第2話 VS化け狐 その1

  ※※※※


 東京都。足立区。夜。

 ――なんでオレの人生は、オレの人生なんだろう。

 まだ中学生の少年、戸塚トシキはそう思った。

 今は工務用のトンカチを握りしめながら、台所に立っていた。べったりと返り血がついている。そうして、目の前、母さんの新しい男が頭から体液を流してぐったりと横たわっていた。

 母さんの男。

 いつのまにか母さんが招き入れた男。優しいのは最初だけで、半月も経たないうちに平気でオレをボコボコにするようになって、オレの目の前で母さんのことも殴りながら犯すようになった男だ。

 そいつが、いま、オレの握ったトンカチに頭を割られて頭蓋骨も砕けたんだと思う、血液と、髄液をキッチンの床にタラタラとこぼしながら這いつくばっていた。

 トシキはトンカチを床に落とす。ゴン、という、鈍い音が聞こえた。

「母さん、大丈夫だよ」

 彼がそう呼びかけると、男の死体の脇にいた女は――つまり、トシキの母親なのだが――尻もちをついたまま短い悲鳴を上げて後ろずさる。

 トシキの母親は、男に服を脱がされて裸だった。その体と、顔の、至るところに青あざがあり、タバコを押し当てた跡もある。

 アイツがオレの母さんを虐めた跡だ――と、トシキは冷静に思った。

「母さん、もう母さんを虐める悪い男は死んだよ。オレがやっつけたんだ。もう母さんは辛い思いをしなくていいんだ」

 そう微笑んで、トシキは一歩、母親に向かって踏み出そうとした。

 が。

「こ、来ないで――!」

 と、彼女は声を震わせながらトシキを拒絶した。

 ――え?

 どうしたんだよ、母さん。悪い男は、息子のオレが倒してあげたじゃないか。だから、オレのことを褒めてくれたり、慰めてくれたりしたっていいだろ?

 トシキはただ戸惑っていた。

 そのとき、視界の左側から、

《おいおい、まだ分かんねえのかよお、トシキはバカか》

 と声が聞こえる。

 そちらを向くとガラス張りの食器棚があり、自分の姿が鏡のように映っている、はずだったのだが、実際にはその鏡には、自分と同じ身長のキツネが二本足で立っていた。

 ――オレがいるべき場所に、キツネがいる。

 怖くなって、トシキは母親のほうを向いて、

「ねえ母さんこれ――!」

 と、声を上げた途端に、

「いやああああ!! こ、来ないで!! 人殺し!!」

 と母親は怒鳴った。

「え?」とトシキは困惑する。

《あーあー》

 と、鏡のなかにいるキツネが呆れていた。

《まだ分かんねえのかよ、トシキ? そこにいる女はさ、息子のお前よりも、新しいチンポのほうが大事なんだよ!

 だから、お前がブン殴られて鼻折られて、片目が見えなくなって、歯を抜かれたあとのことだって――テメエの目の前でクソ男とアンアンよろしくヤってたんだろうが!》

 キツネはそう煽った。

 嘘だ、とトシキは思った。

 嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ、母さんは息子のオレが痛めつけられて辛かったはずだ、自分だって殴られて最悪の気分だったはずだ。

 だから、母さんを守れるのはオレだけだ、って、あの男さえいなければって――そう思ったのに。

「かっ、か、あ、母さん――?」

 トシキがさらに近寄ると、彼の母親は半狂乱になり、

「く、来るな! 来ないで!! バケモノ!!」

 と叫んだ。

 

 プツン、と、トシキのなかでなにかが切れた。


《いいねえ!》とキツネは笑った。

《正体表しやがったぜ、このクソアマ! こいつよ、さっきの男で孕んだら、トシキのことだって要らないからあっさり捨てる気だったぜ!? 昔の男との無用なガキなんてなあ――ニンゲンのメスは愛さねえよ!》

