第2話 VS化け狐 その2
※※※※
同日の夜。
戸塚トシキは、行きずりの男に招かれたアパートで夕食を食べていた。いや、男のほうはトシキを招いたとさえ思っていないだろう。
なぜなら、今のトシキは数週間前に手に入れた女の容姿をしているからだ。
「んん――うめえな」とトシキは言いながら、近くにあるビールを飲み干す。
その声も女の声だった。だが、既にトシキ自身はとっくに慣れてしまっている。
――オレはキツネだ。そしてキツネの力は、人を化かすこと。オレは、オレが生きたままその肉を喰って呑み込んだニンゲンの姿になることができる。
数週間前に顔面と手足の指先を喰んで、秋葉原の川に捨てた女が今のオレだ。
「今までよお」とトシキは女の声で言った。「色んな人間の姿になってそいつの人生を生きてみた――が、いちばん便利なのは若くてツラの良い女だなあ」
男が油断して餌食になってくれる。
トシキが冷凍ハンバーグを食いながら床を見下ろすと、そこには、彼をここに連れ込んだナンパ男が転がされていた。
ガムテープで口を封じられ、両手両足は既にトシキに折られていた。
「メシ屋で良い女を口説けたと思っただろうに、残念だったなあ。オレが化けてるこの女はもうすぐ女子寮の門限だから、そろそろ帰らねえと」
「むーー!!!! むーー!!!!」
ナンパ男は涙目になりながら必死で声を漏らした。だが、ガムテープに封じられた口からは、とても周囲に助けを呼べるような声量は出せない。
「カハハ!」とトシキは笑った。「なんだそりゃ、命乞いかあ!?」
あのなあ――と、トシキは冷凍庫を開けて、生肉を見つけるとそれを血を滴らせながら口に運んでいった。「なあ見ろよ! なあ、これよお!」
そしてわざと、大げさな咀嚼音を立てながらナンパ男に凄んだ。肉にたまった血が床にボタボタと落ちていく。
「テメエらニンゲンは獣人にとって『これ』なんだよ! 分かるか!? 肉!! 牛だの豚だのの命乞いにテメエら耳貸したことあんのか!? コラア!!」
「む、む――!! む――!!!!」
トシキは罵り終えると、食器棚にあったスプーンを使って、ナンパ男の片目だけをスムーズにくり抜いた。下瞼に差し込んでくるっと回すと、視神経が千切れて簡単にスポンと抜けてくれる。
「むうううううううう!!!!」
男の悲鳴。
トシキは無視した。
「保険としてこの目ん玉は使ってやるよ」とトシキは言う。「それまで勝手に死ぬんじゃねえぞ。オレが使える顔面は生きてる間なんだ」
トシキは男の右眼球を持参のタッパーに入れて、バッグにしまうとアパートを出た。女子寮の門限があるというのは本当だ。
――最初にこの女の顔を喰い千切って姿を奪ったあと、持ちものを調べたが、どうやらこの女は警察学校生で、獣人捜査局に入局予定らしい。それで女子寮に住んでいる。
いいねえ、とトシキは思った。獣人捜査局の女になれるなら、いつでも捜査の状況は耳に入る。獣にとっていちばん恐ろしいのは狩人の存在。ならば、まずはその危険を取り除くのが正しい。
新しいニンゲンの顔を剥いでそいつの人生を満喫するのは、まず身近な危機を回避したあとでいいってのが道理だ。
――この女をオレに寄越してくれた『クロネコ』様とやらに感謝しなくちゃな。
どういう情報網か知らないが、『クロネコ』様は警察学校を出て獣人捜査局に直入りする女の生活習慣から弱点まで全て教えてくれた。
その代わり、と言ってはなんだが、面倒なことを押しつけられたが。
「オオカミの女を探れ」と。
ま、いいさ、とトシキは楽観的に考えた。
――相手がどれだけ強かろうが関係ねえ。オレはいつでも姿をくらませるんだからな。オオカミのメスなんか、オレが喰ってやるよ。
※※※※
ラッカのほうはといえば、まず獣人捜査局員の田島アヤノに車で連れ回されて私服をたらふく手に入れていた。全て領収書で落ちた。
アヤノに言われるがままにラッカはライダースジャケットを羽織り、中はTシャツ、そしてダメージジーンズに長めのミリタリーブーツだ。
