第3話 VS吸血鬼 前編その3


 ラッカはトーリと手を繋ぎながら、有楽町の夜道を歩いていた。頭のなかは、

 ――手、手~~!!

 みたいな感じだった。

 かと思うと、トーリは少しだけ手のひらと手のひらの間を空けて、人差し指を差し込み、なにかをラッカの手のひらのなかに書いた。指文字というやつだ。

『て』『き』

 そうトーリは書いた。そして、また手を繋ぎ直してくれる。

「――!」

 ラッカの精神はすぐに臨戦態勢に入った。蒼灰色の瞳に、獣の輝きが交じっていくのを感じる。

 そうだ、今回は事件を起こしている獣人をおびき寄せるのも目的。要するに今、そいつが引っ掛かったってことだ。

「なあ」とトーリは言った。声は大きすぎも小さすぎもしない。自然な感じの会話を装っている。「少し休んでいかないか?」

「うん」

 ラッカは頷く。すると彼はスマートフォンを起動してブラウザを操作する。普通なら、休憩できるところを探しているような素振りで。

「ほら、ラッカ。ここなんてどうだ?」

 実際には、文字を打ち込んで見せてきたのは、ただのメモ帳のテキストだ。

《敵の獣人がどれだけ聴力があるのか、こちらはまだ分かってない。自然な会話のフリをして続けよう》

 それを眺めたラッカはすぐに調子を合わせようとする、が、

「ん、いいね~」

 すごい生返事になってしまった。

「ははは」とトーリは笑う。ラッカはそれを見たが、瞳は冷静そのものだった。トーリが目の奥から笑うとこってまだ見てないな。

「たしか」とトーリは周囲を見渡した。「四つくらい、良さそうなところがあったんだ。ラッカはどう思う?」

 四つ。

 それはホテルの数じゃないな。尾行してる奴の人数だろう。

 ラッカは、くん、と鼻を効かせる。近場で嗅げた獣人の匂いは三匹だけ。

 今夜は風が強い。屋外では、種類までは特定できない。

「三つじゃなかったっけ」

「あれ、そうか。――最初のひとつはお気に召さなかったみたいだな」

 トーリはそう言いながら歩を進めていく。「まあ、ちょっと先に連絡しとくよ」

 もちろん、ホテルに本当に泊まるわけではない。それらしい建物で標的を迎撃するだけだ。彼は再び彼女にスマートフォンを見せる。

《これから行くホテルは獣人捜査局と繋がりがある。ロビーで適当に会話したら、エレベータに乗って廊下で敵を待ち受けよう》

 それを見たラッカは「ん、いいね」と答えた。


  ※※


 チトセの取り巻きであるコトリは、視界から決してトーリとラッカを見失わないよう、おおよそ半径10mの距離感で尾行を続けていた。

 ――?

 コトリが追跡する二人は、今夜ここまで来た車を停めてあるショッピングモールとは反対方向へ歩いていく。どういうことなの?

 そう訝しんでいると、トーリがラッカの手を握ったのをコトリは見た。

「え、ああ、そういう関係ってこと――?」

 下らない。

 昔、聞いたことがある。幼少の頃から猟獣訓練を受け続けた獣人は、その思想教育のせいで人間への攻撃性を失うどころか、異性に対して恋愛感情を抱く個体もあるらしいと。

 馬鹿馬鹿しいとコトリは感じる。

 ニンゲンなんて獣人に比べたら、ただの雑魚でしょ。自分よりも弱いオスに惚れるとか、意味わかんないし。

 まあ、そもそも私はチトセ様以外どうでもいいけど。

 ――チトセ様なら「食べものに恋するなんて不自然」って笑っちゃうだろうな。

 そう思いながら、コトリは足音を殺しつつさらに後をつけていく。

 ホノカはコトリと同行していない。コトリほど尾行が上手くない彼女のほうは、近場に並ぶビル群の屋上を渡り歩きながら、コトリのアシストをするのが役目だ。

 イヤホンからホノカの声が聞こえてくる。

『尾行対象はどう? 怪しいところはない?』

「今のところ大丈夫。なんか色ボケって感じ」

 そう答えたあと、コトリは、耳に意識を集中させる。

 ――少し休んでいかないか?