「ち、違う――違う、母さんは、そんなんじゃない。あんな男、好きになったりしない。母さんは無理矢理されてただけで――」

 トシキの呼吸が乱れ、鼓動が早くなっていく。

 それが臨界点を超えたときに、彼の母親はキッチンの戸棚から包丁を取り出した。

 彼女は「来るな、も、もう来んなよ!」と声を荒げる。

 トシキは、今、自分がキツネ型の獣人になっていることに気づいていない。鏡のなかの声は、彼自身の疑心暗鬼だった――そして、目の前の母親の錯乱は、驚くほど予定調和に彼を絶望に導いていた。


《ア――アアアアアアアア!!》


 ケモノの咆哮を上げながら、トシキは実の母親に爪と牙を突き立てていた。

 キッチンを越えて、ダイニングに、そしてリビングに、母親の血肉が飛び散っていく。当然、とっくに死んでいた。

《アアアアアアアア――!!》

 キツネ型の獣人である彼は、屍を乱雑に爪牙で解体していくと、それを躊躇いなく自分の口に運んでいた。

《食われちまえ! オレを捨てようとする母さんなんか、オレを助けてくれない母さんなんか、オレに食い散らされちまえ――!》

 涙と、鼻水と、涎と、返り血で、トシキの体はベトベトに汚れていく。

《母さんも――!》と言いながら、トシキは実の母親の内臓を呑み込んだ。《どいつもこいつも! オレを拾わないニンゲンどもは、オレに喰われちまえよ!!》

 ア、アアアア、アア――と、キツネ型の獣人は、その夜はただ泣き喚き続けていた。

 のちに数十人の人間を殺害して死体損壊するBプラス級の獣人が誕生した日だった。三年前のことである。


  ※※※※


 そして、現在。2022年10月26日。

 ラッカはいくつかの検査を受けたあと、その結果が出るのを待ってから警視庁獣人捜査局会議に出席することになった。日岡トーリといっしょに、である。

 トーリが会議室のドアを開けると、既に第一班から第六班までの班長と捜査局局長が座っていた。

 座席はカタカナの「ロ」の字型で、その口の中央に椅子がある。ラッカは導かれるままに腰を降ろして、隣にトーリが立った。

 正面には、捜査局局長――渡久地ワカナがいて、頬杖を突いていた。55歳の痩せぎすな女性で、白のトレンチコートとパンツスーツに身を包んでいる。白髪を隠すグレイヘアのベリーショート。

「君がラッカくんか」と彼女が訊いた。

「あ、はい、そうっす」とラッカは答えた。

「よし」と頷いてから、彼女はトーリを向いた。「できるだけ庇えるような申し開きを頼むぞ」

 それに対して、トーリは背筋を伸ばす。「彼女は、先日のカラス型獣人の駆除、そして、別件についても協力的な姿勢を見せ、ニンゲンの味方になりうると判断できる、その実績を残しました――格納した資料のとおりです」

