、カツ、カツ――という革靴と音が近づいてきた。トモコがゆっくりとそちらに振り返ると、身長2mの、シルクハットにステッキを構える紳士風の男が姿勢よく立っていた。

 唇には黒のルージュ。だが、特筆すべきは両方の瞼が、糸で縫い合わされていることだった。

「お初にお目にかかります、マダム」

 と男は言った。「ワタクシ、ハツシ=トゥーカ=トキサメと申します」

 それから、にっこりと笑う。

「貴女が犯行を止められないのは、既に、獣の心になっているからですよ、マダム」

「けっ――ケモノぉ――!?」

「おや、やはり自覚がおありではない? ――では、貴女のそのお手々はなんですか?」

 男に促されてトモコが自分の左手を見る、と、その肌は既に人間のそれではなく――びっしりと突起のついた、硬い、真っ赤な甲羅のそれになっていた。

「アアアアアアアア!!」

 トモコは自分の左手から遠のき、叫んだ。

「マダム」

 と男は言った。「我々獣人は、ニンゲンに害を為すサガなのです。貴女はそのサガに選ばれた、それだけのことです」

「ど、どうすれば――どうすればいいの――!?」

 トモコが縋ると、男は満足げに歯を見せた。

「その子供の死体の処理に困っているなら、どうぞ、ワタクシにお任せくださいな?

 ワタクシはボノボの獣人、啓蒙型。触れた相手の常識を最大三つまで書き換えます――まあ、ひ弱な力ですけれども」

 そうして男は、ハツシ=トゥーカ=トキサメは、子供の死体を抱くと大通りに出て、すぐ近くにいた男の肩を叩いた。

「子供の死体です。預かって下さい」

「――ええ、はい」

 男はその死体をなんの疑問もなく抱えた。

 ハツシはさらに大通りの対岸を指差した。

「渡ってください」

「――ええ、はい」

 男は死体を抱えたまま大通りに出て、そのまま車に撥ねられて即死した。大量の血がアスファルトに飛び散る。

「ワタクシがあの男から奪った常識は三つ。①死体、②車、③赤の他人のお願いごと、それぞれを警戒すべきという常識です」

 それからハツシはシルクハットを被り直し、トモコのほうに顔を向けた。

「怪しまれない程度に、急いでここを離れましょう。

 ――獣人になった貴女には、お願いしたい仕事があるのです、マダム。もちろん、貴女の衝動を叶える方向でね?」

 ハツシに連れられて、トモコは夜の街を歩いた。そしてそのころには、自分の本性をすっかり受け入れていた。

 ――だって、あの大通りの鮮血、キレイだった。


  ※※※※


 現在。

 ラッカ=ローゼキはバイク――WOLFISH DARKNESSを走らせながら、アヤノが送信した襲撃ポイントに迫りつつあった。

「いま捜査の状況って、どうなってんの?」

 ラッカがそう訊くと、イヤホンの向こう側で、

「それは俺のほうから説明する」

 とトーリの声がした。「俺とカオルとタツヒロは、容疑者である辻トモコの自宅を捜索中だ。犯行に使っていたような凶器や衣装、録画機器は一切見つからず。同居している夫の辻タクマのほうも黙秘を貫いている。今から連行して事情を聞くつもりだ」

「なるほどな」

「アヤノは捜査一課や所轄の刑事といっしょに待機。襲撃ポイント前でラッカと合流予定」

「襲撃ポイント前で?」

 とラッカは言った。「襲撃ポイントで護衛を張ってるわけじゃないんだ?」

 すると、聞き慣れない男の声が割り込んできた。

「オオカミの女史には、それについてはこちらのほうから説明しよう」

「誰?」

「警視庁公安部の鮫島カスミだ。本件が獣人案件と確定するまでの間は、捜査に介入させてもらっている」

「――詳しく聞かせてよ」

 ラッカが訊くと、カスミは「ほう」と声を上げた。おそらく、ラッカの切り替えの早さに驚いたのだろう。

「先ほど日岡トーリ班長も言っていたように、自宅にはなんの物証もない。犯行テープの内容からすると、どこかのアジトに連れ込むつもりだろう。組織的な協力者がいる可能性もある。ならば、ピエロが小澤恩音のご子息を襲う瞬間ではなくアジトに連れ込んだ瞬間を叩きたい。そこで仲間と落ち合うかもしれないからな」

