第6話 VS劇場霊 後編その1
※※※※
日岡トーリはラッカ=ローゼキとの通話を終えたあと、岡部クリス――歌姫のスウィーテが休んでいる部屋を訪れた。
田町の高級ホテル、808号室。
ノックすると、チェーンの向こうで見張り番の田島アヤノが立っていた。
「あ、トーリさん。ちょうどよかった。今から呼ぼうと思ってたんです」
「なにかあったのか?」
「私は止めたんですけど――今やってる犯人の動画を見たいって」
アヤノがチェーンを外し、トーリは室内に入る。岡部クリスは震えながら、ベッドの上で自分の体を抱きしめていた。顔色は悪い。近くのテーブルに、さっきまで動画を再生していたのだろうSurfaceが置かれている。
彼女の黒いロングヘアはぐしゃぐしゃに乱れ、支給された服はロクにボタンも合わせられず、はだけていた。
「わ、わたっ、わたしっ――」と、クリスは歯をガチガチ鳴らしながら喋った。「私、私のせいでっ、色んな人――死っ――私、どうすれば――!」
「クリスさん」とトーリは声をかけた。床に膝を突いて、彼女を脅かさないように下方から話しかける。
「今、貴女が勇気を出せば、オペラ座の怪人が人質に取っている数十人の人間は助けられるかもしれません」
「えっ?」
「もちろん酷だとは思います。断ってもいい。ですが、捜査に協力してくれませんか」
「えっ、えっ」
クリスは見るからに狼狽えていた。
アヤノが近寄ってくる。
「トーリさん、それってどういうことですか?」
「ラッカが教えてくれた」とトーリは答えた。「原作でオペラ座の怪人が愛した歌姫の名はクリスティーヌ。スウィーテの本名の洒落だ。犯人は、この名前に俺たちが考えている以上の思い入れがあると見ていい」
そして、怪人は原作では、才能あるクリスティーヌに「音楽の手ほどき」を与えているうちに歪んだ愛と執着に溺れてしまったという経歴がある。
そこが鍵なのだ。
「クリスさん」とトーリは言った。「クリスさんに、今の音楽への道を示したメンターのような存在はいませんか。あるいは直接的な師匠といったものは?」
「いません、独学です」
とクリスは顔を伏せる。
――やはり、そう簡単にはいかないのか。
「では」とトーリは言った。「あなたは独学で、独力で、アマチュア界の有名な歌い手になったあと、誰の助けも借りずメジャーアーティストになった、そういうことですか?」
その問いに対して、クリスはしばらく黙ったあと、
「いえ、違います」
と答えた。
「15歳のとき、まだ機械に慣れていない私に、SNSで親切に相談に乗ってくれた人がいました。録音環境を整えたり、作曲ソフトを使いこなせたりしたのは、その人のおかげです。アマチュアの同人CD即売会でも一度だけ顔を合わせました。
―—そのあとは、会ったことがありません。仕事も忙しいと言ってましたし、引退したのかなって思って、それきりでしたけど」
「その人の名前は?」
トーリが訊くと、一拍置いて、クリスは感情的に立ち上がった。
「ま、まさか――五味さんのことを疑ってるんですか!?」
「本名もご存知でしたか。下の名前はなんて言うんですか」
トーリの追撃に、クリスは――歌姫のスウィーテは、ほとんど絶叫に近い声を上げた。
「刑事さん、取り消してください!