「ほう?」とワカナが促すと、トーリは、

「彼女を、ラッカを駆除対象とするのも、実験材料とするのも我が国の損失になりえます。私は、ここで、ラッカを猟獣に採用することを提言致します」

 と言った。

 不意に会議室が殺気立った。

「おい! ブチ殺すぞこのガキ!」と第三班班長が立ち上がり、「若造の身分でてめえイイ気になってコラ!」とヤジを飛ばす。

 それに対して、ワカナ局長が静かな口調で「黙れ」と言った。

 しん、と部屋全体が静まり返る。

 沈黙。

 ワカナはため息をついてから「日岡トーリ第七班班長」と呼びかけた。

「猟獣の規定は教習で学んだはずだな?」

「もちろんです」

「獣人を猟獣とするには、幼年期からこれを捕獲し、長年かけて人の奴隷になるよう調教・訓練することが必須条件だ。全個体がそれをクリアしている。例外はないぞ」

「はい」

 トーリの返事に、ワカナの目は鋭くなった。

「そこにいるオオカミ型の獣人は、まあ二件程度の貢献は認めるとして、見たところ十代の後半か二十代の前半じゃないか?」

 そう言うと、ワカナはゆっくりと腕を組んだ。「人に従わせるにはそのケモノは歳を取りすぎている。常識的に考えて、もう手遅れだよ」

 それに対して、トーリは、

「例外であることは重々承知です」と言った。「しかし私は彼女の働きになにかを感じました。せめてそれが分かるまで、第七班猟獣として処置を保留頂きたいと考えています」

「ふん――」

 ワカナは胸ポケットのキャメルを1本取り出し、咥えながら火をつけた。

「ラッカくん」

「あ、はい」とラッカが答えると、ワカナはその毒気のなさに当てられて、少し笑った。

「日岡トーリ班長は、君を人間の味方として活躍させたいようだよ。しかし、それについてはどう思う?」

「ニンゲンの味方? ――なにすれば味方になんの?」

 ラッカはきょとんとしていた。

「なるほど、定義の問題か」

 ワカナは苦笑してから、こう言った。

「その1.人間には危害を加えない。

 その2.人間に危害を加えない限りにおいて、人間の命令には必ず従う。

 その3.人間に危害を加えず、命令を守る限りにおいて自分の身を守る。

 これがニンゲンの味方をするケモノの定義だ。できそうか?」

 ――ワカナ局長の言葉に会議室の緊張が溢れる。

 だが、ラッカのほうは「よく分かんないけど――」と、頭をぼさぼさとかくだけかいてから、

「要は、トーリの言うこと聞いて、人助けをすりゃいいんでしょ? ――うん、余裕っす」

 と呑気に答えた。


  ※※※※


 猟獣制度。それは先天性であれ後天性であれ、幼い猟獣を捕獲し、長年に渡る調教と訓練の上で人間側の獣人にするものだった。

 制度の成立は1987年と古い。これは、獣人捜査局が今の形になった2009年、あるいは、シルバーバレットの開発が始まった2000年と比べても遥かに歴史がある。

 人間は獣を狩るために、獣を使っているのだ。


 次に会議は、トーリとラッカ、片方ずつを退席させながらのものになった。二人の間で供述の内容に違いがあれば、即座にラッカの猟獣運用は見送られる。

 先にラッカが廊下に出た。

 それに対して、第六班班長の猟獣であるイズナ=セトが見張りに駆り出される。うなじを刈り上げた、くすんだおかっぱの茶髪。猜疑心の強い三白眼。そして武骨な黒のパンツスーツ。見た目の年齢はラッカとそう変わらない。背は150後半。

 ラッカは廊下のパイプ椅子に腰を下ろしてから、

「私、猟獣って仕事につくんだって」

 とイズナに話しかけた。イズナは返事をしない。

「猟獣って面白い?」

 と、さらに話しかけても、イズナは黙っている。

 ラッカは少しムッとして「答えてくれてもいいだろ」と愚痴った。

 イズナはようやく、「橋本班長の指示には、会話しろという任務はありませんでした」とだけ答えた。

「――なんだよそれ」

 ラッカはちょっと居心地が悪くなる。

 しばらくするとドアを開けてトーリが会議室から出てきた。

「悪いな、ラッカ。大丈夫か?」

「うんにゃ。なんか退屈だった」

 とラッカは立ち上がる。

「ラッカの思ったことを言えばいい。変に誤魔化す必要はないからな。――俺にできるのはここまでだ」

 トーリはそう言うと、心配そうにラッカの目を見つめてきた。

「え? う、うん」

 ラッカは頷いた。トーリの顔を見ていると、十年前の懐かしさと、それとは別の、妙にこそばゆいような気持ちが零れる。


 ――やっぱり、あのとき助けてくれたニンゲンの男の子だよな、トーリは。


 そう思いながらラッカは会議室に入り、元の椅子にまた座った。捜査局の班長たち六人と、彼らが従えている猟獣としての獣人――席につかず、直立不動でいる――と、目の前の渡久地ワカナ局長の視線が刺さった。

