第9話 VS鋏道化 前編その3


  ※※※※ ――赤ずきんとオオカミの物語


 それは、とある山の出来事です。

 優しいオオカミは森のなかを歩いていました。オオカミはオオカミのくせに、ニンゲンのことが大好きだったので、ときどき道に迷っているニンゲンとお喋りするのがいちばんの楽しみだったのです。お喋りのお礼に、必ずオオカミは彼らの道案内をしてあげました。

 あるとき、オオカミは一人の女の子を見つけました。真っ赤な頭巾を被ったその子は地面に横になったまま、もう動きませんでした。

 どうやら、近くにある崖で足を滑らせて、そのまま落ちてしまったようです。

 オオカミは赤頭巾のカバンを探りました。すると、地図と、手紙と、手土産のパイがありました。

 手紙を読んでみて、オオカミは分かりました。赤頭巾は久しぶりにおばあちゃんに会いにいくために森のなかに入って、そうして今は少しも動けなくなっていることを。

「おばあちゃんは、赤頭巾に会えなくて悲しむだろうなあ。なんとかできないものだろうか――」

 優しいオオカミは、少しだけ考えたあと、彼女の真っ赤な頭巾を被ります。

 オオカミは優しい女の子でした。だから、赤頭巾のふりをして、地図をたよりにおばあちゃんの住むところへ行こうと思ったのです。

 だって、そうすれば、森のなかのおばあちゃんも寂しくないだろう、と――。

 幸か不幸か、おばあちゃんは目も耳も悪くなっていたから、オオカミの変装にはちっとも気づきませんでした。

「おばあちゃん。お土産のパイを焼いてきたよ。いっしょに食べようよ?」

「嬉しいねえ、赤頭巾。でも、あたしはもうすっかり食べものが喉を通らなくなっちまったから、一人で食べていいんだよ?」

「そんなあ。おばあちゃん好きだったでしょ? ちょっとでも食べて、元気にならないと!」

「優しい子だね――。こんな孫が幸せに生きていてくれるんだし、もう他にはなんにもいらないね」

 それから、おばあちゃんは悪くなった目で、オオカミのことを見つめました。

「赤頭巾、お前の耳はそんなに大きかったっけ?」

「えっと」

 とオオカミは迷って、

「森のなかで助けを求める人の声を、ちゃんと聞くためだよ!」

 そう答えました。

 おばあちゃんは首をかしげてから、こう続けました。

「そんなに目も大きかったっけ?」

「わっ、悪いことをするやつを見逃さないためさ!」

 オオカミがそう答えると、おばあちゃんはさらに首をかしげたあとで、

「口もそんなに大きくなったんだねえ」

 と言いました。

 オオカミは赤頭巾を被り直すと、

「ニンゲンに酷いことをするやつらを、この牙で、噛んじまうのさ!」

 と胸を張ってみせました。

 ところが、おばあちゃんは笑いました。

「赤頭巾、なに言ってんだい。あんたはただの女の子じゃないか? 悪いやつらをこらしめるなんて怖いことは、人間の女の子はしなくていいんだ。そんなのは狩人と、そいつのお友だちのオオカミあたりに任せちまえばいいんだよ?」

 おばあちゃんに合わせて、オオカミも笑顔をつくりました。

 ――ああ、おばあちゃん、あたしがそのオオカミなんだよ。

 なんて、本当のことはとても言えませんでした。


  ※※※※


 2023年4月4日(火)

 東京都五反田のオフィス。辻トモコ――ピエロだ――は社員PCのキーボードを淀みなく動かしていた。

「次の再委託先は決まりました~?」

 とトモコが訊くと、部下の新卒女子社員が手を上げた。

「はい。テストの自動化とアジャイルに強いところが見つかりました」

「そ~れ~は~、よかったですねえ~」

 キーボードを打ちながら喋るので、どうしてもゆったりした言いかたになってしまう。

「本当にもう」

 と新卒女子は言った。「オペラ座の怪人でしたっけ? ほら、ミミズの獣人。あんなのが会社にいたっていう事実で向こうの経営状態はガタガタになっちゃって。お陰でこっちは別のビジネスパートナーを見つけなくちゃいけないとか、なんか、いい迷惑ですよね?」