「なるほどな」

 とラッカが頷くと、今度はアヤノが、

「私は今でも反対です。お子さんの安否を最優先にはできないんですか」

 と割り込んできた。

 一方で、カスミは落ち着いている。

「問題はない。過去二回の犯行テープで、子供は最初は無傷だった。ビデオを回すまでは被害者は傷つけられないだろう」

「――いや、だとしても、犯人に連れ去られた精神的外傷はどうするんですか? 今回三回目の事件だけ方針を変える可能性は!?」

 ラッカはそれを聞きながら、交差点を曲がる。

 ――捜査の方針が割れている?

 いや、違う。方針が定まらないようなターゲットを獣人はわざわざ選んでるってことだろうな、これは。

 そうして、さらにスピードを上げようとした、

 そのときのことだった。


「!」

 目の前に、少年グループが立ち塞がっていた。

 ラッカはバイクの速度を落とし、その場に降り立った。

 目の前にいるのは、不良っぽいファッションに身を包んだ計8人の未成年の少年たちだ。仮に左から、A、B、C、D、E、F、G、Hとしておこう。

「なんだ――?」

 ラッカは首をかしげた。「なあ、通行の邪魔だ。さっさとどかないと逮捕するぞ」

 するとCが「うるせえんだよ!」と怒鳴った。「た、逮捕ってのは人間が人間にやることだろうが! ケモノの分際で警察ぶってんじゃねえ!」

 次にEが威嚇してくる。「獣人のくせに人間様の味方とかなんとか言って媚びやがってよお! キメェんだよ! さっさと山に帰れや!」

 そんな罵声を浴びながら、ラッカはすぐに違和感に気づく。

 ――コイツら、ケンカの前口上が棒読みだ。まるでなっちゃいない。殺気もほとんど匂ってこない。

「まさか」

 とラッカは言った。「私をここで足止めするように言われたのか。誰に言われた? ――獣人にか?」

「黙れよ!!!!」

 Gがズボンからピストルを出した。旧式のコルト・ガバメント。

 その声と手が震えているのを、ラッカは決して見逃さなかった。

「その獣人に脅されてるの? ――まさか、クロネコってヤツ?」


 直後、発砲音。弾丸がラッカの左1m左を通過した。


 それを合図に、全員がピストルを取り出す。どれもこれも古いモデルだが、八方から撃たれればどれかは当たるだろう。

 問題は。

 それが非合法のシルバーバレットであった場合である。

 リーダー格らしきAが、ほとんど泣きそうな顔で喚く。

「オメエ殺さねえと、やべえんだよ、こっちはよお!」


  ※※


 その様子を、遠くから録画機能付きの望遠鏡でクイーン=ボウは眺めていた。音声は少年Aに付けた盗聴器から聞こえている。

 ビルの屋上。ファミマの焼きそばパンを頬張りながら、クイーンは微笑んだ。

「さあオオカミ、どうやってこの危機を乗り越える?

