第5話 VS劇場霊 前編その2
※※※※
同時刻。
浜松町のオフィスビルの一室で、五味ユキオはキーボードを叩いていた。
「五味ちゃーん」と、向かいのテーブルからチームリーダーが声をかけてくる。彼よりも年下の正社員で、ホワイトニングの行き届いた歯を見せながら爽やかに笑っていた。
「いま担当回したの、あと何分よ?」
「あ――はい」
ユキオはくぐもった声で答えた。「あと10分で完了します」
「ふーん、5分ね! 了解」
「あ、え――」
それからリーダーは他のメンバーにも声をかけた。20代の女が1人、30代の男女が1人ずつ。「そっちのほうは残件あといくつくらいですか?」
リーダーの問いに、彼らはそれぞれ、
「あと3件で終わりっす」「あと2件です」「すみません、あと5件です」
と答えた。
「お、定時には上がれそうですなあ」とリーダーは笑う。当然だ。ほとんどの処理は契約社員のユキオに回されていて、その他メンバーの作業量は、もともと適度に調整されている。
「よし、残り全部俺に回して?」
リーダーはその他メンバーから処理担当を自分宛に回すと、それを、そっくりそのままユキオ宛に転がした。
「え――あの」
ユキオは小さな声で抗議しようとしたが、
「はい!! これで年末業務はおしまいです!! 皆さん飲みに行きまっしょう!!」
とリーダーは両手を空に掲げた。他のメンバーは、意図的に、あるいは無意識にユキオの顔を見ないまま、「や~終わった終わった」「もうあとは来年の私に任せますよ~、ほんとに」と自分の肩を揉んだり、腕を回したりしている。
リーダーは鞄とコートを手に取ると、爽やかな笑顔でユキオに向き直り、
「じゃあね五味ちゃん、来年もよろ!」
と笑った。
「あの」と、20代の女が上着を身に着けながら言った。「五味さんは飲みに来ないんですか? さっきの残処理って」
「いいのいいの!」とリーダーは笑う。「五味ちゃんはね、仕事すんの大好きなんだから! 『ここはボクに任せて皆さん飲んでください』ってさ! なっ、五味ちゃん!」
そうして、彼はキラキラした爽やかな笑顔で五味を見下ろした――その目は笑っていない。
「あ、はは」
ユキオは彼の視線から逃げるために、眼鏡をかけ直した。
「そうですね。はい」
「でしょ!? そんじゃ五味ちゃん、施錠処理よろしく。良いお年をね!!」
こうして、彼を除く四人はオフィスを出ていった。
五味ユキオ、38歳、独身。一人暮らし。彼は職場では、毎日こういう扱いを受けている。
「――はあ」
薄暗いオフィスで一人きりになってから、ユキオは鞄からスマートフォンを取り出し、イヤホンを耳につける。歌姫のスウィーテを聴きながらモニターに向き直った。
――スウィーテ。
作業を続けた。
彼が――オペラ座の怪人が全ての作業を終えて退社したのは、10時近くになってからだった。
街を歩いていると、すっかり行き交う人々は年末のムードに包まれていた。酔っている人も、いつもより多く感じる。通行人の一人が、「こちらのチラシお願いします!」と声をかけてきた。
「え――は、はい」
ユキオは、なおも話しかけたそうにしている相手を「い、急いでいますので」と振り切りながら、その市民活動的なアジビラを眺めた。
《獣人も人間です》
《獣人にも人権を》
《銃弾ではなく司法の手続きを》
《奴隷制度ではなく職業選択を》
そんな綺麗事が書かれていた――が、彼は少しだけ気分がよかった。
人間――ボクが人間か。
ボクが人間だったら――ボクがスウィーテの前に姿を現せる身分だったら、彼女はどんな顔をするだろう。
電車を乗り継ぎ、繁華街を歩く頃には、彼はすっかり都合のいい妄想に耽っていた。
以下のとおりだ。