「うんうん、カッコいい!」とアヤノは手を合わせた。
「どう? ラッカちゃん!」
「んー」とラッカは悩んでから答える。「靴、もっと履きやすいのないかな? たぶん紐を結ぶのとか、私、難しいよ」
「おっけー、それも買おうね! でも」とアヤノは言った。「紐つきの靴はあったほうがいいからね」
「なんで?」
「いざというとき、敵の首とか手足を絞めるものがないと大変でしょ? 同じ理由で、胸ポケットにはいつもボールペンとか入れててね!」
「あ、なるほど~」
いや、いざとなれば私はオオカミになって食い殺せばいいじゃん、とは、ラッカは答えなかった。
「ま、いいや」と言ってから、
「アヤノは優しいから、アヤノの言うとおりにするよ。優しい女の子の言葉は絶対に大切にしろって、母ちゃんも教えてくれたからな」
そうラッカは答えた。
そのあと、アヤノの車は警視庁獣人捜査局員の女子寮に到着した。玄関のイヤホンを鳴らしてから「田島アヤノ帰寮しました」と声を上げて、ドアを開ける。
「ラッカちゃんの部屋は二階の廊下奥。あとで案内するね。私がその隣の部屋だから、困ったことがあったらいつでも相談して」
「うん」
「お風呂とトイレは各室にあるから、好きに使って。ものが足りなくなったら一階食堂のタブレットで申請すればいいから」
「分かった、ありがと」
それは、警官の独身女子寮としてはほとんど破格の待遇だった――獣人捜査局にかけられた予算は、それだけ大したものだということだが。
「さてさて!」とアヤノは食堂に飛び込んだ。「明日の仕事は、明日の私に任せるとしましょ~か!」
そうして冷蔵庫からビール瓶とコップを数本取り出す。
すると、同じタイミングで三階のほうからの足音と、玄関ドアの開く音がした。
まず、降りてきたのは獣人捜査局第七班副班長、仲原ミサキだった。「お、初動は終わったんだ。私もちょっと飲むかなあ」
ミディアムボブの茶髪に、憂い気な垂れ目。おそらくは胸の大きさを隠すためか、ぶかぶかのパーカーを着て、その下にワイシャツとパンツスーツのルックだった。
「ミサキ副班長、お疲れ様です」
アヤノはそう言いながらコップを手渡すとビールを注いでいく。「射撃訓練、どうでした?」
「前と変わらず。甲級1組。まあアレは試験が簡単すぎるけど。むしろ、いつまで経っても乙級2組のトーリくんが心配かな」
「わあ――」
アヤノが目を輝かせていると、食堂に、先ほどの玄関ドアの主が入ってきた。
「柏ヒトミ、ただいま帰寮しました」
そう敬礼を終えると、
「――って、先輩たち、もう飲み始めちゃってるじゃないですかあ! もお」
と笑った。
「ふふ」とミサキも微笑む。「ヒトミも飲みな? 警察学校、卒業おめでと」
皆が食堂のテーブルに着くなか、ラッカもなんとなく椅子に座った。
が、
「――へえ」とミサキが驚いた。
「トーリくんの言うとおりなんだ、この子。訓練を受けていないのに、人間に害意がない獣人かあ」
ラッカが戸惑っていると、アヤノが「あのね――」と隣で囁いた。「普通、猟獣たちは人間の許可なく椅子に座らないから」
「そうなんだ?」
「ま、ラッカちゃんは特例だけど」とアヤノは言った。
柏ヒトミも手酌でビールを飲む。「すごいですよね。どうやって人間に対する殺意とか抑えてるんですか? 獣人なのに?」
「抑える?」と、ラッカは困惑するだけだった。「考えたこともないから――よく、分からないというか?」
そんな彼女の言葉を聞くと、仲原ミサキがふっと零すように言った。
「トーリくんは、カラスの件で、初弾でアタマを撃ち損ねた、って」
「え――?」
「私だったら翼のほうに外すなんてしない。そうしたらこのオオカミの子に助けられることもなかったよね」
ミサキはさらにビールをコップに注いで呷ってから、本当に言いたい言葉は隠すように、「ちょっとトーリくんの腕は甘いかな」とだけ言った。
「まあまあ!」とアヤノは言った。「結果として、すごいラッカちゃんが入ってきてくれたんだから、いいじゃないですか!」