「まあまあ」

 トモコは笑った。「人を礎とする組織で不慮のトラブルは当たり前。どうやって対処するかで社会人としての腕が問われる。いまミカちゃんはチャンスなんだって逆に捉えないとね?」

「――はあい」

 そう新卒女子が返事をしながら作業に戻る間、トモコはエディターに文字を打ち込んでいた。

《くそだりいな、こっちの作業止めてまで愚痴ってんじゃねえよ。こいつにガキができたら同じようにターゲットだ》

 と。


 そうしてタスクを片付けたあと、トモコはオフィス一階のカフェエリアに降りた。同期の女がコーヒーを飲みながら近づいてくる。

「新人教育、上手くいってるみたいだね?」

 と同期が微笑んだ。「使えそうなの? 学歴は申し分なかったけど?」

「けっこう即戦力」

 とトモコは笑った。「頼もしいよ」

「そいつは十全」

 そう同期は歯を見せた。「――ねえ、トモコ大丈夫? あれから色々と」

「? なにが? 絶好調だけど」

「――だったらいいの」

 同期は歯切れの悪い顔を見せた。「ほら、トモコ、去年だったか色々あってから一時期すごく落ち込んでたでしょ? けっこう心配してたから」

「それなら平気」

 とトモコは目を細めた。「今は仕事に打ち込んでたほうが気が紛れるし」

 ――同期が言っているのは、去年、トモコがやっと妊娠できた我が子を流産してしまった事件のことだ。たしかに彼女はその日から世界の見えかたが変わった。

 その事件をきっかけに、獣人になったのだから。

「了解」

 と同期はコーヒーを飲み干した。「あとで二人でまた飲みとかにいこうよ。お互いの旦那の愚痴とかね」

「あはは! いいねえ!」

 トモコは手を挙げて合図したあとで、カフェエリアのソファに座った。スマートフォン端末にプライベートな連絡が届いている。その確認であった。

《やあピエロ。クロネコだ。東谷ユーマ殺害事件はなかなか反響が良かったよ。母親の東谷ヒロコ議員の記者会見もある。見るかい?》

「見る。データ送って?」

 トモコがそう返信すると、動画ファイルがそのまま送られてきた。

 ヒロコ議員が泣き崩れている。マスコミは容赦なくその姿を映像に残し、質問を浴びせる。

 報道機関の一部の低俗な連中には、目の前の政治家が生きた人間だという当たり前の想像力さえない。だから、大切な息子を失った母親のことを《政治家だ》という理由で質問責めにできる。

 ヒロコ議員はやがてパニックになって、泣き喚きながら地べたに両手を突いていた。

 トモコはそれを見ながら、舌を出した。

 ――お、おお、おおお、これが子供を失ったニンゲンの母親の表情ですかあ!? く、くく、くくく、気持ちいい~~!!!

 ママさ~ん! お前が泣くほど大事にしてたガキはピエロお姉さんのアタシがハサミで切り刻んでやったぞ!? 生きたまま、眼球も舌も内臓も性器もなあ!! 悔しいかあ!?

 悔しいよなあ!?

 アハハハハハ!!

 ニンゲンの母親ども!! 全員なあアタシと同じ苦しみを味わえよお!? 大事な大事な子供が殺されたときの絶望も、痛みも、み~んなピエロお姉さんといっしょになりましょうねえ~!? ――じゃなきゃこっちの気が済まねえんだからよ!!

 チョキチョキしちゃうぞ!!

 辻トモコはそこまで思ったあと、自分の唇からヨダレが垂れてスーツを汚しそうになっていることに初めて気づいた。

「やば、やばば――」

 手の甲で唾液をぬぐいながら、しかし、性的な興奮は収まらなかった。あの議員の泣きじゃくる姿、最高だった――オフィスの空きトイレを探して早く鎮めないと。

 すると、スマートフォンにさらに連絡が届いた。

《次回ターゲットのガキの襲撃時間が分かった。まだ気が済まないなら次はそいつを狙ってみるといいよ》

 そうクロネコ派は連絡してきていた。

《そうそう、ニンゲンの子供を守る不埒なオオカミ女には引き続きご用心。キミが戦って勝てる相手じゃない》

「――へえ?」

 トモコは――ピエロは――、いや、もうクロネコ様から与えられた名前があるんだ、それを名乗ろう。

 トレコトレマータ=プラチュラは、オオカミの女に俄然興味が湧いていた。

「ニンゲンに絶望していない獣人? それってどんな子なのかな~?」

 追い詰めて、そいつも切り刻んでやりたいなあ~?