「ありがとう、ユキオさん! あなたが私のことを守ってくれたんだね!」
「待って、駄目だよ! 皆が見てるところでそんな風に抱き着いたら!」
「私、あんなデマを書かれてずっと悔しかったの! ありがとうユキオさん! あなたは、私のヒーローだよ!! ――大好き!!」
「やめてって! 名前を言っちゃだめだよ! それにボクはヒーローじゃない!」
拙い妄想のなかで、ユキオはスウィーテの肩を押し戻す。そして、ゆっくりと彼女の目を見つめた。
「ボクは――怪人だよ。歌姫を守る、オペラ座の怪人――」
以上、妄想終わり。
ふふ、ふ――と薄ら笑いを浮かべながら歩いていたユキオは、ガラの悪い男二人組にぶつかり、我に返った。
「おいオッサン、どこに目ぇつけてんだ」
「あ、す、すみません」
ユキオはすぐに頭を下げ、そそくさとその場を去ろうとした。
が。
「いやスミマセンじゃねえだろ! 来いよ!」
と、スーツの襟首を掴まれ、そのまま路地裏に連れ込まれた。
そして、二人がかりでボコボコに殴られる。体を丸めて耐えようとするが、その体を何度も蹴られた。
我慢しろ、我慢しろ――とユキオは自分に言い聞かせた。ここで下手に反撃したら、警察を呼ばれる。警察を呼ばれて困るのはボクだ。
「マジで最悪の気分だわ」と茶髪のチンピラは言った。「オッサン金出せ。な?」
それから彼は、ユキオのコートをまさぐり、鞄を物色する。
「あ、やめっ、やめて――!」
「うるせえんだよキモオヤジ!!」
茶髪はユキオの顔面を蹴り上げた。そして鞄のジッパーを開けて、さかさまにする。
――大量のスウィーテのファングッズが出てきた。
「うわ、こいつオタクかよ~~!」
もうひとりの金髪のチンピラが、
「なに、知ってるん?」と覗き込むと、
「最近ニュースになって、オワコンになってる歌い手だろ?」
と茶髪は笑う。
「いや~絶対このオンナ性格悪いだろって思ったわあ。ヤらせてくんなそうな空気出しててさ。やっぱカスでしたね、ってネット見て思ったわ!」
「は~ん」と金髪が言う。
「つか、そんな美人? こんなんどこにでもいるじゃん。オッサンこれがいいの?」
「こんなカスみてえな有名人のグッズ、転売品にもなんねえよ。財布どこだよ財布マジで!」
で。
がさごそと――茶髪が乱雑にグッズをかきわけ、靴で踏み、ようやく探り当てたものは。
電動ドリルと、アイスホッケーのマスクだった。
「は――!?」
茶髪のチンピラの動きが止まる。なんだ、これ。なんだよ。
一方のユキオは、
「フーッ、フーッ」
と息を荒げていた。――口答えするたびに母親に殴られた後遺症で、怒りをすぐに言語化できず、顔を真っ赤にしながら鼻息を荒くすることしかできないのだ。
「フーッ! フーッ!」
ユキオは立ち上がる。体を部分的にミミズにした。そのうちの一匹はもう、茶髪の服に付着。
そして跳躍したミミズが、半開きになっていた茶髪の口に飛び込む。
「あ――うっ!?」
ユキオはチンピラ二人組に向き直った。
「お前らもスウィーテちゃんをいじめるのか?」
「ああ、あっ?」
「――増えろ、ボクのミミズ。そいつの体を内側から喰え」
ユキオは指を指す。
「ああ、あ、なん、だ、これ」
茶髪はコートを脱ぎ、シャツを脱ぎ、体をかきむしる。
「へ、変だ変だ変だなんだこれなんだよこれっ、い、痛い痛い痛いかゆいかゆいかゆい――!!」
ユキオと金髪が見つめる前で、ボコボコと、茶髪のチンピラの腹が、まるで臨月のように膨らんでいった。
「ふ、増える、なんか変なの増えるうううっ――!!」
うぷっ、と、チンピラが嘔吐直前のように身をかがめた。
ユキオは「戻ってこい、ボクの体――」と静かに言った。
――オ、オエ、ゲ、ゲエエエエ!!!!
