第10話 VS鋏道化 後編その1


  ※※※※


 4月11日(火)

 クイーン=ボウは回転寿司屋で夕飯を食べていた。バイクでここまで来たので酒は口にしない。レーンに流れてきた高くも安くもないネタを黙々と頬張りながら、ときどき熱いお茶を流し込んだ。

 室内に流れているのは失恋を歌うJPOP。たしかスウィーテとかいう歌姫の曲だ。

 皿をテーブルに重ねていき、腹八分目というところで息をつく。多くの獣人は人間よりも多くのカロリーを消費するが、身長185センチ、筋骨隆々の彼女はそれに輪をかけた健啖家で、人間の四人前は既に胃に収めてしまった。

 ――こういうチェーン店のメシがいちばん美味い。気取ったマナーも格式もねえ、ただ食うことに集中できる空間だ。一席ずつ仕切られたラーメン店、殺気立ってる牛丼屋、そういうのがいちばん心地いい。

 そう思っていると、1テーブル挟んだ別の席で、男子高校生グループがなにか騒ぎ始めた。

「やべえってこれ!」

「いいよいいよ、撮っちまおうぜ!」

 そんな声が聞こえてくる。

 クイーン=ボウはそちらに顔を向ける。高校生たちは皿を取らずその上のネタだけ奪ったり、テーブル上の醬油さしに直接唇を当てたりしていた。

 ――クソガキのチキンレースである。

 やがて高校生たちはその様子を撮影すると(TikTokにでも投稿するのだろう)、はしゃいだ雰囲気で店から出て行った。

 クイーン=ボウはすぐにあとを追う。

 レジに一万円札を置いて「釣りは要らねえよ」と店員に言うと、

「8番テーブルな、あそこは再消毒しといてくれ。ガキがイタズラしてた。空の皿もレーンにあるぞ。――んじゃ、ごちそうさん」

 と告げ、そのまま足早に高校生たちに追いついた。夜遅くの駐車場である。

 原付やバイクに乗ろうとしていた高校生たちは、クイーン=ボウの存在に気づいて振り返った。

「なんだ? 女ァ」

「てか、デカッ!」

 それに対してクイーン=ボウは答えず、ただ、

「悪い遊びで楽しみたいんなら、なあ、アタシがもっと気持ちいいこと教えてやるよ?」

 と笑った。


 その10分後。

 路地裏に連れ込まれた高校生四人組は、クイーン=ボウに殴られ、蹴られ、その場にへたり込んでいた。

「なあニンゲン」とクイーンは言った。「獣人の喰いモンでしかないお前らが、喰いモンで遊んでいいと思ってんのかァ?」

 それからクイーンは高校生たちから財布を出させ、住所と関係者を記録する。

「近々オオカミ狩りをやるんだよ。楽しいぞ~? お前ら付き合え」

「ゆ――!」

 高校生の一人が泣き出した。「許してください、勘弁してください」

「ダメだろ、男が泣いたら!」

 クイーンは叱りつけ、彼の髪を掴んだ。「お前が逃げたらお前の家ぜんぶ燃やすぞ。お前の女みんなアタシの部下に喰わせるぞ?」

「ひぃ! ひぃ――いい――!」

「お前、スマホの連絡帳見たぞ。妹もいるんだな。可愛いなァ。お兄ちゃんだったらそういうの守りたいだろうが。なあっ!」

「はい、はいい――!」

「ククッククク――!」

 クイーン=ボウは笑いながら、こうして人間の手下を四人ほどゲットした。

「安心しろ。オオカミはニンゲンの味方なんだ。お前らのことは絶対に傷つけらんねえ――テメエらは安心して、正義のオオカミ女を安全地帯から撃ちまくりゃいい」