「さて、ラッカくん」とワカナは微笑む。「改めて、君が東京に来てからの行動と、それから、その行動に対する感想。そして――ちょっとした身の上話を聞いてみたいんだが、いいかな」

「はい」とラッカは答えた。「変に誤魔化す必要はないってトーリに言われたんで、正直に答えます」


 で。

 会議が終わり、ラッカは疲労困憊で部屋を出て廊下の椅子、トーリの隣に座った。

「ラッカ、お疲れ」

「マジで疲れたよ。山でシカ追いかけるほうがマシ」

 それから、トーリの持っていた缶を受け取る。オレンジジュース。開けかたが分からないラッカのために、隣のトーリが同じもののプルタブを指で引いた。

「おお、なるほど」

 ラッカも同じことをして、缶のなかのニオイを嗅ぎ、口に流し込んでいく。

「うん、美味い」と彼女は言った。「映画で見るだけだと、こういう細かいやりかたは分かんないから」


 十分後。

 残りの面子で暫定的な結論が出たのか、会議室から各班長とその猟獣、そして局長が出てきた。ほぼ全員、トーリとラッカに冷たい目を向けている。

 例外は第六班班長、橋本ショーゴだった。黒髪のオールバックに、銀縁のメガネ。180後半の痩身。

「お疲れ様だな、トーリ」と彼は笑った。

「疲れたよ」とトーリは答えた。「現場で事件を追うほうが俺には向いてると思う」

「中間管理職に就いた人間はみんな同じことを言うな」

 ショーゴは肩をすくめてから、

「オオカミの猟獣運用だが、おれは賛成票に入れた」と言った。「洗脳なしで人間に害意のない獣人とはね。まあ面白いじゃないか。捜査のためなら、どんな可能性も検討すべきだ」

「そうかい」

「そんなにそのオオカミは強いのか?」

「ああ――この前のカラスがそうだったが、C級の獣人なら瞬殺できる」

「――へえ。そりゃすごい。

 ま、大丈夫だろうよ。渡久地局長はお前に対して妙に甘いからな。年上にモテるタイプの美男子は出世に有利で羨ましい」

 そう軽口を叩いたあと、ショーゴは廊下のイズナに「終わりだ、付いてこい」と冷たい声で指示した。

 イズナは「承知しました。橋本班長」と頭を下げて歩き出した。

 ショーゴとイズナがエレベーターに乗って消えたあと、ラッカは訊いた。

「どんな感じだったの? 結局は」

「いったんは保留処分じゃないか。だろうなと思ったが」

「保留って?」

「うーん」とトーリは考えてから、「ラッカが良い獣人なのか悪い獣人なのか、みんな悩んでるって感じだな」

「なんだよ! また疑われてんのか!」

 ラッカは頬を膨らませながら、椅子の背もたれに体を預けた。

「トーリ、どうやったら皆に信じてもらえんの?」

「ん――そうだな」

 トーリは少し自分のあごを撫でたあと「少し前にカラスを倒したろ? ああいうことを続けたら、みんな信じてくれると思う」

「へえ」

 なるほどねえ――と独り言を言いながら天井を見上げるラッカを、トーリは、どうにも落ち着かない気持ちで眺めていた。

 ――俺は、なんでこの獣人の女の子に拘ってる?

 マニュアルどおりなら、この子がカラスを仕留めた直後に、この子の眉間もシルバーバレットで撃ち抜けばよかった。

 なぜそうしなかった?

