第4話 VS吸血鬼 後編その1
※※※※
5年前。千葉県。熊谷チトセはまだ17歳だった。
生まれつき体が弱かった。小学生の頃に発症した病気が段々と重くなり、入退院を繰り返すようになった。現代医療ではどうにもできないものだと、彼女は幼いながらに悟った。
それから、ママとパパが隣の部屋でよく喧嘩をするようになった。
父親のほうは、それでも科学的な治療にしか望みはないのだと語った。母親のほうは、インターネットで手に入れた付け焼き刃の知識で彼を嘲笑った。チトセはそれを寝室で聞いていた。
やがて母親は霊感商法に弱った心を狙われ、数か月もしないうちに新興宗教の熱心な信者になった。
それが統和教会である。
もうチトセが病院に通うことはなくなった。代わりに母親は、貯金を切り崩して教会に貢ぎ続けた。当然、病状は悪化の一途を辿った。
あるとき、母親がチトセの寝室を訪ねてこう言った。
「あのね、司教様が言うには、チトセの体に悪い穢れがあるのがいけないみたいなの。それを祓わなくちゃいけないの」
――え?
チトセが体を起こすと、母親の背後に、自分の部屋にでっぷりと太った中年男性が立っていた。
母親は「大丈夫」と言った。「ちょっと痛いかもしれないけど、必要な儀式だから。お母さんもちゃんと見守ってあげるからね」
チトセの目の前で、男がゆっくりと馬鹿みたいに大袈裟な礼服を脱いでいく。舌なめずりをしながら。
「い、いや、いやだ――!」
チトセはベッドから逃げようとした。自分がこれからなにをされるか、はっきりと分かった。
そんな彼女の体を、母親が強引に押さえつけた。
「チトセお願い! あなたのためなの!!」
「いやだ、絶対いや、気持ち悪い――!!」
「司教様になんて口のききかたするの!!」
母親の鋭い平手打ちが飛ぶ。
そのときチトセは、悟った。
――あたしのママは、目の前にいるあたしの言葉より、いるはずもない神様の教えのほうが大事なんだ。
パパが愛想を尽かして家を出ていくはずだなあ。
「チトセ!」と母親は怒鳴った。「司教様に謝りなさい!」
「あははっ」とチトセは笑った。
直後、彼女の背中からコウモリの羽根が伸びた。戸惑う母親の頭部を切っ先で切断し、さらに腹を捌いて内臓を全て引きずり出す。血が噴き出して、真っ白な寝室は天井も壁も深紅に染まっていった。
――彼女が、後天性の獣人になった瞬間である。
先ほどまで性欲を丸出しにしながら服を脱いでいた司教様とやらが、その場で腰を抜かした。ズボンを脱いだままの無様な姿だ。
「あは、あはは、あはははは――!!!!」
チトセは大声で笑うと司教を見下ろした。
「ダメダメじゃん? あなたは神様の教えを守る立派な人なんだから、あたしみたいな怪物に怯えるのは背信行為になっちゃうよ?」
彼女はニヤニヤと笑った。
「殺されないよう主に祈りなさい。痛切にね?」
次の瞬間、チトセは完全にコウモリの獣人体になり、男の体を生きたまま体の末端からみじん切りに引き裂いた。特に、自分を汚そうとした男性器については、念入りにスライスしてやった。
「――ふう」
チトセがひと心地ついていると、寝室のドアが開いた。どうやら司教の連れがひとりいたらしい。部屋に入って一瞬固まり、
「な、お前――!」
と叫ぶと、すぐにスーツの懐からピストル――マカロフPM――を取り出す。が、ただの銃弾では獣人に効き目がないことを思い出したのだろう、そのまま直立不動だった。
「見られちゃった」とチトセは言った。「じゃあ、あなたも殺しておかないとね」
「ま、待て――! 質問がある!」
男は叫んだ。
「お前、熊谷チトセだな!? 今日、司教様の浄化儀式の対象だったはずの!」
「そうだけど」
「獣人になったのか!? 今!」
「そうみたいだね」
「これからどうやって生きていくつもりだ!?」
男はピストルを捨てながら怒鳴った。説得を始めるつもりだろうな、とチトセはぼんやり思う。
「分かってるだろ? 獣人は先天性であれ後天性であれ日本社会では人権はない! 獣人捜査局の連中に見つかって駆除されるか、研究所送りになって死ぬまで実験対象か観察対象になるんだ!