 それからクイーン=ボウは立ち上がり、直属部下からの連絡を受け取った。

「どうした?」

『殺人ピエロの次の犯行予定表を入手しました』

「おー、よくやったな。入手ルートはどうした」

『いま殺人ピエロを動かしているのは、ハツシ=トゥーカ=トキサメ様です。彼が部下に調査させてピエロに送っているスケジュール表を横から傍受』

「なるほどな。十中八九、ピエロを使って警察内部の動向を見ときたいとかそんなところだろ、ハツシは」

 クイーン=ボウはスマホを持ち替えた。

「よし。その犯行予定表を捜査網にタレ込め。獣人捜査局に直接は流さなくていい。逆探知の甘い所轄の担当刑事に送信しろ」

『――本当にいいんですか?』

「ああ」

 そこで彼女はニヤリと笑った。

「次に犯人がどこに現れるか分かったら、オオカミ女も隠れて引きこもってられねえだろ。必ずそこに姿を見せるさ」

 そこをアタシの人間奴隷で襲撃する――。

 クイーン=ボウは電話を切ると、高校生四人組を見て、

「いつまで寝転がってんだボケ! アタシから連絡来るまで家で待機だ! 逃げんなよ!」

 と怒鳴った。

 彼らは泣きながら、傷んだ腕や腹をかばいつつその場を去る。原付とバイクの音が鳴り、去って行った。

 彼女は夜風に吹かれながら、左手の薬指にはめられた指輪にそっとキスする。

「待ってろよ、ハバ=カイマン。――必ず仇は討ってやるからな」


  ※※※※


 翌朝。

 獣人研究所の地下訓練場で、ラッカ=ローゼキは目をつぶっていた。隣には、各種計測機器を覗き込みながら住吉キキが待っている。

「よし、はじめ」

 とキキが言った。「焦らなくていいよ、今日はメンタルも安定しているみたいだ。自分がこれで良いと思ったタイミングで発動したまえ」

 キキはカメラごしにラッカの表情を見る。カメラは一台だけではない。彼女の動きを四方から見れるように、訓練場のあらゆる場所に最新型のスマートフォンが置かれていた。

 ラッカは目を開く。蒼灰色の瞳が、彼女の正面にある無数の人型の的を捉えているようだった。

 ――いよいよ見せてくれるのかい?

 キキが固唾を吞んで見守っているなか、ラッカは左手を拳銃の形にして、的のひとつに狙いを定めた。

「――『超加速』!」

 次の瞬間。

 ――くるのか!?

 そう思っているキキの視界から、ラッカの姿が消えた。

「なにっ!?」

 それだけではない。

 人型の的が全て同時に破壊され、音を立て、訓練場の土の上で粉々になりながら倒れていった。

 その際の様子を、どのカメラも記録できていない。

「――!!」

 キキが機械をいじっていると、うしろから、

「――どうだった? キキ」

 と聞こえた。恐るおそる振り返ると、そこにラッカ=ローゼキが立っていた。少し汗ばんでいる、が、疲労の色はない。

 キキはやっとラッカの型を目の当たりにした。そしてようやく確信する。

 ――超加速という言い回しのせいで分かりにくいが、これは超スピードや瞬間移動とは違う。スピードの向上に伴うはずのパワーの上昇はない、が、もしも彼女が筋肉を酷使していたら起きるであろう体力の消耗もない。それに――訓練場の地面には、ラッカの足跡がしっかりと残っている。カメラを再生すれば、それら足跡が全て「同時に」ついたことを観測できるだろう。

