第7話 VS夜牝馬 前編その2


  ※※※※


 豪華客船カンバセイションピース号が沖合に出てから1日目の夜中。天候は悪くなく、空には星が輝いていた。波も穏やかである。

 その海を、一匹のワニが泳いでいた。全長10メートル。腹の具合から時間の経過を察しつつ、予定時刻に合わせて船に近づいていく。

 そのとき、客船の第三層の窓が開いた。仲間によって、鉄製のロープが垂らされる。

 ワニは海面近くでその鉄縄に噛みつくと、仲間が縄を引き上げるその瞬間に人間体に戻り、筋骨隆々の両腕でロープに掴まった。

 カンバセイションピース号へと侵入する。

 彼の名はハバ=カイマン。ワニの獣人。短髪を緑色に染めた強面と巨体。

 人間体に戻ったばかりで、全裸だ。

「服を寄越せ、同胞」

 とハバが言うと、先ほどロープを手繰った三人の仲間のうち、女の子が着替えを持ってきた。タンクトップとハーフパンツ。

「ありがとうよ、フゥラ」

 そう言いながらハバはジッパーを閉め、さらに自分が入ってきた客室の窓をゆっくりと閉めた。

 仲間の三人は全員10代、以下のとおりだ。

 フゥラ=クローネン、ハエの獣人。

 カーナロア=ニウド、タコの獣人。

 デカポッダ=マキュラ、エビの獣人。

 全員、かつて高速道路でハバに助けられた元商品である。

 彼は部下を連れて廊下に出た。――目的はひとつ。豪華客船に囚われた獣人の商品を助け出すためである。

「それにしても」と、先ほどフゥラと呼ばれた少女は言った。「侵入をこんなに簡単に許すのは、よほど人間が油断している――ということなのでしょうか?」

「そうとも限らんな」

 とハバは言った。

「獣人の型には非対称なモノだってある。オレの錠前型もそうだが、たとえば『結界に入ることは許すが出ていくことは許さない』というタイプだったら、厄介だな。こりゃ罠だ」

「なるほど――」

「その場合、このオークション自体がオレたちを誘い出す餌かもしれんぞ。なにしろ商品が一部奪われたのに、こいつらは平気で獣人売買を続行している。

 なぜだ?

 考えられるのは、売人がオレらを迎え撃つため、とかだなあ。そうしてクロネコ様の情報を吐かせる気だろ」

 そんな風にハバが説明しながら廊下の角を曲がる。向こうに、大量のピストルを持った黒スーツの男たちが立っていた。

「ほ~らな、おいでなすったぜ」

 とハバは笑った。「よおヒトザルども、名を名乗れや!」

「鮎川ホールディングス私設兵、兵長パク・チョギョクスだ」

 と禿げ頭の男は名乗った。「宮本組の若い衆を攫って商品盗ったのは手前らか? 獣人」

「ああ、オレがあいつらの命を『閉じた』。今度はお前の息の根も『閉じて』やるぜ? ヒトザル」

 そんな挑発のあと、ハバはフゥラを横目で見ると、

「こいつらチンピラはオレが殺す。お前はその間に型を使って夜牝馬を探せ」

 そう言った。

「はい、ハバさん」

 フゥラはそう答えてから、目を閉じて手を合わせる。

 フゥラ=クローネン、ハエの獣人、脅威度C級。探索型。顔と名前を知っている対象の居所を、彼女は一分以内に知ることができる。

 フゥラが目を閉じて汗を流している間、廊下は、鉄砲の音、爪と牙が人間の肉を切り裂く音、飛び散った内臓が壁にぶつかって破裂する音、そして悲鳴と怒号が響き続けていた――ハバ=カイマンがチンピラども10人を殺戮するには、その一分で充分だった。