五味さんは、ユキオさんは優しい人だったんです! こんな酷い事件を起こせるような人じゃない!!」
トーリはクリスの絶叫に答えない。ただ、五味ユキオという固有名が分かっただけだ。骨伝導のインカムを耳につけ直す。
「タツヒロ――容疑者の名前が分かった。五味ユキオだ。警視庁のデータベースに当たってくれ」
『おっけーっす』
タツヒロがそう答える間にも、クリスは感情を乱し続けた。
「刑事さん! ねえ――ねえ聞いてください。あの人はそんな人じゃないんです! だってあの人、即売会で列に横入りされても笑うだけで――そんな人に、人殺しなんてことができるんですか!?」
そう叫ぶ彼女の肩をアヤノが抑え、なだめながらトーリに向き直る。
「ミサキさんも呼びますか?」
「そうしてくれ」
次に、トーリは第六班班長、橋本ショーゴが率いる突撃部隊に連絡を入れた。
「そっちはどうだ? ショーゴ」
『やられた』
「?」
『壺山レンガ――本名、瀧澤ケイスケの高層マンションの部屋は、今回の配信の場所じゃなかった。いまユーチューブに映ってるのは巧妙に偽造された、全く別の部屋だ。盲点を突かれたな』
「なにがあった?」
『普段の配信部屋には、PCも周辺機器もなにもない。代わりにあったのは、手製だが殺傷性の高いセンサー式爆弾だ。
第五班の猟獣メロウ=バスが封じ込めたが、ヤツはやられた。
――獣人核は無事だがな。肘と膝から先の両手両足と、顔面が全部フッ飛んだ。再生にはだいぶ時間がかかるだろう』
「――そうか」
トーリがため息をつくと、ショーゴも少し黙った。そのあと、
『もともと俺たちはサイトの運営会社にかけあって、動画配信元の住所を突き止めるつもりでもあった、が、これは時間がかかりすぎる。その前にミミズ野郎が生配信を止めて逃げたらマズいんだよ』
と言った。
「どういうことだ?」
トーリの問いにショーゴは冷淡に答えた。
『そこにスウィーテがいるんだろ。そいつに本人アカウントでログインさせて、コメントでコラボ配信を要求させて、オペラ座の怪人をクソパソコンの前に縛りつけろ。都内にバラ撒いたとかいう内臓爆弾も、その女に可能な限り止めさせる。その間におれたちが本住所を叩く』
話を聞いたあと、トーリはクリスのほうに振り向いた。
――そんなことができる精神状態か? 彼女が?
だが、他に打開策は今はありそうにない。
「分かった」とトーリは言った。「代わりにこっちにも作戦がある」
『ほう?』
「容疑者の名が分かったかもしれない。ラッカたちをそこに向かわせる」
『確率でどのくらいなんだ?』
「物証はないよ、五分五分だ」
『その程度なら、おれのイズナは貸さんぞ』
そこまで会話が進んだとき、割り込みで山崎タツヒロの声がした。
「ありましたよ、五味ユキオ。一か月前、都内の職務質問記録に同じ名前が残っています。
ちょっと挙動不審なところに目をつけられただけですが、警官に対する姿勢は非常に協力的で、それ以上怪しむようなところはなかったみたいです。工具店からの買い物帰りってだけみたいで、そのまま解放されています」
「工具店?
五味ユキオはなにを買ったんだ?」
トーリがそう訊くと、山崎タツヒロの声色は少し曇った。
「――それが、電動ドリルなんです」
決まりだ、とトーリは思った。
トーリは、ショーゴに「確信できる材料が見つかった」と言った。「少なくとも、うちのラッカはそこに向かわせる」
『――そうかい。分かったよ。運転手は一人出してやる』
「俺のラッカに代わってくれ」
トーリが言うと、ショーゴはその場にいるだろう彼女に目配せし、骨伝導インカムの送信先をいじったのだろう、ほんの少しノイズがかかったあと、
ラッカと通じた。
「ラッカ、聞いてくれ。容疑者の名前は五味ユキオだ。
こんな即席の入れ替えトリックに新しい部屋を借りたり買ったりするのは、今のところ考えにくい。ユキオは、十中八九、自宅に動画配信の部屋を構えているはずだ。居場所は今から調べる。そこに行ってくれるか?」
『いいぜ』
とラッカは言った。
『トーリがどう思ってるのかは分かんないけど、さあ、こっちはけっこうずっとムカついてんだ』
「事件捜査中は感情的になるなよ」
『――うん、ごめん』
「分かってるならいいんだ。俺もあとから行くが、今回の獣人は考えなしで、だからこそ怖い。勝算はあるか?」
『ある』
「――よし。ショーゴが運転手をひとりだけ貸してくれるから、そいつと移動してくれ。あとでスマホに住所を送る」
『おっけー』
トーリが通話を切るころ、タツヒロが検索を終えていた。
