第4話 VS吸血鬼 後編その3
※※※※
チトセが手の爪を突き立てて襲いかかると、ラッカは間一髪のところでかわす――のだが、彼女の左肩から生えた羽根がさらに振り下ろされ、
「いいっ!?」
ラッカは2メートルほど、バックステップで下がるしかない。
「反応よし――」とチトセは呟いた。
「やっぱり強いね、オオカミちゃん。だってあなた人間体のままで、部分獣化をしてるあたしと対等に闘れてるんだもん。それってすごいことだよ」
そうチトセは言った。
「さすがは『クロネコ』が気にしてるだけはあるね?」
「クロネコ!?」
ラッカは混乱しながら拳を構えた。
「さっきから、わけわかんないことばっか言うな! 部分獣化? クロネコ? 私が知りたいのはそんなんじゃない!」
ラッカはチトセに自分から近づく、が、二枚の羽根の猛攻をかわすのがやっとで、敵本体の間合いに入ることすらできなかった。
「くそっ」とラッカは引き下がる。「トーリをどうした! この鉄の壁、どうやったら開くんだ! 開けろよ、今すぐ!」
「開けない」とチトセは即答した。「どうしたの? ずいぶん必死だね?」
「別に必死じゃない!」
ラッカがそう怒鳴ると、
「あ、分かっちゃった」とチトセが人差し指を立てた。「あなたがあたしたちの仲間にならない理由。さっきのカッコいい刑事さんでしょ? ――好きなんだ? 男のひととして」
「なっ――」
「だからホノカちゃんやコトリちゃんの説得にも応じてくれなかったんだ。ひどいね? あなたが仲間に入ってくれないから二人は死んじゃったよ?」
「人を狩ってるくせに他人のせいにすんな! 自分たちも狩られる覚悟はあっただろ!」
ラッカは人差し指を突き付けた。
突き付けながら、頭のなかでは目の前のチトセを倒す算段を立てていく。
「母ちゃんが言ってた」とラッカは呟く。「オオカミはシカを狩って喰う。でもそのオオカミは死んで土に還るから、草に喰われて、シカの生きる糧になる。そうでなくてもオオカミは鷹に狙われる」
狩りっていうのは、そういうもんだ。
狩られることを受け入れた奴だけが、立派な生き物に――狩る側になれるんだ。死ぬ覚悟のない動物はどんな世界でも半端者だ。
「それに」とラッカは言った。「私がトーリを好きだとして、そんなのお前には関係ないね」
彼女が言い終えると、チトセはゆっくりとため息をついた。
「――くだらない」
チトセは、心底がっかりしたという顔でラッカを見つめた。
「今の人間が、どれだけ狩られることを覚悟してるの? 自分よりも絶対的に立場の弱い存在を利用して、搾取して、食いものにしてるだけじゃない?
――食事の話だけじゃないよ。政治も経済も宗教も、全部そうでしょ? あいつらに覚悟はあるの?」
あたしはそういうの――ウンザリなんだよ。
チトセはそう言った。
「もうママの言いなりはウンザリ。もう神様の言いなりはウンザリ。そんなの、死ぬまで幸せになれない。だからあたしは、あたしの仲間を集めて、みんなを言いなりにさせる側に回るんだよ。
――狩られる覚悟のないニンゲンどもなんて、こっちだって無責任に、考えなしに食い殺していいやつらじゃないの? 地球で一番醜い動物を殺してやってるんだからさ、褒めてほしいくらいじゃない?」
チトセが問い詰める。
ラッカは黙って聞いたあと、
「――チトセの言いたいことは分からないよ」と首を振った。
「でも、私は――」
と、彼女が言い終わる前に、チトセが急接近してきた。
ガードを固めてチトセの手刀を受け流し、次に左のジャブを二発、反撃で彼女の顔面に当てる。さらに右の拳を出す――が、それは羽根で防がれた。
「ずりい、くそ――!」
こうなったら、とラッカは思った。
面倒くせえ。
オオカミになって、一気にキメる――!