 命の危機を救われたから、恩義を感じている? あるいはショーゴが言うように、なにか捜査上の可能性を感じているのか。

 分からなかった。そして、その疑問を頭から払うように首を振り、

「まあ次の事件が起きたら考えよう。持ち回り的には、また俺たち第七班が担当になるみたいだからな――」

 と。

 そう答えた瞬間、右耳の骨伝導イヤホンに無線アプリの音声が流れてきた。

『万世橋下で全裸の女性死体。死体損傷の状況から、獣人事件の可能性あり。獣人捜査局の出動要請を願う。第七班に担当を回す』

 それに対してトーリはイヤホンに「第七班、了解」とだけ答えた。

 ――なんとまあ間の良いこった。

 トーリはスマートフォンのGPSアプリを起動する。

「副班長の仲原は――今日は射撃訓練場だな。山崎は研究所で発表か。いちばん現場に近いのは田島」

 そう呟いてから田島アヤノに繋ぐ。

「アヤノ。さっきの連絡は聞こえたか。現場に行って指揮を執れ。佐藤は準備が出来次第捜査本部に合流しろ」

 田島アヤノと佐藤カオルは同時に応答した。『了解』『了解』


  ※※※※


 田島アヤノは――黒髪をおさげにして、服は『踊る大捜査線』の青島ジャケットにオフィスカジュアルを着込んでいる小柄の女だ――万世橋下に赴き、

「警視庁獣人捜査局、第七班田島アヤノです。死体を見せてください」

 と言った。

 その場にいた、まだ新人らしい若い男性刑事が駆け寄ってくる。

「遺体は」と彼は言った。「長いあいだ川底に沈んだあと腐敗ガスで浮かんできたようです。ニオイ、酷いですよ」

「あ、はい」とアヤノは相槌を打ち、青島ジャケットのポケットからプラスチックのゴーグルを出して装着。次に消臭用のクリームを鼻の下と上唇の間に塗る。

「入ります」

 ビニールの暖簾をくぐると、アヤノの目の前には、腐敗ガスでぶくぶくに膨らんだ全裸の女性死体が横たわっていた。

 顔面がない。眼球も歯も抉り取られており、赤黒い肉の塊になっている。

「失礼します」とアヤノは言い、その場に膝をついて至近距離で傷口を確認する。うしろのほうで若い男性刑事は、ゲロを必死でこらえているのだろう。ウッ、ウッ――と胸を押さえたままだった。

「あー、この傷口の感じはケモノの喰い跡によく似てますね」

「え、へえ――」

「顔の両外側から中央に向かって、閉じていくように傷跡が伸びてます。ぱくっと咥えて、鋭い牙を閉じるとこうなるんですよ」

 次にアヤノは、死体の全ての傷口を調べた。そして、両手両足の指先もパックリと削り取られているのを見つける。

「これ、は」

 アヤノは立ち上がり、右耳の骨伝導イヤホンで日岡トーリに繋ぐ。「確定です。三年前から続く獣人事件と手口がおなじ。その最新ですよ」

『なるほど、根拠は?』

「顔のない死体の事件、いっぱいあったでしょ? でも今回は両手両足の指紋も歯型も消してるんです。――これって、マスコミには秘匿してましたよね?」

『そのとおりだな』

「変化型の獣人と見て間違いありません。まず刑事課を動かします」

『アヤノの判断が正しい。そうしてくれ。俺も合流する』

 アヤノは通話を終えると、まだ具合悪そうにしている若い男性刑事に向き直った。

「今からこの事件は警視庁獣人捜査局、第七班が仕切ります。よろしくお願い致します」


  ※※※※


 日岡トーリは軽い書類作成を終えると、ラッカを連れて捜査本部に合流した。既に初動会議は終わっていたらしく、捜査指揮を執った田島アヤノは廊下に出てアメリカンスピリットを吸っている。佐藤カオルのほうは別室で所轄と話しているらしい。

「あ、トーリさん、お疲れ様です」

 とアヤノは顔を向けてきた。

「捜査の方針は既に決まりましたよ。まずは遺体の身元特定を、監察医と共同で作業です。次にここ数週間の監視カメラを虱潰しに調査。ここまでの業務は刑事課の子たちに任せます。私たちの仕事は、過去の事件を集計して傾向と対策を探ることですね」