 フゥラが目を開けると、廊下は人の死体で真っ赤だった。

「フゥラ」と、返り血まみれのハバが言った。「夜牝馬が囚われてる客室に案内しろ。ちと暴れすぎたな。もしこの船に獣人捜査局の連中も乗り込んでたら――猶予は一切ねえ」

 それに対して、フゥラはゆっくりと頷いた。ひとえまぶたの、そばかすの多い、黒髪をクリップでまとめた地味な服装の女。

「前に進んで三つ目の角を左に曲がり、さらに五つ目の十字路を右に進んだあと三分岐を左に進んで階段を降りてください」

 フゥラ=クローネンは夜牝馬の居場所を正確に探索し終えていた。

「そこにいる夜牝馬を起こして型を発動すれば、この船にいる全ての人間は簡単に死にます。そうすれば、私たちクロネコ派の勝利です」

 それを聞くと、ハバは顔の返り血を拭いながら――その手の甲には黒獅子のイレズミがある――笑った。

「ああ――行こう」


  ※※※※


 ハバとその部下、フゥラ、カーナロア、デカポッダは、彼女が見つけた道をそのまま辿っていった。そして、部屋のドアの前に立つ。

「あのう」

 と、カーナロア=ニウドが小声を出す。「本当に夜牝馬さんがここに?」

「なにが言いたい?」

 そうハバが囁くと彼は少し慌てて、

「あー、いえ、その」

 と言った。「そんなに強いA級獣人の夜牝馬さんが、今は、なんでこんなところにいるんですか? だって強いんでしょ。型が発動しただけで人が死ぬなんて」

「ま、それは当然の疑問だわな」

 ハバは静かに頷く。「夜牝馬は1983年ヨーロッパの生まれだ。だが冷戦後はソ連圏に奪われ、各地を転々とするうちに中華系のヤクザに強奪された。夜牝馬っていう名前はそのとき付けられた。

 そして今は商品という形で日本の海にいる。

 力は強いが、抑える方法はハッキリしてた。ただ眠らせなけりゃいい。だから、痛みを与え続けて覚醒状態にされ続けた。今だって腕輪かなにかで定期的に針を刺されているだろうよ。哀れな女だ」

 それからハバは、ふっと冷たい目になった。

「人間どもはなんで、さっさと夜牝馬を殺してやらなかったんだろうな? どうして、そんなに恐ろしい獣を始末してやらなかったのか。

 その理由は簡単だよ、カーナロア。

 ヒトザル同士の戦争に役に立つかもしれないから、惜しいから、生かされ続けてるんだ」

 なあ、そんな――カスみたいな所業が許されるのか?

 ハバ=カイマンは、少しずつ獣の瞳になった。「オレらで夜牝馬を救い出す。そして腐ったニンゲンどもを皆殺しにしてやるぞ」

 それを聞いて、部下の三人は真剣な目で頷く。

 彼らの覚悟を見ると、ハバはすぐドアを『開けた』。錠前型に鍵は必要ない。

 客室に入ると、そこは集合寝室になっており、びっしりと詰められた部屋に、獣人たちが胴体と手足を縛られベッドに固定された形で横たわっていた。

 見張り番の男は、五人。全員、マカロフをぶらさげた宮本組の若い衆である。

「え、え――!」と一人が言った。「ドア、え、鍵っ! 鍵なんで開いて――」

「ハァーッ! ハッハッハッハァ!」

 ハバはすぐに飛びかかると、二、三発の銃弾を食らいながら――部分獣化の爪で一人目のチンピラの首を切り裂く。その生首を掴んで、二人目に豪速球のストレート。腹に穴が開くと、崩れ落ちた。