が、ラッカが体に力を入れてオオカミになろうとする前に、チトセは再びインファイトに持ち込んできた。
「くそ!」
「完全な獣人体になるには、どんな天才でも数秒から十数秒はかかるの」
チトセは笑った。「自分よりも強い獣人と戦う方法は簡単。間合いに入って、獣人化させなきゃいいんだよね?」
パン! と、チトセの拳がラッカの鼻っ柱に当たった。
――いって~~!
その隙を見逃さなかったのだろう、チトセは首から下げている逆十字のアクセサリーを握った。仕込みの小刀が現れる。形状からして、毒入り。
「――!」
ヒュン、と風を切る刃物の音がした。
ラッカは咄嗟に回避したが、ナイフの切っ先は彼女の右腕を軽く切り裂いている。
「く――!」
ラッカは三歩以上バックステップで引き、すぐに傷口あたりを指で押して血を噴き出させた。そして、左足のミリタリーブーツの紐を抜き、自分の腕に巻きつけ、口で噛み、ぎゅううう――と縛り上げる。
――今の行動の間に、どれだけ毒が体に回った? いや、麻痺なのか催眠なのかも分からない、まずい!
無際限の再生力を持つ獣人でも、状態異常はタイムラグの不利を生む。
ラッカは1秒ほど混乱したあと、しかし、さっさと平静を取り戻した。
――落ち着け。正しい形は簡単に崩れる。ミサキの言うとおりなんだ。最悪、右腕が使えない状態のままであいつを倒す作戦を立て直せばいいんだ。
彼女はそう思った。
だが、チトセのほうは余裕だった。
「ラッカちゃん、ごめんね。たしかにあなたは強いけど経験不足すぎる。部分獣化もできないみたいだしね。人間社会に来てからはお子ちゃまだよ」
「な――違う、まだやれる、まだやれる!」
「やれないよ」
チトセは肩をすくめた。
「そもそもさあ。
――子供は大人を好きにならないよ。
さっきの刑事さんはカッコいいけど、大人でしょ? じゃあラッカちゃんが好きになるのは変だよ。きっと助けられた恩義とか憧れを恋愛感情と錯覚しちゃってるんだね?
たとえあなたの気持ちが本当でもさ、刑事さんがマトモな大人だったら、あなたの気持ちには応えないよ。それが普通の大人なんだから」
「私は子供じゃない!」とラッカはムキになった。「私は子供じゃない! もうハタチだから! ハタチだよ!」
それに対して、
「そんなのただの数字の話でしょ? バカじゃないの?」
とチトセは吐き捨てた。
「え――」
ラッカは唖然とした。
――ニンゲンは獣と違って、年齢で子供と大人を区別してるんじゃなかったの? 子供を生める体になっても駄目で、20歳になっても駄目?