お前、どうやってそれを回避する気だ? あいつらはプロだぞ! ずっと狙われる! 分かってるのか、それが!」
男がベラベラと怒鳴るのを聞きながら、チトセは、
――へえ。このヒト、命乞いの仕方が上手いね?
と思った。
こちらが考えるべき重要度高の課題について、オープンクエスチョンで矢継ぎ早に喋っている。あたしの頭を使わせて時間を稼ぐためだ。
そのくらい賢いなら、多少は利用価値はある。
「で」とチトセは首を傾げた。「あなたはなにを提案してくれるの?」
「俺は」と男は言った。
「俺はこれでも内部に顔が効くんだ。教祖の右腕が俺の従兄にあたる。
お望みなら、教会の権力者に掛け合ってお前の犯行を隠蔽できるぞ。研究所でマズい飯を食いながら実験台になる必要はないんだ」
「へーえ!」
チトセは人間体に戻り、裸のまま両腕を組んだ。
「あたしにそれだけのメリットをくれるってことは、なにか見返りが欲しいんだよね?」
「ああ」
と男は言った。「もうじき教祖は寿命で死ぬ。俺は娘婿の糞野郎じゃなくて、右腕の男を後継者にしたい。都合の悪いヤツはお前が殺して始末すればいい――どうだ?」
「乗った」
とチトセは言った。
「あなたの言うとおり、教会が秘密裏に消したい連中はあたしが消してあげる。代わりにあなたはあたしの食生活を支援する。これでOKかな?」
「オーケーだ」
男は、ふう、と息を吐いた。交渉は成立したわけだ。
チトセはにっこり笑うと、彼が油断しているのを見計らい、
即座に接近。
その首筋に歯を立てて血を吸った。
「な! お前、なにを――!」と男が動揺するのも構わずに、
「これは保険」とチトセは言った。
「あたしの能力は分散型みたいだね。あたしに生きたまま血を吸われた人は、みんな、あたしと同じコウモリの獣人になれる。――これであなたも日本警察のお尋ね者ってわけ」
「そんな!?」
「一蓮托生でしょ?」
チトセは笑った。「もう逃げられないよ? あなたが新しい表向きの教祖を決めるっていうならそれもいい。
あたしは――この教会の裏教祖になるの」
そう。
人に騙されるよりも騙すほうが得をする。宗教はいつだって「信じる」側ではなく「信じさせる」側の味方なのだ――。
ママは馬鹿だ。信じる側に回ったせいであたしに殺されちゃったんだから。
※※※※
そして現在。11月20日。
ラッカ=ローゼキはシャワーを浴びると、ホテル備えつけの服を着て部屋に出た。ベッドにはイズナ=セトが座っている。
「ラッカさんはシャワーが遅いですね?」
「しょーがないじゃん」とラッカは言った。「お風呂の入りかたとかアヤノに教わったばっかだもん」
「たしかに、あなたは人間社会に来てから日が浅い。失礼しました」
イズナは形式的な謝罪をしてから、目の前の読書に戻った。
――コウモリの部下であるホノカとコトリを捕らえてから、有楽町のホテルに、ラッカたちもイズナたちも泊まっている。第七班班長の日岡トーリは追加で捜査を続けていて、第六班班長の橋本ショーゴは捕獲対象に対して地下室で尋問を続けていた。
ラッカはベッドに腰を下ろすと、「あのさ、イズナ」と呼びかけた。「訊きたいことがあるんだけど」