「五味ユキオさんの居所、分かりましたよ。
泉岳寺の賃貸、アパートはメゾン・ド・ガルニエ404号室!」
「よし。ラッカはそこに向かわせる」
とトーリは言った。
それから、彼はベッドの上にいる歌姫のスウィーテ――岡部クリスに向き直った。
「すみません。もうひとつだけ、獣人捜査局からお願いしたいことが増えてしまいました」
「え――?」
クリスが、アヤノに肩を抱かれながら戸惑っている。
本当は苦しんでいる女性に辛いことは言いたくない、が、そうしなければならない。
かつての俺が、地獄のなかで足掻くしかなかったように。
「今からあなたには、怪人の配信に突入して頂きます」
※※※※
ラッカは、第六班の班員である河野タイヨウが運転する車の助手席に座っていた。ジャンパーの下に安物のスーツを着た、眉毛の太い筋肉質の男だ。
二人は今、泉岳寺の賃貸アパートに向かっている。
ラッカはまず鞄のなかからグロック17を取り出す。マガジンを取り出して銀の弾丸を確認。再び銃身に格納すると、スライドしてチャンバーチェックを行う。そして、安全装置がオンになっているのを目視してから胸のホルスターに入れた。
次に、電流つきの警棒。電池の残量を目視してから、腰のベルトに金具で取りつける。
「タイヨウ、あと何分で現場に着く?」
「あと数分です。次の角を曲がったら、すぐそこですよ」
「角を曲がる前に車を停めて」
そう言うと、タイヨウは素直に路上に駐車した。
ラッカはカーナビのマップを見る。
「ここの4階が犯人の部屋か。分かった」
そう言ってから車のドアを開けて、近くのビル、外付けの水管を掴んでぐいぐいとよじのぼった。すぐ屋上に着く。
柵に捕まったままラッカは夜景を眺めた。カーナビと見取り図が正しければ、犯人の部屋は目の前にあるビルの4階、左から4つ目。
――カーテンは閉まっているが、明かりがついている。
ラッカは頷くと、そのまま水管を伝って歩道に降りた。タイヨウの車に戻る。
「五味ユキオは部屋にいて、起きてる」
「ラッカさん」とタイヨウは言った。「まだ彼が犯人と決まったわけではありません。実力の行使には充分注意してくださいね」
「分かってる」とラッカは答える。「頭に血がのぼってたのはもう済んだよ。でも最悪のケースは想定して動かなくちゃ――ミサキの受け売りなんだけどさ」
彼女の言葉を受けて、タイヨウは目を見開く。
「なんていうか――ラッカさんは本当に他の猟獣とは違うんですね?」
「え?」
「うちの班のイズナだったら、『私はショーゴさんの指示しか聞かない』って突っぱねてますから、今の会話。メロウ=バスだって基本は第五班班長のカズヒコさんの言うことしか守りませんし」
「そうなの?」
「まあ、猟獣訓練ってそういうものです」
タイヨウはそう言うと、ラッカの目をミラー越しに見た。
「今の資質、大切にしてください」
それから彼は車を進め、駐車場。第七班の佐藤カオルが待つ場所まで静かにエンジンを鳴らす。
カオルはふわふわのピンク色のコートを着てそこに立っていた。
「ラッカくん、お疲れ様です。
アパートはエレベーターつきの7階建て。自分は順当に階を上がって玄関ドアから攻めます。こちらの武器はグロック17とメリケンサック」
「おっけー」とラッカは答えた。「じゃあ私は壁を伝ってベランダから攻める。犯人が外に逃げないように――だよね?」
「そうです。ラッカくんは彼が外に出ないよう、挟み撃ちをしてください」
「逃げる犯人がカオルのほうに向かって行ったら?」
そう彼女が訊くと、カオルは顔を引き締めた。
「成人男性の獣人に肉弾戦を挑まれたとして、相手がもし仮に人間体のままならば、自分は15秒くらいなら時間稼ぎをできるでしょう。
その間に、助太刀に入ってください」
※※※※
スウィーテ――岡部クリスは、震える手でキーボードを叩き、グーグルアカウントにログインした。そして、再びオペラ座の怪人の生配信動画にアクセスする。
コメント欄は、荒れに荒れている。ドッキリや、新しいプロモーションを疑う声も相当多かった。
《ふーっ、ふーっ》
怪人は息をしている。
《こんな深夜にコメントをしてくださっている、野次馬のニンゲンの皆さんに、朗報があります》
怪人は、一切ボイスチェンジャーを使わない声でそう言った。
――やっぱりユキオさんの声じゃない。こんな恐ろしい声を出せるような人は、私は知らない。
クリスが戸惑っていると、怪人は立ち上がって、後ろに縛りつけられているユーチューバー、壺山レンガのシャツをめくる。
――腹部が、まるで臨月のように膨れ上がっていた。