「じゃあ」とラッカは呟く。「ど、――どうすれば人間の世界で大人になれるの? ニンゲンのオトナって、なにすればいいの?」
だが、チトセはもうラッカの質問に直接的には答えなかった。
当然だった。
チトセが持つ部分獣化の力と速度を使えば、ラッカの獣人化は即座に抑えつけられる。人間体の身体能力にも負けない。つまり彼女の勝ちは、現状確定しているのだ。
「うーん」とチトセは顎に手を当てる。「あとはどうやってラッカちゃんを仲間にするか、だよねえ」
そう呟きながら考えをめぐらせて、思いつく。
「そうだ」と彼女は言った。
「ラッカちゃんが大好きなトーリさんを、あたしの力でコウモリにすればいいんだ! そうすれば彼も晴れてお尋ね者だし、彼のことを庇うには、ラッカちゃんはあたしの仲間になるしか方法がないわけだね!」
チトセは、ぱあっと笑顔になった。
「いいね! あ、なんだったらあの刑事さんをあたしの虜にしちゃお。そしたらラッカちゃんは大好きな刑事のトーリさんに嫌われないようにするために、あたしのご機嫌をとるしかなくなる! うんうん、いいアイデアじゃない? ノゾミと合流しなくちゃ」
チトセはラッカのほうに向き直り、
「方針が決まったよ、オオカミちゃん! どう思う?」
と人差し指を立てた――いや、立てようとした。
肘から先がぱっくりと切断されて、消えていた。
左腕の肉は、床に転がったまま血を吹いている。
「え?」とチトセは声を漏らす。目の前にいたはずのラッカがいない。気配を感じて振り返ると、自分の背後で、ゆっくり立ち上がっていた。
立ち上がったラッカの両手には、拳の隙間から、左右それぞれ三本の刃が、日本刀のような鋭さで伸びていた。そして、計六本のブレードは――オオカミの爪なのだが、血に濡れていた。
「あー」とラッカは言った。
「なるほど、部分獣化ってこうやるのか――ずっとチトセのことを見てたら、なんとなくやりかただけ分かった」
「え――!? うそ、なんで――?」
チトセは汗を流しながら、あとずさり、切断された腕の再生に集中する。
しかし、彼女の声はもうラッカには聞こえない。
「で?」とラッカは凄んだ。
「お前がトーリに、なにをどうするって言った?」
※※※※
チトセは額に脂汗をかきながら、じりじりと後退する。自分の鼓動に合わせて、切断された腕から血がドクドクと溢れていくのを感じた。
――こいつの爪、変だ。とチトセは思った。
両手から真っすぐに伸びる計六枚の刃はオオカミの爪とは形状が違う。まるで拳から日本刀を生やしているみたいだ。
「お前らコウモリを有楽町で見たときから、ずっと不思議だったんだ」
とラッカは言った。
「なんで人間の両手両足が生えたまま、背中から羽根を伸ばせるんだ? コウモリの羽根は前足だろ?」
ラッカは言葉を続ける。
「お前らが言ってる部分獣化ってのは、人間体から獣人体に変わる変化の過程で止めることじゃない。もっと別の発想で、新しい体の形をイメージして、デザインすることなんだ。今それが分かった。
――教材は目の前のコウモリ、お前だ」
ラッカはチトセのほうに向き直り、両手をぶら下げたまま歩いてくる。長い刃の切っ先が床に当たり、チッチッと火花を散らしていった。
チトセはさらに後ずさる。
──形勢が逆転した。
狭くて暗い廊下では、オオカミの獣人体は2メートルで動きづらい。獣人化も、接近戦で封じればいい。ならば、部分獣化を使いこなすチトセと、人間体のままで戦うラッカとではチトセが有利なはずだった。
誤算があるとすれば。
ラッカ=ローゼキの異常な学習速度である。
「くそっ――」
チトセは腕の再生を終えた直後、再び牙と羽根を生やした――そして、そのまま数秒かけてコウモリの獣人体になる。
《こうなったら――全力で! オオカミちゃんを、なんとしてでもこの場で倒す!》
そして、夜闇のなかで羽根を広げると、目の前のラッカを睨みつけた。
《来い! オオカミビト!》
瞬間。
.
ラッカはコウモリの遥か背後に移動していた――そして、両手から伸びた六本の刃が、コウモリの、チトセの体をバラバラに引き裂いていた。
《えぇ――?》
チトセは、切断されて宙に浮かんだ生首、その頭脳で考えている。
――なんで? この子、速すぎる。まるで時間でも止めてるみたいに――!