チンピラの口と、鼻の穴から、大量の鮮血とともに生きたミミズが噴き出して、ビチャビチャとコンクリートを濡らした。チンピラはそのまま倒れる。
もう、死んでいるだろう。
金髪のほうのチンピラは、腰を抜かしている。ズボンが湿ってアンモニアの匂いが漂っているから、失禁もしたのかもしれない。
それを見ながら、ユキオはゆっくりとホッケーマスクを奪い返すと、顔につけた。そして電動ドリルを持ち直す。地面のミミズは彼の足下に集い、やがて少しずつ融合した。
「お前らみたいなやつらがいるから――スウィーテちゃんが安心して歌えないんだ」
そうユキオは言った。
「お前の目も、要らない――スウィーテの美しさを貶める視線は、この世に、必要ない――思い知れ――」
スイッチをオンにする。
左眼球に。
ヴィィィィン――ブチブチブチブチガリガリガリボコボコボコボコ――。
彼はミミズ、群体型。体のひとつひとつから剥がれ落ちたミミズの全てが彼であり、人間の肉を喰うごとに数を増して、そして彼自身の元に戻る。
※※※※
翌朝。12月29日(木)
通報を受けて殺害現場に来た橋本ショーゴと笹山カズヒコは、ふたつの死体と鑑識課の仕事を前にタバコを吸っていた。
片方の男は生きたまま体を内側から食い破られて死亡。もうひとりの男は眼球ごと脳をドリルでやられて死亡。
そして、地面にはミミズの死体。
「かーっ」とカズヒコは煙を吐いた。
「1日1殺のルールちゃうんかったんかい。今度のボケ獣人は算数もできんのか」
そして、壁を見つめる。血文字でこう書いてあった。
《ニュースを自しゅくするだけで いいと思ったか? ネットのみなさん 町のみなさん わる口はやめましょう。どりるの穴を ふやします。
――オペラざの かいじん》
それを眺めながらショーゴは、
「おれ、もう前の賢い吸血鬼ちゃんが懐かしくなってきちゃったな」
と呟く。
「ん?」とカズヒコが振り返と、ショーゴは続けた。
「頭のいい奴は身バレを恐れて合理的に動く。だから犯行に予想がつくんだ。吸血鬼の熊谷チトセはその典型だった。
こんな屋外で堂々と殺して、証拠も平気で残すバカがいちばん怖い」
「すぐ捕まるからええやんか」
「問題は駆除までのスパンじゃない。被害規模だ。吸血鬼がヤケになるアホだったら町ひとつ獣人化して全員消し飛んでただろ。このミミズ野郎はなにをやらかすか分からん。さっさと仕留めんと数百人単位の被害が出るぞ」
ショーゴはため息をついた。
「いやだいやだ」
そこにイズナ=セトが口を挟む。うなじを刈り上げた、おかっぱの茶髪。三白眼。身長は150後半。パンツスーツ。
「ではショーゴさんは、どのように早期解決を目指すおつもりですか?」
「そりゃ」とショーゴは言った。「こいつはスウィーテとかいう芸能人が好きなんだろ。そいつを餌にすりゃいい」
「餌?」
「方法は色々あるだろ。被害者保護を優先するトーリくんは反対するだろうがな。そこは上手に言い訳をつくるさ」
「スウィーテが危険に曝される作戦も視野に入れますか?」
「まあな――イズナ、そこでお前が頼りだ。彼女を守れよ」
お前はミミズごときには負けんだろう、と彼は言った。
「ええ、もちろんです」
とイズナは答えた。
――私がオオカミのあの女よりも有能だということを、今度こそ証明してみせます。
※※※※
同日。東京都田町の高級ホテル。
スウィーテ――岡部クリスはその一室で、ぼんやりと映画を見たり、音楽を聴いたりしていた。ときどき彼女の手もとにあるティーカップが空になって、そんなときは同室している日岡トーリが紅茶を注ぐ。
――怖くて眠れないから、いっしょにいてほしい。そんな要望を受けて、トーリは彼女がベッドの上でもぞもぞと寝転がる間、ソファに座って半分睡眠・半分覚醒の状態を保っていた。物音がすればすぐに目覚める程度の浅い眠りで、脳だけ休ませた。
やがて朝になり、現時刻。ドアがノックされた。
「いま開ける」