 ゆえに瞬間移動とも違う。本当にラッカは時間を止め、そのなかを移動しているのだ。

「は、はは――!」

 キキは思わず笑う。

 これは、これは強すぎる。野良の獣人だったら、文句なしのA級として、最悪の場合は自衛隊の出動も視野に入るレベルだ。

「ラッカくん」とキキは言った。「感覚値でいい。何秒くらい時間を止めたんだ?」

「んー」とラッカは天井を見る。「たぶん10秒くらいかなあ」

 10秒。

 恐るべきはこの型が、獣人の再生能力や肉体能力と相性がよすぎることだろう。

 一般的に、任意形式の時間停止能力にとって最大の弱点は、不意打ちに弱いということだ。しかしラッカは、いや獣人は、シルバーバレットを撃ち込まれない限り再生し続ける。

 そして10秒という短い時間さえ、獣人の瞬発力によって想像もつかない可能性が引き出されるのだ。

「まいったねえ」

 キキは笑った。「いま私は冷や汗をかいているよ。キミがどう思っているのかは知らないけど、キミが人間の味方で本当によかったと思う」

「そうなの?」

「――今日になって、どうして上手くいったのかは分からないけどね」

 そうキキが促すと、ラッカは少し考えるような素振りを見せてから、こう言った。

「トーリが言ってくれたんだ。人間の味方をすることに答えはなくてもいい。悩みながら頑張れるんだって」


  ※※※※


 こうしてラッカ=ローゼキの型の訓練は、期せずして軌道に乗ることになった。住吉キキは記録を取りながら、ラッカの動きをその両目に焼きつけ続けていく。

 結果。

 ラッカが順調に時間を止められたのは、最初の12回のうち6回となった。

「かなり型は安定してきたと言っていいかなあ。もう再登録を終了していいことにしよう」

「ほんと!?」

 とラッカは振り返る。「もう捜査にも復帰できる!?」

 その様子を見て、キキは切なくなる。この子は警察に戻れることが自由だと思ってるんだ。もし人間の女の子だったら、高校か大学でバカやってるような年齢のはずなのに。

「ああ。仕事に復帰していいよ。ただし条件がある。

 キミの超加速型はまだ完成に至っていない。定期的に研究所に顔を出したまえよ。そして、私が許可を出すまでは対獣人戦で超加速を発動する回数には制限をつける。

 ――1日に3回まで、だ。それを破ったら、発動できずに敵のアサルトライフルで撃たれても自己責任だからね?

 いいかい?」

「おっけー!」

 ラッカは笑った。「3回も停められるんなら、大丈夫だろ!」


 が。

 二人が病棟に戻ったときのことだった。看護師が慌てた様子でラッカのもとに駆け寄ってくる。

「大変です! 大変なんですオオカミさん!

 ――オオカミさんと仲良くしてたおばあちゃんが! おばあちゃんが、急に倒れてしまって――!」


  ※※※※


 同時刻。

 高輪警察署の黄瀬シュンジのPCに、殺人ピエロの犯行予定表が届いた。シュンジは最初は、なにかのイタズラメールかと思ったのだが、予定表に目を通すうちにそれが本物だと直感した。

 獣人捜査局第七班班長、日岡トーリに言われてリストアップした被疑者名簿と、予定表にある女の名前が一致しているのだ。

「おいおいおい――なんだよこれ、ヤバいだろ」

 シュンジは添付された送り主からのメッセージを読む。

《殺人ピエロは組織の後ろ盾を受けて、有名人の子息を狙っています。この情報が正しければ、次に殺されるのは小説家・小澤恩音の一人息子、小澤光です。

 彼は集団下校のなかで、50mだけ、他生徒と道別れて1人で歩くタイミングがあるのです。ピエロは間違いなく、次にそのご子息を狙うでしょう。

 小澤恩音は、議員の東谷ヒロコ、および女優の大川ショーコがSNS上で言及していた若者貧困層支援団体の助成金不正疑惑に対して踏み入ったコメントを残しています。つまり同じ理由で我が子を襲われる可能性があるということです。警察の皆さん、お願いです、ピエロを止めてください。

 特に、これが獣人事件なら、獣人捜査局のオオカミの力を、どうか貸して頂きたい》

そこまで読んだ黄瀬シュンジは、すぐにメールを印刷して警視庁刑事部に繋いだ。

「高輪警察署の黄瀬です! 殺人ピエロについて、次回犯行のタレコミがありました! 送り主は不明! しかし信憑性は大いにあります!