そのときに、獣人の核も潰されたのだろう。
血なまぐさい座敷牢が立ち並ぶ地下廊下で、チトセはバラバラになりながら鮮血を噴き出し、内臓を天井と壁にぶつけながら生命活動を停止した。
※※※※
ラッカはチトセの死体を見ながら、ゆっくりと拳から生える刃を引っ込めた。ズチュズチュ――と音を立てたあとは、指と指の付け根の間に淡い傷口が残るだけだった。
「ふう」とラッカは息を吐いた。「見よう見まねで頑張ってみたけど、やれたかなあ――途中キレちゃって、あんま覚えてないけど」
それから、チトセの亡骸を見つめる。
「安心しろよ、チトセ」とラッカは言った。「お前を苦しめたヘンテコな団体は、このあとちゃんと警察が潰してやるって聞いたから。――今は、それでいい?」
彼女は床に転がっていた無線装置を見つけ、ボタンを押す。
今まで降りていた鉄のカーテンが上がった。
そこに、日岡トーリが立っていた。そばに、コウモリの死体が転がっている。たぶん、ノゾミという名前の女の子だろう。
「トーリ」
ラッカが呼びかけると、彼はゆっくりと顔を上げて、拳銃をホルスターに戻した。額から血を流していて、表情の左半分が血で隠れてしまっている。
「ラッカ、大丈夫か」
「まあね」
ラッカは後ろを振り返った。「チトセっていうコウモリの親分とは、いろいろ話したけど結局は殺し合いになった。仕方がなかったけど」
「今回はオオカミにならなくても勝てたんだな」
そうトーリは言いながら、少し意外そうな顔で、ゆっくりと血をぬぐった。「なにか秘策があったか」
「え? ああ、うん――」
ラッカは両こぶしを前に差し出す。「部分獣化って、あいつが言ってたやつを真似したんだ。なんか、こう、両手からいっぱい爪みたいなカタナをジャキーンって!」
トーリは少しだけ笑う。
「なんていうか、それじゃ『XーMEN』のウルヴァリンみたいだな?」
「ウルヴァリン? なにそれ?」
「ヒーローだよ。つまり、ラッカと同じだな」
そうトーリが言う横顔を、ラッカはただぼんやり見ていた。
――ヒーロー? 人間の社会でも、獣はヒーローになれる?
ヒーロー。でも、ヒーローってなにすればヒーローなんだ?
ラッカは、分からないことがいっぱいになって、だからちょっと黙った。
トーリはそんな彼女を連れて地上に出ると、片耳に入れたインカムに問いかける。
「こちら第七班班長、日岡トーリ。コウモリの獣人、その親玉の熊谷チトセは駆除した。他班員の状況を知りたい」
そうしてしばらくすると、まず第六班の橋本ショーゴとイズナ=セトに繋がる。
※※※※
橋本ショーゴはネクタイをゆるめながらイズナを見た。彼女は返り血でべっとりと赤く染まっている。
「こっちにいたコウモリは仕留めたよ。南野エリっていうチトセの右腕格だ」
それからイズナにハンカチを差し出す。「これで血を拭け。洗っても返さなくていい」
「はい、ショーゴさん」
※※※※
西城カズマは相棒の河野タイヨウとともに、自分たちの切り傷に液体薬をドバドバとかけながら応答した。
「こっちもコウモリは仕留めたぜ! 名前は三枝ウミ! シルバーバレットを10発はブチ込んでやった。まあヌルゲーだったな。次やるんなら、もうちょっと殺し甲斐のある獣人がいいわ!」
※※※※
白石ルミネは「あ、トーリさん!」と黄色い歓声を上げてから「聞いてくださいよお! ルミネちゃん、きちんとコウモリを駆除しました! 名前は堀田マキ!」
さらに追加で報告する。「ルミネちゃん、今回は職務違反しなかったですよ! シルバーバレットも許可されてから打ちましたあ!!」
※※※※
仲原ミサキは、骨折した左腕をかばいながら報告した。佐藤カオルが心配そうに見つめている。
「こちらも――なんとかコウモリは倒した。かなりの武闘派だったね。名前は飯田リン。佐藤くんのほうには怪我はそんなにないよ。私は左腕の肩から先が動かないな。神経が壊れる前に病院手配お願い」