 ――ん、いいね~。

 そんな会話が聞こえてきた。

 コウモリの聴力。超音波を発して周囲をリサーチできる彼らは、同時に、その超音波を通じて群れの仲間ともコミュニケーションができる。数値にして、400kHz。

「バカな会話しちゃって――ただのラブラブカップルじゃん。ニンゲンのくせに、生意気」

 コトリは、どうしてチトセ様が猟獣というものを毛嫌いするのかやっと分かった。獣人よりも遥かに弱いはずのニンゲン。そいつらが権力と制度を盾に獣人を洗脳して言いなりにしている。それがカルト宗教と同じだからだ。

「たしかに、このオオカミちゃん、助けてあげなくちゃね。ニンゲンに利用されるだけのケモノの命なんて、悲しすぎるし」

 そうしてコトリは、トーリとラッカがビジネスホテルに入っていくのを見つめていた。

 ちょうどいいタイミングでロビーに入ろう、と思った。エレベーターのランプを観察すれば、あいつらがどの階で宿泊するのかは分かる。そうすれば私の勝ちだ。

 ホノカを呼び寄せて二人がかりならニンゲンの男は敵わない。そのあとでオオカミちゃんを仲間に入れればいい。

 ――そう思いながら、高架下でじっくりと、ホテルのガラス張りの入り口を眺めていたときのことだった。


 コトリの後頭部に、

 冷たい拳銃の感触が当たった。

「え――?」

 コトリが反応する前に「動くな、撃つぞ。獣が」という低い男の声が聞こえた。

「だ、だれ――?」

「おれか? おれは警視庁獣人捜査局第六班の班長、橋本ショーゴだ。

 で、てめえはなんて名前なんだ?

 ――野良の獣が偉そうに人間様に質問しやがって」

 その声は、嗜虐心に満ちていた。

 狩人にも良い狩人と悪い狩人がいる。自然と生命への敬意を忘れず、己を同格に置き、対決の姿勢をもって獣に向かう者と。そうではなく、人間の進歩を驕り、征服するべき対象としてしか動物を見ない連中と。

 この男は後者だ。そして、なのに、圧倒的に強い。

 橋本ショーゴと名乗ったその男は、悠長にスマートフォンを取り出すと誰かと通話を始めた。


「おう、トーリか? お前らを尾行してた獣だが、一匹はおれが確保した」

『二重尾行ってやつか。なるほど。

 ――道理でラッカと俺とで追跡者の想定が食い違うはずだ。四人のうち二人はお前とイズナさんか』

「そういうわけだ。渡久地ワカナ局長の采配だよ、悪く思うな。

 もう一匹のほうは、オオカミの嬢ちゃんに上手く処理してもらってくれ」


 そこまで言うと、ショーゴはコトリの後頭部をコンコンと突ついた。

「おい」と彼は言った。「いつまでおれの近くに立ってたんだ、ガキ。両手をゆっくり上げて二歩、三歩離れたらゆっくりこっち向け」

「は、はい――」

 コトリは両手を上げ、慎重に一歩、二歩、三歩と前に進んだあと、スローモーションで振り返った。

 そこにいたのは一人の成人男性と一人の少女だった。

 男は黒髪をオールバックでキメた、銀縁眼鏡の長身。

 少女は、うなじを刈り上げたおかっぱの茶髪だった。猜疑心の強そうな三白眼に、パンツスーツ、背丈は150後半といったところ。

 ――つまりは、橋本ショーゴとイズナ=セトだった。

「なあイズナ」とショーゴは言った。「こいつはなんの獣だ?」

「はい」とイズナは答える。「この距離なら匂いで分かります。コウモリの獣人です」

「はあん?」とショーゴは言った。そしてスマートフォンを持ち替え、すぐに、

「シルバーバレット、使用許可申請」

 と言った。

「えっ」とコトリは震える。

 ブラフだ。

 獣人捜査局員は、対象の獣人体を目視してからでないとシルバーバレットは使えないはずだ。万が一、人間に当たったらこの凶弾が人権問題になるのだから。

 だが、ショーゴの目は据わったままである。

 ――イカれてんのか、こいつ!