「ん、なんですか?」
「私って洗脳されてる可哀想なヤツなの?」
「は――あ、はあ?」
イズナは本気で呆れているっぽかった。
「なんですか? それ。もしかして敵の獣人になにか言われましたか?」
「え――まあ、うん」
「あいつらの言うことを聞く必要はありませんよ」
「そうなの?」
「だって敵でしょう。敵の言葉に意味などない。無視すればいいんですよ」
イズナがそう言うと、
「敵の言葉に意味はないって誰が決めたの?」
と、ラッカは訊いた。
イズナはそこで本を閉じると、深いため息をついた。
「混乱しているなら、2Fのトレーニングジムを使って体を疲れさせればよいのでは」
「え?」
「ラッカさんは洗脳されていません。獣人訓練の思想教育は幼少期にしか効果がないので、例外のあなたは対象外のはずですよ」
「――そっか」
「なんでも素直に受け止めるのは、良いことではないと思います。従うべき主人を見失わないでください」
「主人って?」
「私の場合は、それが第六班のショーゴさんです。私はショーゴさんさえいればいい」
とイズナは言った。
彼女の言葉に対し、ラッカがなんだかモヤモヤしていると、部屋のドアが空いた。
そこには、返り血でシャツとスーツを真っ赤に染めた橋本ショーゴが立っていた。オールバックの黒髪は乱れ、銀縁の眼鏡も濁っている。
「疲れた――が、ようやくアジトは聞き出せたなあ」
イズナは即座に立ち上がった。
「お疲れ様です。ショーゴさん」
「おう」
ショーゴは内ポケットから録音済みのレコーダーとメモ帳を取り出した。
「分かったのは、他のコウモリの部下たちの人数と名前。親玉は熊谷チトセ22歳で、統和教会の敬虔なヒラ信者。現在の住所は御茶ノ水にある豪勢な高層マンションだそうだ」
それから彼はレコーダーとメモ帳をイズナに投げて寄越す。
「厄介な敵だ」
「なぜです?」とイズナが訊くと、ショーゴは首を振った。
「こいつは獣人を増やせる分散型の獣人らしい、が、その力を最低限効率的にしか使っていない。仲間どもはみんな少数精鋭だ。実際、自白させるのにおれでも時間がかかった」
教会の力を使って身を隠しながら、そこで地位を得て目立とうとする気もない。あくまで裏の権力者として君臨したいらしい。とにかく慎重で思慮深い獣だ。
ショーゴはそこまで言うとネクタイを緩めた。
「この案件は第七班と第六班の合同で鎮圧作戦に出る。おれは疲れて寝るから、イズナ、班員が来たらホテルのロビーで出迎えていてくれ」
「分かりました」
イズナは唇をきゅっと結ぶ。
「あと」とショーゴは呟く。「オオカミの嬢ちゃん、第七班とトーリが集まるまでイズナのサポートを頼む」
「ん、おっけー」
ラッカはそう頷いてから「あ、そうだショーゴ」と呼びかけた。「捕まえたホノカとコトリは?」
それに対して、ショーゴは手をひらひらとさせる。
「拷問(しつもん)のやりかたは、オオカミの嬢ちゃんにはまだ早い。二点だけまとめる。
その一。おれはホノカの目の前でコトリの肉体だけ痛めつけ、ホノカのほうから情報を引き出した。
その二。あいつらはもう二匹ともこの世にいない。