 テメエにニンゲンどもは殺せねえんだろ? なにかしらの型を使わねえとマズいだろ」

 彼女はそう遠くから問いかけた。「見せてみろよ、アタシに、テメエの力をな――!」


  ※※


 少年たちは、それぞれに怯えながら、ピストルのトリガーに指をかけて一斉に発砲しようとした。

「逝けェえええッ!! 死ねッオオカミィ!!!!」


 ――だが。

 彼らが目をつぶって拳銃を撃とうとしたときには、もうそこにラッカはいなかった。

 ついでに言えば、銃弾を放つこともできなかった。

 彼らの手のなかで、銃身部分が全て「同時に」解体されており、駄目押しにマガジンも引き抜かれて、ただの鉄屑になっていたからである。

「はぁ――ッ!?」

 少年たちが驚愕している、と、彼らの背後でラッカ=ローゼキが立ち上がった。彼女の足元で、バラバラになったピストルの部品が散らばる。

「『超加速』」

 とラッカは言った。「時を止めて、お前らのオモチャは全部ブッ壊した――人間が何人束になっても、今の私には勝てないよ。

 大人しく投降しろ」

 彼女は冷静にそう呼びかけた。


 しかし、Bがバタフライナイフを取り出して雄叫びを上げると、ほとんど空しく第二ラウンドが始まった。

 全員が一斉に襲いかかってきた。

 ナイフを振り下ろすBの右腕を、ラッカは左手で止めると肘の部分を蹴り上げて関節を砕き、さらに彼の左膝を逆関節方向に踏み折った。

 ――格闘戦において相手を殺したくない場合、気絶を狙うのは得策ではない。勢い余って命を奪う可能性が高すぎるからだ。ゆえに、相手の骨や局部を痛めつけて戦意喪失させるのが最も合理的である。カオルの教えだ。

 次に反対方向から殴りかかってくるDの顔面を、ラッカは殴りつける。鼻の軟骨が音を立てて潰れ、前歯が三本ほど吹き飛んだ。

 彼女はそんなDの首根っこを掴み、斜向かいのFとGに向かって投げつける。両者転倒。

 そのあと、ラッカの背後に回ったAが出刃包丁で刺そうとしてくるのを匂いで察知。体を回して柔術の要領でうつ伏せに押し倒す。それから肩甲骨のあたりを踏んで、梃子の原理を使ってバキバキと腕の付け根を破壊した。

 少し時間がかかってしまったか、Cがラッカに飛び蹴りをする。転倒。

 その隙を狙ってCとHが覆いかぶさろうとする、が、ラッカは片手だけで起き上がり、まずHの顎をミリタリーブーツで砕く。ブチブチ、と、下顎と上顎を繋ぐ筋肉が引き裂かれる音がした。ダメ押しでもういちど蹴ると、べりっという音とともに、Hの下顎が完全に剥離した。

 そして、さらに蹴り技を仕掛けてきたCの両肩を掴み、頭突き、頭突き、頭突き。最後に彼のみぞおちを殴って泡を吹かせた。

 ラストスパート。起き上がろうとするFの足を踏みつけて壊したあと、Gの上に跨り、その顔面を何度か殴りつけた。途中、頬骨の割れる感触がする。彼女の形相に負け、Eは既に逃走していた。

 あたり一面、血反吐とうめき声の地獄絵図になった。


「ぜぇ、ぜぇ――!」

 ラッカは立ち上がると、インカムで相棒を呼んだ。

「トーリ? 人間グループの襲撃に遭った。たぶんだけど、獣人に脅されてる。

 殺しはしなかったけど、動きを止めるために骨は折ったりしたよ。救急車呼んで助けて保護しといて」

『わかった』

「んで、ピエロのほうはどうなってるの?」

『やられた。もう、小澤恩音さんのご子息はピエロに攫われたよ。たぶんラッカが間に合わないように、手下を使って足止めをしたってところか。あるいは、向こうも案外一枚岩じゃないのかもな』

「――そっか」

『図らずも、鮫島カスミのプランに乗るしかなさそうだな。ピエロが移動に使っていた車には、アヤノがGPSを取りつけてある。アジトの場所ならそれで分かる』

「オッケー、任せて」


 ラッカは通話を打ち切ると、周囲でうめいている少年たちを眺めて、

「痛い思いさせちゃって、ごめん」

 と言った。「お前らのことは警察が保護するよ。ワルの獣人に脅されてても、たぶんもう大丈夫だから」

 それからラッカは、クイーン=ボウが双眼鏡を構えている遠方のビルを睨んだ。


  ※※

 

 ――なに?

 クイーン=ボウは、思わず焼きそばパンを口から離した。望遠鏡越しのラッカが、なぜか自分のほうを見つめている。

 まさか監視がバレたのか。いや、ここは簡単に気づかれる距離じゃないはずだ。じゃ、まさか単に野生の勘でこっちの視線に気づいたのか。

 ――ありえねえ。

 ありえねえと言えば、さっきのヤツの動きだ。ありゃ一体なんなんだ。まさか――あのオオカミ女、マジで時を止めて動けるとでもいうのか?