「そう思う?」
「はい、私はそう思いますよ!」
アヤノは大きく頷いてから、「あ、そうだ、ラッカちゃん!」と話しかけた。
「ん?」
「実は、検査入院のときのデータとは別に、猟獣運用が決まったあとの偽の公共データも申請しなくちゃいけないんですよ。この場でなんなんだけど、ぱぱっと済ませちゃいましょうか!」
「えーと、どういうこと――?」
ラッカが首を傾げていると、アヤノはバッグから書類を取り出す。
「猟獣用警察手帳をつくるための、人間っぽい経歴を作成します!」
※※
アヤノの質問にラッカが答えている間、次々と寮住みの局員や学校生が返ってくる。彼女たちは同じように挨拶をしてから「あ、この子が噂のオオカミちゃんですか!?」と興味を示してきた。
ラッカとしては、居心地が悪い。
「ごめんね」とアヤノは言った。「ラッカちゃんはレアだし、みんな注目するんだよ」
そんなやりとりのなかで、ラッカの獣人捜査局員用のプロフィールが固まっていく。
本名:ラッカ=ローゼキ
性別:女(性自認:同左)
役職:警視庁獣人捜査局第七班捜査員
住所:警視庁獣人捜査局女子寮
シルバーバレット:申請不許可(銃刀未訓練のため)
こんな感じだった。
アヤノが「あ」と言いながらビールを飲む。「そういえばラッカちゃんって何歳なの?」
「えっ、何歳?」
ラッカは考えてみたが、よく分からなかった。「ごめん、数えたことない。たぶん冬は十回越してるから十歳以上だと思う」
「いやいや」とミサキが笑った。「そりゃ、十歳以上なのは見れば分かるでしょ」
「じゃあ適当に二十にしますか」とアヤノは言った。「法律上ハタチにしないと、色々不便ですし。お酒とかタバコの出るお店で捜査することってあるし」
「え、そうなの?」
ラッカは驚いた。「ニンゲンって、そうやって、数えた年でできることとできないことがあるんだ?」
「そうだよ」とアヤノは言う。「ハタチにならないと、大人の男の人とセックスしたら条例違反だから。社会のしがらみってやつです」
「えっ――」
ラッカは絶句する。
頭のなかに、ちらっと、日岡トーリの表情が浮かんだ。
――ハタチにならないと、大人と交尾したら条例違反。
どうしよう、トーリは大人の男だ、とラッカは思った。
「分かった、じゃあ私、ハタチで」
そうラッカは言ったあと、その場にあったビール缶を手に取り、ぐい~っと飲み干した。苦い、が、そのまま言葉を繋ぐ。
「いや、いま思い出した。私、ハタチだ。絶対にハタチ。冬も二十回越したよ」
こうして、ラッカは書類上は二十歳になった。
実際には彼女は十七歳である。
アヤノとの書類作成を終えて、ラッカは食堂のベランダに出た。夜風が気持ちいいと思った。
――ニンゲンの世の中って、色々面倒くさいな。
大人と子供を年齢で区切るなんて知らなかった。山のほうでは、ガキをつくれる体になったら大人って基準で分かりやすかったのに。だから、もう私も大人だと思ってたけど、ニンゲンの社会はそうじゃないんだ。
そう思いながら、ラッカは胸のドッグタグを握った。
「まあ、いいか。
――色々あったけど、母ちゃんの言うことを聞いてたら良い寝床にもありつけたし。それに、トーリにも会えた。東京に来て探してた人に会えたんだ」
昔、獣だった私を助けてくれた、ニンゲンの男の子に。
そうして、ドッグタグを夜空の月にかざす。鈍い光が反射して彼女のための明かりになった。
「母ちゃん、私はニンゲンの社会で上手くやってるよ。心配しないでね」
それから、育ての親であるオオカミに山から追い出されたときのことを思い出した。
秋の山。
オオカミの母は、自分が率いるオオカミたちの群れを従えながらラッカのことを見下ろしていた。
《お前は、人間のニオイが強くなりすぎました。もう私たちケモノとはいっしょに暮らせないでしょう》
彼女の言葉に、ラッカは頷いた。