「了解」とトーリは答えた。「俺もそれがいいと思う。だがもしアヤノの見立てどおり、今回の事件が三年前からの獣人案件だとしたら――俺たちはその間ずっと対象を見逃していたことになる。新しい策は思いつけるか?」

「正直、ノーですねえ」

 アヤノは笑いながら煙を吐いた。「いちばん良いのは死体の身元特定後に、その死体の主に変化している獣人を見つけることですけど」

「だな」

 トーリもピースに火をつけた。「引き続き、この案件はアヤノに現場の指揮を任せる。なにかあったら連絡してくれ。俺はデータベースを山崎と漁る」

 そんな風に二人が話している間にも、初動会議に参加していた刑事たちは廊下のなかでドヤドヤと騒いでいた。そのなかには、アヤノを案内した若手刑事もいる。

「あっ――」と若手刑事はアヤノに気づき、駆け寄ってきた。「現場ではありがとうございました。俺、ああいうご遺体は初めてで、なにもできなくて」

「あはは」とアヤノも笑う。「大丈夫です。死体と血に慣れているのが獣狩りの良いところなので」


 彼が去ったあとで、アヤノはトーリに向き直った。

「そういえば、トーリさん」

「ん?」

「ラッカちゃんの処遇はどうなったんですか?」

「ああ、それなんだが――」

 彼が答えようとしたとき、スマートフォンのバイブ通知が震えた。通達が届いている。


『獣人ラッカ=ローゼキを臨時的に第七班猟獣とする。仮処分のため、決定は無断で覆る可能性ある旨を了承されたし』


 ――タイミングが良いな。

 トーリはスマートフォンをスーツに仕舞った。「ラッカは仮置きで俺たちの猟獣になった。あとは、どれだけ働きのなかで信用を得られるかだな」

「よかった!」

 アヤノは目を輝かせると、ラッカに駆け寄ってその手を握った。

「よろしくね! ラッカちゃん!」

「え、あ、うん――?」

 ラッカは戸惑った様子だった。

 それはそうだろう。ここまで完全に成り行きなのだ。

 気づけば警察署の留置所に入れられ、獣人容疑者の検査場に連れていかれそうになり、気づけば警視庁獣人捜査局の猟獣として指定されそうになっている。

 たとえ、道端で撃ち殺されるケモノよりマシだとしても、生物として自由を封じられたことには変わりない。

 ――俺が彼女と関わるのは、本当に良かったのだろうか。トーリはそう思った。

 が。

 ラッカは「あのさあ」と声を上げた。「私、これからどこで寝泊まりすればいいの?」

 ラッカの宿泊場所問題。

 もちろん人間ではないのだから警察署の留置所は使えない。獣か人か分からない容疑者でもないのだから隔離ホテルにも泊まれない。もちろん、身体検査は終わったのだから病院のベッドを占有することもできない。

「ああ」とトーリは言った。「他の猟獣と同じで、獣人局捜査員の保護下で暮らすことになるかな。俺としては山崎タツヒロが適任だと思ってる。知識もあるし――」


 それを聞いたラッカは「えっ」と思った。

 ――私、トーリといっしょに暮らせるんじゃないの?

 そう訊こうとしたが、その前に、

「なに言ってんですかトーリさん!」

 と、田島アヤノが声を荒げた。周囲の警官がギョッとして振り返った、が、もうアヤノは気にしていない。

「ラッカちゃんは女の子ですよ! 女の子が成人男性とひとつ屋根の下なんて、絶対に不純ですから! ここは私が見張り番になって、私のいる獣人局女子寮に住ませますからね!」

 そう答えると、アヤノはすぐにタブレットのアプリを起動して申請を始める。

 トーリのほうは「いや、ラッカは男か女かという以前に、獣人なんだが――」とたじろいでいたが、アヤノは彼の言葉を聞かず、ラッカに向き直っていた。


「はい、ラッカちゃん! 獣人捜査局に仮運用おめでとうございます! 今日から私が女子寮で面倒見ますね!」

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