 コトリは、一か八かで動き出そうとした、

 

 のだが、

 次の瞬間、首筋に刃物を添えられていた。

「え――いや、えっ!?」

 コトリは異状に気付いた。

 さっきまでショーゴとやらの隣にいたはずの女がいない。そしてその女が今、私のうしろに回り込んでコンバットナイフを押し当ててきている。

「動かないでくださいね」

 とイズナ=セトは背後から囁いた。「首を切られたらどんな獣人でも再生に時間がかかります。ショーゴさんの手を煩わせないでください――」

「なんで!? だってぇ、さっきまで目の前に――!」

 コトリが恐慌状態になればなるほど、ショーゴは笑顔になっていった。

「カ――ハハハ!」

 ショーゴは笑いながらコトリの額を銃でコツコツと小突くと、言った。

「イズナ=セトはイタチ、隠密型の獣人だ。

 ――周囲が認識できる自分の位置と、実際の自分の位置を別々にできる。コイツの正しい居場所を常に把握できるのは飼い主のおれだけだ。目だけで追いかけたら、文字どおり『イタチごっこ』になるぜ?

 最初からイズナはずっとお前のうしろにいたんだよ。


 ――そんじゃ、コウモリの部下ちゃん。

 情報を吐いて楽に死ぬか、黙って苦しみながら死ぬか、決めようか」

 ショーゴはそう言った。


  ※※※※


 チトセの取り巻きの一人――ホノカは、尾行ルート近くに並ぶビルの屋上を渡り歩きながら、コトリの行動をサポートしていた。

 上から見下ろす限り、ターゲット、つまり日岡トーリとラッカ=ローゼキの動きにはなんの不審もない。イヤホンから届くコトリからの定時報告も順調そのものだった。

 ――コトリちゃん、なるべく無茶はしないでよ~。

 とホノカは思った。サイドアップテールにした金髪が夜の風に揺れる。

 しかし。

 コトリが高架下に入ってしばらくしたあと、イヤホンの奥から、『え――だ、だれ――?』という彼女の震えるような声が聞こえてきた。

「コトリ?」とホノカは呼びかけてみる。

 返事はない。耳を澄ませた。コトリは誰かと話しているらしい。次の瞬間、

『なんで!? だってぇ、さっきまで目の前に!』

 という短い悲鳴が届いた。

 ――コトリちゃんが誰かに捕まった! 誰に? 獣狩りの連中に!?

 ホノカはそれでも聞き耳を立てようとしたが、イヤホンが発見されたのだろう、男物の革靴とコンクリートとの間でゴリゴリと機械が踏み壊されるノイズだけが、最後、ホノカの聴覚に響いた。

「くそっ!」

 ホノカは罵声を漏らしながら立ち上がる。

 現状から判断できる事態はひとつ。二重尾行だ。オオカミたちをコトリは尾行した、そのコトリを別の何者かが追跡していた、ってわけだ。

 十中八九、その作戦はオオカミ女と相棒の男には知らされていない。だから自然に振る舞えていたし、だから私たちも騙されたんだ!

 ――私のせいだ、とホノカは思った。

 本来なら上空地点からコトリをサポートする私が、彼女に対する追跡者の存在を察知すべきだった。なのに、オオカミのほうばかりに注意して――!