《お前に残るヒトのニオイは、ヒトを引き寄せ、いずれこの群れを滅ぼしてしまう。そうなる前に、お前はこの群れを去りなさい。それが皆のためです》
「分かったよ、母ちゃん」
ラッカはそう答えた。「今まで、育ててくれてありがとう。爪や牙の使いかたは、ぜんぶ母ちゃんから教わった。この恩は死ぬまで忘れない」
《お前がときどき人里のほうへ降りていき、服を見たり、家を見たり、食べものを見たり――そして映画館の屋根裏に潜んで、ニンゲンの言葉を学んでいたことは知っています》
母はそこまで言ってから、目を細めた。
《ニンゲンの暮らしに憧れがあるなら、そうしなさい》
「うん」
ラッカは深く頭を下げてから、オオカミの姿になり、遠吠えをした。
血が繋がっていなくても、親子の間はそれでよかった。
《最後に、お前にナマエを授けます》
「名前?」
《ニンゲンが互いに互いを区別する記号です。私たちケモノには不要ですが、お前には、必要になる》
「自分で名前を考えるのはダメなの?」
《他の者から託されることにこそ意味があるものです》
呪詛や祝福がそうであるように、愛情や名前は、他人から授けられるからこそ尊い。それは、自分で自分に預けては意味のないものだ。
《ラッカ=ローゼキ、と、そう名乗りなさい。全てを蹴散らして暴れ回る大いなる力という意味です》
「私は、ラッカ――ラッカ=ローゼキ、かあ」
うんうんと頷いたあと、ラッカはにんまりと笑った。
「ありがと、母ちゃん! 私、ニンゲンの世界でも上手くやるよ!」
そうして一目散に走り出し、木の枝にぶらさげて隠していたドッグタグを首にかけ、ラッカは人間の世界に降りていった。
考えていることと言えば、かつて、自分を助けてくれた人間の男の子に会うことだけ。
こうして獣人ラッカ=ローゼキは、誰かの服をかっぱらったあと、東京に来たわけだ。
ラッカが夜空を見て懐かしんでいると、ベランダに田島アヤノが入ってきた。「おー、ここにいたんだね、ラッカちゃん」
「うん」
「あ、タバコって大丈夫? ごめん、もっと早く訊けばよかったね――」
アヤノはアメスピを咥えて火をつける。「ほら、オオカミさんだから嗅覚もすごいのかなあって」
「そこは大丈夫」とラッカは言った。「嗅ぎ分けられるってだけ。それに、煙は好きなニオイだよ」
「ふうん」
アヤノはスパーッと煙を吐いてから、「嗅ぎ分けられるって、どのくらいの感じ?」
「そうだなあ」とラッカは腕を組んだ。「あ、一本ちょうだい。私、もうハタチだし。ハタチ」
「はーい」
「うい」とラッカはタバコを咥え、アヤノに教わるまま煙を吸い込んで吐く。「おお、こういう美味さか」
「そうだよお、人間って良いもの思いつくでしょ?」
「うん、ニンゲンは面倒だけど良いものもつくるね」
人が獣より優れていること。酒、煙草、それから映画の発明だ、とラッカは思った。
「嗅ぎ分けられるっていうのは――」と彼女は言葉を繋いだ。「たとえば、この寮、火薬と血のニオイがする」
「血は私かなあ? 死体見てたしさ」と、アヤノは微笑んだ。「火薬は銃弾だね。獣人捜査局員は、基本的には、シルバーバレット入りの拳銃、小銃、散弾銃、狙撃銃はプライベートでも持っていていいことになってるから」
「なるほど」
「――あのね」とアヤノは言う。「いきなりこんなことになって、不安かもだけど、私はラッカちゃんは頼りになるって思ってるから。なんでも言ってね」
「うん、ありがとね、アヤノ」
ラッカは笑って頷いてから、
「あ、そういえば」と言った。「私以外の猟獣? だっけ? そういうのも女子寮にいたりするの?」
「うん、イズナ=セトちゃんっていたでしょ? 第六班の猟獣なんだけど、あの子もここで監視と管理をされながら寝泊まりしてるんだよ」
「ふーん」
ラッカは、不意にイズナの言葉を思い出した。
『会話をしろという任務は受けていません』
それから、さっきの食堂での言葉も。
『普通、猟獣たちは人間の許可なく椅子に座らないから』
なんだろう。あいつは、本当にそれでいいのかな?
