第9~12話 Minutes to Midnight
第9話 VS鋏道化 前編その1
※※※※
2023年3月1日(水)。箱根、高級温泉旅館。
客室浴場で、クロネコは素っ裸のままジップロックに入ったスマートフォンをいじっていた。そしていくつかのニュースを見たあと、
「ふーん?」
と声を漏らし、風呂から上がってタオルで体を拭き、客室へと戻った。そこで飲み食いしていた仲間たちが振り返る。全員クロネコの部下だ。
ヴァンデ=ブラ
ノコリ=マヨナカ
ホル=ハワタリ
トーボエ=ピル
シュドー=バック
ランデ=カナリア
アノ=バリアテ
ハツシ=トゥーカ=トキサメ
フカミ=アイ
リトウ=ワン
クイーン=ボウ
アダム=アダム=アダム
「どうしたあ? クロネコ」
とヴァンデが訊く。
それに対して、クロネコはシャツを着てズボンを履きながら、
「ハバ=カイマンが死んだ」
と答えた。「夜牝馬を回収するようにこっちは頼んだんだけど、失敗しちゃったみたいだね。悲しいけど、仕方ない」
彼はそう言った。長い黒髪、男か女か分からない痩せた体、そしてエメラルドグリーンの瞳。
彼の言葉が終わった直後、バキ、と音が鳴った。
クイーン=ボウが刺身をつまむ用の箸を力に任せて割る音だった。
紫の長髪。崩した和服に包まれた体は身長185を超える筋骨隆々の女。美形だが、殺気の込められた瞳と太い眉が女性性を感じさせない。
「なんでハバが死ぬんだ? アイツぁ強ぇだろ?」
「発表によると、オオカミが同じ船に乗り込んでいたみたいなんだ」
「――あ?」
「人間の捜査局も獣人オークションの捜査をしていたってことだよ。そこでたまたまハバの任務と衝突した。特にオオカミの猟獣がいたのが辛かったね。あの子は僕たちにとっても規格外の存在だ。負けて死んでもおかしくない」
クロネコが淡々と説明するのを、他の仲間たちは冷静に聞いていた。「そっか、ハバさん死んじゃったのか」とか「良い奴だったのにな~」とか言っているだけだ。
だが、クイーン=ボウだけは違った。
拳を振り下ろし、目の前のテーブルにヒビを入れた。
「おいおい」
とヴァンデが諫めた。「どうしたよ? 落ち着けって。ここの旅館は個々のお湯から客室の家具に至るまで最高級だ。壊しちまったらバチ当たんぞ?」
「黙れ」
「あ?」
ヴァンデの制止も聞かず、クイーンは立ち上がった。
「クロネコ――テメエやってくれたなあ?」
「やった? 僕が? なにを?」
「オオカミはテメエのお気に入りだろうが。あのオオカミ女を鍛えて強くするために、テメエは順当に獣人をぶつけていったんだ。そして今回のオモチャがハバ=カイマンだ。
違うか?
テメエ、オオカミを目覚めさせるために、アイツが型を発動しなくちゃ勝てないギリギリの敵をぶつけたかったんだろ。そうだろ?