 ホノカは頭を抱える。数秒間、脳内で、自分の脳をあらん限りの語彙が罵り続ける。かつていじめっ子の同級生に言われ続けてきた人格否定の言葉。


 ――ブス。ウザ。キモいんだよ。マジでさっさと死んでくんない? きっしょ。なんかクサくね? お前チョーシ乗ってんだろ。エトセトラエトセトラエトセトラ。


 そのあと冷静さを取り戻すと、ホノカはスマートフォンを取り出した。

 チトセ様に連絡しよう。

『どうしたの?』と彼女は訊いてきた。

 今は晩餐だろうか。大型冷蔵庫に保管してあるニンゲンの内臓か筋肉をアテにして血のワインを飲んでいるのかもしれない。

「すみません」とホノカは言った。「私の判断ミスでコトリが獣狩りに拉致されました。敵は3人以上です」

『――えっ!?』

「私一人であいつらに挑むか、撤退するべきか、チトセ様に判断を仰ぎたく」

 沈黙。

 沈黙が怖い。チトセ様は私に失望した? いや、そういう問題ではない。まずどうやってコトリを助ければいい。そんな方法があるのか。助ける方法がないとしたら、見捨てるしかないのか。

 ホノカには、なにも分からない。ただ自分を獣にしてくれたチトセ様の指示がほしい。

 そう思っていると、

『撤退』とチトセは言った。『あなたまでやられたらおしまいでしょ? どうやってコトリを助けるかはあとで考える。大丈夫だよ、向こうにとっては人質だもん。すぐに殺されたりはしないよ』

 冷静そのものという感じの声色で、チトセは言った。

「は、はい――!」

 ああ、安心する、とホノカは思った。

『安全を確保して。3駅以上は別の街に逃げて。追っ手が来ないことを確認してから連絡。オッケー?』

「はい、はい、チトセ様――!」

 ホノカは通話を切ると、今まで渡り歩いてきたビルの屋上を逆方向に駆け出して行った。デパートの屋上にある小さな遊園地を通り抜けて、さらに別のビルへ飛び移った。

 獣人は人間体のままでも、常人の2倍程度の体力がある。その脚力と肺活量でホノカは走り続け、少しずつ階数の低いビルに対して着地を繰り返しつつ、最後に古びた梯子階段のある業者向けの建物を使って地面に降りた。

 ――人気のないところを選んで逃げていかなくちゃ。

 そう思って、大通りに繰り出そうとする直前のことだった。


 目の前、路地裏に。

 オオカミの獣人――ラッカ=ローゼキが立っていた。


「あ――うあ、あああ!!」

 ホノカは腰を抜かしそうになる。こいつ、こいつがオオカミちゃんだ。コトリを捕まえたあとに、もうひとりの私のほうも狩りにきたんだ!

 こいつが、標的?

 噓でしょ?

 ――私たちのこと、返り討ちにする気満々だったんだ! 最初から!

 動揺するホノカに対して、ラッカは立ったままだった。

 白色の長髪を乱暴に後ろでまとめたヘアスタイル。意志の強さを伺わせる太めの眉。ライダースジャケットと白のTシャツにダメージジーンズ、そしてミリタリーブーツ。

 首から、鈍く光るドッグタグを下げている。

 男勝りに整った顔立ちの奥で、蒼灰色の瞳が獣の目つきになっていた。身長は170あるかないか、というところ。

「お前からはコウモリの匂いがする」とラッカは言った。「他の仲間の場所を吐け」

「えっ、え――そんな――!」

 ホノカは少しずつ後ずさりした。

 そして、思考回路を最大級に動かしながら、ホノカは次の言葉を放った。

「私たちは敵じゃないんだよ! オオカミちゃん!」

「――えっ!?」

 ラッカは動きを止める。

 そうだ、とホノカは思い直した。よく考えたら今の目的はオオカミちゃんをニンゲンから解放すること。戦って勝つ必要はないんだよ。

「わ、私たちはオオカミちゃんを助けに来たんだよ」

「助ける、って――どういうこと?」

 ラッカの視線から攻撃性が失われた。

「あのね」とホノカは言葉を繋いだ。「オオカミちゃんは猟獣なんて立場を押しつけられて、可哀想だから皆で助けようってことになったの」

「私って可哀想なの?」

「可哀想だよお!」とホノカは絶叫した。それは半分は演技だったが、半分は本心だった。

 この獣は人間の言いなりになっている。それはおかしい。

 人間社会では、獣人は命を奪われるか圧倒的な不自由と不平等の下で生きるしかない。権利はなにひとつ与えられない。人間はそんな獣人を飼い慣らすべく、幼少期の頃からこれを捕まえて「猟獣訓練」の名のもとに徹底した思想教育を施す。