 今すぐ獣人捜査局に繋いでください! メールならすぐに転送できます!」

 シュンジがそう言うと、電話はまず警視庁刑事部から獣人捜査局に転送された。受話器を受け取ったのは第七班捜査員・田島アヤノである。

《殺人ピエロのスケジュールが送られてきた、ということでいいんですね?》

「そうです」

《確たる裏づけはありますか――?》

「今そんなこと言ってる場合じゃないでしょうが!!」

 シュンジは怒鳴った。

「このスケジュール表が正しけりゃ、ピエロは今日の夕方、児童の帰宅時間に犯行を起こす。本当かどうかはどうでもいい、まずは、ありったけの警官を呼んで護衛に当たるべきですよ!」

 シュンジがそこまで言葉を吐き出すと、少しして、電話先の田島アヤノがフッと息を漏らした。

《私も同じ意見です。まずはメールに書かれた子供の安全を確保しましょう。子供の命が、いちばん大事です》

「えっ、あ、はい――!!」

《所轄の、黄瀬シュンジさんでしたよね? 同じ気持ちの警官がいて、とても頼もしいです。私たちの猟獣であるオオカミの獣人は即時招集します。ご安心を》

 ――罪のない子供の命を守れなくて、なにが警察官だ。

 アヤノは電話を切った。シュンジは、それを確認してからPCの前に駆け出していく。


 こうして、ピエロ女による連続殺人事件は急展開を見せることになった。


  ※※※※


 ラッカ=ローゼキは慌てながら病棟を走っていた。

 ――おばあちゃん! おばあちゃんが倒れた!? なんで!? あんなに元気だったのに!?

 そうして看護師に案内され、病室に入ると、既に容態の安定しているおばあちゃんがベッドに横たわっていた。人工呼吸器を曇らせながら、目をつぶり、病院着でそこにいる。

「おばあちゃん――!」

 ラッカは思わずベッドに駆け寄り、しゃがみこんで彼女の左手を握った。隣にいた別の看護師が、ラッカを見下ろしながらため息をついた。

「こういうことは、もう何度もあったんですよ。薬が少しずつ効かなくなっているのかもしれませんね」

「え――?」

「今度同じ発作が起きたら、おばあさんは、終わりかもしれません」

 それを聞くと住吉キキは病室に入った。

「研究員の住吉だ。担当医に連絡を入れておけ。胸を捌いてマッサージしたことはあるか?」

「まさか!」

 看護師は涙ぐんでいた。「もう強い薬の副作用でも彼女は耐えられません!」

「――フゥン。手術に耐えられる体力もないか――」

 キキは冷静に老婆を観察したあと、ラッカ=ローゼキに言った。

「この女性は今日でなくてもいずれ死ぬ。キミと彼女のあいだにどんな関係があるか知らないが、覚悟は決めておきたまえ」

「そんな!」

 ラッカは立ち上がった。「なんとか、なんとかならないの!? ニンゲンは自然の掟に逆らってでも生きようとするんじゃないの!? そこは、そこは獣と違うんだろ!」

「医者は万能じゃない。命には限りがあるものさ」

 キキはそう言った。

「彼女は充分に生きた。大往生の範疇さ。――ラッカくん、キミが悲しむことはなにもないんだ。詳しい事情はあとで聞くよ――」

「そ、んな――!」

 ラッカは座り込む。

「元気になったって――私のおかげで元気になってくれたんだって、おばあちゃんの娘さんが言ってたんだ。薬もちゃんと飲むようになって。わ、私がっ――私がっ孫のカナタのフリをしてたから、おばあちゃんが元気になれたって思ってたのに――!」

 涙がこぼれてきた。

 イヤだ。イヤだイヤだイヤだ。理由は分からない。だけどおばあちゃんがこのまま死んじゃうのはイヤだ。

「う――うう、う――!」

 しゃっくりをあげる。キキは立ったままでいる。

 すると、

「カナタなのかい――?」と声がした。おばあちゃんが目を覚ました、その声だった。「――カナタが来たのかい?」

「おばあちゃん!」

 ラッカはもういちど、おばあちゃんの手を握る。「私だよ、カナタだよっ! おばあちゃん、起きてくれてよかった――」

「ははは」

 おばあちゃんは笑う。「なにそんなに泣いてんだい。バカだねえ。命の順番に文句を覚えたことはないよ、アタシはね。アンタが悲しむことはないんだ」

「ダメだよ――」

 ラッカはさらに、彼女の左手を強く握る。「もっと良い薬を飲めばさあ、きっとすぐよくなるよ。また中庭でおしゃべりしようよ? ね? ニンゲンの病院ってすごいんだから、そんなに諦めちゃだめだよ!」

「くはは――!」

 おばあちゃんは、ラッカの泣き顔を見ながら声を上げて笑った。

 それから、彼女は言った。

「オオカミの女の子は、人間と違って嘘が下手だね?」


  ※※


「え――」

 ラッカは呆然としていた。おばあちゃんに、嘘がバレていた? オオカミであることが、とっくに、知られていたのか?