 そう思いながら、辻トモコは偽りの微笑みを浮かべながらオフィスのトイレに入った。


 ちなみに、そんなトレコトレマータ=プラチュラの凶行に関心を抱いているクロネコ派は、二匹いた。

 オオカミ女への復讐を誓うクイーン=ボウと、そんなクイーン=ボウを監視しているヴァンデ=ブラの部下たちである。


  ※※※※


 ラッカ=ローゼキはおばあちゃんといっしょに、病院の広間でテレビを見ていた。少し前までは、悪代官をやっつける将軍の時代劇が流れていたのだが、今は、ニュース映像へと変わっていた。

 キャスターは《またしても獣人による猟奇殺人事件が発生しました》と言った。

《被害者はBI(ベーシックインカム)党、東谷ヒロコ議員の息子、東谷ユーマくんとのことです。遺体が発見された公園では――激しく損壊されており――

 ――失礼しました。

 遺体が激しく損壊されており、また、犯人の残した犯行途中の声明を残したビデオテープも押収されていることから、警察は、政治的なテロリズムの可能性もあると見て調査を進めています》

 そこまで努めて冷静を装って原稿を読み上げたのだろうキャスターは、少しだけこらえてから、さらに原稿を読み上げようとして、

《失礼しました》

 と顔を伏せた。《失礼いたしました。あの、申し訳ありません》

 その声は涙ぐんでいた。

 ――ニンゲンの子供が獣人に殺された。あのキャスターの人にも家庭があるんだ。だから自分の身に置き換えて耐えられなくなっている。

 ラッカはそう気づいてから、隣にいるおばあちゃんに向き直った。

 ――おばあちゃんも獣人のせいで孫を失っている。大丈夫なのか。

 しかし、おばあちゃんはノンビリした様子で「怖い世の中だね、ほんと」と言った。それからラッカを見て、

「カナタも気をつけな。夜遅くなんか、出歩くんじゃないよ」

 と言った。「ほんと、獣人なんて生き物、大昔はいなかったんだ。皆ビクビクしてるよ。なんでこんな時代になっちまったのかね?」

 そんなおばあちゃんの言葉に、ラッカは、

「――そうだよねえ」

 としか返せなかった。おばあちゃんは自分の孫が獣人に殺されたことを覚えていない。

 だから私のことを自分の孫娘だと思い込んでいる。

 おばあちゃんは腕を組むと、

「警察には頑張ってもらわなくちゃねえ。

 なんだっけ、オオカミの獣人だっけ? 最近捜査に使うようになったんだろ?

 頼もしいよねえ。悪い獣人なんか全部そのオオカミが喰っちまえばいいんだ」

 と言った。

 ラッカは曖昧に頷く。

 ――でも、おばあちゃん。私は本当はその獣人なんだよ。私がそのオオカミなんだ。

 とはいえ、そんなことはとても口にできなかった。

 やがて看護師が来て、

「ミツコさん、ベッドに戻りますよ?」

 とおばあちゃんを連れていく。おばあちゃんも素直に従いながら、ラッカのほうに振り返った。

「カナタ! また明日もよろしくねえ! 今度はボーイフレンドの話も、ちゃんと聞かせなよ?」

 そんなおばあちゃんに、ラッカは笑顔をつくりながら手を振った。そうして自分も寝室に戻る。

「まいったなあ」

 と声に出して言った。「やっぱ、うん、ちょっと――しんどいな」

 そうして寝室に帰ったラッカは、ノートPCを立ち上げてドライブ上の捜査資料を確認。次にメーラーを開いてトーリからの連絡を読み上げた。

 チャットツールでトーリと会話しながら、ラッカはとりあえず事件の捜査について思いついたアイデアをバンバン喋っていく。いつものことだ。

 ただ、文章に元気がなかったのかもしれない。

 トーリから「大丈夫か?」と連絡が来た。

 ラッカは顎をぐっと引く。

 ――やばい。力を抜いたら泣いちゃいそうだ。でも、あれ? なんで、こんなに辛いんだっけ?