《これは、ボクのミミズです》と怪人は言った。《一匹でも体のなかに入れたら、静かに増殖して内臓を食い破って破裂を起こします。――これと同じことが、今、都内のニンゲンに50人、起きています》
怪人はそう言うと、モニタに向き直った。
《先ほど、獣人捜査局員が酷いことをしました。センサー式の爆弾で追い払いました、が、そのことは、爆弾に取りつけたGPSの消失で分かってます》
にっこりと、アイスホッケーマスクの奥で瞳が輝いている。
《罰を、与えましょう》
ミミズは、左手の人差し指をくいくいと曲げた。
東京都千代田区、30代男性、ミミズと血液を大量に吐き出して死亡。
東京都港区、40代女性、ミミズと血液を大量に吐き出して死亡。
東京都文京区、50代男性、ミミズと血液を大量に吐き出して死亡。
東京都墨田区、10代少年、ミミズと血液を大量に吐き出して死亡。
東京都品川区、60代女性、ミミズと血液を大量に吐き出して死亡。
東京都大田区、5歳未満の男児、ミミズと血液を大量に吐き出して死亡。
東京都渋谷区、20代女性、ミミズと血液を大量に吐き出して死亡。
東京都杉並区、70代男性、ミミズと血液を大量に吐き出して死亡。
東京都北区、10代の少女、ミミズと血液を大量に吐き出して死亡。
東京都板橋区、20代男性、ミミズと血液を大量に吐き出して死亡。
――怪人は、五味ユキオは指を元に戻した。
「いま、10人殺しました。嘘だと思うなら、SNSを見てください」と彼は言った。「歌姫を解放しないとどうなるか分かったか――狩人!」
ふーっ、ふーっ、ふーっ。
ユキオは恍惚としていた。家庭では虐待されて、学校でもいじめられて職場では嫌がらせを受けている、そんな自分が、指先ひとつでニンゲンの生命を奪って、彼らを脅して要求を通せる立場にいる。それが心地よかった。
そういえば、先ほど殺した人間には職場の上司もいた。
――もう、どうでもいい。
ボクにとっていちばん大切なことは、スウィーテの歌声だけなんだから。他の命はいくら奪っても良心は痛まない。あいつらだってボクをないがしろにしていたとき、なんにも感じなかったじゃないか!
そのときだった。新しいコメントが動画に投稿された。
『スウィーテです』
え?
ユキオは画面を見つめた。
コメントを投稿しているのは、たしかにスウィーテの本アカウントだ。
――なんで? なんでだ?
彼が戸惑っている間にも、さらに彼女からの投稿は続いた。
『もう、やめてください』
『私は誰かの命を犠牲にしてまで歌いたいとは思いません』
『こんなことは望んでない。警察があなたを見つける前に、どうかこれ以上は思いとどまって。私の話を聞いてください』
そんな連投だった。
「ウソだ!!!!」
とユキオは怒鳴った。
「ウソだウソだウソだ! ボクはスウィーテのためにやったんだ! 全部! キミのためだけに!! なにも良いことがなかったボクの、たったひとつの夢が、ただひとつの生き甲斐がキミの歌声なんだ!! それしかなくって、それが全部なんだ!! あいつらニンゲンどもは、ボクの全部を奪おうとしたんだ!
――偽物だろ? なりすましだろ!? 狩人どもがボクを困らせるためにアカウントを乗っ取ってるんだろ!? なあ!?」
『違います。私は本物です』
そのコメントを見て、ユキオはもう、どうすればいいか分からない。
――スウィーテちゃん。岡部クリスさん。クリスティーヌ。なんで? なんでことになってるんだ!?
ユキオは泣きながら部屋をうろつく。こんなの想定外だ。どうすればいい。いったいどうすればいい?
『もし疑うなら、私の声を聴いてください』
彼女の、その言葉に彼の動きは止まる。
「――声?」
『実際に話せば、私がスウィーテ本人だと分かってくれるはずです。言葉を交わせば、私も、あなたのことをきっと思い出せます』
「――違う。違う」
『オペラ座の怪人。仮面を取って、どうか、私と向き合ってください。もうこんなことはやめましょう』
「うああああああああ!!!!」
ユキオはうずくまり、叫んだ。
――最初は、ただ庇ってあげたかっただけだった。それだけのはずだった。自分と違って、夢を叶えて人生を満たしていく彼女の幸せが、自分の幸せのように嬉しかった。――本当にそれだけだった。
そのとき。玄関のインターホンが鳴った。
同時に。ベランダの窓ガラスが全て割れた。拳や鈍器で叩いたわけではない。鋭利な刃物で切り取ったかのようにガラスは全て綺麗に外れていた。
――風が吹き、カーテンがひるがえって、夜空が見える。月明かりだった。