廊下に出ると、招集された七班のメンバーは全員揃っていた。
副班長、仲原ミサキ。ミディアムボブの茶髪に、憂い気な垂れ目。おそらくは胸の大きさを隠すために、ぶかぶかのウインドブレーカを着たパンツルック。
運転手、田島アヤノ。黒髪をおさげにして、服は青島ジャケットにオフィスカジュアルを着込んでいる小柄の女。ここには地元から直接来たらしい。
分析官、山崎タツヒロ。艶のある黒髪を山分けにして、ノンフレームの眼鏡をかけた塩顔の男。前任務で致命傷を負ったが、数週間前には退院した。
そして肉体派、佐藤カオル。身長は2メートル近くあり、筋骨隆々のカラダがスーツの下で盛り上がっている。
――猟獣のラッカはここには呼んでいない。
「俺たち第七班は今回の犯人が狙っている歌姫、スウィーテのボディガードを務めることになった」
とトーリは言った。
「ミサキとアヤノはローテーションで彼女のそばにいてくれ。女性でないと分からない悩みには、男は鈍感になる。タツヒロと俺は屋外を含めた別フロアを巡回。カオルは遊動部隊を頼む」
全員が揃って「了解」と言う。
そのあとで、ミサキが手を上げた。「今回の作戦、ラッカ=ローゼキが外れている理由は?」
「護衛の対象が獣人を怖がってる。猟獣もダメだそうだ」
「そんなことは訊いてない。護衛対象のワガママを素直に呑んだ責任を問うてるんだよ、日岡トーリ班長」
彼女の問いに、空気が少しだけピリつく。
トーリはため息をついた。
「理由はふたつある。まず護衛任務は消耗戦になる。ラッカの力は犯人の獣人を見つけたときのために温存したい。もうひとつ。護衛対象は一般人だ。一部屋に閉じ込められているだけでストレスになる。余計に怖がらせて任務を煩雑にするのは避けたいよ」
トーリとミサキが目を合わせた。それからミサキは、ふう、と息を吐く。
「オッケ、了解。ちゃんとその理由、オブラートに包んだ上でラッカに伝えてあげて。あの子がまだ子供だって言ったのはトーリくんでしょ。拗ねちゃったら大変だよ」
「分かってる、少し前に連絡した」
それからミサキはスウィーテの待つ部屋に入り、彼女に頭を下げた。
トーリも、
「いちど、スウィーテには全員を紹介する。皆も入ってくれ」
と言ってから部屋に戻る。
アヤノはタツヒロの脇腹を小突いた。小声で言う。「前から思ってたけど、ミサキ先輩、トーリさんに妙に厳しいよねえ?」
「え、アヤノちゃん知らないの?」
「えっ? なにを?」
「あの二人、もともと同じ女を奪い合った恋のライバルなんだよ。勝ったのはトーリさんらしいけど」
※※※※
ちなみに。
ラッカはミサキの心配どおり、メチャクチャ拗ねていた。
「なんだよもー! 訓練すっぽかした次は、私を任務から外すって、どういうことだよ!」
とりあえず枕を壁に投げる。
ベッドにうつぶせになった。
「え~~、私、トーリに嫌われるようなことしたかなあ――」
数秒後。
うがー、と吠えながら起き上がり、
「知らない! もー! じゃあ私だってトーリのこと嫌いになってやるもんね~!! やーいやーい、私に嫌われてバカバカ!」
そんな風にひとしきり暴れたあと。
ゆっくり、机に戻ってタツヒロからの宿題を解いた。勉強のいいところ。落ち込んでいても怒っていても、頭に入る情報が気分をちゃんと落ち着かせてくれる。
それから『シャーロックホームズの冒険』の続きを読んだ。
――お昼ごはん、どっか食べにいこうかなあ。給料はトーリがくれたし、ひとりでも出歩けるもんな。
そう思っていると、支給のスマートフォンにメッセージが届いた。昨日連絡先を交換した尾木ケンサクからだ(ちなみに、本人からは「ケン」って呼んでほしいと言われている)
《おはよ! 昨日はマジ楽しかったわ! ラッカのほうは門限とか平気だった? また遊ぼうな!》
それを見て、ラッカは「おお!」と閃いた。
――そうだよ! 私にはもう警察以外の友達もいるんだから、暇ならそいつ誘えばいいじゃん!