 三人目が拳銃を構えた――が、その脇腹はフゥラの持つサバイバルナイフに刺され、内臓損傷。そのまま失血死。

 四人目と五人目がマカロフの安全装置を外した瞬間、ハバは、身近なベッドを蹴り上げて盾をつくり、視界を隠す。

「なんだってんだよぉ!」

 そんな風に怒鳴った四人目の拳銃は、すっと、彼の手を離れてカーナロアの手のひらに引き寄せられた。

 カーナロア=ニウド。

 タコの獣人。脅威度C級。吸収型。手のひらに収まるモノは全て自分自身に引きつけることができる。

「はは、はは――!」

 カーナロアは笑った。「銃がなけりゃ、なんにもできねえ! 人間って可哀想だな!」

「野郎!!」

 四人目がそう怒鳴った瞬間だった。ふっと視界を横切る形でハバが跳躍した。

 それと同時に、四人目と五人目のチンピラは、鼻と唇の間あたりで横一本に、頭部を切断されていた。動脈血が勢いよく天井に星空を描いていく。血のプラネタリウム。

「おーし、ヒトザル狩り、ゲームセットだ!」


 全ての見張り番が死んだあと、ハバたちはベッドをひとつひとつ物色し、やがてとうとう夜牝馬を見つけた。

 目に包帯を巻かれている赤毛の真っすぐな女。鼻孔と口腔にチューブを取りつけられ、絶対に栄養失調にならないように精密機械で管理されている。

 左腕に十本、右腕に十本、針つきのベルトが装着されていた。定期的に彼女を刺して痛みを与えることによって、深く眠らせないようにするためだ。

 ハバは彼女を見た。本来は美人の部類に属するのだろう。だが今は、数十年にわたる苦痛と不眠によって、その表情は酷く痛ましい。もうずっと、こんな風に生き長らえさせられてきたのだ。

「夜牝馬。いや――ジュリア=ナイトメア=ウィティッグ」

 ハバはその腕輪を少しずつ外していった。

「今日はぐっすり眠れるぜ。お前の力で、人間に復讐してやれ。最強の獣人よ」


 そうして、夜牝馬の型が発動した。

 馬の獣人。脅威度はA級。安眠型――射程距離1キロ以内の人間を強制的に眠らせて、悪夢のなかでゆるやかに、しかし確実に殺す。


  ※※※※


 同時刻。

 警視庁獣人捜査局の第四班班長、中村タカユキはサビィら部下を連れて第一層の廊下を歩いていた。今、第七班班長である日岡トーリは社長の肩書で豪華客船にいる。ゆえに寝室は豪奢なスイートルーム。猟獣のラッカもそこにいる。

 ――前から反対意見は出していたんだ、俺だって。

 ラッカがどれだけ獣人として興味深くても、有用だとしても、人と信頼関係を築くことができるとしても、そんなことは関係ない――いや、だからこそ奴は危険なんだ、と。

 タカユキはトーリの寝室の前に立った。後ろを振り返る。

 部下のサビィ=ギタ、桑山ザンセツ、黒木カンミ、前川テンカがそこにいた。

 もう後戻りはできない。

「行くぞ」

 とタカユキが言い、あらかじめ用意したマスターキーをドアに刺し込もうとした、

 そのときのことだった。


 ――第三層の深奥部で、夜牝馬の能力が発動する。


 ずうん――と。

 第四班の人間の身体に、急激な眠気が襲ってきた。

「なんだ――いったい、なにが起きてる?」

 タカユキはその場に跪く。右手から、拳銃のグロック17が零れ落ちて廊下に転がった。

「まさか、夜牝馬か――あ――?」

 頭を何度も振りながら彼は振り返る。桑山も、黒木も、前川もその場に倒れていた。

「なんで――誰が――ヤツを解放した?」

 眠い。

 眠い、眠い横になりたい意識を落として楽になりたい。

 そんなタカユキの体を、サビィ=ギタが抱きかかえた。

「タカユキさん! どうしたんですか? タカユキさん!」

「まずった、サビィ――計画は中止だ」

「はぁ!?」

「誰かが夜牝馬を先に見つけて、眠らせやがった――もう人類は敵わない。じきに全員、死ぬ。あいつはA級だ。ここにいる奴らは終わりだ」

「そんな――!」

 そんなサビィの目に涙が浮かんでいるのを見て、ふっと、タカユキは少し笑えた。

「サビィ――お前だけでも逃げろ。俺は――獣人は人類の脅威だと思ってるが、――お前のことは――き――」

 気に入ってんだ、サビィ。

 そう言い終わる前に、タカユキの意識は悪夢へ落ちて行った。

「あ――?」

 サビィは、どうしたらいいか分からない。

「タカユキさん? タカユキ! おい!」

 どれだけ揺さぶっても、返事はなかった。

 どうすりゃいい――そう思ったサビィは、次に、綺麗さっぱり計画のことは忘れることにした。

 つまり、トーリとラッカがいる寝室のドアを何度も叩いて助けを求めた。

「トーリさん! おい!