 とりあえず指を動かして、「通話したいよ、トーリ」とだけ送信した。

 電話はすぐに鳴る。

「もしもし」

『俺だ、日岡トーリだ』

「ああうん、ラッカだよ」

 声を聞くだけでちょっと安心できる。

『事件のことか? それとも、病院と研究所のほうでなにかあったのか?』

 とトーリは訊いてきた。『もし俺が聞いていいことなら、聞かせてくれるか』

「――うん」

 とラッカは頷いた。

「あのさ、トーリ――」

 そう彼女は切り出した。「自分の心から生まれた本物の気持ちと、誰かに植えつけられた偽物の気持ちって、どうしたら見分けがつくんだ?」

 ラッカがそう訊くと、数秒間の沈黙のあとで、

『獣人研究所の地下牢を見たんだな』

 とトーリは言った。

「うん、見たよ?」

「俺としては、ラッカには隠し事はしてなかったつもりだ。嘘もついてない。ラッカ以外の猟獣は、ああいう場所で訓練を受けたし、そこで、人間に都合のいい価値観を押しつけられて獣人本来の攻撃衝動を抑制されている』

「――うん」

『でも』

 とトーリは言葉を繋いだ。『実際に見てみるのとは、やっぱり違ったか』

「そうだね」

 ラッカは少しだけ自嘲した。「実際にこの目で見てみると――思ったより、わりと辛い」

『そうか』

 そのあと長い沈黙が続いて、やがて、トーリが言葉を繋いだ。

『人間の側も清廉潔白じゃないのは俺も知ってる。人間と獣人の戦争は、決して善と悪の戦いってわけじゃないんだ』

「――うん」

『それでも俺が人間の側に立つのは、俺が人間だからってだけだよ』

「――うん」

『ラッカには、これも最初から分かってたことだが、辛い立場を強いてるかもしれない。それでも、俺は、ラッカが自分の頭を使って、自分の心で決めたことに従ってほしいと思ってる。考え続けた上で』

「――そっか」

 とラッカは呟いた。

「自分の頭で、考え続けなくちゃいけないのか。綺麗な答えとかが、いきなり空から降ってきたりしないの?」

『――そんなことは永遠にないんだ。人として、獣として生きていきたいなら、生きることは悩むことのなかにあるんだよ。

 たぶんな』

 トーリのそんな言葉を聞いて、ラッカはようやく、なんとなくすっきりした気持ちになった。正確に言えば、もやもやしている自分の気持ちを、もやもやしたままでもいいという風になった。

「分かったよ、トーリ。手っ取り早いウソの正解に飛びつくんじゃなくて、いっぱい悩めってことだな?」

『――まあ、そうだな』

「ありがとう。

 それじゃ私、いっぱい悩んで、これからも自分の心で決めてみるぜ」

 こうして通話は終わった。ラッカはベッドに腰を下ろしたまま、ぎゅっと、自分の拳を握りしめていた。

 ――カナタはね、獣人に殺されたの。

 ――悪い獣人なんか、全部そのオオカミが喰っちまえばいいんだ。

 そんな言葉が、いつまでも彼女の脳裏に響いていた。


  ※※※※


 2023年4月5日(水)