 ほとんど残酷なまでに。

「オオカミちゃん」とホノカは言った。「自由に生きよう!? 本当に猟獣がやりたいことなの!? 私たちはもっと、好き勝手に生きていいんだよ!」

「え――うーん」

「あのね、オオカミちゃん、今なら獣人捜査局員の奴らはここに追いついてきてないよ? 逃げるなら今だよ! ほら、私といっしょに逃げよ?」

 ホノカはそこまで言うと、手を差しのべた。

 勝った、と思った。

 警察に飼われている獣人だって自分の身分の理不尽さには気づいているはずだ、だったら、今の私の説得も聞いてくれる!

 が。

 ラッカは「自由ってなに? 良いこと?」と訊いた。

 ホノカはそれを聞いて、少しカッとなる。

「良いことだよ! 好き勝手にできるってことだよ?

 人間なんかの事情とかなんにも関係なくってさあ、殺したいときは殺していいし、犯りたいときに犯るんだよ!! 毎日すごい楽しいから!! それが自由ってことだよ!!」


 数秒後。


「私がしたい好き勝手は、それとは違う」

 とラッカは言った。

「え? なに?」とホノカが問い質すと、

「私はニンゲンのことをもっと知りたい」とラッカは答えた。「人の世界で上手くやっていくために。それに、班の皆――アヤノともミサキともタツヒロともカオルとも仲良くなりたいんだ」

 あと、とラッカは付け加えた。

「トーリと、また手を繋ぎたい。お前といっしょに逃げたらトーリともう手を繋げない。だから、お前は私の仲間じゃないよ」

 その答えを聞いて、ホノカはふらふらとなった。

「え、怖――」と彼女は言った。「猟獣制度ってすごいね。そこまで洗脳されちゃうものなんだ?」

「いや、別に私、洗脳されてないし――」

 と、ラッカが言い返そうとする前に、

「洗脳されてるヤツはさ!」とホノカは吠えた。「みんな『私は洗脳されてない』って言うんだよぉ!」

 次の瞬間、数秒以内にホノカはラッカに間合いを詰めて回し蹴りを食らわせた――正確には、食らわせようとしたのだが、ラッカは、膝をかくん、と折って空を仰ぎ、そのハイキックを躱した。

「え――」

 ホノカが蹴り足を戻して体勢を立て直す前に、ラッカは起き上がり、両腕で上半身をガードしながら――キックボクシングの理想的なポーズだ――ザッ、ザザッとブーツを鳴らしてホノカとの距離を詰めてきた。

 正しいフォーム。

 正しいフォームは、力を正しく相手に伝える。

 ラッカの右ストレートが、ホノカの顔面を撃った。

「っがぁ――!」

 ホノカは鼻血を噴き出しながら二歩、三歩と後ろによろめいたものの、すぐに上体を起こす。

 ――こいつ、下手に出てりゃいい気になりやがって!

 が、ラッカは空いた距離を利用するように右のローキック。それがホノカの足を痛めつける。

「くそっ――」

 さらに体がバランスを崩す。

 ラッカは追い込みすぎず、蹴った足を素直に戻し、ザ、ザザ、と標準的なステップで間合いを詰め直すと、

 まだガードを固めきれていないホノカの上半身に、左のジャブを数発入れてきた。それだけで、守りの両腕が痺れるように痛い。

 ――こいつ、早い! 力も重い! 獣人体になってないのにこのパワーか!?