 第七班班長、日岡トーリ! 返事してくれ! 第四班は全滅した! みんな寝ちまった! 夜牝馬だ! 夜牝馬が発動しちまったんだ! どうすりゃいい!? ラッカもなんとか言ってくれ!」

 ドンドンドンドン――と、サビィは泣き喚きながら、ドアを叩き続けた。

「俺どうしたらいいか分からねえよぉ!!

 タカユキ殿の命令がなけりゃ、俺、生きていけねえよ――」

 

 泣き疲れたサビィは、その場にへたり込んだ。


 そのときに、

 寝室のドアがゆっくり開いた。

 ――オオカミの獣人、ラッカ=ローゼキが廊下に出てきた。洋服は昼のタキシードのままだ。当たり前だが、髪も黒く染められたストレートのままである。

「あ、サビィか?」

 とラッカは言った。「ヤバい。トーリが目を覚まさない。どんだけ体を揺さぶっても眠ったままだ」

「トーリ班長も?」

 サビィはまぶたをこすった。「敵の獣人だ――夜牝馬っていう奴で、ニンゲンだけを眠らせる。このままだと全員死ぬ」

「――なるほどな」

 ラッカはサングラスを外す。

 そしてブラウスの上ボタンを外し、体を動かしやすいようにした。ドッグタグが客船のネオンライトに照らされ、海の向こうにある月と反射する。

 それが彼女のための明かりだった。

「獣人のことは眠らせらんないってことだろうな――こうなりゃ手分けして獲物を探すしかない。サビィ、猶予はあと何分あるんだ?」

 サビィは喉をごくりと鳴らした。このオオカミは――もう飼い主を守って相手を狩ることだけに脳ミソを切り替えてんのか?