――なんとか言ってみろよ」
クイーンが凄むと、残り11人の仲間たちが全員殺気を宿した。一部のメンバーは、部分獣化の手前で臨戦態勢に入る。
――下らねえ言いがかりでクロネコに仇なすなら、殺すぞコラ。
そういう雰囲気が、皆に宿っていた。
一方のクロネコは、ただヘラヘラと微笑んでいた。
「クイーン=ボウ、考えすぎだよ。僕に獣人捜査局の動きが全部読めると思う? たしかに僕がオオカミを面白がってるのは本当だよ。でも今回は純粋な事故だ。だいいち、僕にとってハバ=カイマンは大切な仲間だったんだ。こんな遊びには使わない」
そして彼は両手を挙げた。
「僕を信じられないならいいさ、ここから抜けていいよ。それも仕方ない。でも僕は、まだクイーン=ボウにはやってほしいことがあるんだ。だから信じてくれると嬉しい」
彼がそう言うと、全ての動きが止まった。
クイーン=ボウはしばらく黙ったあとで「なら信用するよ、クロネコ殿。今のうちはな」と言い、その場に座り込んだ。
――全員の殺気が解けた。
クロネコは、ふう、と息をついたあとヴァンデのほうを向き、
「タバコ吸いに行かない? なんか緊張しちゃったや!」
と笑った。
そして二人で廊下に出たあと、
「クイーン=ボウの監視役を複数人つけておけ」
とクロネコは言った。
「あいよ」
とヴァンデは頷く。「まあ、こじれる前にこういうのは始末だよな」
「あとオオカミの情報も、それとなくクイーン=ボウには流しておいてね」
「へいよ。で、なんで?」
ヴァンデが訊くと、クロネコは朗らかに微笑んだ。
「もちろん、もっとオオカミには強くなってもらわなくちゃ面白くないでしょ! だってあの子ハバを殺せたんだよ? 今度はクイーンだって殺せる!」
「――ヒハハ!」
とヴァンデは笑った。「クロネコ殿の趣味は、面白いったりゃないぜ!」
※※※※
カンバセイションピース号の事件が終わったあと、ラッカ=ローゼキは退屈な日々を送っていた。
案件はなかった(平和でいいことだが)。だから、毎週の座学、射撃訓練、車両訓練、実地訓練の他には、本を読んで読書日記をつけるか、濃いサングラスをかけて街に出る日々を繰り返していた。
尾木ケンサクのライブにも行った。以前、途中で終わってしまった飲み会もやり直したりして楽しかった。
「不思議だよなあ」
とケンは言った。「テレビでは大注目の猟獣なのに、俺たちにとってはファン1号で、ただの友達だもんな」
「ははは!」
とラッカは笑う。「次のライブも呼べよ~、ケン!」
「――なあ、ラッカ」
「うん?」
「ラッカ、すげえことしてるだろ。悪い獣人を狩るって普通じゃねえし。だからさ、大変なこととか、辛いこともあると思う、きっと」
「え? ――えーと、うん」
「そういうときちゃんと吐き出せよ? オレ、すげえ相談乗るから。同じ警察官相手だと話せないこととかもさ」
ケンサクが、酒の勢いに任せただけなのか、それとも普段から溜め込んでいた本音なのか真剣な顔でそう言ってきたとき、ラッカは、それを嬉しいと思った。
「ありがとな、ケン! なんかあったら、絶対ちゃんと相談する!」
「お――お、おう」
ケンサクは顔を赤らめて、頭をボサボサとかいていた。
そして、2023年3月22日(水)。
ラッカがベッドに寝そべってエラリー・クイーン『Yの悲劇』を読んでいると、女子寮の前に車の停まる音が聞こえた。
しばらくしたあと、仲原ミサキがラッカの部屋のドアを開ける。まだ身体は本調子に戻っていない、松葉杖の姿だった。
「トーリくんが来たよ」
「え? トーリが?」
ラッカは慌てて階段を降りる。玄関には、日岡トーリがスーツ姿で待っていた。
「トーリ!?」
「連絡、届いてなかったか? 今日は臨時の実地訓練の予定なんだが」
「えーっ!? そうだったっけ!? ちょっと待ってて、待ってろ、もう急いで支度するから! やばやば――!」
そうして着替えを引っくり返して、なんとか準備を終えたラッカを、トーリは助手席に迎え入れた。
アクセルを紳士的に踏む。