ラッカはぼんやりとそう思った。
――猟獣として生きるって、あいつにとって楽しいことなのかな。
「もしかして」とアヤノは灰皿にタバコを沈める。「同じ獣人として気になってる感じ?」
「え? まあ、うん」
「あの子はすごい優等生だよ。逆にこっちのだらしなさが責められてる感じになっちゃうくらい。あはは」
「あのさ――イズナって子は、なんの獣人なの?」
「イタチだよ。イタチ型獣人」
「へえ――」
ラッカはそう答えた瞬間、獣の目になった。
「アヤノ、今すぐかがんで声をひそめて?」
「んっ?」
「いいから」
そうしてラッカはアヤノのうなじを掴み、強引にしゃがませる。そして耳もとに唇を寄せながら、静かに囁いた。「イズナ以外に獣人は女子寮にいないの?」
「そ、そうだけど――
なに? ラッカちゃん、どうしたの?」と、アヤノは囁き声で返事をする。
ラッカのほうは鼻をくんくんと鳴らし、それから女子寮の室内を横目に眺めた。仲原ミサキと柏ヒトミが食堂で談笑をしている。
「じゃあ」とラッカは言った。「女子寮でこんなにキツネのニオイがしてるのはおかしいわけだ」
とラッカは言った。「キツネは、アヤノが言ってた変化型ってやつなら、もうここに来てるよ」
※※※※
同時刻。
日岡トーリは警視庁のデータベースルームに残り、山崎タツヒロとともにデータを調べていた。
「それにしても、不思議ですよねえ」とタツヒロは言った。山分けにした艶のある黒髪に、ノンフレームの眼鏡をかけた塩顔の男だ。「死体の状況からして、今回の獣人は変化型です。顔面、歯型、眼球、指紋掌紋。個人特定に使われそうなものを根こそぎ喰い千切って殺してる。だから、今回の獣人は自分が喰った対象に成り代わるタイプだと推定できる。現在どんな姿になっているのか、難しい」
「そうだな」とトーリは答えた。「それは、なにか不思議なのか?」
「ええ。だって僕がその獣人なら、自分が変化型だということすら隠すはずですよ。人間の集団に忍び込むには、そちらのほうが有利ですからね」
タツヒロは眼鏡の位置を直した。
「たとえば、別に削がなくてもいい場所も傷つけて偽装をします。なのにこの獣人は、まるで『オレは変化型だ』と宣言してるみたいだ」
他人に化けて身を隠すくせに、まるで自己顕示欲の権化みたいな行動をしている、そう思わないですか――とタツヒロは振り返った。
「それに」と彼は続けた。「もっと変なのは頭部の殴打跡です。明らかにトンカチのような、人間でも扱える道具で襲ってから肉を食い千切って殺害している」
「トンカチ――」
「獣人ならケモノの力を使えばいいのに、なぜかわざわざ人の武器を使おうとする。本当に他人に成り代わって身を隠すなら、その武器も事件ごとに変えるべきなのに、そうしない」
タツヒロは椅子の背もたれに体を預けた。「要するに、こいつ、やる気があるように見えないんですよね」
「なるほどな」
トーリは少し考え込んだ。
「他人になるために人を殺しているのに、自分が自分であることを現場に残している。これは矛盾だな」
と言ってから、
「トンカチが使われた三年以上前の事件を洗ってくれ」
そう指示した。「この獣人は、かつて人間だった頃のトラウマを反復している可能性がある」
「なるほど、ラジャーっす」
タツヒロは公務用のDELL PCとモニタに向き直った。
そのとき、新人らしい若い男性刑事――アヤノに頭を下げていた男だ――が、部屋に入ってきた。
「今回のご遺体の身元特定、進みましたよ」
「へえ」
「行政解剖の結果、左胸の肋骨三本にちょっと複雑な骨折跡がありました」
若い刑事はファイルを取り出した。
「顔面も指紋掌紋も歯型も眼球も駄目だったんで、骨折とその回復箇所を記録して、都内中の病院に照合かけてみたんです。二十~三十代女性って条件で検索かけて、該当したのは県外在住含めて六人です。このなかの誰かがあのご遺体ですよ」
「よく調べた。良いな」
日岡トーリはパラパラとファイルをめくる。そしてそのなかに、柏ヒトミの名前があるのを認めた。