 それを見て、彼も即座に獣人の眼光を取り戻した。


「90年代に漏洩したソ連圏の研究だと、夜牝馬は悪夢のなかで平均1時間でニンゲンを殺すらしい。――それがタイムリミットだ」


  ※※※※ 悪夢――田島アヤノの場合。


 同時刻。

 あれっ、と思いながら、第七班捜査員の田島アヤノは夢のなかで目を覚ました。そこはかつて通っていた高校の教室だった。自分の席に座っている。

「あれぇ――? 私ってたしか、カンバセイションピース号で侵入任務についてたはずなんだけどなあ――」

 そう思いながら自分の服を見る。学校指定の紺色のブレザーを着ている。

「あれぇ――?」

 そうアヤノが首を傾げていると、

「どしたあアヤノぉ? そげん風に首っ子ひねっで?」

 と隣で声がした。

 そちらを向くと、幼馴染で大親友の江古田ミズホが隣に座っていた。同じ制服。楽しそうに笑っている。

「うおお!」

 アヤノは驚きながら、だけど、嬉しくて笑った。「なんぞミズホでねが! ひさしぶりだなあ」

 長いあいだ忘れていた地元の方言。それが思わず出てしまっていることに、彼女は気づいていない。

「なにが久しぶりってぇ? おめ、居眠りしすぎて頭ボゲんでねのが? ガハッハハ!!」

 とミズホは笑う。

 そう、二人は幼馴染で大親友だった。あるときは、

「おめの将来の旦那が情げながったらオラがしばいたるべ。安心だわな、アヤノは!」

「な! そげなこつば言ったらオラだってミズホの将来の旦那ちゃんと教育ずるわ!」

 そんな軽口を叩き合いながら尻を蹴り合って何キロもある登下校の山道を歩いていた。

 だが、二人が将来の伴侶を紹介し合う未来は来なかった。

 ミズホが後天性の獣人になり、村人口の半分を喰い殺し、そうしてアヤノがシルバーバレットで息の根を止めたからだ。

 彼女にとっては、幼馴染の大親友が最初の獣狩りだった。


 どうしてミズホが獣人になったのかは、分かっていない。ただひとつ、

 村にひとつだけある学校の中年教師と、彼女は男女の仲になっていたという。だから、最初の被害者はその教師だった。

 ほぼ全員、獣人捜査局に通報する前に首を切られていた。ようやく事態に気づいて現れた捜査員はたった1人。その男性も乱闘のなかでミズホに殺されてしまった。

 アヤノはその場に座り込み、恐ろしさのあまり失禁し、なにもできなかった。

 そして、

 殺された獣人捜査局員の拳銃――グロック17が、彼女の前に転がってきた。

 アヤノはそれを拾った。既に獣と化したミズホへと構える。

《アヤノォォ――!!》

 と獣のミズホは言った。

《アタシば撃つなぁ!

 アヤノぉ、アヤノは親友だ! おめえだけは喰わんどいてやる!

 んでも他のニンゲンはアタシの敵だァ! アヤノ! 銃ば下ろせアヤノ!

 ――おめ親友のアタシ殺す気が!?》

「うああああああああ!!!!!」

 トリガーを何度も引いた。

 発砲。薬莢が飛ぶ。

 発砲。薬莢が飛ぶ。

 発砲。薬莢が飛ぶ。

 発砲。薬莢が飛ぶ。

 全てミズホの体に命中した。拳銃がホールドオープンの状態になる。

 シルバーバレット――獣人の再生能力を抑制し、その細胞を急速にガン化させて即座に死に至らしめる人類最期の武器。

 獣のミズホは、血を吐きながらその場に崩れ落ちた。

《なんでぇ――? なんで、アヤノ――なんで――?》

 彼女は、涙と、そして体中から血を流して絶命した。

「はぁ、はぁ、はぁ――」

 アヤノは返り血にまみれながら、自分の右手を見た。グロック17を握りしめたままだ。

「あ、あう、ああ――!」

 固く握りしめた右手から、筋肉の硬直で銃が離れなかった。どれだけ左手で殴ったり指でほどこうとしても、拳銃は体から外れてくれなかった。

「ああああ! あああ!」

 アヤノは泣き喚きながらその場にうずくまった。

 ――彼女が上京し、警視庁獣人捜査局員の教育課程を受けることを目指したのは、そんな出来事が理由である。


 そして今は、悪夢のなかで、当時のミズホが教室で隣の席に座っていた。

「変なのぉ、アヤノ」とミズホは笑う。「おめ変な夢ば見てたんでねのが?」

「ゆ、ゆっ夢――?」

 アヤノは、自分の表情が少しずつ歪んでいくのを感じる。

 あ、そうか。

 ――そりゃ、夢だ。

 ミズホが獣んなったのも、オラがそれ撃ち殺したのも、そのあと――警視庁の狩人なんかになったのも、ぜぇんぶ悪い夢かあ。

「はは、はは、ごめんなミズホ。なんが寝ぼげてたわ」

「ガハハハ! アヤノはしょーがねえの!!」

 