というわけで、
《平気だった。腹減った。ケンはヒマ?》
と送った。すると、数分も経たずにケンサクから返信が来る。
《どっか食い行く? オレは今日は休講だったから大丈夫!》
――休講?
知らない単語が出てきたが、大丈夫ということは分かった。
《食い行く。場所は昨日のギターのところで待つ。時間は13時にこい!》
そう送ると、スタンプが送られてくる。動物のアニメキャラが機嫌よさそうにしているやつだ。
――お~し、私は友達と遊ぶもんね~。捜査はトーリたちがなんとかするだろ!
こうしてラッカは冬服――白のトレーナーの上にミリタリーコートを着込んで、女子寮を出た。
隣町まで移動し、駅のロータリーで待っていると、尾木ケンサクがあとからやってきた。ダッフルコートの厚着。黒髪のインナーだけピンクに染めて、ピアスを少し空けている。
「ごめんなあ、待った?」
「待ってなかったらここいないじゃん」
「――ぶはは! そりゃそうだった!」
ケンサクは笑った。
ラッカも笑う。
それから二人は街をぶらつき、適当なラーメン屋に入る。ラッカはテーブルに灰皿があったのを見て、胸ポケットからタバコを出した。
料理と酒が来るまでの間は、店内に備えつけのテレビを二人で眺めながらダベった。
――事件として報道されているのは、通称、オペラ座の怪人。
『警察では、獣人による犯行の可能性もあると見て、捜査を進めています』
ニュースキャスターは深刻そうな顔でそう言った。
「スウィーテも災難続きだなあ、マジで」とケンサクは愚痴った。「クソ報道の次はストーカーの獣人って、どうなってんだよ。警察はちゃんと捕まえてくれんのかなあ」
「安心しなって。すぐ捕まえるから」
ラッカは胸を張ってそう答えたあと、ヤバ! と思った。私が警察の猟獣だってケンは知らないんだった!
「あ、いや~、すぐ捕まえるって警察も頑張ってる気がする。うん、なんとなく!」
ニュースキャスターはさらに続けた。
『シンガーソングライターのスウィーテさんは、一連の事件を受け、事態が収束するまで全てのメディア出演をキャンセルすると、所属事務所が発表しました。犯人による襲撃に備えて、彼女の身柄は警視庁獣人捜査局が保護しています。
――活動再開の目途は、まだ立っていません』
※※※※
同時刻。
そのニュースを自宅で見ていた五味ユキオは、「え?」と声を漏らした。
洗濯物は全て狭いアパートの内側に干されている。毎日の食事はコンビニ弁当かカップ麺で、その容器を捨てるゴミ袋は三つほど溜まっていた。掃除はあまりしていない。布団も最近は敷きっぱなしである。
――なんで? なんでスウィーテが歌えなくなってるんだ? 彼女の歌を邪魔する奴は、ボクが殺して、脅して、黙らせてあげたはずなのに。
誰のせいだ、とユキオは思った。
ニュースの『身柄を保護』という言葉が、妙に彼の心に残る。
――まさか、警察に閉じ込められてるのか!? なんでそんなことを!?