 しかし、それ以外の解釈はとてもできそうにない。

 ――なるほどな、こりゃあハバ=カイマンでも負けるわけだ。攻略方法もなくはないが、文句なしのA級だ。

 クイーン=ボウが冷や汗をかいていると、双眼鏡を挟んだ向こうにいるラッカが、獣の目つきでこう言った。

 その声を、クイーンは盗聴器越しに耳にした。


「どこの誰だか知らねえが――つまんねえケンカの売りかたしやがって。お前を狩るときは容赦しねえからな、このクソ卑怯モンが」


 クイーン=ボウは望遠鏡を目から外し、ヒクヒクと頬を震わせながら仁王立ちになった。

「上等だよ、オオカミ女――今度会うときは正々堂々やってやる。それまでせいぜいテメエの無敵の力を磨いておくことだな?」

 それから彼女は手持ちのビニールにパンの袋を入れ(ゴミはポイ捨てしない主義だ)屋上を去った。


  ※※※※


 ラッカはフルフェイスのメットを被り、バイクに跨ると、再びスピードを上げた。

『オオカミの女史』

 とカスミが呼びかけた。『標的の車が移動を終えつつあるようだ。今からそちらのスマートフォン端末にアジトの位置を連携する。そこを目指してくれ』

「それはいいんだけど」

 とラッカは言った。

「その『オオカミの女史』って言いかた、なんかヤだな。普通にラッカって呼んでよ」

『――――ふむ』

「え、私、いま変なこと言った?」

『いや、たしかに獣人捜査局の報告どおりだと思って驚いただけだ。たしかに貴君は他の猟獣とは違う。幼少期の訓練による思考制限を受けていない。言い換えれば、極めて人間らしい理性と、感情によって動いている。そのうえ獣人固有の破壊衝動も持たないとなると、これは人間と区別がつきがたい』

「――みんなそれ言うけどさ」

 とラッカは左折した。「私は私だよ。私にできることをやるだけだ。カスミさんだってそうなんだろ?」

『――オレが――?』

「うん」

 ラッカはスマートフォンを確認し、カニの獣人の居場所を確認してから言葉を繋いだ。

「さっきアヤノとモメてたみたいだけど、たぶん、カスミさんも悪いヤツじゃないよ。カスミさんはカスミさんの立場でやることをやってる。ただ、色んな立場があるだけなんだ」

『――そう思うかね?』

「なんとなく」

 沈黙のあと、

『参ったな』とカスミは言った。『同じ人間から憎まれることも公安の仕事のうちと思ってたんだが、まさか、獣人から理解を得るとはな――』

「カニ女を倒して子供を助ける。それでいいんだろ?」

『ああ』

 カスミは肯いた。

『ヤツに同胞がいたら私が捕捉する。頼んだ、ラッカ=ローゼキ』


  ※※※※


 小澤光は雑居ビルで目を覚ました。すぐに体を起こす、が、椅子に繋がった手錠のせいで体の自由がきかない。

「なんだよ――なんだよこれ――」

 その椅子は歯医者によくある、機械仕掛けのアームチェアだった。

 周囲を見渡す。どうやらこの部屋は、昔は小規模なクリニックを営んでいたらしい。

 そういう痕跡が、妙につるつるした床や、アームチェアの多さや戸棚の空き瓶の多さから伺えた。

 立地のせいか、窓はない。そして壁に一面の真っ赤なカーテンがかけられている。

 部屋のドアが開いた。ピエロの女――辻トモコが、業務用のハサミとビデオカメラを持ちながら、ニッコリと近寄ってきた。

「ボクちゃん」

 とピエロ女は言った。「今からお姉さんと、とっても楽しい撮影会しちゃうんだけど、大丈夫そ?」

「ここはどこですか」

 と光は訊いた。「どうして僕なんですか? あなたのことはニュースで知っています。有名人の子供ばかり狙う殺人鬼なんですよね」

「ん~? キミ、賢いねえ?」

「どうせお姉さんに殺されちゃうんだから、教えてくださいよ。なんで有名人の子供なんですか?」

 光は作り笑いを浮かべた。本当は、怖くて泣きたくて堪らない。だが、少しでも生き延びるために、目の前の女に頭を使わせる質問を続ける必要があった。

「んー」

 とピエロは天井を見上げた。「キミさあ、酷い事件はニンゲンの世の中でいっぱい起きてるってことは知ってるよね? 獣人だけじゃないよ。そもそもニンゲンがニンゲンに酷いことをしてるよね」