以上だ」
そうしてショーゴは隣の部屋に入っていった。
数時間経つと、まず、第六班の班員が有楽町のホテルに集結した。イズナとラッカは、ホテルの甚平を着て出迎える。
――河野タイヨウ、西城カズマ、我孫子リンタロウ、白石ルミネ。
その四人がゆったりとした足取りでロビーに入った。
「いよいよ大仕事か」
カズマはガチャ歯を見せて笑った。ニット帽にスカジャンを羽織った、あまり警官には見えない身振りの若い男だ。
「ショーゴ先輩ばっかイズナちゃんとイチャイチャ捜査してズルいぜえ。マジで。ちまちま宗教バカの相手すんのウンザリしてたんだよ」
彼は笑った。
「や~~っと獣人ブチ殺せんのかあ~~!!」
それに対して、河野タイヨウはキッとした顔つきで頷いた。安物のスーツを着た、眉毛の太い筋肉質の男だ。
「――今回の獣人は分散型と聞きました。標的がヤケになったら数十人は駆除対象になりますよ。アメリカではそのせいで辺境の村がひとつ消し飛んでいます。気を引き締めて迅速に行動しましょう」
我孫子リンタロウは――のっぺりとした顔つきの、ロン毛の男だ――静かに頷いた。
ラッカが面食らっていると、そこに白石ルミネが駆け寄ってきた。
「ねえねえ、オオカミちゃん!」と彼女は言った。「第六班と第七班の合同作戦ってほんとお!?」
「え? ――うん、ほんとだよ」
「やったあ~~!」
ルミネは鼻歌を歌うようにその場でスキップした。綺麗に染められた長めの茶髪、涙袋がたっぷりとある、軽薄な目つき。そして、ほとんど捜査には似つかわしくないような地雷系のファッション。
「トーリさん、まぢ顔が良すぎて推しなんだよね! いっしょに仕事できるとか、最高かよ~!!」
ルミネはケラケラ笑った。
「え――?」とラッカは戸惑った。「トーリのことが、好きなの?」
「えぇ? 好きだよぉ?」とルミネはくしゃくしゃの笑顔をつくる。「あ、もしかしてオオカミちゃんもトーリさんのファン!? いいよいいよ、ルミネちゃんね、同担拒否とかしないから!」
「ど――え?」
ラッカは頭がくらくらする。
「同担拒否って、なに?」
「あははは! オオカミちゃん草なんだが!」とルミネは口もとを手で隠しながら笑った。
「あのね、同じ人を好きだからライバルですよ~、って意味だね。でもね、大丈夫だよ! ルミネちゃんは推しが推されてんの嬉しいってなっちゃうタイプだからさ!」
「そ、そうなんだ」
ラッカは、白石ルミネがはしゃいで「トーリさんに早く会いたいな~!!」と言っているのを眺めながら、なんとなくイヤな気分になっていた。
――イヤな気分? なんだろう、この気持ちは。
ルミネはそれも構わずに「こないだ射撃訓練で、ルミネちゃんってば乙級3組に昇格したんだよね~! 褒めてほしいな~!」と両手を祈りのように結ぶ。
「へ、へえ~」
ラッカはただ、どうしよう、と思っていた。
――もしかしてトーリって、なんとなく分かっていたことだけど、ニンゲンのメスにもモテるのか?
えっ! マズいじゃん!
じゃ、つまり、つまりだけど、トーリが他のメスとツガイになることも全然ありうる、ってこと!?