「すまん。リマインドすべきだった。予定としてはイレギュラーだったしな」
「いやあ、私が忘れたんだし――!」
「普段は座学だろ? 今はなんの勉強してるんだ?」
「微積分とか複素数。楽しいよ。あと物理と化学も地学も。生物は、獣人科学の部分が難しいかな」
「そっか、ラッカは理系だもんな」
「歴史とか地理とか公民は法則がないから、なんか覚えにくいや。英語もそうだけど――」
「ははは。発音と文字が同じじゃないからな」
「そう! そうなんだよ!」
そんな風に、トーリの運転するBMWは進んでいった。ラッカの「ていうか、古文とか漢文とかってなんの役に立つの?」という疑問に、トーリが「俺たちが悩んでることの大半、そこに書かれてないか? そういうのを読めたら、読めないよりは人生が助かるんだ」と答える、というやりとりが続いた。
こうして二人は東京都獣人研究所に到着した。
獣人研究所は日本に七箇所しかない(北海道、宮城、東京、愛知、大阪、広島、福岡である)。そしてそのなかでも幼少期からの猟獣訓練用のスペースがあるのは、東京と大阪の二箇所だけ。
そういう場所にラッカとトーリは車を停めた。
「今日はなにすんの? トーリ」
「ラッカはこの前、型にハマったろ? 超加速型」
とトーリは言った。「それがどのくらい強いのか、デメリットがあるとすればどんなデメリットがあるか、きちんと調べる必要があるんだ」
「ふ――うーん?」
「短ければ1週間で再登録は終わるよ。俺も付き合うから、気長にやろう」
「短ければ――?」
ラッカが訊くと、トーリは頬を少しかいた。
「まあ長ければ1か月はかかるのかな――」
「1か月うぅ――!?」
※※※※
ラッカとトーリは獣人研究所に入った。ほとんど全ての研究所は人間の総合病院と並んでいるし、場合によっては入り口も共通している。
二人はエントランスに入った。
「やあやあ」
と声がした。「時間どおりだったね、トーリくん」
誰だ? と思ってラッカがそちらを向くと、ひとりの女性が立っていた。
物憂げな垂れ目に、ボブカットの茶髪、そして、だぼだぼの白衣の袖にすっぽり両手が隠れている風変わりな女科学者だった。
「私は住吉キキ」
そう彼女は言うと、ラッカに右手を差しのべた。「東京都獣人研究所の一級研究員だ。キミの型についての再調査を頼まれてる。よろしく頼むよ、ラッカくん」
「あ、はい」
ラッカが手を握ると、キキはにっこりと笑い、そのままグイッと力を入れて彼女を引き寄せた。――科学者とは思えない、怪力。
「質問だ」
と、キキはマウストゥマウスの至近距離で言った。「正規の猟獣訓練を受けていないキミは本当にニンゲンの味方なのかな? それとも敵?」
「え――」
ラッカはキキの瞳を見つめ、数秒ほど考え込むために俯いたあとで、また目を合わせた。
「ニンゲンの味方で、そうありたいって思ってるよ。まだまだ――だけど」
その答えに、キキは目を見開いた。
「へぇ――驚きだよ」
そう彼女は言った。「キミは自分の頭で考えて答えを出してる。たしかに猟獣訓練の思想教育を受けていないんだね」
それからキキは右手を解放した。
「普通の猟獣は、さっきの質問にはノータイムでYESと答えるんだよ。そう『教育』されるからね。でもキミは違う。
――なるほど興味深いな。洗脳なしにニンゲンの味方をやれる獣人かあ。おそらく先天性の獣人が特殊な生育環境で異質な価値観を手に入れたのかな? うん、これは調べ甲斐がある」
キキが思考に没頭しているので、トーリは、
「なあキキ」
と声をかける必要があった。「自分の専門分野に集中するのはあとにしてくれ。今はラッカの力を再調査するのが先だろ?」
「おおっと、そうだった! 失敬失敬」
キキは我に返ると、「それでは訓練場に案内しよう。ラッカくん?」と微笑んだ。
そうして廊下を歩くなか、ラッカは気になっていることを訊いてみることにした。
「トーリとキキさんって、知り合い?」
「同期だな」
とトーリは答えた。「ただ、キキは脳ミソが優秀だったから――現場に出るよりも研究所で知見を積むことを選んだ、って感じだよ」