オオカミの少女、ラッカ=ローゼキがそこに立っていた。
※※※※
ラッカはベランダに立ち、両手の甲から三本ずつ伸びている刃で窓ガラスを切り刻んだ。
ズチュ、ズチュ――という音を立てて、ブレードを肉のなかに戻していく。あとには傷口だけが残る、が、それもすぐに再生した。
彼女の視線には、部屋のなかがはっきりと見えていた。椅子に縛りつけられて、口をガムテープで封じられている、暴露系のユーチューバー。
そして彼の部屋から持ち出されたのだろう、PCの周辺機器。
最後に、部屋の中央に立っているアイスホッケーマスクの男。
身長は成人男性としては平均的。頭から伸びる髪は黒く短い。くすんだカーキ色のレインコートで、くるぶしまで身を包んでいる。
つまり、ずっと動画で見てきたオペラ座の怪人がそこにいた。
ラッカは獣の目になる。
――さすがトーリだな、大当たりだ。
すぐに飛びかかり、右ストレートをホッケーマスクにブチ込んだ。怪人は吹き飛んで壁に背中を打ちつける。彼はうめき声を上げながら、その場にうずくまった。
ラッカは着地する。
PCを見ると、まだ配信を続けている。カメラにラッカの姿が捉えられていた。もう一方では、ユーチューバーの男がジタバタともがいている。
「待ってろ。すぐに助けてやる」
ラッカはユーチューバーに近づき、椅子のロープをほどくと、ガムテープをゆっくりと剥がした。男は血と涙を流しながら、
必死の表情で深呼吸を繰り返していた。
「おい、大丈夫か? ここから逃げられるか?」
ラッカがそう訊くと、ユーチューバーは目を見開き、
「うしろぉ! うしろぉ!!」
と叫んだ。
振り返ると、すでに立ち上がっていた怪人が、長い包丁を振り上げていた。
「フーーッ!! フーーッ!!!!」
――うおっ!?
ラッカはユーチューバーの体を抱きかかえて回避。床を蹴って真横に飛び、二人そろって床に転がる。
怪人の刃が宙を切り裂いた。
ラッカはすぐに起き上がり、
「カオルッ!!」と叫んだ。「人質そっちに逃がすからそいつ連れて外に!!」
それから、震えているユーチューバーを蹴った。
「さっさと立て! こっから出てけ!」
「こ、殺さ――殺さないでえ――!!」
「バカ!!」と彼女は怒鳴った。「ネットで他人の悪口書いてる奴がビビんな! 狩られる覚悟もないのが他人を狩ってんじゃねえ!!」
そして、もういちど尻を蹴り上げて部屋の外に出す。
カオルが彼を確保。
「ラッカくんは! ラッカくんはどうするんですか!?」
「ここに残る! コイツ片づけるのは私一匹でいい!!」
それからラッカは部屋のなかに視線を戻した。
怪人はゆらゆらと、包丁を持って立っていた。
「わ――分かった。キミが、警察とグルになってるオオカミの女なのか」
「ああ、そうだよ。お前を狩りにきたんだ」
「フーッ、フーッ」
怪人は鼻息をさらに荒くした。配信は、まだ終わっていない。二人の乱闘を全世界に流し続けている。
「す、スウィーテのコメントは――そういうことだったのか。お前ら警察どもが言いくるめて、あんな、あんな心にもないことを言わせたんだ――はは、すっかり騙されるところだった」
「いちいちうるせえんだよ、てめえ。警察が歌姫を苦しめてるって言ったの、今すぐ謝れ。そしたら楽に殺してやるよ」
「クク、ク――」
ミミズの怪人は――五味ユキオは、首をコキコキと鳴らした。
「歌姫を閉じ込めて、いじめてる、悪者のオオカミ女――今からく、駆除してやる!」
「悪モンはお前だろ、ミミズ野郎!!」
二人はすぐに近づく。
「フーッ!」
ユキオが包丁を振り下ろそうとする右腕、その付け根――肩をラッカは蹴り上げた。関節が止まり、動きが鈍る。
「がっ!?」
「武器に頼りすぎだ、バーカ」
包丁が彼の手から離れる、と、ラッカはすぐにインファイトの構えになり、相手の顔面にジャブ、ジャブ、&ストレート。
「くそっ!」
ユキオが顔の方向を戻して反撃に転じようとする、
が、
その左膝を、ローキックで制圧。
「ううっ!」
うずくまる彼の頭を両手で掴み、ラッカは思い切り自分の額をぶつける。
手本どおりの頭突き。
ぴしっ。
と。
アイスホッケーのマスクにヒビが割れた。
奥のほうで、ユキオの双眸が怯えている。
「まずはその!! ムカつく仮面とりやがれェ!!!!」
ラッカは、額から血を流しながら怒鳴り、もういちど自分の額を彼の顔面にぶつけた。
アイスホッケーマスクが、完全に破壊された瞬間だった。
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