「柏ヒトミ?」
トーリの脳髄が刺激される。この名前には見覚えがあった。たしか最近警察学校を卒業して、獣人捜査局に内定が決まった子だったはずだ。そして、今は警視庁近くの獣人捜査局女子寮にいる。
つまり。
そこには俺の班に所属している、仲原ミサキ、田島アヤノ、そしてラッカがいる。
気づくとトーリはその場から走り出していた。
「ちょ、ちょ、トーリさん!?」
そう言いながらタツヒロがついてくる。新人らしき若手の男性刑事はその場に置いてけぼりだ。
トーリは駐車場に着くと、自分の車――今日はBWM3シリーズのブラックカラーだ――に乗り込んだ。
「キツネが柏ヒトミに化けているなら、女子寮全部がヤバいぞ。俺はそこに行く」
「いやいやいや!」とタツヒロは助手席に乗り込んだ。「まだ柏ちゃんって決まったわけじゃないでしょ!?」
「俺の勘だ。つまり、理屈より正しい」
トーリはアクセルをベタ踏みした。次に無線アプリではなく、スマートフォンをハンドル脇に固定して、わざとプライベート用のチャットアプリからミサキに電話をかけた。
――以前、ミサキと交わした約束だった。俺がプライベートでかけるときは緊急用だ。業務連絡だと悟られないように適当に答えろ、と。
2回コールが鳴ったあと、仲原ミサキが通話を繋いできた。
『どうしたの? ――なんか、久しぶりじゃない?』
「今どこにいる?」
『え、そうなんだ。一回行ってみたかったんだよね』
一回。つまり、女子寮の一階ってことか。食堂だ。
「そこにはミサキの他に何人いるんだ?」
『うん、うん、うん』
三回の相槌。つまり、ミサキの他に一階にいるのはあと三人。
「田島アヤノとラッカはどこにいる?」
『あのお店、外窓のお花がオシャレだもんねえ』
ベランダのことか。
「単刀直入に訊く。柏ヒトミはどこだ」
『えっ、もお――そんな正面切って言われると照れるからさ』
正面。たぶん食堂のテーブルを挟んで眼前にいるんだろう。
「そいつが今回の獣人である可能性が高い。死体を食って成り代わったんだ」
『あ、そーなんだあ、やだなあ!』
「確証は多くはない。拳銃では脅していい。妙な動きをしたら手か足から撃ち抜け。シルバーバレットの申請はそのあとだ」
『はーい。言うこと聞くね』
「すぐに現場に行く。それまで持ちこたえてくれ。アヤノとラッカを守ってくれよ」
『分かってるよ、おやすみ。好きだよ』
そこで通話は途絶えた。
――運がいいのか悪いのか、とトーリは思った。目当ての獣人が、もしかしたらすぐそばにいるかもしれない。
トーリはさらにアクセルを踏む。助手席にいた山崎タツヒロは「早い早い早い!」と怯えた声を上げていた。
で。
仲原ミサキは通話を終えると、部屋の柏ヒトミに向かって「ごめんね、急に電話しちゃって」と微笑みながら席に戻った。グロック17はバッグのなかにある。もちろんシルバーバレットも。
「いえいえ~」と柏ヒトミは笑っていた。「もしかして彼氏さんですか」
「え、うーん」とミサキは作り笑いを浮かべる。「私が好きなのは本当だよ。ちょっと頼りないけどね?」
それからスマホを片手間にいじり、アヤノにメッセージを送った。『猟獣のラッカはこの女子寮についてどう言ってる?』
『いま報告しようと思ってました』と、アヤノの返信だった。
彼女たちはベランダでタバコを吸っている。連絡先を交換するフリをして、こちらにラッカの言葉を伝えてくれた。
『この女子寮、キツネの匂いがするそうです。たしかキツネの獣人って変化型でしたね?』
あーあ。
ビンゴ。
と、ミサキは思い、バッグから自動拳銃を取り出して躊躇いなく柏ヒトミに突きつけた。
「えっ――」とヒトミが戸惑うのも構わない。
「両手を上げろ!
――ゆっくり立ち上がったら壁のほうを向け! 妙な動きしたら頭ブチ抜くぞコラ!!」
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