「へえ――」
ラッカが呆けていると、キキが
「キミのところの山崎タツヒロくんは元気かい?」
と訊いてきた。
「ああ」
トーリは頷く。「あいつのサーベイの速さには、いつも第七班の皆が助けられてる」
「そりゃそうさ」とキキは微笑んだ。「私の後輩でいちばんの秀才だったからね、カレは」
そう言ったあとで、キキはラッカを振り返ってから言葉を繋いだ。
「しかし――いろいろと可哀想なヤツではあった。
共同研究の論文執筆という形で、タツヒロは自分の功績を指導教授に奪われたんだよ。学生と教授とふたつの名前が表紙に並んでいて、その研究内容がほとんど学生によるものだなんて人々は想像できない。
――研究不正は私が暴いてあげたけど、彼は嫌気が差して捜査局に入ったってわけ。
言っていたよ。『少なくとも狩人は、その弾丸がどの銃から発射されたのか分かるから良い。大学研究はショットガン程度の倫理観さえ持つことができない』ってね」
そうして三人は訓練場に到着した。人型の的が大量に置いてある簡易型の砂漠だ。
「さあラッカくん」
とキキは言った。「超加速型とやら、私に診せてくれたまえ」
「――了解」
ラッカは喉をごくりとする。
超加速。時間を停める――たぶん、いや、絶対にそういう型だ。
トーリが見てる。研究者のキキさんって人も見てる。
――やってやる!
ラッカは人型の的に対して、人差し指で拳銃の形を向けると、
「超加速!」
と言った。
ハバ=カイマンと戦ったときはそれで時間が停まったのだ。
――時よ停まれ!
だが、
どれだけ待っても、ラッカの周りの時間は停止してはくれなかった。キキもトーリもずっと待っている。
「あれっ?」
とラッカは首を傾げたあと、何度も、
「超加速!」
「超加速!」
「あーもう、時間停まってくれってぇ!」
「数秒だけでいいから! お願い!」
と叫ぶはめになった。
ラッカの時間停止が失敗し続けたあと、キキは腕を組んだ。
「よほど強い能力だからねえ――なにか発動条件があるか、あるいは、まだ型が安定していないんだろう」
※※※※
最初の調査はこんな感じで、ラッカは一度も超加速型を発動できないまま終わった。
「まあまあ、気長にやろうじゃないか」
とキキは言った。「今後は心電や脳波を測定しながら、再現可能性を探っていこう。今まで型を発動できた状況についてもヒアリングを進めるからね」
「そこまですんの?」
驚くラッカに対して、キキは微笑む。
「いちどだけ起きた僥倖を奇跡と済ませるのが宗教。条件を揃えれば反復可能と信じるのが科学だ」
それから彼女は、ラッカを7F角部屋に案内した。「今夜からはここで寝泊まりしてもらおう。食事やドリンクも管理するから」
「タバコは? お酒も飲めないの?」
ラッカが不満を言うと、キキはきょとんとしてから、ハッハッハと声を上げて笑った。
「キミィ、本当に人間みたいなことを言うねぇ? 東京に来たばかりのときに、身体検査でちょっと病院にいたときもそうだったの?」
「そのときは――知らなかったから」
「へえ」
キキはラッカの体を舐めるように観察する。
それが、ラッカには居心地が悪かった。
「うん」とキキは頷いた。「まあベッドは柔らかいし、テレビもある。PCはネットに繋がっていてサブスクも見放題だ。のんびりするといいよ」
彼女が廊下に出ると、次にトーリがラッカの前に来た。
「慌てなくていい」
と彼は言った。「ラッカの型は頼りになる。キキといっしょに、ゆっくりとそれを探してくれ。俺もできるだけ様子は見にくるよ」
「トーリはどうすんの?」
「それなんだが――」
トーリはスマートフォンを出した。「いま起きてる殺人事件の追加捜査員として、第七班が呼ばれそうなんだ。そっちにも顔を出す」
「そっか――」
ラッカは少し凹んだ。もしかして、また捜査から外されるってことなのかな――と思ってしまいそうになる。
だが、
「安心してくれ」とトーリは笑った。「オペラ座の怪人のときみたいなことはしない。調査結果はラッカのアカウントにきちんと送る。もし分かったことがあれば教えてほしい。――相棒だからな?」