思わず立ち上がる。「ふーっ、ふーっ」と息が漏れた。世間から見れば当然でしかない警察の対応は、彼の目には《彼女を歌わせない意地悪》にしか映らなかった。
――あいつら世間は、腐ってる。どこまでスウィーテを苦しめれば気が済むんだ!
そう思っていると、スマートフォンが鳴った。着信音はもちろんスウィーテの1stシングル。液晶には『クロネコ』と表示されていた。
――クロネコさん、親切なクロネコさん。
「はい、もしもし。ミミズです」
『やあやあ、オペラ座の怪人。ずいぶんと派手に暴れているねえ?』
クロネコは最新のボイスチェンジャーを使った、性別も年齢も分からない声でそう笑った。
「き、聞いてよクロネコさん」とユキオは言った。「ニュースを見たら、警察が酷いんだ。スウィーテを歌わせないように閉じ込めてる」
『あはは! 獣人捜査局はずいぶん意地悪だなあ! キミの本気が伝わっていないね?』
クロネコは彼に調子を合わせているだけだ――が、彼にはそんな判断はできない。
「どうすればいいですか? ど、どうすれば」
ユキオは部屋をぐるぐると歩き回る。「クロネコさんから貰ったリストで、悪い雑誌記者は殺せました。でも、でも、スウィーテが閉じ込められてる場所がどこかなんて――!」
『ねえ、ケモノの怪人』
クロネコは遮ると、ほとんど猫なで声のように囁く。
『キミは職場で一回謝っても誠意が伝わらなかったら、普段はどうするんだい?』
「そ、そりゃ何回でも――」
『そのとおり!』とクロネコは笑った。『1日に1人殺すなんてペースだからキミの本気が伝わらないのさ! 今日からは1日に10人にしよう! キミの勇気と、歌姫への愛情があればできるはずだよ』
「あ、え、なるほど」
『それにね』とクロネコは言葉を繋ぐ。『思うに、現場にメッセージを残すのもよくなかったんだ。警察がそれを見て、自分の言葉に翻訳してメディアに伝えて、そのあとで皆がそれを知るわけだろう? これじゃあ、キミの気持ちを皆が分からなくても仕方ないよ?』
「あ、あ、たしかに――」
『そこで提案だ!』
クロネコは元気よさそうに言った。
『スウィーテの誹謗中傷に加担したユーチューバーの部屋に行って、ドリルで脅して生配信させるんだ! その前に、街中にミミズも放とう。
皆がキミの言葉に夢中になっている間に、東京のそこかしこでニンゲンの内臓が大量爆発するぞ! あはははは! こりゃいいや!』
「た、たしかに。たしかにそれなら皆も分かる――警察もスウィーテちゃんを解放する!」
『クソユーチューバーの居場所はあとで送るよ。ターゲットの男は人間社会でも嫌われもんだ、ケモノ様が配慮してやるような命じゃない。キミは年末ムードに浮かれた腐ったニンゲンにミミズを植え付けるだけでいい』
「分かりました――そのようにします!」
『うん、いいねえ』
クロネコは不意に、優しい声になった。
『キミのように素直な男は好きだよ。この前使ったコウモリはザコのくせにプライドが高くて、苦労したんだ』
ああ、そうそう、とクロネコは言った。
『オオカミの女に気をつけてね。今はまだ、ね』
「オオカミの、お、女の子?」
ユキオが戸惑っていると、クロネコは『うん』と答えた。
『最近になって獣人捜査局とグルになってる不届きなケモノさ。こいつが歌姫を閉じ込めてイジめてる、いちばんの悪者なんだよ』
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