※※※※
「分かった」とトーリは頷く。「ミサキのほうは安静にしていてくれ。救急ヘリを呼ぶ。今回の案件は長野県警の獣人捜査局とも連携してサポートは頼んでるから、怪我については各員、あまり悲観しないでくれ」
そう彼が言うと、インカムに「わー! トーリさん優しい!」と大声が響いてきた。
白石ルミネの声だ。
「ルミネ」とトーリは言った。「作戦終了は全員が無事に帰還するまでだ。気を引き締めてくれ」
「分かってますよお! でも、トーリさんとお喋りできたの嬉しいなあ!」
「――そうか」
「あ! いま適当に流したでしょ? あのねえ、ルミネちゃんってば、結構本気なんだからね!?」
トーリはチャンネルを切り替える。
「最後に――」と彼は呼びかけた。「田島アヤノ、山崎タツヒロ。そちらはどうだった? 状況報告を頼む」
そう彼が言うと、
聞こえてきたのは、アヤノの言葉だった。動揺で声が震えている。涙を流していないのは普段の訓練によるものだろう。そういう声色だった。
「コウモリは――駆除できました。けど――」
「けど、どうした?」
「タツヒロさんが、腹部を切り裂かれました。止血を試みています。でも血が止まりません。傷口の深さを見た限り、内臓もやられています。移植も選択肢に入るレベル、ですね。救急ヘリに載せて病院に運んでも間に合わないです」
「え?」
トーリは少しだけ絶句する。
アヤノは声量を大きくした。
「こ、このままだと第七班の山崎タツヒロ捜査員は、死亡します!」
※※※※
「しまった――」
トーリが急ぎ足で歩いていくのを、ラッカから後ろからついていった。
「なんでタツヒロはコウモリにやられたの?」
「アヤノとタツヒロが相手したのは、名簿から見て、久保ハナヨだ。この子は分散型の力で獣人になってから日が浅い。そのせいで油断したってところだな――」
「じゃヤバいじゃん!」と声を荒げると、
「なあラッカ」とトーリは静かに言った。「タツヒロは死ぬかもしれない。心を乱されるな。こういうことは獣人を相手にしていたらいくらでもあるんだ」
「なんだよそれ! タツヒロがなにしたってんだ!」
「とにかく今は無事を祈るぞ」
そうトーリが答え、
玄関ホールに辿り着いたときのことだった。
まだ呼んでいないはずのヘリの音が聞こえる。
トーリが「なんだ?」と戸惑っているあいだ、ラッカは鼻をひくつかせていた。
「これ、局長のニオイだ。獣人のニオイもある」
「え?」
二人がやりとりしている間に、ヘリが着陸し、音が消えた。
玄関ドアが開く。
そこにいたのは、警視庁獣人捜査局局長、渡久地ワカナ。55歳の痩せぎすな女性で、白のトレンチコートとパンツスーツに身を包んでいる。白髪を隠すグレイヘアのベリーショート。
そして、隣に立っているのは局長専属猟獣、ギボ=ジンゼズだった。スキンヘッドにガスマスクをつけた、2メートル超の巨体。ボンデージファッション。
「お疲れ様、獣狩りの諸君」とワカナは言った。「手遅れの怪我人がいたなら連れてこい。ギボの能力で直す」
※※※※
玄関ホールに戻ってきたメンバーは、待機中のメロウ=バスとともに、渡久地ワカナ局長を連れて1F西に向かった。応接間には、爪と牙とを生やした少女の死体。そして、腹部から大量の血を流している山崎タツヒロだった。
黒い髪が乱れ、眼鏡は両眼とも割れてツルも折れている。顔から血気が引き、呼吸も荒い。
かたわらには田島アヤノが座り込み、応急処置を続けている。だが、流れ出ていく血はカーペットに染み込み続けた。
「おいおい」と西城カズマが言った。「大丈夫かよタツヒロ。死ぬんか? あんなコウモリに油断したのか? それとも妙な同情でもしたか?」
彼の呼びかけにタツヒロは答えなかった。
答えようにも、そんな体力や気力はないのだ。