それを聞いて、ラッカは目の前が開けたような気分になった。
「――うん!」
※※※※
こうして、ラッカの検査生活が始まった。
住吉キキの空いている時間を借り、診察器具に繋がれながら型の発動を試してみる。そのときの値を詳しくレポートにまとめられた。
他方で、キキからこんなことを言われた。
「病棟は自由に歩いていいよ。庭もあるし、他の入院患者と交流してもいい。そのとき気になることがあったら、なんでも報告してくれたまえ。もしかしたら、それも型を発動させる変数かもしれないからね」
「なるほど」
ラッカは病院を歩き回った。看護師に車椅子で押される老婆がいた。椅子に座って深く落ち込む中年男性を、隣席で慰めている婦人がいた。逆にあっけらかんとした様子で、スマートフォンで会話している若い女がいた。静かに泣いている幼い男の子と、彼をほとんど気にかけていない母親がいた。
ラッカは呆然としていた。なんだろう、この景色って。
付き添いの看護師が「どうしました?」と訊いてくる。
ラッカは、
「病院ってなんなんだ」
と言った。「オオカミとして、山で生きていたとき、こんな場所はなかった。群れの奴らはみんな自然に生きて自然に死んでた。母ちゃんもそれを良しとしてたよ。それは大地との約束だ、って。
――ニンゲンはそうじゃないの?」
「面白い意見ですね」
と看護師は笑った。「自然の定めた死にも抗う。運命に抗うのが、人間なんですよ」
「そうなんだ?」
ラッカは看護師のほうに振り返った。自分はニンゲンというものを全く分かってなかったのではないか、という気持ちになった。
「じゃあ――自然の定めた死を否定するなら、ニンゲンはいつ死ねるの?」
「さあ――難しい話ですね」
看護師は曖昧な表情を浮かべる。小柄だがふくよかな体に、水色の看護師服。短く切り揃えられた黒髪。年齢は40~50といったところ。
「でも」
と彼女は言った。「あたしはこう思うんです。息子はまだ小学生ですが、もしアイツが難病にでもかかったら――たとえそれが自然の定めた死でも、あたしは大枚はたいてアイツを救うだろうって。
そういう気持ちだって自然な感情ってやつじゃないですか? オオカミさん」
付き添いから解放されたあと、
ラッカは「うーん」と考え込みながら、一人、病棟の中庭にあるベンチに座って日の光を浴びていた。
「人間ってやっぱり色々違うんだな――獣人から守ることばっかり考えてたけど、そうじゃないんだ。なんかもっと、色んなものから身を守ってるんだな」
彼女は1日1本許可されているブラックコーヒーを飲み干しながら、中庭の様子を眺めていた。
キャッチボールをしている父子がいた。
砂場をシャベルで荒らしている20代の女もいた。彼女の背中には「私は私の寝室を覚えられません。看護師の日根居さんを呼んでください」という貼り紙が貼ってあった。
そして向かいのベンチには、70代か80代だろうか、そのくらいの歳の老婆が腰かけていた。手持ちの杖を隣に置いて、ぼーっと空を見上げている。
なんとなくラッカも、それに合わせて空を仰ぐ。晴れていて風が気持ちいい。雲の動きを見つめるだけで時間を潰せそうだと思った。
あのおばあちゃんも、同じ気持ちで風に雲を見てるのかなあ。
なんだか春の気温も相まって、自分が暖かい気持ちになるのを感じる。
ラッカは少し笑顔になりながら、老婆のほうに視線を戻した。
老婆も、ラッカのほうに視線を寄越していた。
「――?」
ラッカが首を傾げていると、老婆はそばにあった杖を掴んでゆっくりと近づいてきた。
背は低い。腰が曲がっているのもあるが、もともと150に満たないだろう。白髪交じりのベリーショート。病院着に包まれた体は、ひどく痩せていた。
そんな老婆が長い長い時間をかけながら、ラッカ=ローゼキの目の前に立つ。
「え――?」
ラッカがただ戸惑っていると、老婆は、
「か、カナタなのかい?」
と声をかけてきた。
――カナタ?