 通報に従って現場に行くと、日岡トーリの目の前にはさらに新しい死体が転がっていた。

 中目黒の公園。今回も男児の死体が腹を切り裂かれている。そしてその腸が、今度はロープで引っ張られて公園の木々の枝に結び付けられていた。

 死体のわきには電動式のシャボン玉マシーンが備え付けられており、近くに置かれていたラジカセに合わせて、無数の泡を空に放っていた。

 おそらく、どのタイミングでマシーンを起動するかは時限式か遠隔操作で決めているのだろう。トーリたちが現場に来た朝の時点でもシャボン玉はフワフワと空を浮いていた。

 ラジカセにセットされているのは、引き伸ばされて低音のスロー再生にされた童謡。『シャボン玉』だった。

 トーリの隣で、田島アヤノが青筋を立てていた。

「ありえない」

 と彼女は言った。「悪趣味がすぎますよ、今回の犯人。こんな風に小さい子供をいたぶって、なにをどうしたいんですか!?」

「落ち着こう」

 とトーリは言った。「ここで俺たちが感情的になったら犯人の思うツボだ。仮に獣人を特定しても、ラッカの戦いに全てを任せなくなる。――今は我慢だ」

 そこへ、捜査一課と所轄の二人組が現れた。「詳しくは検死のあとだと思います、が、ご遺体の身元は特定できました。舞台女優・大川ショーコのご子息の、大川カズキですね」

「――舞台女優?」

 トーリは振り返る。「今度の被害者は、政府の関係者じゃないんですか?」

「ええ」

 とベテラン刑事は答えた。「有名人という意味では同じですが、彼女に政治的な活動歴はありません。つまり、東谷ヒロコ議員のときとは事情が異なります」

 彼は目を鋭くした。

「公安の連中が言うような――今回の事件がある種の政治的な報復テロである可能性は、非常に小さいと言わざるを得ません。犯人はひたすら、テレビで話題になるような人間の子供を狙っています。ある種の愉快犯ですな」

「なるほど――」

 トーリが顎に手を当てて考え込んでいると、さらにうしろから、

「刑事部の諸君」

 と低い男の声がした。それは警視庁公安部・鮫島カスミのものだ。

「浅いサーヴェイで予断を口にするのはやめてもらおうか。獣人捜査局の特権行為を止めているのは我々公安部だ。こちらの調査結果をまずは聞いてもらおう」

 彼の宣言に、捜査一課と所轄の刑事は揃って舌打ちをする。

 カスミはそれに構わず、レポートを日岡トーリの端末に転送した。

「――この舞台女優、大川ショーコは、東谷ヒロコ議員の活動にSNS上で賛同している」

「なに?」

「正確には、極左テロ組織との繋がりを疑われている若者貧困層支援団体、その金回りを最初に疑った有志の匿名人物がいるんだ。

 東谷ヒロコ議員は、政治家としての義侠心でこの匿名人物に賛意を示した。結果、国家の秩序に逆らうウジ虫どもにバッシングされたが――このとき舞台女優の大川ショーコは東谷ヒロコの迅速な動きを支援している。

 大川ショーコ自身、潤沢な蓄えをもとに国際的な貧困救済基金を立ち上げている人物なんだ。

 崇高な理想を持って生きている人間にとって、いちばん我慢ならない存在はなんだと思うかね? それは自分自身によく似た紛いものだ」

 鮫島カスミはここまで言うと、日岡トーリの顔をじっくりと見つめた。

「つまり実際には、獣人案件を装った政治的報復テロの可能性はさらに深まったということだよ」

 トーリは彼の言葉を真正面から受け止めてから、

「鮫島さん」

 と言った。「逆の可能性はないですか? 獣人案件を装った政治的報復テロのフリをして、今回の獣人はただ自分自身の快楽を満たしている。俺たちの捜査方針が一致しないのを見越して遊んでいるということです。――少なくとも、こいつは犯行のタイプとは不釣り合いなまでに頭がいい。――なにしろこれだけ派手にやって物証がないんです」

 トーリの言葉に、鮫島カスミは少し顎を撫で、じっくり考え込むような仕草をした。

 それから、

「もちろんその可能性は否定できない」

 と言った。「しかし、もしも私の仮定が当たっていたらどうするんだ? そのピエロとやらを捕まえたとして、そいつがシラを切ったら、うしろで糸を引いている組織は無傷のままだぞ」

 トーリとカスミは睨み合った。

 そのとき、現場のテントから第七班捜査員佐藤カオルが出てきた。

「所轄の皆さんと調べました」

 と彼は言った。「近くの監視カメラに怪しい影はなし。あるとしても、このピエロ、顔の角度を変えて絶対に自分の個人情報を漏らさないようにしています。

 ――大川ショーコのご子息、カズキくんですが、事件当日である前夜は放課後に学習塾に行き自主学習。そして送迎の車が数分遅れた時間に行方不明となって、現在に至ります。車が遅れた原因は市民運動家を名乗る男女による妨害、だそうです」