 こうしてまずは一人目、田島アヤノが悪夢のなかで教室に閉じ込められた。


  ※※※※ 悪夢――橋本ショーゴの場合


 ショーゴは病院の廊下で我に返った。

「なんだ――?」

 彼は周囲を見渡す。そして、自分の服装を確かめた。タートルネックのセーターにチノパン。厚手のコート。仕事中オールバックにしている前髪は、今は、全て下ろしていた。

「そうか、今日は休みだったっけか?」

 彼は銀縁眼鏡の位置を直そうとして、気づいた。自分が右手に青いバラの花束を持っていることに。

 廊下の奥から、50代くらいの太った看護師が近づいてきた。

「橋本さん、ご無沙汰しております。妹さんの病室は、もっと日当たりのいいところに変えました。こちらですよ?」

「変えた?」

「だって、せっかく意識を取り戻したのに、あんな機械ばっかりの真っ暗な部屋は寂しいじゃないですか」

「ああ――」

 ショーゴは曖昧に返事をしつつ、看護師についていった。病室のドアを開ける。

 妹の橋本アイコが、ベッドで上体を起こしてそこにいた。うなじを刈り上げた、おかっぱのくすんだ茶髪。綺麗な二重。

 病院着の下の体は、ずいぶん骨ばって痩せていたが、それでも意識不明の頃よりは健康的な色をしていた。

「最近は」

 と看護師は言った。「自分で食事もとれるようになりました。あんなに繋いでたチューブは必要ないって話でしたよ?」

「そうですか――」

 ショーゴはゆっくりと妹のアイコに近づく。

 アイコは、ぶう、と膨れた。

「お兄ちゃん、来るの遅いよ。また仕事だったんでしょ?」

「そうだな――ごめんな?」

 ショーゴは青いバラを花瓶に入れて、椅子に座った。「仕事ばっかりで、ホント、駄目なお兄ちゃんだな。おれは」

 彼は――妹にしか見せない、優しい笑みをそこで浮かべることができた。


 橋本アイコが獣人に襲われて生死の境を彷徨い、意識不明のまま病院に閉じ込められていた時間は、およそ10年。


 不倫の罪を犯した両親のどちらからも捨てられ、親戚間をたらい回しにされながら、兄妹は、それ以外に寄り添うものなどなにもないと思って生きてきた。

「結婚なんかしない」

 とアイコは言った。「どうせママとパパみたいになっちゃうでしょ。だったら、あたしお兄ちゃんとずっと一緒ってだけでいいよ」

「そうだな――」

 当時のショーゴは曖昧に頷いた。「――おれもアイコだけでいいよ」

 そんな彼が獣人捜査局に志願したときは、反対された。

「なんで!? なんで、そんな危ない仕事につくの!?」

「お前は頭がいい。お前を大学に行かせるために金が要るんだよ。ま、安心しろ。おれは簡単には死なんから」

「大学なんて行かない! お兄ちゃんのそばにいるのに、勉強なんか必要ないじゃん! お兄ちゃんのためにご飯をつくって、お家を掃除して、洗濯物を畳んで――あたし、あたしそれだけでいいよ!」

「聞き分けろよ。

 おれはお前のことを思って言ってんだ。いつまでも兄貴に縛られるな。呪われるな。真面目に勉強して良い仕事について、良い夫を見つけんだよ」

 そう言うと、ショーゴはアイコに味噌汁をぶっかけられた。

「お兄ちゃんのバカ!」

 と彼女は泣いた。「あたしはずっと縛られてたいよ! 呪われてたいの!」

 そんな喧嘩の翌日、橋本ショーゴがつまらない班員会議に出ている時間帯、アイコは獣人に襲われたのだ。

 ――そのときから、仕事の獣人駆除も拷問も全て復讐に変わってしまった。


 病室で、

「ごめんな」

 とショーゴは言った。「アイコの言うとおりだったのに。本当に駄目なお兄ちゃんだったなあ、おれは――」

「分かればよし!」

 とアイコは笑った。「ねえ、リハビリ終わったら旅行とか行こうよ! 沖縄の離島とかどう!? 仕事なんか休んじゃいなよ!」

「そうだな」

 ショーゴは微笑む。「長い休みをとっちまおうかな。いや、狩人よりも安全な仕事に転職しようか――そのほうが、アイコとずっといっしょにいられるな」

「わーい! やっと狩人やめるんだね!? ありがと!!」

 アイコはショーゴに抱きついた。

「おいおい」

 とショーゴは苦笑する。「兄貴と妹がこんなにベタベタするもんじゃないぞ?」

「いいの! 普通の結婚なんか要らないの! あたしずっとお兄ちゃんがいいんだもん!」

「ハハ――そうかよ?」


 こうして二人目、ショーゴは悪夢のなかで病室に閉じ込められた。


 ――夜牝馬は人間に夢を見せる。そのニンゲンが心から望んでいる悪夢を。

 そして《現実には帰りたくない》と思わせながら、彼らを静かに殺すのだ。

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