ラッカの脳裏に疑問符が浮かび続けている間も、遠くでキャッチボールの音は止まらなかった。硬球がグローブに収まる気持ちいいパシッという音と、さらに風を切って投げ返される音。
「カナタ――ねえカナタなんだろう!?」と老婆は声を上げた。
「え――」
「なんだいもお!」
と老婆は笑った。「お見舞いに来てくれたんなら、そう言っておくれよ! こっちはずっと待ってたのに、忙しいやらなにやらでぜんぜん会いにきてくれなくて、ばあちゃん寂しかったじゃないかあ!」
「えっ、え――?」
「まあ学校が大変なのは知ってるからね。ばあちゃんもワガママは言いません。大事な孫娘が勉強がんばってくれるのが、そりゃいちばんだからね――」
老婆は勝手に納得したあと、ラッカの顔をさらに見た。
「どうしたの、その髪は!」
「えっ!?」
「真っ白に染めちゃって! 元の綺麗な亜麻色が台無しじゃないか! これもファッションなの?」
「え、染め、え?」
「それになんだい、そのカッコ。バイク乗りの男の子みたいなカッコしちゃって――! 昔はフワフワしたお姫様みたいなお洋服、ばあちゃんがいっぱい買ってやったろ?」
「あ、ああ――!」
ラッカは目を泳がせた。
――たぶん私、今、この人の孫娘のカナタってのと勘違いされてるんだ!
どうしよう。
ラッカは迷いながら老婆を見上げた。彼女のほうはラッカを睨みながら、しかし、最後はニンマリと笑う。
「――男か~?」
「いや、そういうんじゃないよ!!」
ラッカは思わず、素のまま返事をしてしまう。
――まずい。早く人違いの誤解を解かないと。
そうラッカは思うのだが、老婆のほうは元気いっぱいになっていた。
――さっきまでボーっと空を見上げていたのが、嘘みたいに。
「食堂に行こうね、カナタ! ここの病院、病院のくせにごはんがおいしいんだよ! 獣人研究所の予算のおかげかね? せっかく見舞いに来たんなら、いっぱい食べてきな!」
そうして彼女は病棟に戻っていく。
「ま、待って!!」
とラッカは追いかけた。
私、カナタじゃないんだよ。おばあちゃんがずっと待ってる孫娘のカナタじゃない。オオカミのラッカ=ローゼキなんだ! 誤解なんだよ!
本当は、真っ先にそう言うべきだったのだ。
しかし、ラッカの声に振り向いた老婆が「なんだいカナタ?」と微笑むと、ラッカは、なぜかもう本当のことを言えない。
「あっ――おばあちゃん、あの」
「ほんとうに嬉しいよ、カナタ。孫と会えるなんて何年振りかね。なんだかね、最近はいつくたばってもいいって思ってたけど、お前のおかげで元気が出てきたよ!」
と彼女は言った。
ラッカの脳裏に、看護師の言葉がよぎる。
――自然の掟に定められた死を否定したいっていうのも自然な感情でしょ。
ラッカは少し立ち尽くした。そして老婆が振り返るころには、思わず、というか、咄嗟の気持ちでそうしてしまったということなのだが――。
嘘をついたのだ。
「いやあ、私もおばあちゃんに会えて嬉しいや!」
そうラッカは笑みを浮かべてしまった。
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