 佐藤カオルがそこまで言うと、鮫島カスミはフンと鼻を鳴らした。

「もう決まりではないですか。ここまで有名人の子息について綿密なスケジュールを把握して、たった数分の隙をつくるための協力者もいたらしい。こんなことはただの快楽殺人者にはできないでしょう。もちろん野良の獣人にもだ。

 獣人捜査局の皆さん、ここはご理解を頂きたい。

 我らが日本国の敵は、獣人だけではないんです。いや、獣のやることなど結局は個人的な快楽殺人の延長でしかないのだから、取るに足りません。

 本当に恐るべきは極端な政治思想に走ったテロ組織、デモ集団、そして、ならず者国家の工作員共ではないのですか?」

 鮫島カスミは声を張り上げてそう言った。そしてそう言うと、捜査一課・所轄の刑事も、アヤノもカオルも、なにも言い返せなかった。

 が、トーリは違った。


「『クロネコ』たちだ」


 と彼は言った。「『クロネコ』と名乗る獣人の連中が人間の反社会的な連中に擬態してるんだ。それで辻褄は合う――」

「なに?」

「俺もカスミさんも踊らされる寸前だったってことだ。よく考えてみろ。政治的な報復テロをやるってんなら、なぜ本人を狙わない? なぜ当人の子供だけを狙う?」

 そうだ。

 そこが鍵なのだ。

 今回の獣人はなにかとんでもなく個人的な私怨を、社会的なテロリズムに偽装しているに過ぎない。

 トーリは立ち上がった。そして、カオルのほうに向き直る。

「所轄の捜査員はまだバラしていないな?」

「え? ――ええ」

 とカオルが答えると、

「そいつらに言っておいてくれ。ここ数年で子供を流産か堕胎で失った、都内30代前後女性を全員ピックアップしてほしい。いや、流産だけでいい。――山崎タツヒロは彼らをバックアップしろ」

 そう言ってからトーリは現場をあとにした。

 手もとのスマートフォンには、ラッカ=ローゼキからの連絡がある。昨日、トーリがなんとなく気になって質問してみたことの回答が届いていた。


 質問:なあラッカ。ピエロとハサミが同時に登場する小説ってあるのか?

 回答:そんなのないよ。あー、でも。スティーブン・キングの『IT』はそうだったかもしんない。

 質問:どういう話なんだ?

 回答:子供たちだけを狙って殺すピエロの怪物の正体がカニなんだよ。


 ありがとう、ラッカ。ぜんぶ繋がった。

 想像を働かせろ。犯人の感情をトレースしろ。

 ――ひとりの女がカニの獣人になった、だからハサミを使うことにした。ハサミが意味するものはなんだ?

 へその緒を断ち切るための医療器具だ。

 そうして子供の腹を裂いて内臓を引きずり出した。出産に失敗したことのメタファー。だから童謡のシャボン玉を流した。

 シャボン玉は、弾ける受精卵の比喩だ。童謡「シャボン玉」の歌詞にはそういう解釈がある。

 シャボン玉は屋根まで飛んで、風に吹かれて壊れて消えたのだ。

 たぶん最初の犯行で風船を使ったのは、そういう機械を準備できなかったからだろう。

 ここまで来れば全てが分かる。

 ピエロの化粧が意味するのは、児童殺害と凶器のハサミを結びつける道具立てであり、犯人である彼女が泣きながら涙を隠して笑っていることの象徴なんだ。

 ――では、なぜ涙を隠して笑っていた?

 自分の流産の悲しみを夫婦で分かち合えなかったからじゃないか。

 だから自分の苦しみを他の全ての女に味合わせようとしたのでは。

 トーリは歩きながら、自分の思考が、ただ弾けていくのを感じた。

 ――最初の被害者の母親が政治家であることも、次の被害者の母親が女優であることも直接的な犯行理由じゃない。


 そういう有名人の子供を狙えば、――。

 それが今回の獣人の動機なんだ。

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