「ぐうっ」

 ホノカが両腕に力を入れた――入れすぎた、そのときを狙ったかのように、ラッカは、がら空きになった反対方向の脇腹をボディブロウで抉った。

「かはっ」

 強烈な吐き気。

 とうとう、ホノカはその場に崩れ落ちた。

 ――再生能力を持つ獣人に対して有効なのは、脳か内臓に対する揺さぶり。

 ラッカはトントンとその場で足を弾ませながら、ダウンしたホノカを見つめ続ける。


  ※※


 正しい形。正しい形は正しく力を伝えてくれる。

 ――カオルの言ったとおりだ、とラッカは思う。今まで、こんなにケンカが上手くいったことはない。

 次に首筋に手刀で意識を落とすか、顎を打って脳を眠らせよう。

 と、思ったそのとき、

《ナメんなあ――!》とホノカが叫んだ。

《ヒトの言いなりになってるワンコロ風情が――!》

 めきっ。

 と、音を立てて。

 ホノカの背中からコウモリの羽根が生えた、かと思うと、その切っ先が音速で伸びて、ラッカを襲った。

 ――!

 ラッカはすぐにバックステップで回避するものの、羽根の切っ先、その爪に左腕を切り裂かれた。

「あ、やべっ」

 皮が裂け、血が飛び散った。おそらく関節を回すための筋肉もやられたのだろう、ラッカの左拳がバカになってもう力が入らない。

 ――いってえな~、とラッカは思った。完全に再生するまではけっこう時間がかかる。

《形勢逆転じゃん!》

 ホノカはそう叫び、ラッカの回復を待たず距離を詰めながらさらに羽根を輝かせる。

《分かってくれないならもういいよ! ここで半殺しにして、連れて行って、チトセ様の言葉をたっぷり聞いてもらうから!

 そしたらオオカミちゃんにだって分かるよ! 自分がどれだけ自分の命を粗末にしてるか!》

 そうして羽根を振り下ろした。

 ラッカはすぐに、腰にぶら下げていた折りたたみ式の警棒を取り出した。ベルトの金具から外し、右腕をスナップさせて伸ばすと、コウモリの爪を受け止める。

 その間、0.5秒。

 感覚が冴えていく。

 正しい形。正しい形はすぐに使いものにならなくなる。ミサキの言うとおりだ。

 だから、実力の30%しか出せなくても相手を倒さなければならない。人を守り、獣を殺す狩人ならば。

《もお――!》

 ホノカの、コウモリの声に苛立ちが満ちていく。ラッカは冷静に敵の力を受け止めつつ思考を働かせる。こんな風に分かりやすくムカついている奴は、次の攻撃はもっと直接的になるだろう。

 タツヒロの言うとおり。捜査に必要なのは、犯人の感情をトレースすることだ。

 ラッカは、ホノカが連続して羽根の攻撃を繰り出す直前に路地裏の壁を蹴り、無防備になっている彼女の背中を踏み台にすると後ろへ回った。

《く、くそ――オオカミ――!》

 ホノカはすぐに振り返ろうとしてくる、が、大きい羽根が路地裏では邪魔をしてその動きは少し遅れがちだ。

 ――いまだ!

 ラッカは警棒の電撃ボタンをオンにすると、それをホノカの脳天めがけてブン投げた。

 当たるか!?

 ――当たる!

 私が手に持ってるもの全ては、私の体の延長だ。そうだろ? アヤノ。

 ホノカの額に当たった警棒が、バチバチと音を立てて激しく明滅した。

《アアアア――アアアア!!!!》

 ホノカが――コウモリが絶叫しながら、今度こそ意識を失い、その場に崩れ落ちた。


 ラッカはしばらくホノカが目を覚まさないことを確認してから、立ち上がると、彼女の体を米俵のように抱える。

 ――うん、私、ちゃんと皆が教えてくれたことを活かせてるっぽい。やったね。

 と思った。

 そうして、夜空を見上げた。肌寒い。そして、月はまだ雲に隠れたままだった。

「待ってろよ、コウモリの親分」とラッカは呟いた。


「なにが私を助けるだ、クソ。勝手なこと言って皆とトーリのことバカにしやがって。――お前もすぐ狩ってやる」

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