「なんで――」

「カナタはブラックコーヒーは飲まないよ」

 おばあちゃんはそう言った。「昔から苦いのは大嫌いだったからね、カナタはね」

 それからラッカを見た。

「本当にカナタによく似てるね。顔も、声も、カナタが生き返ったみたいだ。でも、ちょっとずつ違和感が積もっていって、わりと早い頃に気づけたんだよ。――この子はカナタじゃない。別の子だなって」

 おばあちゃんは天井を見た。

「私、私――おばあちゃんにウソついて」

「いいんだ」

 と彼女は言った。「アタシを励ましたくて、元気づけたくて孫のカナタのフリをしてるんだなって、なんとなく分かったんだよ。それが嬉しくってねえ――思わず、オオカミさんのウソに付き合っちゃったよ。

 ここ最近は、楽しかった」

 おばあちゃんは体をよじると、もういちどラッカに顔を向けた。

「だけど、どうして、アタシに優しいウソをついてくれたんだい?」

「それは――」

 ラッカは自分の両膝を掴んだ。

「ニンゲンの味方でいたかった。ニンゲンに優しい自分でいたかったんだ。ニンゲンの世界で上手に暮らしたいと思ったんだ」

「そうかい?」

「でも、本当はあんまり上手くいってないんだ」

 ラッカは、自分が声が震えそうになるのをなんとか我慢した。

「ニンゲンの良いところを知るのは楽しくて、でも、悪いところを知るたびにいつも悩んでるんだ。皆が強いって言ってくれるのに、訓練もすぐ終わんないし。それに――おばあちゃんにちゃんとウソもつけなかった。

 悪い獣を狩ることだったら簡単にできるのに、仲良くなったおばあちゃん一人も、私には助けることができない!」

 そこまで言ったら、涙が止まらなくなって、ラッカはもういちどうずくまった。

 おばあちゃんは彼女をじっと見つめてから、ゆっくり両手を握った。

「オオカミさん、それで別にいいんだよ?」

「え?」

「オオカミさんは、オオカミさんのやりかたで、オオカミさんにしかできないことをやればいいんだよ」

 おばあちゃんは、にっかりと笑った。「ほら、答えてごらん。人間にできなくて、オオカミにしかできないことはなんだい」

 そこまで喋ったあと、彼女はゆっくりと目を閉じた。

 キキが近寄る。

「大丈夫、処置が効いて眠っているだけだよ」

 それを聞いて、部屋全体の緊張感がほぐれた。


 と。

 ラッカの胸ポケットにあるアンドロイド端末が震えた。涙を手の甲でこすりながら、通話ボタンを押す。

「もしもし?」

『ラッカちゃん? アヤノだよ。事件に進展あり。犯人の次の予定がリークしたの!』

「そうなんだ」

『猟獣訓練はもう終わった? 終わってたら、お願い、力を貸して! あとでデータと地図を送る!』

「――任せて。ワルの獣は、私が狩ってやる――」

 通話は終わる。

 それからラッカはキキの顔を見つめた。「仕事があるから行ってくるよ。私にできることをやってくる」

「そうかい」

 キキは肩をすくめた。「ちゃんと準備してから出発したまえ。――研究所の前に餞別を置いておくよ」


 ラッカは白銀の髪を後ろ手で結い、Tシャツの上にライダースジャケットを着て、ダメージジーンズ、そしてミリタリーブーツに足を通した。首からドッグタグを下げる。その反射が彼女のための光になった。

 