「なんだよ、クソ」とカズマは舌打ちした。「せっかく獣人ブッ殺せて気分いいってのに、最悪だな」
それに対して渡久地ワカナはなにも言わず、ただ、隣にいる猟獣――ギボ=ジンゼズを招き入れた。
「ギボ。こいつが死にかけてる。お前が『逆行』させろ」
「――アティサミラカウ」
そうギボは答えた。『分かりました』の逆再生だ。
そして、両腕を仰向けに広げる。――それぞれの腕にイレズミがしてあるのを、ラッカは見た。右の腕は、肘から手首に伸びる矢印。左の腕は、手首から肘に伸びる矢印になっている。
要するに『逆』になっていた。
「こいつは」
とワカナは言った。「ウサギの獣人で、逆行型だ。左腕で触れた物体の運動を逆再生させることができる。
悪化し続ける傷口に触れれば治癒していく。
撃ち終えた拳銃を握れば弾丸が戻ってくる。
――右腕で触れれば順再生に戻すこともな」
彼女が説明するあいだ、ギボはタツヒロの傷口に左腕で触れた。
彼の傷口が少しずつ癒える。破損した内臓が回復し、血が体のなかに戻っていった。
「すげえ」とラッカは声を漏らす。タツヒロが助かるのを悟って、アヤノのほうは腰を抜かした。
「ありがとうございます」とトーリは言った。「こんな最善のタイミングで部下を助けて頂けるとは思いませんでした」
「私のおかげじゃない」
ワカナは、タツヒロの傷が完全に治癒したのを見てからタバコを口に咥える。
「レヰナが昼飯時に教えてくれてな。今夜の作戦で、第七班に殉職者が出るだろうと。だからヘリの音が邪魔にならない時間に来た。それだけだよ」
彼女はそう答えて、ゆっくりと煙を吐くだけだった。
ラッカはそれを聞いて、
――ん?
と思った。今夜この作戦で殉職者が出るって、なんでレヰナは分かったんだ? なんでヘリが邪魔にならない時間――つまり作戦終了の時刻も知ってたんだ?
それからラッカは、第二班班長、志賀レヰナの顔を思い出していた。顔面の左半分に肉の抉れた傷跡が残っている、金髪のロングヘアの女。年齢は、44歳。
――なんか、私って知らないことばっかりだな。とラッカは思う。
「では私はギボを連れて帰る」とワカナは言った。「君たちは長野県警獣人捜査局に今回の報告を。そのあとはしばらくゆっくり休め」
「え~!?」とルミネが口を挟んだ。「しばらく東京帰んなくていいの?」
「ああ。直近の任務はないし、殺し合いを終えた捜査員をコキ使うほど鬼でもない。都内のことは他の班に任せて、お前らは観光でもしてから帰ってこい」
「やったー!」
ルミネはぴょんぴょんと跳ね上がった。「トーリさん! 温泉旅館に泊まりましょうよ! 温泉に!」
「え?」とトーリは戸惑った。
「できないよ。タツヒロの怪我は治ったが、ちゃんと病院に診せ直す必要もある。班長には警察庁向きの報告書義務もある。それに――」
そう言ってから、トーリはショーゴを見た。
「カルト宗教の悪事のほうは、まだ国家権力で潰せちゃいない。戦いはこれからなんだろ、ショーゴ」
「そのとおりだな」
ショーゴは眼鏡の位置を直した。
「どいつもこいつも、政府に反逆して国家の秩序を乱すクソばっかりだ。獣人はまだ撃ち殺せるからマシだがな。人間はいちいち裁判にかけなきゃならん」
その点に限って言えば、おれは獣人のほうが好きだよ、とショーゴは呟く。
となりで、イズナはハンカチを握ったままだ。
ミサキが左腕をかばいながら、ラッカに近づいた。
「大丈夫だった?」
「え? うん、チトセのことは倒したよ」
「妙なこととか、吹き込まれなかった?」
「そういえば、変なこと言われた。分かんないけど――」
「――どんなことを?」
ラッカはミサキを見つめた。
「あのさ――クロネコってなに?」
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