※※※※
同時刻。御茶ノ水の高層マンション。
熊谷チトセは、自分の取り巻きを全て招集していた。
長いテーブルから時計回りに、エリ、ウミ、ノゾミ、マキ、リン、そして新入りのハナヨの順番だ。
「あのね」とチトセは言った。「オオカミちゃんを尾行していたコトリとホノカが二人とも帰ってきてないの」
「えっ」
最初に声を上げたのはエリだった。「獣狩りの連中に捕まったってことですか?」
「そう」とチトセは頷く。「最初にホノカのほうから連絡が来たの。二重尾行で、コトリが捕まったって。そのあとホノカからも連絡が来てない。たぶん、二人とも獣人捜査局のヤツらに拉致されたんだと思う」
「二重尾行――」
エリが項垂れると、今度はノゾミが口を開いた。
「それってさ、あたしたちがオオカミちゃんを探してるっていうのを、逆手に取られたってこと?」
「たぶん」とチトセは頷く。「たしかに妙だった。あれだけSNSで顔写真をバラ撒かれてるのに、あのオオカミちゃんはのうのうと週末に出歩いてた。つまり、自分を探して追いかけてくる獣人を、網を張って待っていたってことだね。
――もちろん、だとしても、今回の件は相手にとって上手くいきすぎてる。きっと、二重尾行自体はオオカミちゃんにさえ知らされてない。もっと上の判断だよ」
「そんな――」
ノゾミはそう呟くと、そのまま黙ってしまう。
「問題はね」とチトセは頬杖をついた。「捕まったコトリとホノカが拷問でもされて、あたしたちの情報が洩れてる可能性なんだよ」
「そんな!」とウミが叫んだ。「あの二人がそんなことするわけないです!」
「相手は獣狩りだよ」
チトセは息を吐いた。
「あたしが獣人捜査局員の立場だったらだけど、二人を同じ部屋に閉じ込めて、片方だけを拷問して、もう片方にだけ質問を続けるね。――このなかで、そんなペアを組まされて耐えられる子がいるとはあたしは思ってない。
要するに、こっちの結束力を利用されたんだよ」
チトセがそう言うと、全員が黙った。
「で、なんだけどね」と彼女は言葉を繋いだ。
「教会に逃げ込もうと思う。みんなで」
「逃げ込む――?」
そう訊いたのはハナヨだった。「どういう意味ですか、逃げ込むって――」
「あたしたちが支配する教会にはね、逃げ出そうとする信者を閉じ込めて再洗脳する施設があるんだ。警察にも見つかっていない、長野県の山奥にある古びた洋館だけどね」
チトセは指をくるくると宙で回した。
「あたしたちみんなで、教会から逃げ出そうとして捕まった信者のフリをする。で、そこに匿われている間に次の作戦を考えるの――どうかなあ?」
彼女は両手をテーブルの上に置いた。
「あたしね、世界のことは大嫌いだけど、みんなのことは好きなの。
もう、犠牲は出したくない。
今回の案件を持ち込んできた『クロネコ』とやらには、あたしが責任を持ってちゃんと詫びを入れる。――でもみんなのことは助けたい」
チトセがそう言うと、取り巻きの全員がゆっくりと頷いた。
「分かりました」とエリが言った。「いったんここは戦略的に撤退しましょう」
「おっけー」
そう微笑むと、チトセはスマートフォンを取り出した。
「みんなで、生き残ろう。これからもニンゲンのこと、いっぱい食べものにしなくちゃいけんだから!」
彼女の言葉に取り巻きたちが笑うのを見てから、チトセは電話をかけた。
五年前、最初に自分の眷属にした男――紀美野イチロウに対して、だった。
「どうかしたか、チトセ」と彼が訊いてきた。
「こんばんは、ダーリン」とチトセは笑った。「あなたの権力を見込んで、お願いがあるんだけど?」
※※※※
チトセと通話していた男――紀美野イチロウという名前で、統和教会の教祖後継者抗争については右腕派の中核を担う人物だ――は、スマートフォンをオフにすると思わず舌打ちをした。
「チトセの部下が獣狩りに捕まった――!? どうなってやがる。まったく――!」
あの女は、簡単にヘマはしない。
なにしろ、今までずっとオレと2人で娘婿派のカスどもを始末してきたんだ。あの女が連れてきた部下も優秀だった。
――クソ。クソクソ! オレの人生はなんなんだ!
イチロウは歯ぎしりをした。
たしかに、成り行きでチトセの眷属になった。そのおかげで今の地位もある。だが納得なんてするわけがない。
女に顎で使われて手に入れた地位なんて、本当の立場じゃないんだ!