 そして研究所の玄関を出ると、セブンスターを吸う住吉キキと、そのとなりにバイクが並んでいた。

 どのメーカーのものでもない。単眼ライトの大きくゴツゴツしたボディがブラックカラーに塗られている。

「キミはバイクは乗りこなせると聞いていたからね。研究所のほうで専用車を用意させてもらった。

 獣人工学に基づいて設計してある。ボタン操作でパトランプも出るし、内臓のレバーアクション・ショットガンが手もとに収まる。大口径のシルバーバレット入りだ。着替えはボックスのなか。

 キミが獣人体になってブン投げても壊れない。リモートで最大射程の爆発もできる。完全に猟獣が乗り回す殺傷用の二輪車さ」

 マシン名は『WOLFISH DARKNESS 1500』。むろん非売品である。

 キキはそこまで言ってから、フンと息を漏らした。

「気に入ってくれたかい?」

「――うん」

 ラッカは座席にまたがり、ハンドルを確認する。「メッチャ良いね。大切に乗る、ありがとう」

 それからフルフェイスメットをかぶり、ラッカはアクセルを踏んだ。

 すぐにパトランプをつける。どいていく車を尻目にバイクはみるみる速度を上げた。

 ――待ってろ、殺人ピエロのクソ野郎。私がブッ飛ばしてやる!


  ※※※※


 小学五年生の小澤光は、同時刻、同級生や下級生といっしょに帰宅途中だった。

「だりぃーよなぁー!」と同級生が言った。「ガッコから帰るときくらい、好きに帰らせろってえの!」

「まあまあ」

 と光は笑う。「悪い大人もいるかもしれないし、それに獣人だって怖いじゃんかよ? 仕方ないよ」

「そうかね~? でも、おれの周りで獣人に襲われたヤツなんか全然いないぜ? 光、お前の友達にもいないだろうよ?

 なんか、ああいうのテレビのヤラセかなんかかって気がしてくるわ~!」

「そういうもんだって。気をつけてれば大人はガミガミ言わないんだからさあ、ここは良い子でいるんだよ」

「はあん?」

 同級生は呆れたような声を出した。そうして、帰宅路の分かれ道がやってくる。

ここから先は、光は家まで一人ぼっちだ。

「まあいいや」と同級生は笑った。「獣人なんかなんにも怖くねえよ! 俺がブチのめしてやる! 光のことだってバッチリ守ってやるぜ?

 ――んじゃあ、また明日な!」

「おう、また明日な。――今度はノート忘れんなよ。もう宿題写してやんねえぞ?」

 そうして小澤光は手を振ってから、家に向かう、人気のない坂道をゆっくり登っていった。

 ――母さん、まだ執筆かインタビューで仕事かなあ。ごはんはいつもみたいにレトルトあっためるかあ。

 そう思いながら歩いていると、坂のてっぺんに、

 ピエロの服を着た女の姿があった。

「え――」

 小澤光はその姿を凝視する。女は、カラフルなピエロ帽子にパステルカラーの衣装を身にまとって、靴先の曲がった奇妙なシューズを履いている。

 長い黒髪はそのまま。そして顔面は真っ白に塗りたくられており、悲しみの涙を模したメイクと、偽りの笑顔をつくる真っ赤な模様が、唇の端から耳もとの近くまでまっすぐに描かれていた。

 奇妙なのは、持ち物である。両手に業務用の銀バサミ。

「ボクちゃ~ん!」

 とピエロお姉さんは声を張り上げた。ショキショキ、とハサミを開閉する。「お姉さんと、たっぷり遊びましょうね~!」

 女は口を開いた。その口内は、ペンキを塗りたくられかのように真っ赤だった。

「え――え――!」

 小澤光は震えながら周囲を見渡す。だが、下校仲間とはもう別れた。近くに頼りになりそうな大人はいない。というか人がいない。つまり――誰も助けてくれない、そういう状況だった。

「ひゃはははははは!!」

 ピエロは哄笑を上げながら、陽気なスキップで近づいてくる。

 小澤光はすぐに逃げ出した。全力疾走だ。だがピエロは数分も経たず、余裕で追いついてしまう。

「は~い! 捕まえた~!」

 ピエロ女は言う。小澤光は震え上がった。彼女の全身から漂う匂いが、人間の大人の女と、なにも変わらないのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る