「? はい」

「子供も死んじゃうよねえ。悲しいよねえ」

「――えっ」

「なのに、自分の子供が死んじゃったことを悲しんでるお母さんたちは、みんなテレビではモザイク越しなの。――どうして、大切な子供を死なせちゃった、悲しい、苦しい、いちばんの見どころを私に見せてくれないのかなあ?」

「――――」

 小澤光は、急にピエロ女の言葉が分からなくなった。

 だが、彼女は続ける。

「それで気づいたんだよお! 有名人の子供だったらねえ、マスコミのクズ共はニュースバリューっていうかなあ? 視聴率っていうかなあ? そういうのを優先してさあ、悲しんでパニックになってる母親の顔をいーっぱい見せてくれるの!

 あたしはそれが見たいんだよお!!

 あたしがどれだけ惨めな思いをしたか知ってる? なのに世間の女どもは、のうのうとガキを生んで、もう子供をつくれないあたしに見せびらかしてるんだよ!! どいつもこいつもどいつもこいつもどいつもこいつもさあ!! 偉そうにベビーカーちんたら押しやがってよお!!

 だから、みんな悲しませてやる!! ニンゲンの母親どもはみーんな、このハサミで、あたしと同じ気持ちにしてやるんだ!!」

 ふぅ、ふぅ、と、ピエロ女は叫び終わったあと、にっこりと小澤光に微笑んだ――狂気的に歯を見せた。

「どう? ステキでしょ?」

 その笑顔を前に、もう小澤光はなにも言えない。

 ピエロ女は手前にカメラスタンドを立てると、そこに録画機器を設置した。

「キミのことも、可愛く撮ってあげまちゅねえ?

 お前の母親は、お前の内臓を見たことがある? 致命傷の悲鳴や断末魔を聞いたことがあるう? ないよねえ?

 つまりぃ――このピエロお姉ちゃんのほうが、キミの母親よりもキミのことをよく知ってるってこと。今からそうなるんだよ?

 あ――ハハ――キャハハハハ! たっ、愉しい~! 興奮する! キャハハハハハ!」

 小澤光は目をつぶった。もはや、なけなしの理性は、完全に恐怖に負けていた。

 怖い。怖い。このまま死んじゃうのはイヤだ。誰か助けてよ。助けて――誰でもいいから今すぐ助けにきて――!

 涙が溢れてくる。

 それを見たピエロは「おほぉっ、その表情やべっ。たまんねえ~!」とヨダレを垂らしながら、じわじわと近づいてきた。

「助けなんか、誰も来ませ~ん! ニンゲンに都合のいい正義のヒーローなんか現実では絶対に来てくれませ~ん! ボクちゃん残念でした~!!」

 それから、ピエロ女はショキショキをハサミを鳴らす。

「どこから切ろうかな~!? クククク」


  ※※


「いいや、都合のいいヒーローならここにいるぜ」


  ※※


「あぁ?」

 と振り返ったピエロ女の顔を、真正面からブン殴る拳がそこにあった。

「ほべっばあ――!? ああああ!!」

 血を吐き、間抜けな声を上げながら、ピエロ女は床を転がって壁に打ちつけられる。

 小澤光は、恐るおそる、ゆっくりと目を開けた。

 そこには、一人の少女が――オオカミが立っていた。

 白銀の髪を後ろで結んでいる。蒼灰色の瞳に、太い眉、精悍な顔立ち。服装はライダースジャケットにダメージジーンズ、ミリタリーブーツ。

 首からはドッグタグを下げている。身長は171cm。

 ――ラッカ=ローゼキだった。

「ニンゲンの子供ばっかりコソコソ狙いやがって」

 その瞳は、既に獣になっていた。

「さっさと立てよ、カニピエロ。不味そうだけど相手してやる」

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