そこまで考えてから、イチロウはゆっくり息を吐いた。
――落ち着け。問題は、どうやってチトセを逃がすかだ。あいつが捕まったらオレも捕まる。そうなったら、今まで幹部として手に入れていた金も、権力も、全部台無しなんだ。
そうして、彼は即座にタブレットを操作した。
『数日前の勉強会で不信心を口にした、二十代前半の女性グループあり。再度教育を実行したく、長野第8聖堂の使用を申請する』
送信。
※※※※
同時刻。銀座。
日岡トーリはゆっくりと上着を脱ぎ、広間に入った。
向かいには既に客が待っている。統和教会の娘婿派、その幹部の一人、窪岡だった。両隣に信者の女たちを侍らせて自分の肩を揉ませている。スキンヘッドで眉毛も剃り上げ、服は儀式用の礼拝服を着ていた。
「どうぞ、お座りください。獣人捜査局の日岡トーリさん」
窪岡は、にったりと笑った。
トーリは静かに礼をすると、向かいに座る。窪岡が「おい」と声をかけると、彼の両隣にいた女のうち、片方がトーリの横に座った。
「なにを頼むんですか? トーリちゃん?」
「あんまり飲めないので、ジントニックで」
女がタブレットを操作して注文する間、窪岡はじっくりとトーリの目を見つめていた。
「で、トーリさん」と窪岡は言った。「我々の教会に忍び込んでいるらしい不届きな獣人が、ようやく見つかった――その報告は本当ですか」
「はい」
トーリはすぐにスーツの内側から二枚の紙ペラを出した。
それは捕まえたばかりのホノカとコトリの顔写真だった。
「ただし、こいつらの裏側には親玉がいます」
「ほう?」
「部下が捕まったことで、身を隠すかもしれません。たとえば教会が不良な信者を閉じ込めて再教育するプログラムがあるとして――」
「ないですよ、そんなものウチには! いやだなあ」
「――仮の話です。きっとそこに逃げ込むだろうと獣人捜査局は狙いを定めています」
トーリは届いたジントニックを口に含む。
「もし」とトーリは言葉を繋いだ。「もしその場所が分かれば、獣人捜査局としては、わざわざ東京都内でドンパチやらずにすむんです。標的がそこに逃げ込んだタイミングを襲えばいいので」
「だから、そんな場所はありませんよ、トーリさん」
「――でも右腕派が獣と結託していると判明したら、あなたは有利でしょう?」
「――――」
窪岡は考え込んでいる様子だった。料理が運ばれてくる。
トーリの隣に座る女が、「刑事さん、怖い話ばっかりしないで?」と甘えてきた。「ほらあ、あーんして、あーん?」
「黙れ!」
と窪岡が怒鳴った。
女は固まる。
トーリはその女に向き直って、
「ごめん。料理は自分で食べるから大丈夫だよ」
と言った。
それから、ゆっくりと箸ごと肉を受け取ると、口に入れた。
女は動きを止めたまま、しかし、トーリの容姿をじっと見つめる。目鼻立ちの整った顔、口もとの艶ぼくろ、そして街に紛れることを目的にしたセンターパートの黒髪。
窪岡は少し黙ったあと、そんな二人を見て溜め息をついた。
「あとで正確な地図を送らせます」
と彼は言った。
「こちらとしても、もう、自分たちの派閥が行方不明になり続けるのは辛いんですよ。言ったらアレですけど、右腕のほうには信仰の意志もなんにもない、金儲けだけだ。わたしたちとヤクザを区別するのは、最後はもうそこなんです。理解してくれますよね」
「ええ」
トーリは微笑む。
「ご安心ください。窪岡さんたちの目指すものが法的にどのような組織なのか、獣人捜査局としては関知しませんよ。我々は、ただ、人間を脅かす獣を狩りたいだけです」
そうしていくつかの料理が並ばれたあと、会合はお開きになった。
別れ際、先ほどの女がトーリに駆け寄ってくると、
「また会える? 刑事さん」と言ってきた。
トーリは首を振る。
「俺とまた会うときは、君の居場所に獣が近づいているときだ。だから会わないほうがいい」
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